美咲は口が悪い!
何気ない、休日の朝。
我が愛妻、春子はパートにでかけ、
我が愛猫、佐介は部屋の隅で丸くなって眠っている。
束の間の休息を得た私は、のんびりと湯浴みに興じていた。浴場から上がると、最近気になりつつある頭頂部に育毛剤を使用し、我が根拠地、リビングに舞い戻る。テレビのスイッチを押す。
そうして仕事のことも忘れ、ワイドショーをぼうっと見るのだ。いや、ワイドショーでなくともよい。アニメでも、朝ドラでもかまわないのだ。とにかく、仕事などという、私の精神を追い詰めてくる恐るべきモノのことなど遠くへ投げ捨て、何かに浸っていたいのである。現実逃避というやつだ。
それが、何よりの癒しなのだ。
そんな折、リビングに何者かが侵入した気配がした。
「父さん、臭い」
私が振り向くのと、その言葉が掛けられるのはほぼ同時だった。私の姿を見るなり、やつは挨拶もせず毒づいたのだ。
更に続ける。
「ずっと思ってたんだけれど……その育毛剤、匂いがきついのよね、ほどほどにしてくれない? 父さん……人生、諦めが肝心というでしょう? 自らの欠点を認め、受け入れるのも重要なのよ」
その言葉に押され気味であるが、負けじと私も、反論した。
「なんだと」
――わが愛娘、美咲は口が悪い。非常に悪い。
物心ついたときから、美咲は口を開けば毒ばかり。先日だって、美咲は私の頭を見て、あろうことか「はげかかってる」などと笑いとばしたのだ。それが密かにトラウマになっているからこそ、育毛剤を使用して懸命にハゲのレッテルを返上しようと努力していたのだ。それなのに、これである。毎日妻の極上の手料理を味わっているというのに、なぜこうも毒を吐くのだろうか。
しかし、巷では父に対して「クソジジイ」とか「死ね」とか「うざい」とか「きもい」とか、理屈を超越したただの悪口を怨念の如く言い連ねる親不孝な子供もいるそうだ。思春期の子供だからある程度は仕方ないといえど、そこまで言われてはさすがの親父心も傷つくというものだ。存在を否定されてしまったら、私は正気でいられるかわからない。
ま、そのような子供に比べれば、うちの娘は利口だし、かわいいし、運動もできるのである。毒舌家であることをのぞけば、完璧だ。だから、思春期といえど美咲はましな部類なのかもしれない。
なにせ、私を嫌っているわけではないようなのだ。私を生理的に受け付けないだとか、顔を見ただけで吐き気を催すとか、汚れるし気持ち悪いし先にお風呂に入って欲しくないと駄々をこねるとかではないのである。
つまり美咲は、大変理にかなった、整然とした言葉で粛々と、私の心をえぐり出していくのだ。とても、楽しそうに。家族故に良い面も悪い面も間近で見ているわけだから、その言葉に遠慮などなく、全く容赦ない。
その言葉の鋭さといったら、あまりのショックで、仕事にまで影響を及ぼしかねないほどである。
……いや、それは少し誇張がすぎたか。
ともかく。
先の美咲の言葉に関しては、私は身を粉にしてでも叱りつけてやらねばなるまい。社会に出てから上司に対してそのような口をきいてしまってはいけない。その前に、しっかり教育しておく必要がある。
「おまえな、言っていいことと悪いことがあるだろう」
「いえ、これはいいことだから、セーフよ」
美咲は平然としている。なにを言っているのだ、というように、けろりとした表情だ。
苛立ちが募る。
「いや、悪いに決まっているだろう。お前な、こと頭に関しては、イジってはならないんだ。我々中年男性にとってそれは、あまりにデリケートで、繊細な部位だからな。これは社会の常識だぞ。学校で習わなかったのか」
「そんなの習うわけないけれど……でも、事実でしょう。父さんのその臭いは、加齢臭でもない、腋臭でもない、禿という自然の摂理にあがく、おじ様の哀愁漂う悲しい臭いなの。みじめなの。だから、やめていただけるとありがたいわ」
この時点ですでに満身創痍であったが、なぜか今日にかぎって、私は諦めが悪かった。
よせばいいのに、未だ闘志は燃え尽きていなかったから。だから反論、しようとした。
「こ、この……」
しかし、悲しきかな、その文言が思い浮かばなかった。言葉に窮し、黙ってしまった私に、美咲は追い打ちをかけてくる。
「ほら、佐介もいやがっているでしょう」
美咲は佐介のほうを指差した。
いつのまにか目を覚ましていた佐介は、なにやら鼻をくんくんと動かし、臭いをかぎとったのか、その可愛らしい顔をゆがめて、見るからに嫌そうな表情で私をにらんだ。猫は人語をはなさないが、それでもわかった。くせえんだよ、とでもいうような、無言の怒りが私に向けられていると。
どうやら私に味方はいないらしい。
しかし佐介には罪はないので、謝罪の意味も込めてなでてやろうと、手をのばした……のがいけなかった。あるいは美咲とのやりとりに気を取られ、油断しすぎたのがいけなかったか。
ふしゃあーっ!
激しく威嚇されたのだ。その鬼のような佐介の表情といったら、春子が怒り狂ったときよりも恐ろしい。
……いや、それは誇張がすぎたか。
慌てる私を見て、
「ぷっ」
吹き出したのは当然、美咲である。
「くさいからよ」
なにがそこまでおかしいのか、美咲はいよいよ腹をかかえて、涙まで流して笑いだした。
この野郎……。私は爆発寸前にまで追い込まれた。
――いや、落ち着け。私は自分に言い聞かせ、押さえ込む。ここで取り乱し、憤慨してしまっては、いけない。反論できずに発狂したとあっては、雀の涙ほどの父の威厳すらも、彼方へと飛んでいってしまう。
美咲はまだ知らないのだ。
加齢と共に髪が薄くなっていく、あの恐怖を。
少しずつ、頭頂部から肌色が目立ち始める、あの恐ろしさを。だから、仕方ない。
無知な子供に、無知だからと叱りつけたところで、無知故になぜ叱られたか察することもできず、無知故にその心にはなにも響かない。これは道理だ。やはり自分で経験しなければ、真の意味で理解することは難しいだろう。
「ふ、青いな」
美咲だって、将来髪の毛がうすくなるかもしれない。
そうなったときに、私こそが、育毛剤で賢明にあがく私こそが、正しかったのだと思い知るにちがいない。そうして、焦燥にかられて必死に対処法を探すことになるのだろう。
こそこそと薬局に来店し、人目を気にしつつ、育毛剤を購入する哀れな美咲(44)を想像し、私はほくそ笑んだ。
「何ニヤニヤしているの、よからぬことをたくらむ怪しい中年にしか見えないけど」
美咲はなおも冷静に、言葉を続ける。
「あの、一応言っておくけれど」
「……」
冷たい視線が、私を射抜く。
「お願いだから、外でそんな表情しないでよね。あたしは慣れてるからいいけど、周りの人に変な目で見られるから、恥ずかしいのよね」
「……ぐ」
今度こそ私は、二の句が継げなかった。傷痕は想像以上に深い。反論らしい反論もできぬまま、私はあっさりとKOされてしまった。
見事なボディブローであった。