何かありそうで眠れない夜に
眠れない夜に浮かぶのは、たいてい昼に起きた嫌なことの反芻だったりする。
嫌いな事、物、人ーー中でも厚かましい人、これが一番嫌いだ。自分の価値観で全てを単純にぶった斬り、何度聞いたか分からない話をまた繰り返す。世間体を気にしない風を装い気にして、精神的な繋がりを大事にする体で、簡単に人を裏切り、傷つける。
「なんでもない事でしょ? こんなん皆してるし」
この〝皆〟〝常識〟〝同じ〟〝普通〟をぶん殴りたくなる……衝動にかられるのを、グッと握りつぶして平静を装う。こいつらを殴ってもしょうがないのだ。実態はないし、真剣になるほど嘲笑の的になる。そうした立ち位置に身を置く術において、厚かましい人は天才性を発揮するのだから。
こちらは「相手にしないよ」という言葉を胸に秘めて、静観するしかない。だがこんなに胸が騒めくのは……ひょっとしたら嫉妬しているのかも知れない。こんな風にできたら良いな、という面も有る。単純にものごとを決めつけて、思考停止して、皆そうでしょ? と横つなぎの安心感。日々やる事は繁雑にあるのだ、悩んで夜を消費するのは馬鹿らしい。
鈍く滞留する〝皆してるし〟に対する憤りは〝青臭い〟とされて封殺される。硬く握りしめた拳は、冷え固まって黒く沈み込み、腹に冷たい石となって堆積していくーー〝賽の河原〟どこかの鬼よ、どうかこの冷たい積み石を蹴飛ばしてくれ。
確認しながら生きている事は分かっている。お前もそうなんでしょ? というアタリをつける発言は、裏を返せば「こっちにおいでよ、俺たち下世話な人間同士だろ?」という〝とりもち〟なのだ。
そうして安心しながら生きている、未知のものほど怖いものはないから。もちろん俺も弱い人間だ。
だが、その取り込む力が重荷なのだ、寄る辺なく重くて、絶望に見上げる水面は遥か上方。肺に酸素は空っぽで、焦燥感に脳が溺れる。
それを救うのは音楽だったり、映画だったり、厚かましい人の知らない特別な何かだ。歌はうまく歌おうとビブラートを効かせた歌手より、飾らない素の声が良い。
乾いた弦の響きにのせて特別な声が聞こえた瞬間、肺に酸素をつかまえる事ができる。腹の黒いモヤモヤが、小さな塊に姿を戻す。
カッ飛んだ映画を見ている時間だけ、脇汗と引き換えに無重力状態になれる。
だからエンターテイメントを信じている。倦み疲れたメンタルを、エンターテイメントが救ってくれる。
芸術が道を示してくれる。お尻を引っ叩いて、背筋に筋金を入れてくれる。
そうして得た疲れは、子供の頃缶蹴りをして疲れた時の爽快感に似ている。夕日が家路を急がせる。夜がトロンと忍び寄る。
その結果、何を生み出さなくとも良い。いや、俺のこの反応こそが生み出された瞬間なのだ。だから良いのだ、俺に刺さった、俺が揺さぶられた、それが尊いのだ、だって俺人生の中心地=俺だから。
誰に刺さろうが、刺さるまいが、その点においては無価値だ。
まあ大体刺さる作品は皆にも刺さってるけど。そこで出てくる〝皆〟は〝確認するための皆一緒〟とどう違うのか? 体由来の思考は人体という共通フォーマットを使用している以上つきまとう。でも目的が〝皆一緒〟は明らかに違う。たまたまの〝皆一緒〟は歓迎だ。
自分は特別ではない。そう気づいたのは何時からか? そう気づいてからは生き易くなった。自意識が実像と合致して、ほんの少し身軽になった。このほんの少しがどれほどありがたいか。
もしくはいまだに特別な何かがあると信じているのかも知れない。だからこうして誰かに向けて文章を書いているのだろう。
何が特別か? 特別優れた筆を持っている訳でもない、特別大きな紙を持っている訳でもない。俺の頭が生み出すものは、小さな紙にクレヨンで描いた落書きかもしれない。
でも園児の絵に感銘を受ける事もある。その子が楽しんで、想像を膨らませ、一生懸命描いた絵というものは、絵の上手い大人がサッと描いた緻密な絵を凌駕する場合がある。
そうした熱量だけを信じている。稚拙でもコツコツと筆を重ねるのは、そうした瞬間が現れるかも知れないという期待の現れだろう。
何か有りそうで眠れない夜に、昼の残滓が頭を占める。夜の思考に解決策などない、眠りだけが癒してくれる。だから今日は睡眠薬を買った。6錠1500円だってさ。
ーー翌朝スッキリ目が覚めて、厚かましい人に会ったら、
「あ、あの映画みた? 凄かったよね〜、特にあのシーンがさあ」
お? お……おう。厚かましいこの人も、眠れない夜をやり過ごしたのかも知れない。そう思うと、また一つ身軽になった。