ほたるの灯火
何時の間にか雲が出てきたらしく月は完全に隠れていた。湿気が酷いらしく、空調の利いたバスの中でさえ汗が滲んでいた。当然のことながら、空調の利いたバスから降りると同時に一気に汗が噴き出した。
「酷い湿気だな……」
これは、さっさと輝を探し出さなければ。急がないと汗だくになってしまう。
天神さんへの正面入り口は大通りに面しており大きな石の鳥居が立っている。多くの人もここから中に入るので見落とすことは無いだろう。もっとも探すまでも無く、既に皆は石の鳥居の下に集まっていた。四人共色違いの浴衣姿。ついでに皆で何かを食っている様子が見てとれた。何を食っているのか興味を惹かれた。
「おー、コタ。遅かったのじゃ」
相変わらず大地の浴衣は派手な赤。お約束どおり、その背中には大きな文字で「嵐山旅館」と刻まれていた。無論、手にした団扇も「嵐山旅館」であった。その商人魂には感服させられる。
「皆で何を食っているんだ?」
「ちゃんとコタの分もあるよ。近くのね、粟餅処澤屋で粟餅を買ってきたの。細長い黄粉餅が二つに、丸い餡餅が三つだよ」
輝は自他共に認める甘党である。オカルト話のチェックは欠かさないが、甘味処情報のチェックも欠かさない。なるほど。確かに天神さんと言えば澤屋は有名だ。餅を食べながら、さっそく本命の縁日に向かう。
甘過ぎずさっぱりとした食感の黄粉餅に、しっとりとした舌触りの餡餅。どちらも棄てがたい美味さだ。さすがは輝。甘味に関しての目利きぶりは評価できる。皆に気付かれないように、俺は串に餅を刺しクロにも差し出した。
「ふむ。中々に絶妙なる味わいよの。人の世の食い物も悪くは無い」
夜の天神さんはライトアップされていて昼間の装いとは、また一味違った活気に満ちていた。色とりどりの露天もまた目を楽しませてくれる。行き交う人々も浴衣姿の者達が多い。カメラを片手に熱心に撮影に勤しむ人もいれば、大家族で賑やかに縁日を楽しむ姿もあった。地元の人々なのか、警備を兼ねてのゴミ掃除を担う婦人会の姿も見て取れた。皆、思い思いの気持ちを胸に抱きながら縁日を楽しんでいるように思えた。ふと隣に目をやれば、縁日の賑やかな光景を興味深そうに見回すクロの姿もあった。まるで子供の様に目を輝かせながら周囲を見回している。
「ううむ、実に興味深いな」
「縁日は賑わっているだろう?」
「うむ。それもあるが、北野天満宮は地元と一体化した場所。人々の信仰の厚さを感じられる場所でもあるな。ここの梅の木々は実に穏やかな表情をしておる。人々が大自然への畏怖を抱いている限りは世も安定するであろう」
縁日よりも梅の木々に興味を示す辺りが彼らしい。クロが興味を示していたのは表面的な賑やかさだけでは無かった。ここに人と天狗との考え方の差が見え隠れする。やはり天狗達は、より大自然に近い場所で生きているだけに物事を広い視点で見るのだろう。
「うーん、いい香りがするのじゃ」
「腹が減るよな。食い物屋がたくさんっていうのも縁日の醍醐味だよな」
「フフ、お前達は色気よりも食い気か。相変わらず判りやすいな」
早くも大地と力丸は食欲が炸裂している。まぁ、それも悪くは無い。こうして皆で過ごせる時間は本当に貴重な時間なのだから。大地と力丸は二人揃って露店に向かった。
「おーっと、あんず飴発見。ぼくも買ってくるね」
二人に続くかのように輝も走り出す。その様子をみつめながら、やれやれといった表情で太助が涼やかに笑う。
「ここ数日、色んなことがあったからな。あいつらも、緊張の糸が解けたのだろう」
「解け過ぎている気もするけどな」
「まぁ、良いじゃないか」
太助は相変わらず涼やかな振る舞いを見せる。冷静沈着。クールな皮肉屋と自称するが、概ね間違えてはいないだろう。
「鞍馬での騒動。山科の見舞いでの不可解な体験。フフ、随分と豪勢な懐石料理になったものだ」
振り返って見れば、いかなる場面でも太助は取り乱すことは無かった。度胸があるというか、肝が据わっているというか。まぁ、色々な意味で尊敬できる奴だ。
「俺の思い過ごしならば良いのだが……」
太助にしては珍しく、憂いを孕んだ眼差しで俺をみつめる。
「どうした? 何か不安なことでもあるのか?」
「一連の出来事は未だ終わっていないのでは無いだろうか? 嫌な予感がしてならない」
やはり太助は鋭い鑑識眼を持っている。確かに憎悪の能面師は行方を眩ましたままだ。何も解決してはいない。だからこそ警戒を解く訳にはいかないのだ。
「まぁ、いいさ。行きはよいよい、帰りは怖い。足を踏み入れた以上、もう後戻りは出来ないのだろう。ならば最後まで見届けなければ気が済まないよな」
どこまでが本心でどこからが強がりなのか、太助もまた想いが表情に現れない性分だからこそ本心が見えない。もっとも余計な詮索をするつもりも無かったが。
「おー! 後少しであったのに……うぬぬ、悔しいのじゃ」
「うしっ。それじゃあ、オレがロックの無念を晴らしてやるぜ!」
「リキ、頑張れー」
遠くから聞こえる輝達の声に、俺達は目線を投げ掛けた。どうやら輝達は三人で賑やかに騒ぎながら、金魚すくいに挑戦しているようだった。クロもまた俺の背後からも興味深そうに覗き込んでいた。敗退し悔しさを大袈裟に表現する大地の姿に、腕を捲くり上げ気合い十分の力丸の姿が見えた。
「それにしても……あの能面は一体何者だったのだろうか? 嫌な予感が消え去らない」
太助は何時に無く憂いに満ちた表情を見せていた。やはり、何か感じるものがあるのだろう。
「鞍馬での一件、それから病院での一件は……始まりに過ぎなかったのでは無いか? そんな気がしてならなくてな」
「どういうことだ?」
「上手く説明出来ないが、まだ、同様の怪事件は続くのでは無いだろうか? そんな気がしてならない」
何時の間にかクロは俺の後ろに佇んでいた。腕組みしながら興味深そうに太助の表情を見つめている。
「ふむ。太助は我らに近いな」
「どういうことだ?」
「大自然への想いの強さ……だからこそ、感じているのだろう。京の都で起ころうとしている異変をな? 中々の勘の鋭さよの」
クロと話し込んでいると輝達が戻ってきた。どうやら金魚すくいでは何の戦利品も得られなかった様子であった。
「むぅ……予想通りに惨敗なのじゃ」
「あの金魚掬い、何か仕込んでいるんじゃねぇか?」
「リキは何でもかんでもパワーで片付けようとするのがイカンのじゃ」
皆と過ごす時間は楽しいものだ。今日は皆揃って浴衣姿。夏ならではの装いだ。四季の中では夏が最も好きな季節だ。賑わいを見せる華やかな季節。皆が盛り上がり行事も多い季節。薄着で過ごせるのも好きな理由。何だか開放的な気分になれるのが好きだ。開放的と言えば……。
「力丸は何を着ても、腕捲くりするんだな」
「普段は捲くる袖もねぇ服だけど、袖があるとさ、何だか暑くていけねぇんだよなぁ」
白い歯を見せながら力丸が豪快に笑う。暑いというのもあるのだろうけれど、その自慢の体を見せ付けたいのだろう? 気持ちは判らなくも無い。俺にもそういう一面はあるからな。
「お前はいつも暑苦しいな」
「おうよ、今も汗だくだぜ? へへへ……何だったら、抱きついてやろうか?」
「……ほう? 命が惜しくなければ掛かって来い。触れる前に投げ飛ばしてくれる」
相変わらず扇子で風を送りながらも涼やかに交わす。太助は俺と同じく柔道を嗜む身。不器用で無骨な俺とは対照的に、華麗な技で魅せてくれる。今の所、俺と太助との勝負は五分五分といったところか。
久方ぶりに訪れたが天神さんの縁日は本当に賑やかだ。地域に密着しているからこそこれだけ多くの人が訪れるのであろう。すっかり、この街に根付いている様子が伺える。人々の信仰心の厚さなのだろうか? 時が変わり、街が様変わりしても変わらない想いがあるというのはそれだけでも安心できるものだ。
「この地に生けるは見事な梅の木々よの。春先にはさぞかし美しい花を咲かすのであろう」
クロの興味は境内に植えられている梅の木に向けられていた。此処、天神さんは春先には白梅、紅梅が咲き誇る美しい光景を見せる。大自然を生きるクロに取って木々や草の花というのは興味惹かれるものなのだろう。そういう一面も俺と同じだ。繋がっている感じが嬉しくなる。
「今は花の季節では無いから、梅の木も緑色の葉ばかりだけどな」
「ふむ。だが、これはこれで生命の躍動が感じられる。瑞々しい木々の葉……これもまた、風情ある光景では無かろうか?」
クロは俺の反応を窺いながら、静かな笑みを称えていた。
「生命の躍動か……なるほど。夏の間に力を蓄えているからこそ、春先に可憐な花を咲かせる訳か。万物に無駄な物は無いということだよな」
「フフ、判っておるでは無いか? 春になったら、この地を訪れようぞ?」
ああ、約束だ。俺の言葉を受けクロは目を細めながら腕組みしていた。
相変わらず縁日は賑わいを見せていた。こういう賑やかな場所に身を置くのはそれだけでも楽しいものだ。ふと、大地が足を止める。何か興味深い露天でも見つけたのだろうか?
「うぬぬ……何やら不気味な露天があるのじゃ」
「確かに。何か薄気味悪いし、嫌な気配感じるよなー」
大地が指差す先には、確かに少々異彩を放つ妖しげな露天が店を構えていた。他の露天からは明らかに外れた場所に存在している。しかも妙に薄暗い場所に陣取っている。扱っている商品はお面……。だが、並んでいるお面はどれも妙に薄汚れており異様な気配を放っていた。しかも良く見れば全て能面であった。全て……小面の面。あまりにも気味の悪い雰囲気を放っている。今にも喋り出しそうな能面達は、どこか土埃を被ったかのように薄汚れていた。
(何だ、この露店は? 何か、普通では無い物を感じる……)
「嫌な気配を感じる。この露店……何か奇異な物を感じる」
クロは鋭い眼差しで目の前に佇む怪しげなお面屋の主を睨み付けている。まるで狐の様に細い目に、生気の感じられない真っ白な肌。白粉でも塗っているのでは無いかと思える程に白い顔に明らかな違和感を覚える。
「解せぬ……この者には心が無い」
クロはなおも険しい表情でお面屋の主を見据えている。
不意に消え入るような小さな歌声が聞こえてくる。
『とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ』
お面屋の主が発する唄声……いや、良く耳を澄ませばお面屋の主では無い。背後に佇むお面達が唄っていた。微かにお面の口元が動いているような気がした。
不意にお面屋の主が立ち上がる。不気味な笑みを浮かべながら恭しく会釈して見せた。
その瞬間であった。唐突に凄まじい勢いで風が吹きぬけた。真冬の寒さを思わせる異様な冷気であった。驚く俺達の視界には、さらに驚くべき光景が飛び込んできた。吹雪……視界を遮る程の凄まじい猛吹雪が吹き荒れていた。在り得ない光景であった。夏の暑さにはあまりにも不釣合いな光景であった。ふと、隣を見ればクロが六角棒を握り締め、身構えていた。
「……気配を消して我らに近付いたか。実に姑息な振る舞いよの」
「その姑息な情鬼の存在に気付かぬお前は、無能なカラス天狗ということよの」
「何とでも申すが良い。我はお主を討つ……それだけのことよ」
異様な光景であった。凄まじい吹雪に包まれた境内。新緑の葉に覆われた木々。吹雪の中に佇む木々の姿からは、あまりにも掛け離れた光景であった。
「なるほどな。てめぇが一連の事件の黒幕ってわけか」
太助が皆の前に出る。拳を握り締めながら、鋭い眼光でお面屋を睨み付けていた。お面屋は狐の様に釣りあがった目で、じっと太助を見つめていた。
「ほう、威勢が良いな……」
「随分とフザけた真似をしてくれたな。俺を怒らせたこと、後悔させてやる」
太助は鋭い眼光でお面屋を睨み付ける。だが、お面屋は太助には興味を示すことは無かった。ゆっくりと手を持ち上げると、輝を指差しながら笑った。
「残念だがお主には用は無い。お前……そこのお前よ」
「え、え!? ぼく!?」
なおも激しい吹雪の中で憎悪の能面師は輝を指差した。耳まで釣りあがった口に糸の様に細く歪んだ眼差し。人の顔では無かった。悪意に満ちた異様な顔であった。
「のう、カラス天狗よ……知っておるか? 人という生き物は、自らを傷付けられるよりも、大切な誰かを傷付けられることに怒りを覚えるもの」
雪はなおも強まる。もはや一寸先さえ見えない程に周囲は白く染まっていた。次第に手足が痺れてきた。あまりの冷たさに四肢の感覚が失われ始めていた。
「さて……散々私の邪魔をしてくれた、親愛なる小太郎よ……今度こそお前の中に潜む情鬼を引き摺り出してくれようぞ。フフフ……ようこそ、我が宴へ!」
静かに立ち上がると災いの能面師は小面の面を被った。ふわりと身を翻せば、次の瞬間には鮮やかな赤い着物に身を包んでいた。舞扇を手にゆっくりと立ち上がると、優雅なる舞を披露し始める。猛烈な吹雪は収まり、何時の間にか桜吹雪へと変わっていた。
美しき桜吹雪。優雅なる舞。幻想的な光景であった。だが、穏やかなる光景は唐突に狂気へと変わる。お面を掲げていた棚から一斉に小面の能面が宙に舞う。次々と襲い掛かる能面に、皆は完全に翻弄されていた。
「うぉっ!? い、一体どうなっているんだよっ!?」
「ぎゃー、能面が襲ってくるのじゃ!」
ケラケラと薄気味笑い声をあげながら能面が周囲を飛び回る。桜吹雪に包まれ周囲の視界が遮られた中で襲来する能面達。クロは必死で能面を叩き壊すが次々と増殖し続けるが、延々と終わることの無く襲い掛かる能面達に翻弄され続けていた。
(くっ! 姑息な奴め! 殺してやる! 絶対に殺してやる!)
襲い掛かる能面を必死で叩き落す。だが、叩き落され割れた面は、それでもなお不快な笑い声をあげながら周囲を舞い、俺達を翻弄する。憎悪に満ちた声で何かを呟きながら憎悪の能面師は舞い続けていた。
「うわっ! ちょ、ちょっと、何するの!?」
唐突に輝の叫び声が響き渡る。慌てて振り返れば憎悪の能面師の手からは無数の紅白の紐が放たれる。命があるかのように紐は宙を這いながら輝を締め付ける。次々と紅白の紐が輝の体を絡め取る。
「き、貴様ぁっ!」
「小太郎よ……この者は、お主に取っては、最も大切な存在なのであろう?」
「黙れ……化け物。てめぇ……絶対殺してやる。殺してやるーーっ!」
紅白の紐ごと、輝を手元まで手繰り寄せると、憎悪の能面師は口を醜く歪ませながら笑った。
「もう……遅い。クックック」
「嫌だ……嫌だよ、止めて……止めてよ!」
悲痛な叫びを挙げる輝。あの日の……あの日の、あの忌まわしい光景が蘇り思わず足がすくんでしまった。
手下達数名掛かりで押さえ付け、嫌がる輝のズボンを今まさに下し終えた卓の姿が脳裏に蘇る。顔を真っ赤にし、目に一杯の涙を称える輝の姿が……泣き叫ぶ輝を見据える卓は鼻息荒く、酷く興奮していた卓の姿が脳裏に蘇り、俺は体中に電気が走ったような衝撃を覚えた。
輝を助ける為に手を差し伸べようとも、どうしても体が動かなかった。
(こんな時に、どこまで俺は情け無いのか……!)
「嫌だよ、嫌だよっ! コタ、コター、助けてーっ!」
燃えるような夕焼け空の教室。卓の首を絞めながら、本気で殺そうとしたこと。皆の突き刺さるような冷たい視線。走馬灯の様に、あの日の忌まわしい光景が鮮明に蘇る。あまりにも鮮明に蘇り過ぎて、身動きが取れなかった。過去の古傷が大きな足枷になってしまったことは否定できない。
「この者もまた……深い憎悪に駆られた身。我が手駒として操ってくれよう」
憎悪の能面師は俺をじっと見つめながら、ゆっくりと能面を手にする。
「止せ! 止めろ!」
身動きの取れない俺を揶揄するかの如く、ゆっくりと能面を輝の顔に被せた。
「輝! 輝ーーっ!」
顔に般若の面を被らされた輝は、そのまま憎悪の能面師の足元に崩れ落ちた。なおも憎悪の能面師は舞いを振舞い続けていた。耳障りな高笑いを響かせながら。激しく舞い散る桜吹雪。ぴくりとも動かない輝。もう……抑えることなど出来なかった。一瞬、眩暈がするような感覚。だが、次の瞬間、体が燃え上がるように熱気を帯びてゆくのを感じていた。憎しみ……怒り……もう、抑えることなど出来なかった。
「いかん! コタ! 早まってはならぬ!」
クロの声、確かに聞こえていた。だが、頭に血が上り切った俺には届かなかった。唐突に視界が揺らぐ。一瞬、見えた光景……真っ赤な袖を翻しながら憎悪の能面師が高笑いする声が聞こえた。
「掛かったな! 愚か者め!」
「え?」
次の瞬間、一斉に能面が俺に向かって飛び掛ってきた。体中を飛来する能面に打ち付けられ、視界が揺らいだ。殴打の嵐が収まった瞬間、今度は何者かが首を絞める感覚を覚えていた。凄まじい力で指が食い込む。必死で抵抗を試みるが、どうすることも出来ない程の力であった。
(うっ!……は、離せ……離せっ!)
「コタ……ごめんね、ごめんね……」
(ひ、輝!? どうして……どうして俺の首を……!?)
「止められないんだよ……勝手に、勝手に手が……ああ、ああっ! どうして……どうしてっ!?」
凄まじい力で首を絞められ、ゆっくりと意識が遠退く。
「こ、コタよ、しっかりするのじゃ! ああっ、邪魔な能面達なのじゃ!」
「おい、テルテル、止せっ! そんなことしたら、コタが死んじまうぜ!」
大地の、力丸の悲痛な叫び声が虚しく響き渡る。だが、輝の動きは止まらない。
憎悪の能面師の高笑いだけが響き渡る。怒りに身を震わせながら、太助が飛び掛るのが見えた。
「この……化け物が!」
「無駄なことよ」
再び憎悪の能面師の手から紅白の紐が解き放たれる。宙を舞いながら太助に襲い掛かる。憎悪の能面師に届く前に紅白の紐が首に絡み付き、太助は身動きを封じられた。ギリギリと締め上げる音が聞こえてくる。太助は必死で抵抗したが紐はまるで緩まらない。
成り行きを静かに見守っていたクロが動き出す。だが、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
(お、おい……クロ、敵は向こうにいるのに、何故、こちらに近付く?)
「コタよ、輝よ……済まぬ!」
次の瞬間、クロの六角棒が力一杯、振り下ろされるのが見えた。
「え?」
「ぎゃああーーっ!」
ぐしゃ、という音。耳を劈く輝の絶叫。輝の手は激しく痙攣しながら俺の首からゆっくりと離れていった。割れた能面が崩れ落ち、見慣れた顔が現れる……割れた額からは、温かな血が湧き水の如く噴出す。頬を伝う赤い物。地面に涙の様に血が滴り落ちる。これ以上無い程に見開かれた目に涙を称えたまま、輝はゆっくりと崩れ落ちていった。
(嘘だろ? おい、クロ……笑えない冗談止めろよ。それに輝まで一緒になって……ああ……ああっ……な、何でこんなことになった? なぁ、どうしてだよ? 誰か答えろよーーっ!)
「て、テルテルーっ! しっかりするのじゃ!」
「な、何が……何が、一体どうなっているんだよっ!? 訳がわかんねぇよっ!」
「輝……お前は死んだのか……? 笑えない冗談は止せ……目を開けろ! 頼む!」
もはや、何もかもが意味不明だった。憎悪の能面師の勝ち誇ったような高笑い。太助達の絶叫。目の前に横たわる輝。何時の間にか周囲の景色は小学校の校庭に変わっていた。あの日と同じ、燃え上がるような夕焼け空の下。風になびくサラサラの輝の赤い髪。あざとく開かれた口元は不敵に歪みながら赤い血を垂れ流していた。焦点の定まらぬ瞳は、あらぬ虚空を射抜いている。割れた爪。飛び散った靴。あらぬ方向に曲がった四肢。じわじわと血溜りが広がる。空気が漏れるような音を発しながら輝はほくそ笑んでいた。俺をじっと見上げながら不快な声で笑っていた。血の匂いに混じって酷い悪臭が漂う。潰れた臓器からあふれ出す汚物の異臭なのだろうか?
(ああ、この光景見覚えがある……松尾が死んだ時の光景と一緒だ……)
やがて、目の前がどんどん白くなる。眩しい光に包み込まれ、宙に浮き上がるような感覚を覚えていた。
(このまま……俺も死ぬのか? それも……悪くは無いのかも知れない。罪、これで償えただろ? だからさ、もう……許してくれ……)
ゆっくりと戻る意識。まだ首には鋭い痛みが残っていた。目を開けば見慣れた光景がそこにはあった。
(ここは、俺の……部屋?)
「おお、コタ……目を覚ましたか?」
疲れ切った表情のクロが佇んでいた。酷く落胆した表情を浮かべていた。一体何が起きたのか? 必死で記憶を手繰り寄せる。
皆で天神さんに向かった。そして、そこで出くわしたお面屋。だが、お面屋の正体は憎悪の能面師であった。憎悪の能面師……襲い掛かる能面達と戦い、そして輝が……。
「そうだ!? 輝! 輝はどうなった!?」
クロは俯いたまま静かに目を伏せた。憂いに満ちた表情であった。その表情を見ただけで全てを察した気がした。
「そんな……どうして……」
「我は敵を甘く見過ぎておった。我は己の力を過信し過ぎていたのだ……」
哀しげな表情であった。何の言葉も浮かんでこなかった。いや、何の感情すら沸き上がってこなかったと表現するのが正しいところだろう。
(そうさ……何故、奴が輝を選んだのか、判ってしまった気がした)
その理由は輝の心に潜む憎悪だったのかも知れない。輝は母親に対して殺意を抱いている。輝の弟の暁は成績優秀。幼い頃から常に弟と比較され続けた輝。落ち毀れと罵られ、俺達との関係も快くは思われていない。何時だって、あの母親との間に諍いは絶えなかった。
忘れやしないさ……あの日、あの時追い詰められた輝が自殺を試みたことも。母親を殺害しようとしたことも。どちらも脅し等では無かった。輝は本気で死ぬつもりだった。輝は本気で母親を殺害するつもりだった。迷うことなく出刃包丁を手にした輝は母親の腹部を刺した……。それ程までに母親への憎しみを抱く輝の心には――恐らく、俺と同じく『鬼』が棲んでいるのだろう。憎悪の能面師……何処までも姑息で、卑怯な奴だ。
「済まぬ。我の力が至らなかったばかりに……本当に済まぬ!」
クロは床に頭を擦り付けながら謝罪していた。小さく肩を震わせ、とても……とても小さく、小さくなった気がした。
(謝らないでくれ……)
悲痛な表情で頭を下げるクロを見ていると、居た堪れない気持ちになる。酷く哀しい気持ちになって、沸々と怒りの感情が沸き上がってくる。平身低頭、必死の想いを篭めて謝罪するクロの頭を、力一杯蹴り上げたくなる衝動に駆られた。六角棒で力一杯殴り、額をかち割ってやりたい衝動に駆られた。
(違う! クロが悪い訳じゃない! 誰かが……悪い訳じゃないんだ。そうか……そういうことか……)
今なら、少しだけ理解できる気がする。葬儀の場に弔問に訪れた山科を追い返した錦おばさんの気持ち……。ようやく判った気がする。山科に謝罪された時の錦おばさんの感情。二度と戻って来ない武司さんを失った、言葉にすることも出来ない程に深い哀しみ。考えれば考えるほどに、どうしたら良いのか判らなくなってしまう。恐らく極限まで追い詰められていたのだろう。だから、あの時、錦おばさんは本能の赴くままに、山科に怒りをぶつけてしまったのだろう。謝られても武司さんが戻ってくる訳では無い、と……。
不意にクロの言葉を思い出していた。
『我らカラス天狗はお主らが思う程、万能なる存在では無いのだ。人の世にて我らが力を発揮するには、お主ら人の力が必要なのだ』
万能な存在など何処にもいる筈が無かった。それなのに俺は全てをクロに任せていた。一緒に戦うだと? 違うな……俺は嘘吐きだ。全部、全て、クロに押し付けて、嫌なことは全部押し付けて、自分が傷付くことから逃げていただけだ。本当に身勝手な奴だ……。
「クロ、済まない。俺も悪かった」
「コタ……何故、お主が謝るのか?」
クロは大きく目を見開きながら、俺の顔をじっと見つめていた。俺はクロが、そうしてくれたように、クロの肩に腕を回した。少しでも想いが伝われば良い……そんなことを考えながら。
「クロ……お前は言っていた。カラス天狗は決して万能な存在では無い、と。俺は自分が非力な存在と決め付け、全部、全て、お前に託していた。それに、俺の力が無ければクロは本領を発揮出来ないことも理解していた。挙句の果てに俺は怒りに我を忘れ身勝手な行動を取った……輝を奪われたのは俺のせいでもある」
「コタ……」
「二人三脚だな。共に力を合わせて今度こそ奴を討ち取ろう」
少しだけクロの表情に明るさが戻る。だが、輝は生きているのだろうか? あの時、確かにクロは力一杯、輝の面を割った。勢い余り、輝の頭まで砕いてしまった……。輝は生きているのか? 真実を知ることは恐ろしいが、真実から目を背けているだけでは何も変わらない。
「なぁ、クロ、聞かせてくれ。輝は……輝は、生きているのか?」
「まやかしぞ。お主が見せられた情景は、奴が紡ぎ出した偽りの情景よ」
憎悪の能面師が持つ厄介な能力だとクロは告げた。恐らく、錦おばさんも奴の描き出すデタラメな映像で心を揺さぶられ、我を見失っていたのだろう。人の心というものは本当に脆く、儚く、壊れやすいものだ。微かな衝撃を加えられただけでも、いとも簡単に操られる。
(そうか……。松尾が死んだ情景も、あいつが作り出した幻という訳か)
「最低な奴だな……人の心を弄びやがって。絶対に殺してやる……」
違う……駄目だ。心をかき乱していては奴には絶対に勝てないだろう。これでは再び、奴の思惑通りの展開に陥ってしまうだろう。心を沈め、怒りを沈め、透き通る湖面の如く揺ぎ無い心で挑まねばならない。憎しみに対し、憎しみで挑めばさらに憎悪の炎は燃え上がるだろう。沈めるためには憎しみを以って挑んではならない……慈しみ、許しを以って向き合うことが必要なのだろう。
難しいことを要求されていることは良く判った。脆く、壊れやすい心を壊れないように支え切るのは簡単なことでは無い。だが、それが出来なければ輝を取り戻すことは出来ないのだろう。
「クロ、輝の足取りは掴めそうか?」
「済まぬ。再び奴は気配を消し去ってしまった。そうなってしまうと、我には追跡できぬ」
心がささくれ立っていたから隙だらけだった俺と、敵を侮ったがために本来あるべき力を発揮仕切れなかったクロ。俺達は本当に良く似ている。奇しくも欠点までもが。
(ならば、共に欠点を克服し切ることが出来れば、奴を仕留めることが出来るだろう)
だが、輝は一体何処にいるのだろうか? 不意に俺の脳裏に一つの映像が浮かぶ。勝手な憶測だが、輝が救いを求めているのではないだろうか? 勘でも何でもいい。今は藁にも縋る思いなのだから! 静かに目を伏せ意識を統一する。
どこかの川の情景が浮かび上がってきた。景色は夜。豊かなる川の流れ。遠くに見える大きな朱色の橋。小さな茶店を抜け民家沿いの小道を歩んでゆく……朱色の橋を渡れば、そこは豊かなる川の中州。その場所から見渡す木々の情景。流れる川の音色。
(そうか!……やはり、そこか。ああ、そうだったな……辛いことや、嫌なことがあった時、何時も二人で訪れた場所だからな。輝、少しだけ我慢してくれ。すぐに、助けに行く)
「クロ、宇治へ向かうぞ」
「宇治……とな?」
「ああ。俺と輝に取っては、大きな意味を持つ場所だ。確信は出来ないが、輝は宇治にいる。そんな気がする」
クロは静かに、力強く頷いて見せた。コタが言うのならば間違いないだろう、と。その根拠の無い自信は何処から来るのだろうと思ったが、恐らくは俺と同じなのだろう。なるほどな……信じるという行為は、人の見えざる力を開花させるためのキッカケになるのだろう。信じる者は救われるというのは、此処に根拠があるのかも知れない。ならば、信じるだけだ。輝のことも、クロのことも、ただ何も考えずに信じてみよう。
俺はクロと共に祇園四条を目指した。空を飛べばすぐに辿り付けただろう。だが、重要なのは輝との思い出を手繰り寄せる部分にあると考えた。だから、遠回りになることは判っていたが輝と共にあることを前提として行動することにした。
俺達は京阪電車に揺られていた。七条を過ぎてしばらく走れば京阪電車は地上に出る。窓の外には鈍色の空だけが広がっていた。ジットリとまとわりつく様な気候。幾重にも渡って重なり合う雲から雨粒が零れ落ちる。ポツリ、ポツリ。雨足は一気に強まり、すぐに土砂降りに変わった。窓に叩き付ける雨は、まるで俺達を拒むかのように思えた。だが退くつもりは毛頭無かった。今までの人生の中で逃避の先に道が切り拓かれたことは一度だって無かった。それに――俺の隣にはクロが居てくれる。一人だったら途方にくれていたかも知れない。でも、今は違う。もう、逃げるだけの人生はお終いにする。そう決めたのだから。
「嫌な雨だな」
「うむ……だが、この程度の雨で、我らの情熱の灯火は消せやせぬ」
「強気の発言だな」
「さてな。我の隣におるのがコタだからであろうか?」
俺と同じ気持ちを抱いてくれていることが、さらに心強くさせてくれた。ああ、俺達なら絶対に勝てる。だから、輝……もう少しだけ待っていてくれ。
列車は夜の光景を走り続けていた。流れ往く景色。街明かりを走り抜けては駅に立ち止まる。明かりの灯った駅を後に次なる駅を目指す。俺達は流れ往く景色を静かに見つめていた。
家々からは穏やかな光が感じられる。暖かな時間を過ごしているのだろう。家族と共に、あるいは大切な人と共に。もしかしたら一人の寛ぎの時間を楽しんでいるのかも知れない。そう考えると心が痛んだ。羨ましいという想いと、だからこそ輝を一刻も早く救い出さなくてはという想いと。
(結局、またしても皆を置き去りにしてきてしまった……輝を救い出したら、報告しなくては)
宇治までは相応に時間が掛かる。幾つもの駅を通り過ぎた。駆け抜ける車窓の景色を俺はただ、じっと眺めていた。時の流れは意地が悪く、急いでいる時に限って速度を落とす。待って欲しい時には全速力で駆け抜けるクセに。世の中の流れというものは何時だって因果なものだ。
雨は次第に弱まり始めてきた。先刻までは流れる雨に滲んでいた車窓の景色も、今は鮮明に見えるようになってきた。窓に次々と付着する雨粒。列車の光と外からの光を受けながら光っていた。雨が上がり、視界がはっきりとした窓の外に目をやれば大きな道路が線路と並走している。交通量も多い。道路を駆け抜ける車の白いヘッドライトと赤いテールライトが幻想的に思えた。
ガタンガタン。ガタンガタン。列車は音を立てながら走り続ける。どれ程の時間が経ったのだろうか? 今、俺達はどこを走っているのだろうか? 微かに不安になる。また山科の病院へ向かうバスの時の様に出口の無い無限ループに誘われてはいないだろうか? 気が付くと俺は祈っていた。どうか、どうか輝と再会させてくれ、と。
「……次は宇治。宇治」
願いが届いたのだろうか? 次の瞬間、静かに車内アナウンスが流れる。気持ちが引き締まる。戦いに臨むというのはこういう物なのかと考えていた。そうか……何かに似ていると思ったら、これは試合前の感覚に似ている。試合前の高鳴る緊張の感覚と良く似ている。心地良い緊張感を覚えていた。引き締まる想いを肌でヒシヒシと感じていた。もっとも、これは試合のようにルールがある物では無い。戦いとはそういうものだ。真剣勝負にルールも何もありはしない。強いてルールがあるとすれば――生き残った者が勝者ということになる。それだけのことだ。ちらりと横を見ればクロが力強く頷いた。
「うむ。それで良い」
ゆっくりと減速しはじめれば、やがて列車は停車する。扉が開けば外からはシトシトと降り続ける雨の音が聞こえる。土砂降りの様相では無くなったが雨はしつこく降り続けていた。地面に落ちては、波紋となり消えてゆくだけの雨粒達の叫び……雨はシトシトと降り続けるばかりであった。
列車を降りて人気の無い改札を抜ければ、剥き出しの無機的な石造りが印象的な駅の光景が広がる。柔らかな黄色の照明と、コバルトブルーの看板が印象的な光景。人気の無い駅は、過去と現代が出会うかのような風変わりな情景であった。冷たさと暖かさが共存する情景。何度も目にした情景。絶対に負ける訳にはいかない。
(此処は輝と共に何度も訪れたな……ああ、きっと一緒に帰るからな)
旅愁を呼び覚ます光景。階段を歩きながら俺は見慣れた光景を目に焼き付けていた。
改札を抜けて駅を出る。目の前にはバスのロータリーが広がる。ちょうど駅を後にバスが出発しようとしている様子が見えた。相変わらずシトシトと音も無く雨は降り続けている。宇治川の涼やかな音色が道路に響き渡る。宇治川に掛かる大きな宇治橋。車が引っ切り無しに往来している。道往く人々も傘を指して歩いていた。
「宇治川に沿って歩く」
俺の言葉にクロは静かに頷いた。降り続ける雨。傘もささずに俺達は歩き始めた。横断歩道。信号が赤から青に変わる。歴史を感じさせる通圓茶屋の左手から民家を抜ける細道に入る。静けさに包まれた細道は宇治川の流れる音色が響き渡り、心が落ち着く感覚を覚えていた。髪を伝い雨粒が滴り落ちる。一粒、また一粒。立ち並ぶ民家のすぐ向こうには宇治川が流れている。川の流れる普遍的な音色を肌で感じていた。宇治川は生命の鼓動を感じさせる清らかなる流れ。川幅も広く、水量も豊かな宇治川の流れは輝と俺の言葉に出来ない哀しみをさえ流してくれた。川の流れを見つめながら、川の音色を聞きながら、輝と共に支え合った記憶達……ふと、過去の記憶が鮮明に蘇る。
『コタ……ぼくは、やっぱり、出来損ないなのかな? 不良品なのかな?』
『お前が不良品なら俺は粗悪品だな。ま、ポンコツ同士支え合って生きていくとしよう』
輝は泣き虫で、いつも辛いことや嫌なことがあると涙を見せていた。他人の居るところでは表情すら変えなかったが、俺の前だけでは感情を露にしていたっけな……。
『何だかコタとぼくの関係ってさ、兄弟みたいだよね』
『オカルト好きの弟に、無骨で無愛想な兄貴か。ろくでもない兄弟だな』
『えー、ナニそれー』
兄弟か……俺には兄弟がいないから、それも悪くないと思った。実際、俺達は何時も、何をするにも一緒だった。だが、それを快く思わなかった奴もいたな。輝の母、それに……卓も。色々なことがあり過ぎて……本当に、色々なことがあり過ぎて、繊細で純粋な輝の心は耐え切れなくなっていた。そしてあの日、お前の心が音を立てて砕け散ったあの日――。
『何であんなことをした……答えろっ!』
『コタに……コタになんか、ぼくの気持ちは判らないでしょっ!?』
初めて……初めて輝に手をあげてしまったのも宇治川だったっけな。輝は声を張り上げて泣いた。俺も負けじと声を張り上げて泣いた。悔しかったし、寂しかった。俺、輝の兄貴に成り切れなかったのかなって。泣いて、喚いて、罵り合って……まるで兄弟喧嘩だった。
今更になって思う。兄弟という表現は言い訳だったのかも知れない。俺と輝の関係は本当のところは負け犬同士の傷の舐め合いに過ぎないのかも知れない。人はそうした振る舞いを非難するだろう。人は弱い者を嫌う。自分自身の弱さから目を背けたい弱虫たちが、他者の弱い振る舞いを否定することで、自分だけは違うのだと安心したいのだ。だから他者を否定する。言いたい奴は勝手に言っていれば良い。傷の舐め合いすら手にすることが出来ずに無様に死ぬくらいならば、傷の舐め合いでも生きられるならば良いと思う。人はそんなに強い生き物では無い。弱い者同士支え合いながら俺達は生きてきた。それを否定する権利等、誰にも無い。
やがて道が少し開ける。視界に飛び込む鮮やかな朱の橋。朝霧橋。宇治川に浮かぶ中州、中ノ島へと続く橋。この橋を何度、輝と共に歩んだだろうか。皆と仲良くなってからは太助達とも何度も訪れた場所だ。太助も宇治川を気に入ったと言っていた。水のある場所が好きだと言っていたっけな。
中ノ島へと続く朝霧橋に足を踏み入れる。刹那、空気が一転する。宇治川に掛かる橋の上だから湿気があるのは不可解なことでは無いが、それにしては異様な冷気が立ち込める。橋を歩くに連れて、次第に周囲の気温が下がってゆくような感覚を覚えていた。夏から秋、秋から冬へと季節が巡り往くかの如く、冷たさが増してゆく。何時しか周囲には深い霧が漂い始めていた。青白いほたるの光が見え隠れし始めていた。それに呼応するかの様に、微かに人の声が風に混じるように感じられていた。老若男女、様々な人々の声であった。一様に憎しみや、恨みを訴える様な禍々しい声であった。
「異様な空気よの。そこら中から殺気を感じる」
「憎悪の能面師か?」
「うむ。奴の手により命を失った、数多の者達が集まっているのであろう」
憎悪の能面師の手により命を失った者達? どういうことなのだろうか? いや、今は余計な詮索は止めよう。目的を見失ってはいけない。
周囲には強い冷気が立ち込めていた。何時の間にか雨は上がり、雲間から時折月が覗いていた。静寂に包まれた朝霧橋を抜け中ノ島に到達する。明かりは何も無い。川の音に混じり、砂利を踏み付ける音だけが響き渡る。雲間から覗く微かな月明かりだけが頼り。消え入るような、か細い光だけを頼りに中ノ島内部を歩む。
ゆっくりと光が見えてきた。闇夜の中に浮かぶ仄かな光。周囲には何時しかほたるが舞い始める。クロは六角棒を握り締めたまま、周囲に気配を配っていた。近付くにつれて光の正体が明らかになり始める。
「コタ……来てくれたんだね。待っていたよ」
暗闇の中でベンチに腰掛ける輝。ぼんやりとほたるの様な光を発しながら佇んでいた。不気味な笑みを浮かべたまま、こちらを見つめていた。射抜くかのような鋭い眼差しで俺達を睨み付けていた。
「フフフ……駄目だなぁ、コタ。お人好しにも、こんな所まで来ちゃうなんて」
ただ静かに輝は薄ら笑いを浮かべていた。口元を酷く歪ませながら佇んでいた。
(動揺してはならない……心をしっかりと持たなくてはならない)
「ねぇ、コタ。此処は何処だか知っている?」
「……此処は宇治川の中洲、中ノ島だ。何度も訪れた場所だ。悩みも、迷いも語り合った。覚えているだろう? 此処は俺とお前との数多の思い出の残る場所だ!」
相変わらず輝は不気味な笑みを浮かべている。口元を酷く歪ませながら、射抜くような目で威嚇し続けていた。不意に足元から風が吹き上げるような感覚を覚えた。
(こ、ここは……屋上!?)
忌まわしい出来事の最終章……。二度と思い出したく無かった光景……。
萌え上がる様な夕焼け空。小学校の屋上……フェンスを乗り越え、向こう側に俺は立たされていた。あくまでも自分の意思として。忘れることの出来ない、あの場面が克明に蘇る。そっと下を覗き込む。一気に強い風が吹き上げた。クロの姿は何処にも無い。
フェンスの向こう側で輝は不気味な笑みを浮かべていた。その手には長い棒を握り締めていた。
「コタ、残念だよ。此処で君は死ぬんだよ。あの時、自分で言ったでしょ? 鳥になるって……嘘は良くないよね……」
「何が言いたい?」
「嫌だなぁ。判っているクセに……」
口元を歪ませながら輝が棒を構える。ゆっくりと後ろに下がる。助走を付けて、力一杯俺を突き落とすつもりなのだろう。
この期に及んで俺は迷っていた。目の前に広がる光景。その光景のどこまでが真実で、どこからが虚構なのかの見分けが付けられなかった。憎悪の能面師は心の奥底に眠っている物を的確に描き出す術に長けている。俺の前に対峙している輝が、もしも偽者ならば騙される訳にはいかない。だが、もしも本物であるとしたら? もしも本物ならば迂闊なことをすれば取り返しが付かなくなる。どうすれば良い……。
「さぁ、コタ。今度こそ、ちゃんと鳥になってね!」
憎悪に満ちた眼差しで俺を見据えながら、輝が勢い良く駆け込んでくる。俺は咄嗟に身を翻した。だが、輝は口元を酷く歪ませながら、ゆっくりと後ろに下がる。再びの助走。そして今度こそ俺を突き落とそうと、勢い良く棒を突き出す。
「くっ!」
「中々器用だねぇ……往生際悪いなぁ。さっさと飛び降りて死んでよねっ!」
駄目だ、駄目だ。心をかき乱した状態では万に一つの勝ち目も無い。それに、こんな押し問答を繰り返していても道は切り拓かれないだろう。だったら賭けるしか無い。
そうさ……輝との付き合いは十数年になる。たかだか数日前に現れたばかりの情鬼風情が俺達の絆を超えられる訳が無い。信じるさ……輝、お前の心に全てを託す。
「判ったよ、輝……俺はもう逃げない。受け入れる」
大きく手を広げ、無防備であることを主張してみせた。俺を睨み付ける輝の表情に、一瞬、迷いが見えた。棒を握り締める手が微かに緩むのが見えた。
「さぁ、俺は此処だ。外さないようにしろ。それとも……これは俺の物語だ。俺自身で決着をつければ良いか? どちらでも受け入れるさ。お前の下す裁きならば受け入れよう」
精一杯の強がりだった。足の震えが治まらない。しっかりと踏ん張っていないと、このまま落下してしまいそうだ。だが表情には表さない。あくまでも気丈に、心に揺らぎが無いことを示す。それも憎悪の能面師に対してでは無く、輝に対してだ。俺はお前のことを信じている。その想いが届いた時、形勢は逆転するはず。輝……俺はお前を信じる!
「こ、コタ……ぼくは……ぼくはっ! あああーーっ!」
突然、輝が頭を抱えて崩れ落ちる。棒の転がる、無機的な渇いた音が響き渡る。
続けてクロの声が脳裏に響き渡った。クロだけじゃない。数え切れない程の天狗達も、一斉に声を張り上げている。真言……
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク!」
ゆっくりと、足元が崩れ始める光景を見ていた。紛い物だったのだろう。学校の風景も、夕焼け空も。割れた鏡の様に目の前に入る全ての光景が音を立てて砕け散るのを見届けていた。足元も崩れてゆく。俺は転落していた。屋上であった場所が遥か彼方に過ぎ去ってゆく。辺り一面が黒一色に包まれてゆく。
気が付くと目の前には輝が崩れ落ちていた。
「ひ、輝!? しっかりしろ!」
「心配には及ばぬ。気を失っておるだけぞ」
唐突に背後からクロの声が聞こえた。周囲を見渡せば先刻までの光景に戻っていた。立ち並ぶ木々の影と宇治川の流れる音。中ノ島の光景に戻っていた。
「な、何故だ!? 何故、我が術を打ち破ることが出来た!?」
憎悪の能面師は酷く取り乱していた。こいつも同じだったということだろう。己の力を過信し、勝利は絶対だと驕っていたのであろう。盛者必衰の理を得ずという表現もある。どんなに優位な立場にあったとしても、ほんの僅かな油断から一気に崩れ落ちるものだ。
俺達の心を容易く操ることが出来たために油断が生じたのであろう。人と人との心が紡ぐ絆というものは理論では片付けられるものでは無い。そのことを見失っていたのだろう。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
何時の間にか中ノ島にはたくさんのカラス天狗達が舞い降りていた。一斉に唱えられる真言。心地良い旋律であった。彼らが紡ぎ出す真言が輝の背中を押してくれたのだろう。だから、俺は再び輝と邂逅することが出来た。邂逅出来てしまえば後は偽りの糸を手繰り寄せることは無くなる。まやかしも通用しなくなる。
「事を急ぎ過ぎたために無用な隙が生じた。それがお主の敗因よの」
クロは腕組みしたまま冷たい眼差しで見下していた。酷く冷たい、慈悲心の感じられない眼差しであった。
「残念であったな。お主にはコタは渡さぬ。それに……お主には、もはや希望は与えられぬ。永きに渡る仮初の命、どうやら此処までとなりそうよの」
冷たい眼差しだった。揶揄するような含み笑いを浮かべるクロの表情は、恐怖を覚える程に冷たく感じられた。自信に満ちていた憎悪の能面師は我を見失い、ただ動揺するばかりであった。
憎悪の能面師は酷く動揺していた。焦りのあまり、在るべき能力を制御出来なくなっていた。酷く焦りを見せる憎悪の能面師。それを見下すクロの冷徹な眼差し。腕組みしながらクロは口元を歪ませて、悪意に満ちた含み笑いを浮かべて見せた。
「口惜しいか? ならば我を見事討ち取ってみせよ。そうすれば、お主は逃げ切れるであろう。さらなる罪を重ねることも出来るであろう」
なおも見下す様な眼差しで、クロは憎悪の能面師を嘲笑っていた。
「憎いか? 我が憎かろう? さぁ、どうした? お主の怒り、我にぶつけてみせるが良い!」
静かに顔を伏せたまま憎悪の能面師は怒りに身を震わせていた。再び顔をあげた時、その顔には般若の面を被っていた。激しい憎悪の念がビリビリと伝わって来る。その様子を見届けながらクロは不敵に笑っていた。
「憎悪の能面師よ、お主の想いは……所詮はただの『勘違い』だったのであろう? 想い人にはお主の心は届かず、お主は罵倒され、嘲笑され、そして……フフ、無様な死を受け入れるという結果に終わった。確か、人は……それを『逆恨み』と呼ぶのであったな。もっとも、お主はもはや『人』では無くなっておるがな?」
「き、貴様ぁあ! 私を……私を! 愚弄するか!?」
「見苦しきことよの。全ては真実ではあるまいか?」
返事は無かった。怒りに我を見失った憎悪の能面師は地面を蹴り上げると、宙に向かい大きく跳躍した。そのまま身を翻しながらクロに飛び掛った。
「愚かな……」
クロは表情一つ変えることなく六角棒を構える。素早く潜り込むと、力一杯腹を突き上げた。
「ぐぶっ!」
跳ね飛ばされた衝撃で憎悪の能面師は背中から激しく地面に打ち付けられた。うずくまりながら肩を小さく震わせていた。その姿には何の余裕も感じられなかった。そこには、数多の手を使い俺達を翻弄し続けた恐ろしい敵としての威厳は何処にも無かった。今、目の前に崩れ落ちているのは、惨めな姿を曝すだけの憐れな存在でしか無かった。
「まだやるか? 手加減などせぬぞ……我はお主を殺める存在であるからの」
クロは六角棒を構えたまま、その場で静かに佇んでいた。憎悪の能面師は、もはやうめき声をあげることしか出来なかった。慌てた様子で袖に手を突っ込み紅白の紐を取り出した。その手から解き放たれる紐。だが、紐は微かに宙を舞うとそのまま落下した。
「馬鹿な……こんなことが!?」
「愛憎に満ち満ちたお主の心……愛染明王の真言にて鎮めた。憎しみが損なわれれば、力も費え往くであろう。全ては、お主が招いた顛末よ」
クロは懐から小さな鏡を取り出した。そっと宙に投げ上げれば、鏡は砕け湖面の如く広がる。そこには見覚えの無い舞台が映し出された。歴史を感じさせる光景であった。高貴な者達が集う舞台を思わせる場所のように思えた。
「見覚えのある場所であろう? 生前、お主が舞を披露した場所よの」
クロの言葉を聞きながら、俺も目を凝らし映し出された情景に目線を送る。そこには整った顔立ちの青年が佇んでいた。
「き、貴様は!……か、勝頼! 何故、未だに生きて居るのだ!?」
勝頼と呼ばれた青年は、憐れむような、見下す様な眼差しを浮かべていた。その口元を酷く歪めたままこちらをじっと見つめている。
「残念だったな。所詮、お前のやろうとしたことなど、まやかしに過ぎなかったということだ。俺はこの通り、生き延びることが出来た。お前のやろうとしていたことなど、何もかもが無駄だったということだ。分相応という言葉を知っているか? お前のような非力で無能な奴は、紙切れの様に、無様に討ち棄てられるのがお似合いということだな! あっはっはっは!」
勝頼と呼ばれた青年が見下す様な眼差しで、声を挙げて嘲笑っていた。憎悪の能面師は顔を落としたまま地面に爪を突立てていた。力を篭め過ぎた爪が割れ、血が滲むのが見えた。
「許せぬ……未だに私を愚弄することは断じて許せぬ! 呪いで殺めることが出来ぬのならば、この手で今度こそ奈落の底に突き落としてくれるわ! 鬼となった以上、これ以上失う物など無い身! ならば、さらなる修羅道を駆け抜けてくれるまで!」
「止せ、止せ。お前の様な半端者には何も為し遂げられる訳が無い。現にお前の言葉なぞ、誰一人として信じなかっただろう? 世の中は権力者のためにあるんだ。お前達のような存在は、俺達に虐げられるためだけに在るんだ。良く判っただろう?」
「き、貴様ーーっ!」
勝頼は身分の高い青年に思えた。深い緑色の着物は良い素材を使っているのであろう。意匠の施された美しい様相を呈していた。整った顔立ちに良く似合う着物であった。立ち振る舞いの一つ一つを見ても、無駄の無い優雅な振る舞いに見えた。茶の席に慣れているものなのであろうか? 気品あふれる高貴な立ち振る舞いから、茶人の風情を感じ取った気がする。 だが、発する言葉の数々は風情からは程遠いものがあった。高みに立ち、ただ人を見下すだけの最低の人種。見ている俺まで不快になる相手であった。
「さぁ、道雪よ。どうした? 俺は此処にいる。見事、討ち取って見せよ?」
「えぇい! 黙れ、黙れ! 貴様の様な外道がいるから、私は非業の最期を迎えるに至ったのだ! この極悪人め、今度こそ我が手で殺してくれるっ!」
勝頼は可笑しそうに嘲笑いながらも、華麗に身を翻した。頭に血が上った憎悪の能面師は、その動きにすっかり翻弄され続けていた。ようやく、手にした舞扇が首筋を掻っ切ったかと思った瞬間、勝頼の姿はみるみるうちに崩れてゆく。風に吹かれて舞う粉雪の様に消え去ってゆく。そして、その中から現れたのは大柄な風貌の人影。不敵な笑みを浮かべながら腕組みするクロの姿であった。
「フフフ……ようやく気付いたか? 我らが築き上げた『偽りの真実』が」
鏡の中から憎悪の能面師を嘲笑うクロの声が響き渡る。
「き、貴様ら! 私を騙したのか!?」
「残念であったな。だが、もはや、手遅れよの」
クロは手にした鈴の音色を響かせると、手にした数珠を力強く握り締めた。そのまま真言を唱え始める。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
後に続くように、他のカラス天狗達も一斉に真言を唱え始める。煌々と燃える炎が視界に飛び込む。組み上げられた立派な護摩壇が火の粉を噴き上げていた。クロ達の真言に伴い、炎は次第に勢いを増す。煌々と燃え上がる炎は半ば火柱と化していた。火傷する程の熱気が伝わり皮膚が痺れる感覚をも覚えていた。
「我はお主の得意とする戦術を真似ただけのことよ。相手の心をかき乱し、出来た隙を突く。お主の好む戦術であったな。自らの策に嵌るとは、実に憐れな奴よの」
「お、おのれ……! ああ、力が……力が奪われてゆく……!」
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
クロは数珠を鳴らしながら、なおも真言を唱え続ける。響き渡る真言に呼応するかの如く、憎悪の能面師の体から青白い光が抜け出してゆく。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
真言の勢いに伴い、青白い光も次々と体から抜け出してゆく。
「事を急ぎ過ぎたな。永き時間を掛けて慎重に築き上げてきた過程を、最後の最後で焦ったことが敗因よの」
憎悪に満ちた怒りを浮かべながら憎悪の能面師は崩れ落ちた。クロは無表情のまま六角棒を突きつける。
「情鬼はその存在自体が悪。生まれたその瞬間から死を望まれる存在であることは、お主自身が良く心得ているはず。所詮、無駄な足掻きでしか無かったということよの。さて……憎悪の能面師よ、お主は償えぬ程の罪を犯した。行く末は覚悟出来ておるな?」
他者を欺き、時に操り、自らの意のままに振舞わせることには長けているのだろう。だが、自らは戦う力を持たない。憎悪の能面師の存在は実に因果な存在だといえる。自らの姿を隠し、誰かを行使して戦う分には恐ろしい相手ではあるが、自らが矢面に引き摺り出された時には無力となる。
「憎悪の能面師よ……実に見事な振る舞いで我らを翻弄してくれたが、一瞬の隙が全てを台無しにしたな。さて……別れの時ぞ」
クロは再び真言を唱え始めた。周囲に佇むカラス天狗達も一斉に後に続く。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク! オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク!」
クロが、周囲に佇むカラス天狗達が一斉に真言を唱え始めた瞬間、異変が起きた。唐突に空気が変わる。どこからか異様な冷気を帯びた霧が出始める。それに呼応するかの様に宇治川の流れから、次々と青白い光が浮かび上がる。次々と浮かび上がった無数の青白い光は、周囲の木々に次々と降り立つ。やがて集った青白い光は、一斉に燃え上がると、冷たい色合いを放つ炎へと姿を変える。周囲は辺り一面を凍えさせようとする青い炎に包み込まれていた。
(一体何が起きているというのだ?)
青い炎の中に見覚えのある景色が浮かび上がる。そこは鞍馬の街並みであった。前も見えない程に強い雨の降り頻る中、人々が妙な舞を振舞っている様が見えた。
(いや、これは舞では無い?)
それは舞では無かった。降り注ぐ雨の中、皆一様に胸元を押さえながら呻き声を挙げていた。一体何が起きているのか理解不能な光景であった。だが、皆一様に胸元を押さえながら呻き声を挙げていた。やがて次々と人々が倒れてゆく。口からは夥しい血を吐き出しながら。壮絶な光景であった。何が起きたのかは理解出来なかったが、次々と人々が倒れてゆく。
「憎悪の能面師の放った呪いにより、命を落とした鞍馬の人々の無念よの」
何時の間にかクロは俺の傍らに佇み、腕組みしながら静かに成り行きを見守っていた。
「どういうことだ?」
「憎悪の能面師は呪いを放った。雨の降る晩に降り注ぐ雨が無数の針となりて、心臓に突き刺さるという呪いをな? 浮かばれぬ者達が共に馳せ参じたのであろう」
再び目線を人々に投げ掛ければ、皆何時の間にか能面をつけていた。死んだ者達の血を吸った能面達は血に塗れ、月明かりの中で赤々と妖しく輝いていた。
「この能面達が……」
「うむ。鞍馬での一連の騒動を起こした張本人よの」
カラス天狗達はまるで動じる様子も無く淡々と真言を唱え続けていた。周囲に染み渡る真言の声に伴い人々は再び青白い光へと変わってゆく。やがて、ゆっくりと天を目指して舞い上がってゆこうとしていた。その様子を見つめながらクロは可笑しそうに笑っていた。
「愚かな……救いが与えられるとでも思ったか? お主らは皆、罪を犯したがために呪い殺された身。よもや自らが犯した罪を忘れたとは申さぬであろうな? 因果応報……自らが撒いた災禍の結果、その身で受け止めるが良い!」
皆に加わり、クロは再び真言を唱え始めた。カラス天狗達の力強い声が周囲に染み渡ってゆく。その声に伴い、ゆっくりと浮上していた青白い光達が次々と地面へと向かい落ちて行く。青白い光は再び人の姿を取り戻していた。皆凄まじい形相を浮かべながら、地面へと引き摺り込まれていった。さながら抜け出すことの出来ない底無し沼に陥ってしまったかのように。最期まで天を仰ぎながら、手だけになっても必死で抵抗する者達の姿はただただ見苦しいだけであった。
そして最後まで残ったのは、やはり憎悪の能面師であった。地面に倒れ込んだまま、肩を小さく震わせながら息をしている様子が見て取れた。
「せ、折角手にした再びの命! ああ、何故だ!? 何故、助けて下さらぬか!? 私は貴方様の言葉に従い此処まで振舞ったと言うのに! お……おのれ! く、口惜しや! この恨み、決して忘れはせぬ!」
なおも憎悪の能面師は鬼の顔を見せ付けていた。もはや、力は殆ど残されていないのだろう。それでも永き時を掛けて敷き詰めてきた物を、他者の手により壊されるのは許せないのだろう。最期の瞬間まで煌々と燃え盛るような憎悪を抱き続けられる執念。その執念の深さに驚かされる。だが、青白い光は抜け出し続ける。それに伴い憎悪の能面師の姿も次第に薄くなってゆく。
随分と振り回してくれたが物事の顛末という物は意外に呆気ないものなのか。舞い散る桜吹雪の中、クロは尚も真言を唱え続けていた。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
やがて、ゆっくりと、ゆっくりと……憎悪の能面師の姿は消えていった。何もかもが終わったのだろう。一連の騒動が幕を下した瞬間であった。一瞬の安堵……だが、唐突に視界が揺らぐ。
(な、何だ……立っていられない程の、眩暈が……!)
「何処までも往生際の悪い奴め……コタを強引に情鬼に貶める気か!? 皆よ、急ぎ、護摩炊き供養の儀を取り仕切るぞ!」
本当に執念深い奴だ……何処まで、俺達を苦しめれば気が済むのか。俺は薄れ往く意識の中で、そんなことを考えていたような気がする。
「なぜ人を殺してはいけない?」
夕日に照らし出された教室は燃え上がる炎の様に一面の赤。机も、黒板も、それから立ち尽くす生徒たちも皆、例外なく赤々と萌えていた。俺は鴨川卓に馬乗りになり首を絞めていた。
「下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、寄り道せずに帰りましょう」
妙に間延びした口調の下校放送が流れる。微かに放送に混じる笑い声が酷く場違いに思えた。時の流れは残酷だ。今、この教室をたゆたう時の運行は完全に凍結した。皆、石像のように硬直している。そこは何の音も無い渇き切った空間と化していた。そこには笑いなどは在り得ない。一触即発の緊張感。皆の視線が一斉に俺に集まる。銀行強盗の心境……体験したことは無いが、何故かそんな気がしていた。
「もう一度問う。なぜ人を殺してはいけない?」
俺は再び問い掛けた。松尾は酷く狼狽した素振りを見せながら、俺の目線と合せることを畏れているようにさえ思えた。だからこそ目は逸らさせない。逃がしはしない。納得できる返答を返して貰うまでは。
「は……離せよっ……い、息が……」
必死でもがく卓の爪が、さながら巨岩を侵食する雨垂れの如く俺の腕にゆっくりと食い込む。皮膚が切り裂かれる微かな感覚。ゆっくりと、滲んだ血が流れ落ちるのが見えた。痛みは感じなかった。ただ俺の怒りの炎に油を投入しただけに終わった。苛立ちついでに俺はさらに力を篭め、その首を締め上げた。ゆっくりと卓の首に俺の指が食い込む。柔らかな感触。じっとりと滲む汗。頚動脈の脈拍が次第に緩慢になるのが伝わって来る。涙と涎、ついでに鼻血まで垂らしながら卓は嗚咽していた。汚らしい顔だ。さっさと死ね。
「こ、殺してしまったら、もう、嫌いだってことも伝えられなくなってしまうのよ?」
震える手で眼鏡を押し上げる松尾。ついでに裏返った口調で、何とか放った言葉。無駄なことを……生きていることで苦しみ続ける者も存在するのだ。武司さんが教えてくれた真実。中には自らの手で、自らの物語を終わらせることの出来ない者もいるだろう。だから、俺は手を差し伸べてくれてやっているのだ。『救済』を妨害するとは、愚かな。
「……コイツには生きる価値など無い。生まれてきたこと事態が間違いだった。だから、裁きを下す。正しい道へと救済するためにな?」
「な、何てことを……自分がやっていることが判っているの!?」
「救済だ。……松尾、お前にも救済を与えてくれようか?」
引きつった表情のまま松尾は崩れ落ちた。情け無い奴め。己の想いも貫き通せないような弱者如きが俺に意見するなど笑止千万。
「さて、卓……今度こそ、引導を下してやる!」
「や、止めろ……」
「はあ? 『止めろ』だと?」
「や、止めて……止めてくだ、さい……ぐっ……ああ……」
一人、一人の動揺し切った吐息も、震える膝の音も、張り裂けそうな鼓動さえも聞こえる程に教室は静寂に満ちていた。永遠とも呼べる程の沈黙。それでも俺は手を緩めるつもりは無かった。本気で殺すつもりだったから。本気で救済をくれてやるつもりだったから。
いよいよ卓は体が小刻みに痙攣し始めていた。瞳孔が揺らぎ、白目を剥き始める。俺の手に突き刺さる爪からもゆっくりと力が失われてゆく。それでもなお卓は必死の抵抗を見せる。時折、思い出したかのように力を篭めていた。生への執着か? そんなものお前には無用の長物だ。万物を繋げる摂理から断ち切ってくれよう。
「無駄な抵抗は止せ。俺はお前を殺す……もう、後戻りするつもりもない。悪いな」
俺は力一杯、卓の目に拳を叩き付けた。親指を突き出し、眼球を狙い力一杯殴り付けた。コリっとした感触。眼球が歪む感触を拳に感じていた。拳に感じられる生温かい涙が不快で、酷く苛立った。
「うわあああーーっ! ああっ……痛ぇ、痛ぇよっ!」
卓の悲鳴に皆が目を背ける。耳を塞いだまま座り込む女子生徒の姿も見られた。
「汚らわしい……まだ生に執着するのか? さっさと諦めろ。せいぜい懺悔しろ」
悲痛ぶった悲鳴に苛立った。だから股間にも肘鉄をめり込ませた。深く、深く。一瞬、激しく痙攣したが、卓は体中に電気が駆け巡ったかのように痙攣すると、静かに崩れ落ちた。頬から大粒の涙が零れ落ち、空振ったような呼吸が笛の様な音を響かせた。ついでに広がる水溜り。どうやら失禁したらしい。
「あ……あぐっ……あ……ああ……」
「汗も臭ければ、小便まで垂れるとはな……実に惨めだな」
夕日に照らし出された教室は、誰も彼も皆真っ赤に萌え上がっていた。何もかもが燃え盛る炎のように煌々と赤く染まっていた光景。言葉を失う級友達。立ち尽くす無能教師。口から涎を垂らしながら小さく痙攣する卓。汗と小便の不快な臭気。馬乗りになった俺。そして永遠とも思える程の沈黙。俺は力一杯、手に力を篭めた。断続的な鈍い感触が伝わる。もしかしたら首の骨が折れたのかも知れない。それならそれで話は早い。楽に死ねるならその方が良いだろう? 万力の如く締め上げる。信じられないくらいの力が沸き上がる。ゆっくりと、脈拍が緩慢になってゆく。次の瞬間、卓の手から一気に力が抜けた。ガクンと落ちる首。口からは血の混じった涎が零れ落ちた。一粒の涙。そして、その光景を見届けた松尾が悲鳴を挙げる。
「ひ……人殺し……人殺しっ!」
いちいち騒々しい奴だ。喚くな。騒ぐな。殺したのだから死ぬのは当たり前だ。馬鹿か。お前は?
「クックック……四条小太郎よ、これがお前の真実よ」
死んだ筈の卓が不気味な声で笑う。糸の様に細い眼。耳まで釣り上がった口。その異様な表情は、まさしく憎悪の能面師であった。
「お前は人を殺めた。判るか? お前も『情鬼』に成り果てるのだ。時間の問題だ……フフ、あのカラス天狗も人を見定める力が無い。情鬼になるであろう存在と共に歩むことを願うとはな」
「黙れ……」
卓はなおも声を張り上げて笑い続けた。耳障りな甲高い笑い声が響き渡る。
「必死で自分自身の罪に被せ物をして、自分は違う。自分だけは違う。強引に価値観を捻じ曲げようとしても無駄なこと。お前は情鬼になるのだ。私と同じだ。お前も情鬼に……ぐぶっ!」
何時の間にか俺の手には六角棒が握られていた。
抑え切れなかった……燃え上がる様な怒りの感情を。憎悪の感情を。殺意を! 気が付くと俺は六角棒で、卓の頭を力一杯殴っていた。グシャっという骨が砕ける嫌な感覚が手に伝わる。飛び散る血と柔らかな破片。頬に付着したヌルっとした感触の「何か」を感じていた。恐る恐る手で拭い取ってみれば、それは何かの肉片が混じった卓の返り血であった。
「人殺しーーっ!」
誰かが悲鳴を挙げた。誰かが教室から慌てて飛び出した。誰かが、我先にと逃げようとして、他の生徒を壁に押し付けた。力一杯。悲鳴。叫び声。嗚咽。萌え上がる様な夕日に照らし出された、静かな教室はパニックに陥っていた。
あまりの恐怖からか、気が動転して窓から逃げ出そうとする生徒もいた。それを慌てて阻止する生徒もいた。
(何だよ……これじゃあ、俺は、まるで……)
「情鬼だろ? お前自身が一番良く判っているはずだろう?」
卓が起き上がった。割れた額から酷く血を垂れ流しながら、不気味な笑みを浮かべていた。
「お前は情鬼になったんだよ。カラス天狗一族の……いや、人の敵にな! もう、輝はお前のところには戻って来ないさ。何しろお前は正真正銘の『鬼』になったのだからな! あーっはっはっは!」
気が狂いそうだった。どうすれば良い? ああ、そうか……余計なことを口外される前に、証人を皆殺しにすれば良い。死人には口は無い。何て俺は賢いのだろうか。皆、殺してしまえばいい。そうと決まれば、まずは――。
酷い痛みを感じて俺は飛び起きた。光の無い、暗い場所。川の流れる音色が聞こえてくる。
「コタ! ああ、良かった……ようやく気が付いてくれたよ」
(輝? それじゃあ、此処は?)
事態が呑み込めなかった。周囲を見渡す。恐らく此処は中ノ島なのだろう。つまりは宇治……憎悪の能面師は消え失せたのだろうか? クロの姿も、大勢のカラス天狗達の姿も無かった。
「輝……怪我は無いか?」
俺は慌てて輝の肩を掴んだ。
「え? 嫌だなぁ。ぼくのことよりも、自分のことを心配してよー」
動揺した俺を後目に輝は困ったような笑みを浮かべていた。
現実と虚構とを行ったり来たりしたお陰で、何が何だか意味が判らなくなっていた。
「天神さんで、変な奴に能面を被せられた所まではハッキリ覚えていてね」
小さな溜め息混じりに輝が口を開く。宇治川に目線を投げ掛けながら。遠く、暗闇の中で月明かりを反射しながら宇治川はキラキラと光を放っていた。
「ぼく……コタに酷いことをしちゃったよね。体がね、勝手に動いて……凄く、怖かったよ」
目に一杯の涙を称えながらも、輝は精一杯の笑みを浮かべていた。見られたくなかったのだろう。こちらを向くこと無く、夜空に浮かぶ月を見上げながら輝は笑っていた。
「もう……終わった。もう、何もかもが終わった」
「え?」
「余計な詮索はするな……兄貴からの命令だ。判ったな?」
「で、でも……」
「……返事はどうした?」
「う、うん。コタがそういうなら余計な詮索はしないよ」
「ああ。それでいい」
余計な詮索はされたくなかった。余計なことを話したくなかった。受け入れられなかったから……幻の中でのこととは言え、思い出すと途方も無く恐ろしくなる。何の迷いも、ためらいも無く……卓を殺せた自分の姿が。自覚していたとは言え、あれ程までに鮮明に見せ付けられると否定出来なくなる。俺も……憎悪の能面師のように成り果ててしまうのだろうか? 怖くて、怖くて仕方が無かった。
「うーん」
「どうした? どこか痛むのか?」
「えへへ。お腹空いちゃったよねー。でも、この時間でしょう? 何食べようかなーって思ってね」
やはり輝は輝のままが一番だ。唐突に力が抜けるような発言も輝らしくて安心出来る。
「そうだな。帰り道の途中で適当に食って帰ろう」
「それもそうだねぇ」
嬉しそうに笑いながらも、輝は不意に自らの身に降り掛かった異変に気付いた様子であった。
「アレ? 何か……あちこち濡れているけど、どうしてだろう?」
「さてな。暑さにやられて、宇治川にでも飛び込んだのでは無いか?」
「えぇー!? いくらなんでもそんな訳無いって……思いたいけれど、自信が無いなぁ」
「何だって良いじゃないか? ほら、置いていくぞ」
「あ、アレ? ちょ、ちょっと、こんな暗い所に置き去りにしないでよー!」
世の中には理解不能なことが本当にたくさんある。自分自身の心の内にすら見知らぬ場所が存在している。恐らく、まだまだ見知らぬことなど無数に存在しているのだろう。俺は輝と共に歩みながら周囲の景色を眺めていた。やがて細い道を抜ければ宇治駅へと到達する。
ようやく戻って来た宇治駅。無事に帰還できたことに安堵感を覚えていた。
(クロ、お前のお陰で輝を救い出すことが出来た。感謝する)
宇治駅の石造りの壁と黄色い明かり。コバルトブルーの看板を眺めながら、そんなことを考えていた。
その日の夜、俺は再びクロと共に大原を訪れていた。悠久の時の流れを見続けてきた三千院。水気を称える苔に包まれた庭園を歩いていた。
「……なるほどな。そのようなことが起こっていたとはの」
「ああ。最期の最期まで嫌な終わり方をしてくれる奴だった」
憎悪の能面師に投げ掛けられた言葉が脳裏を過ぎる。俺が情鬼になるのも時間の問題だという言葉が妙に引っ掛かっていた。大きな木の幹に手を宛てながらクロが静かに振り返る。
「ふむ。程度の差こそあれど、心に怒りや憎しみを持たぬ人など存在せぬ。つまりは……いかなる聖人君子であろうとも情鬼になる可能性は秘めておる。所詮、奴の死に際の負け惜しみに過ぎぬ」
本当にそうなのだろうか? 考え過ぎればさらに迷いは深まる。その結果、情鬼に成り果てる可能性は高まってしまうのかも知れない。そうか……死に際の負け惜しみに過ぎないということか。他者を逆恨みするような奴のいうことに、耳を貸す必要など無いということだろう。
俺達は再び庭園を歩き出す。三千院は深い木々に包まれた心落ち着く場所だ。木々の緑に、水気を孕んだ香り。穏やかな気持ちになれる場所だ。特にこの季節は紫陽花が見頃を迎える。紫陽花の華やかな青い色に心も休まる。
「しかし、奇異なこともあるものよ」
不意にクロが足を止める。
「憎悪の能面師……手強い相手であった。あれ程までに強い力を持つ情鬼は、初めて相手にした」
「ああ、確かに恐ろしい相手だったな……」
「うむ。だが、解せないのはその部分だけでは無い。古き時代を生きたはずの憎悪の能面師が……何故、この時代になって現れたか? あれ程の力を持つ情鬼を我らが見過ごす訳が無い。討ち取れなかったのでは無く、その存在すら知らなかったのだ。実に奇異なことよ……」
考えてみれば確かにそうだ。あれ程までに大々的に周囲を巻き込む力を持つ情鬼が目立たない訳が無い。クロの言う通りだとすれば、既に討ち取られていて然るべき相手のはず。それが今の時代になるまで気付かれないというのは確かに奇異な話だ。
「憎悪の能面師が誕生したのは、恐らくは遥か昔のこと……」
クロは再び歩み出す。そっと空を見上げながら呟いた一言に驚かされた。
「……何者かが暗躍している。そんな気がしてならぬ」
暗躍する何者かの存在……俺達が考えて居るよりも、事態は遥かに根深いのであろうか? 不安に駆られた俺の心をさらに後押しするかの如く、クロは言葉を続ける。
「覚えておるか? 憎悪の能面師が最期に放った言葉を。『再び得た命』……それに、『貴方様』という言葉……我の中でずっと引っ掛かっておる」
そうだ。不意に思い出せた記憶が脳裏を過ぎる。あの時見せられた、謎の情景……身を震わす程の振動。頬を撫でる水気を孕んだ冷たい空気。滝。四方を滝に囲まれた見覚えの無い本堂。赤と金に彩られた色彩鮮やかな寺院。荘厳なる黄金の大日如来像が静かに佇む場所。滝が流れ落ちる轟音。鈴が鳴り響くこの世とは思えぬ幻想的なる場所。
『自らが犯した罪から目を背け、逃げ続けた者……だが、我が目に留まった以上は逃しやせぬ』 耳元で囁く声が聞こえる。見下す様な、嘲笑するかの様な、不愉快な含みを帯びた声。
『さぁ、忌まわしき過去との邂逅の時よ……』
そっと伸ばされた大きな手。俺の頬を撫でる濡れた手は氷の様に冷たかった。
「青い僧衣に身を包んだ者、とな?」
「ああ。青白く輝くほたるを従えた奴だ。心当たりは無いか?」
クロは険しい表情を浮かべたまま、考え込んでいた。
「ふむ……心当たりの無い相手よの。一体何者であろうか? 話を聞く限り実に禍々しい気配を感じるが」
幾つもの謎だけが残された。判っていた……。これは全ての始まりなのだと。鶴の恩返しと一緒だ。知らなければ平和に生きられたかも知れないが、知ってしまった以上、もはや後戻りは出来ない。前へ突き進むしか無いのだ。
「憎悪の能面師……一体何が望みだったのだろうか?」
静かに風が吹きぬけ、木々の葉が涼やかな音色を奏でるのが聞こえた。
クロは腕組みしながら、しばし考え込んでいた。険しい表情を見せていた。心配には及ばない。俺は今更退く気も無ければ、驚かないだけの覚悟は出来ているつもりだ。知らなければならない……そんな使命感さえ覚えていた。俺の想いを理解したのか、クロはしっかりと俺の目を見つめながら話し出した。
「憎悪の能面師は自らと良く似た境遇を歩んだコタに共感を覚えていたように思える。孤立無援……孤独の寂しさに耐えかね、あの者は誰かの温もりを求めておった。丑の刻参りという忌まわしき儀式がコタと憎悪の能面師を繋いでしまったのであろう。だが、コタは憎悪の能面師を受け入れることは出来なかった。故に、力づくでも情鬼に仕立て上げようとしたのであろう」
今になって振り返って見れば憎悪の能面師の行動の数々が意味する真実が判る気がする。
鞍馬に俺達を導いたのも、俺だけを逃げさせたのも、全ては仕組まれたことだったのかも知れない。その後も直接手を下さずに、心を揺さぶるような攻撃を仕掛け続けてきたことも。輝を操り、俺に衝撃的な光景を見せつけたのも、全ては奴の狙いだったということか? どこまでもおぞましい奴だ……だが、奴の思惑通り、俺は情鬼に成り果てる寸前まで追い詰められていた。実に恐ろしいことだ。
ここで新たな疑問が浮上した。憎悪の能面師……孤立無援に陥ったのは一体何故なのだろうか? それに、あの勝頼という青年に対する異常なまでの殺意……奴が情鬼に成るに至った真実は、間違いなく、過去の一時点に存在している筈だ。
「ふむ。それは憎悪の能面師本人の記憶を手繰り寄せるのが良かろう」
俺が何を考えているのか理解したのか、クロは懐から小面の能面を取り出して見せた。思わず目を背けたくなる能面であった。その表面には赤黒い染みが流れ落ちるように走り回っていた。明らかに人の血であろう。一体この能面にはどのような憎悪が篭められているのだろうか? 深淵なる心の闇を覗くことにためらいはあった。自分の心ならば、まだ納得出来るかも知れない。だが、あれ程までに化け物染みた心を持つに至る相手の内面……知らない方が良いことであろう。だが、俺はどうしようもなく愚かな奴なのだろう。それでもなお知りたいと願ってしまった。そんな愚か過ぎる俺の心を察したのか、クロはそっと目を伏せると静かに真言を唱え始めた。
不意に周囲の空気が変わる。冷たい風が吹きぬける。続けて桜の花が舞う。それは春。それは宵の宴。桜の花に囲まれた草原。月明かりの下、桜吹雪を身に纏いながら俺は舞っていた。どうやら憎悪の能面師……いや、道雪の目線から情景を見ている様に思えた。今宵の道雪の着物は白一色。桜の花を立たせるために敢えて地味な色合いの着物を選んだのだろう。何もかも忘れて、道雪は一心に舞を振舞い続けていた。
判っている……この想いは決して届く訳が無いこと位。天と地が引っくり返ってもあり得ない出来事。届くことの無い想いと知りながらも、胸を焦がす熱情を抑えることなど出来る訳が無い。
視界の中心に佇むは……凛々しい顔立ちの勝頼の表情。
(これは一体何を意味しているのか? 勝頼に舞を披露しているというのだろうか?)
そこまで考えて、微かにではあるが道雪の心を理解した気がする。
(道雪は勝頼に……想いを寄せていたのだろうか?)
頭で割り切るのと体で理解するのとは似て非なる物。幾ら理性で理解しようと試みても、本能に抗うことは容易いことでは無い。ましてや誰かを想う気持ちを抑えることは、極めて難しいだろう。その願いが届かないことを知りながらも道雪は舞い続けていた。何時間も……いや、下手をすれば、何日も舞い続けていたのかも知れない。それ程までに道雪は、その熱い想いに駆り立てられていたのだろう。
(誰かを慕う想い……それが困難な物であればあるほどに燃え上がる。その気持ち、理解出来なくも無い)
不意に場面が変わる。どこかの工房を思わせる小部屋であった。道雪は能面を片手に様々な角度から覗き込んでいる。真剣な表情であった。
(そうか。舞を披露する者であるならば「能活師」といった呼び名が付くのが通例であるのにも関わらず、「能面師」という呼び名は奇異に思えたが……なるほど。道雪は確かに、能面を創る者……つまりは「能面師」であったということか)
此処は何処なのだろうか? 目の前にそびえる雄大な山は鞍馬山か? ということは、ここは鞍馬ということか。道雪は鞍馬に暮らしていた身ということか……だからこそ俺達が最初に出くわした場所も鞍馬ということか。一つ謎が解けた気がする。
「ようやく出来上がった……私の魂を篭めて創り上げた面。この面ならば、ようやく私の想いを表現することが出来そうだ」
子供の様に無邪気な笑みを浮かべる道雪の表情を見ていると、とても、憎悪に満ちあふれた姿とは繋がらなかった。だけど、人は見掛けに寄らないこともある。豪快で陽気な錦おばさんの心には、あふれ出しそうな程の憎しみが渦巻いていた。人の腹の内など他人には判らないということだろう。
「道雪さん、いるかい?」
「ああ、田丸さん。えっと、運んできて貰った木材は……」
「いつものように、倉庫に入れておいたよ」
「ああ、お気遣いありがとうございます」
「一応玄関先で声は掛けたんだけどね、返事が無かったから勝手に上がらせて貰ったよ」
田丸と呼ばれた人の良さそうな男が歯を見せて笑う。木材ということは恐らくは能面の材料のことを示しているのであろう。いや、もしかしたら風呂を沸かすのに使う木材かも知れないが。
「お。そいつぁ、新しい能面かい? 見事な作品だねぇ」
「ええ、少し前に仕上がりました」
「それにしても能面を創っているうちに、自分でも舞を演じてみたくなった。それで、いざ舞を演じてみれば意外な才能ときたものだ。才能ってぇのは面白いもんだよなぁ」
田丸は畳に腰掛けながら豪快に笑う。物腰柔らかな振る舞いで道雪は茶を煎れていた。どこか照れ臭そうな笑顔が印象的に思えた。
「私が創る面には魂を篭めているつもりです。能とは自らの心を演じるもの。面は顔そのものですからね」
茶を口にしながら道雪は微笑んでいた。
「作り手が舞を振舞えたら、その想いも演じやすいのではと考えた。未熟者の浅知恵に過ぎませんよ」
穏やかな笑みを浮かべながら、道雪は出来上がったばかりの能面を大事そうに愛でていた。
その能面は小面の面。若き女性を演じる際に使う面……道雪の想いを描き切るための顔ということか。道雪は慈愛に満ちた穏やかな笑顔を浮かべながら、能面を大事そうに愛でていた。
(判らないな。一体何が引き金となり、道雪が憎悪の能面師に成り果ててしまったのだろうか?)
場面は切り替わり、何時の間にか夜になっていた。薄暗い工房に篭った道雪は出来上がったばかりの能面を手にしながら、窓から覗く夜空に語り掛けていた。今宵は美しい下弦の月。空虚に掛けた道雪の心を象徴しているように思えた。
「始まりは何時の頃からだったのだろうか?」
そっと窓に歩み寄る道雪は、哀しそうな笑みを浮かべていた。
「能とは実に奥深いもの……知れば知るほどに、その深淵に気付かされてしまう。いつしか私は自らの舞に呑まれてしまっていたのかも知れない。始めは演じるあまりに役に成り切っていただけだと思っていた……だけど、そうでは無かった」
道雪の心を共有しているのか、俺の目には道雪が思い描いた情景が映し出されていた。その場所はどこかの舞台であった。春の穏やかな青空の広がる景色。広い舞台。そこは勝頼を含めた多くの者達に演舞を披露する場なのであろう。必死に舞う道雪。だが勝頼は見向きもしない。さも興味等無いと言った振る舞いで冷たく返すばかりであった。
儚さ故の美しさ。散ってゆく者の儚さを感じさせる哀しみに満ちた舞であった。その悲哀に満ちた舞いは、恐らく俺には到底到達することの出来ない程に優雅で、そして……美しくも哀しみに満ちた舞であった。
「やよいさん。今日いらしていた、あの深緑色の着物をお召しの方をご存知ですか?」
やよいと呼ばれた物腰豊かな娘が静かに微笑む。
「あの方は勝頼さんよ。茶房の若旦那さんね。ほら、街の北側に大きな、大きなお屋敷があるでしょう? あそこに住んでらっしゃるのよ」
「勝頼さんとおっしゃるのですね」
「ええ。きっと凄いお金持ちなのでしょうね」
金持ちにはろくな奴がいない……少なくても俺はそう思っている。鴨川卓もまた金持ちの家に生まれた一人息子。何一つ不自由することなく育った奴らは、人の心の痛みを知らない奴が多いのだろうか? いや、違うな……卓は何一つ不自由ではあったが、俺が思うに……あいつは何一つ手に入れることは出来なかったのだろう。憐れな奴だ。
(別に私はお金に興味がある訳では無い……ただ熱心に通ってくれるにも関わらず、冷たい眼差しを向ける。その理由を知りたいだけのこと)
道雪は貧しい暮らしをしているように思えた。立派なのは工房だけで、住んでいる部屋は隙間風の酷い古びた部屋でしか無かった。自らの信ずる道のためには全てを犠牲にする。だからこそ、あれ程の舞を演じるまでに達することが出来たのだろう。
貧しいながらも道雪は周囲に恵まれているように思えた。誰に対しても分け隔て無く惜しみない笑顔を振りまく道雪は誰からも慕われ、愛されているように思えた。その人柄の良さを知れば知る程に、俺の理解は遠ざかってゆくばかりであった。だが、気になるのは勝頼という人物だ。
(あいつは気に食わないな。何か腹の内に企てているような気がしてならない。道雪に向けられている眼差しは、悪意で満ちているように思えてならない。あいつが引き金になるのは間違いないだろうな。注意して動向を伺うとしよう)
再び場面が変わる。大きな桜の大樹の根元。恐らく皆が去った後なのであろう。時間も夜になっていた。道雪は面を外すと、静かに袖を濡らしていた。声を押し殺し、誰にも知られないように、大きな桜の大樹の根元に佇んでいた。
何度も舞を披露しては、その度に冷遇され続ける。いい加減諦めれば良い物を、それでもなお道雪はさらなる修行を積み、何度も、何度も舞続けた。
シンシンと冷たい雪の降る冬の日でも、寒さに足が凍傷を起こしても、それでもなお必死で舞い続けた。足の爪が割れ、床に赤い染みを残す様も見て取れた。恐らく足も酷く腫れ上がっているのだろう。遠目に見ても浮腫みが酷い。
(足の腫れが酷いな……あれでは歩くことすら困難だろう。それでもなお、修練を絶やさない……その心意気、もはや鬼気迫る物があるな)
道雪は狂っているとしか思えない程に舞い続けていた。それこそ命の全てを燃やしてでも舞おうとしているようにさえ思えた。彼は死を求めていたのだろう。舞に生き、舞に死ぬ。恋敗れた今、彼はただ、静かな……安らかな死を追い求めているのだろう。
「私は罪深き身だ……貴方を愛してしまったこと、そのことが既に罪だというのか?」
道雪は哀しみに満ちた舞を振る舞い続ける。
「ああ、そうさ。どんなに……どんなに美しく着飾っても、私が男であるという事実は変わらない!」
想いを叩き付けるかのように、道雪は儚い舞を演じていた。
「……どう、足掻いても、その事実は変わることは無いのだ……何故、世はこれ程までに残酷なのか……私は……私は、ただ……」
冷たく冷え切った舞台の床に雫が零れ落ちる。一粒、また一粒。声も出さずに、誰にも気付かれぬように静かに泣いていた。絹の様に柔らかな着物に爪を付き立てながら、叶うことの無い願いを憐れみ、小さく肩を震わせていた。真っ直ぐな想いが伝わって来るからこそ心が酷く痛む。哀しいまでに純粋な気持ちを持つ能面師の恋心。あの哀しみに満ちた舞の理由を、そこに見た気がする。
涼やかな夏の日。蝉の声が割れんばかりの勢いで響き渡る。周囲を見渡せば、鮮やかに萌える木々の緑に包まれた場所であった。流れる川の音色が涼やかに感じられる場所。見覚えのある風景から考えるに、この場所は貴船のように思えた。
(勝頼様自ら、私に声を掛けてくださるなんて)
嬉しそうに能の準備をする道雪の姿を見ていた。嫌な予感しかしなかった。道雪も薄々は勘付いていたのでは無かっただろうか? それでもなお信じようとする純粋な心が余計に不安を掻きたてる。川床に築き上げられた舞台。確かに見た目は涼やかな風情に満ちていたが、どう考えても可笑しい。
(ここが舞台だというのか? 馬鹿な……随分と足場が緩いでは無いか。これでは僅かな衝撃でも崩れ落ちてしまう)
そこまで考えて俺はようやく気付いた。
(そうか……あの勝頼という男、最初からこれが目的だったということか? 何故、こんなことを……こんなことをして、一体何の得があると言うのだ!?)
舞台に姿を現した道雪もまた、恐らくは異変を感じていたのだろう。どこか落ち着きの無い様子で舞を演じていた。道雪の後ろで笛や太鼓を演ずる者達も不安に満ちた表情を浮かべていた。普通に考えれば、このような場所で能を振舞うことなどは在り得ないのだから。
何時もは興味無さそうに振舞っている勝頼も、今日は好奇に満ちた眼差しで道雪を見つめていた。酷く口元を歪ませながら、仲間達と共に悪意に満ちた笑みを浮かべていた。間違いなく、何かを企てているのだろう。だが、一体何をしでかすつもりだ? 俺は周囲を見渡してみた。
(舞台を支えている支柱に縄が括り付けられている? 一体何のために……まさか!)
道雪が舞に集中しているのを見届けた勝頼が、周囲の仲間達に小声で何かを伝える。皆、悪意と好奇に満ちた眼差しを舞台に向ける。その時であった。茂みに潜んでいた者達が、一斉に縄を引いた。激しい音を立てて舞台が崩れ落ちる。悲鳴を挙げる道雪。その様子を見届けながら、勝頼達が一斉に笑い声をあげる。
(何と言うことを……こいつら最低だ! 道雪が一体何をしたというのだ!?)
殴ってやりたかった。目の前にいる外道共を許せなかった。だが、惨事はまだ終わってはいなかった。唐突に道雪の悲鳴が聞こえてきた。
「だ、誰か! 助けてくれ! わ、私は泳げないんだ!」
声のしたほうに俺は急ぎ駆け寄った。上流で雨でも降ったのか、川の水量が大幅に増えていた。泳げない身である上に、能の衣装を身に纏った状態ではなおのこと身動きは取れない。衣装は水を吸って重みを増し、重石の様になってしまっているだろう。
「あっはっは! ざまぁ無いな、道雪!」
「誰か! 誰か、助けてくれ!」
勝頼も、仲間達も、誰一人として動こうとはしなかった。それどころか溺れそうになる道雪を見下しながら声を張り上げて嘲笑っていた。必死で助けを求める道雪。嘲笑う勝頼達。俺には理解出来なかった。何がそんなに可笑しいのか、何故そんなことをしたのか、何もかもが。在り得ない光景であった。
「……お前、気持ち悪いんだよ」
棄て台詞の様に勝頼が放った一言。その一言に全ての真実が篭められていたような気がして、俺は怒りすら消えてしまった。あまりにも理解出来ない感情を、無理に理解しようとしても、理解出来る訳が無い。こいつの心など理解できる訳も無いし、理解したくもなかった……。
どれほど流されたのだろうか? 必死の想いで岸に這い上がった道雪は激しく咳き込んでいた。咳き込みながら嗚咽していた。水を吐き出しながら涙も流していた。
(どうして……どうしてこんなことに……)
誰かが歩み寄る音が聞こえる。そっと顔を挙げれば、そこには勝頼の姿があった。にやにや笑いながら道雪を見下していた。
「どうして……どうして、こんなことを!」
道雪が怒りに満ちた声をぶつける。だが、勝頼は相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま、道雪を見下すばかりであった。
「勘違いして俺に気を持ちやがって……お前みたいな奴に興味を持たれるなんて、それだけでも気持ちが悪いんだ。だから、お前を奈落の底に突き落としてやろうと思ってな」
「そ、そんな……」
「まったく……何の疑いも無く現れるなんて、何処までおめでたい奴なんだ!」
溺れてもなお大事そうに抱えていた小面の能面を、勝頼は乱暴に奪い取った。
「何をする!? それは私の大切な物なのだ! 返してくれ!」
道雪の悲痛な叫び声を聞きながら、勝頼は鼻で笑った。
「貧乏人の分際でいい気になるな」
「私はいい気になどなっていない! 勝頼殿はお家柄も恵まれているであろうし、私よりも遥かに幸せを手にしているのでは無いのか!?」
道雪の言葉を受けた瞬間、勝頼の表情が唐突に険しくなる。憎悪に満ちた眼差しで道雪を睨み付けると、乱暴に胸倉を掴んだ。
「俺が幸せだと? そんなことあるものか! どいつもこいつも俺の金だけが目当てなんだ! 言い寄って来る女達は皆、俺自身では無く、俺の財産目当てだ! どうせ、こいつらだって、俺の財産が目当てでヘコへコしているだけだろう。俺は……俺は幸せなんかじゃない!」
勝頼は凄みの利いた眼差しで周囲の仲間達をも睨み付けていた。皆、動揺した表情で後ずさりするのを見ると、勝頼の言葉通りなのだろう。
(何て憐れな奴だ……だが、同情することは出来ない)
「私とて何もせずに今の地位を手にした訳では無い! 血の滲むような努力をして、此処まで這い上がってきたのだ! 人にとやかく言われる筋合いは無い!」
怒りに満ちた道雪の表情は深い哀しみに満ちていた。こんな展開を望んでなんかいなかっただろうし、自らの在り方を否定されようとも思っていなかったのだろう。哀しいまでに晴れ渡る空模様であった。だが、道雪の心の中には冷たい雨が降っていたことだろう。
「努力? くだらないな……所詮はただの能面師に過ぎないくせに。舞を披露する? こんな薄気味悪い能面に何が出来る? 腹も膨らまなければ、金にもならない」
「それでも私の大事な宝物なのだ! さぁ、返してくれ!」
必死で懇願する道雪の言葉を受けながら、何かを思いついたのか勝頼は乱暴に能面を放り投げた。
「うるせぇな。ほれ、返してやるよ!」
慌てて手を伸ばそうとする道雪。悪意に満ちた笑みを浮かべると、勝頼はその手を蹴り上げた。次の瞬間、道雪の手から零れ落ちた能面を力一杯踏み付けた。
「ああ! な、何ということを!」
能面は乾いた音を立てて粉々に砕け散った。
「あははははは! こんな気色悪い面、どうなったって構わないじゃ無いか? こんな木の欠片には何も出来やしないのだろう?」
道雪は俯いたまま小さく肩を震わせていた。果てしない怒りと哀しみ。周囲の音が完全に消え失せる程の殺気を感じていた。ゆっくりと顔を挙げた道雪は、何時の間にか般若の面をつけていた。
「次の満月の晩、夜半過ぎから雨が降る。私の涙が数え切れない程の雨となり、数え切れない程の針となり、貴方の心臓に突き刺さるだろう!」
ゆっくりと立ち上がると道雪は舞った。ずぶ濡れになった衣装とは思えないほどに軽やかな動きで。だが、その舞は禍々しい殺気に満ちていた。唐突に空が暗転する。次の瞬間、雨が降り始めた。激しく轟く雷鳴。それでもなお道雪は舞を止めなかった。何かに憑かれたかの様に、ひたすらに舞い続けていた。唐突に雨は叩き付けるかのように様相を変貌させる。叩き付ける様な雨の中でも、それでもなお道雪は怯むことなく舞を振舞い続けていた。何かに突き動かされるかの様に、ただ一心に振舞い続ける舞。そこに篭められた確かな「想い」を、ひとつずつ織り込むかの様に。
「お、おい……何かおかしいぞ」
「ちょっと、やばいんじゃないの? あたしらも逃げようよ」
勝頼の仲間達が口々に恐怖を口にする。勝頼は蛇に睨まれた蛙の様に身動きが取れなくなっていた。
「お、おい……お前ら、俺を置いていくなよ……」
次の瞬間、空が光ったかと思ったのと同時に落雷が巻き起こった。地響きの様な轟音が響き渡る。皆一斉に逃げ出した。
「お、おい! お、俺を置いて行くなよ!」
目の前ではなおも、狂ったように舞い続ける道雪の姿だけが残されていた。
「う、うわあああっ!」
勝頼が悲鳴をあげながら逃げ去ってゆくのが見えた。
ふと振り返れば、なおも道雪は憎しみに満ちた舞を振るまっていた。だが、勝頼の姿がすっかり見えなくなると、静かに崩れ落ちた。
「どうして……どうしてこんなことになってしまったのだろうか? 私は夢を見てはならないのか? 貧しい者は……報われてはならないというのか? 裕福な者達の慰み者でなければならないのか? そんなの……そんなの間違えている!」
場面は変わり、道雪は工房へと向かい力無く歩んでいた。街はいつもと変わらぬ賑わいを見せていた。夜の街並みは酔客達であふれ返っていた。人々の笑い声がそこら中から聞こえてくる。提灯の赤い色が良く映えた街並み。ずぶ濡れになった道雪は、人目を避けるように裏道を歩んでいた。
(こんな惨めな姿を見られれば、皆に要らぬ心配を掛けてしまう。私の中だけで食い止めなくては……)
「あれ? 道雪さんじゃないか?」
不意に背後から声を掛けられて振り返れば、そこには田丸が佇んでいた。ずぶ濡れになった道雪を見て驚いたような顔をしていた。だが、不意に表情が険しくなる。蔑むような、見下す様な眼差しで道雪を見つめていた。
「あんた……大変なことをしてくれたねぇ」
「ど、どういうことですか?」
田丸の声に気付いたのか、酒場から人々が次々と顔を覗かせる。道雪の姿に気付くと、皆一斉に顔をしかめる。嫌な者を見てしまったような、嫌悪感に満ちた表情であった。一体何が起きたのか道雪には理解出来なかったことだろう。
(一体どうなっているというのか? まさか……勝頼が何か仕掛けたのか?)
「貧しい暮らしを送っているのはみんな、同じさ。だからと言って、人の道を踏み外すような真似をするとはねぇ……あんたのこと信じていただけに残念な気持ちだよ」
「な、何を仰っているのか、私にはさっぱり判らないのですが……」
動揺した表情を見せる道雪を見つめる人々が顔を寄せ合いながらヒソヒソと小声で話す。
何を言っているかは鮮明には聞こえないが、悪意に満ちた言葉が聞こえてくる。田丸は小さく溜め息をつくと、そっと道雪の肩を叩いた。
「街中で持ち切りになっているよ? 勝頼さん、あんたに乱暴されたそうじゃないか……しかも、金を巻き上げようとしただけでは無く、勝頼さんに……これ以上、言わせないでくれよ」
(違う! 私はそんなことはしていない! どうして……どうして、こんなにも酷い仕打ちを受けなければならない……私は何も悪いことをしていないというのに……)
「良い人だと思っていたのにねぇ。人は見掛けに寄らないものだねぇ」
「何でも毒を以って、体の自由を奪ってから強姦しようとしたらしいぜ?」
(わ、私が……勝頼殿を……強姦しようとしただと!?)
「いや、気持ち悪い。こっちを見ているわぁ」
「此処にはもう、住めねぇだろうな。お気の毒に……」
馬鹿な……あの男、何処まで腐っているのだろうか。ありもしない話を面白可笑しく吹聴して回ったのだろう。道雪が一体何をしたというのだ!? お前に何か危害を加えたか!? いや……違うのだろうな。あの男は勝手に道雪に恨みを抱いている。嫉妬……自らは何もしていないクセに、必死で自らの生きる場所を手にした道雪に一方的に嫉妬の念を抱き、そして陥れた。そんなに楽しいか? 一生懸命生きている奴を陥れることが、そんなにも楽しいのか!? もはや誤解であることを説明できたとしても、道雪の運命は暗く閉ざされた物になるだろう。何しろ、人は他人の不幸を何よりもの幸福と考える生き物だからだ。
俺と同じだ……道雪も俺と同じように、力ある者に陥れられたのだな。卑怯だ! 多くの人々を巻き込んで、徹底的に追い詰める。孤立無援の哀しみを、高い所から見下しながら嘲笑うのだろう? 俺には理解出来ない……そんなことに「幸せ」を感じる、勝頼! お前の価値観が!
「待ってくれ! 私の言い分も聞いてくれ! 私は……」
必死に自らの無罪を主張しようと立ち上がる道雪の姿に皆が振り返る。声を荒げる道雪にそっと歩み寄ると、田丸は哀しそうな眼差しで道雪の肩を叩いた。
「田丸さん……?」
「みんな判っているさ。あんたが、そんなことをするような人じゃあ無いってことは」
「じゃ、じゃあ、何故!?」
表情一つ変えることなく、田丸は驚くべき言葉を口にした。その言葉に俺は思わず耳を疑った。
「……良いかい? 物事を丸く収めるためには誰かが貧乏くじを引かねばならない。道雪さん、あんたは運が悪かったんだ。たまたま不幸にも貧乏くじを引く役目を背負っちまった」
「な……何を言っているのか、私には……」
「理由なんか、どうでも良いのさ。勝頼さんを敵に回しちまったら、うちらは生きていけねぇからな。悪いな……ま、あんた一人が我慢してくれれば、皆は今まで通りに平和に暮らせるのさ。そう……あんた一人が犠牲になってくれれば、それで良いんだ。黙って受け入れておくれ。運が悪かっただけなんだからさ」
信じられない言葉だった。道雪は何一つ悪くないというのに、全ての責任を無理矢理背負わされた。そこまでして勝頼に尽さなくてはならないのか? こいつらには人としての誇りも、信念も、何も無いと言うのか? 犠牲者を決めてしまえば話は早い。たった一人の犠牲者に全てを背負わせ、自分達は今までと変わらぬ平和を手にする。理解に苦しむ考えだった……。
皆、まるで何事も無かったかのように、その場を後にしようとしていた。異物は道雪ただ一人。その他大勢の者達には一切の罪は無いかの様な振る舞い。人の心に潜む深過ぎる冷たさを見届けた気がした。道雪だけがただ、取り残されていた。そこだけが時間が止まっているかの様に思える程に。
「フフ……フフフフ……そうか。そういうことか……そちらがそういう考えならば、こちらにも考えはある。みんな同罪だ……良く聞け! 次の満月の晩、夜半過ぎから雨が降る。私の涙が数え切れない程の雨となり、数え切れない程の針となり、貴方達の心臓に突き刺さるだろう!」
聞く者全てを震え上がらせる程の憎悪に満ちた声であった。小さく震えた声は、途方も無い哀しみに満ちていた。口元を大きく歪ませながら道雪は高らかに笑い声を放った。次々と人が顔を出す。一体何事かと驚き、顔を出す。
「あーっはっはっは! みんな、みんな! 殺してやる! 呪い殺してやる! 一人残らず!」
誰も言葉を発しなかった。変わりに誰かが石を投げた。
「!」
次々と皆が石を投げる。道雪は必死で身を守るが、人々の勢いは止まらない。
「気持ち悪いんだよ!」
「さっさと町から出て行け!」
「気が狂った奴は、さっさと出て行け!」
皆が石を投げ付ける。異様な光景であった……つい数時間前までは道雪を陰ながら応援していた人々が、道雪に向けて石を投げ付けている。出て行けと罵声を浴びせる。不意に大きな石が飛んできて、道雪の額に当たる。小さな悲鳴と共に、額から血が流れる。恐る恐る手を触れれば、赤々と流れ出す血であった。
「血……?」
湧き水の様に滲む血。やがて顔を幾つもの血が筋を為して流れてゆく。
「血が……流れているのか?」
ゆっくりと顔をあげる道雪。月明かりに照らし出された顔は、血に塗れていた。乱れた髪、濡れた衣。血塗れの顔。
「ひっ! お、鬼だ!」
「みんな、逃げろ!」
「鬼だ! 鬼が出たぞ! うわあああ、殺される!」
「鬼? 私が鬼? フフフフフ、これは面白いことを言う……私の言葉に耳を傾けることもせずに、一方的に私を悪者だと決め付けるお前達の方が、よほど鬼らしいでは無いか!? 良いだろう……能とは演じること。ならば、私は鬼を演じよう……修羅となりて、本当の意味での鬼と成り果てようでは無いか!」
道雪は傷付いた体を引き摺りながら、ゆっくりと歩き出した。向う先は貴船神社だろう。鞍馬から、そう遠い場所でも無い。
傷付いた体を引き摺りながらも、道雪は必死の想いで貴船神社の奥を目指していた。神社では無く、神社の先に広がる広大な森へと向っていた。深い哀しみと憎しみがヒシヒシと伝わって来る。理解も共感もするつもりは無かった……少なくても、道雪の受けた仕打ちを見届けるまでは。だが、俺の中で考えが変わっていた。あれ程の仕打ちを受けて、鬼になるなという方が無理があるだろう。いや、俺の中では勝頼や村人達こそ、本当の意味での鬼だと感じていた。
「もう、私は人として生きることは出来ないのだ……ならば、残りの命全てを賭してでも舞を振舞おう。奴らの望みどおり、私は鬼になり、ひとり残らず皆殺しにするべく呪いを撒き散らそう……」
道雪は静かに般若の面をつけると、ゆらゆらと舞い始めた。哀しみに満ちた舞だった……苦労して手にした技を、こんなことのために使わなければいけなくなってしまった悔しさ、信じていた人達に見捨てられた絶望、なによりも、このような状況に追い込んだ勝頼に対する憎しみ。あらゆる想いを織り交ぜて、紡ぎ出される舞は冷たい哀しみに満ちていた。
どれ程の時間、舞い続けただろうか。何時の間にか日が昇ろうとしていた。あれから僅かの休息も取ることなく、道雪は何かに憑かれたかの如く舞続けていた。次第に足元は覚束なくなり、疲労が困憊しているのであろうか、呼吸も乱れているように思えてならなかった。
(道雪は、このまま死ぬつもりだ……自らの命を以って呪いを完成させようとしているのだろう。執念と呼べば良いのだろうか? 凄まじい想いの強さだ……)
不思議な感覚であった。一体どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 昼と夜を何度か繰り返した筈なのに、さほど時間が経っていないような感覚を覚えていた。
最初に舞い始めてから三日と三晩……もはや限界に達していたのだろう。道雪は静かに崩れ落ちると、か細い声で何かを呟いていた。俺は近くに駆け寄り、その声に耳を傾けた。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ……」
微かに聞こえてきた声。それは、とおりゃんせを口ずさむ歌声であった。俺はそっと道雪の能面を外してやった。白く透き通った肌を一粒の涙が伝って落ちた。地面に落ちると涙は静かに吸い込まれていった。微かに差し出された手が、力無く崩れ落ちた。
「道雪……逝ってしまったか……」
ふと空を見上げれば静かに雨が降り始めた。音も無く木々の隙間を縫う様に針のような雨が降り始めた。
「雨……降り始めたか。道雪、お前の放った呪いが成就しようとしているのか?」
力尽き、倒れた道雪を弔う者は誰もいないのだろう。此処、貴船神社の奥に広がる森では、人も立ち入らないだろう。元よりこうなることを望んでいたのだろうから、願いは叶った訳だ。後は……あの腐れ外道共の最期を見届けてやるだけか。
再び場面が変わる。道雪の死から数日経ったある日のこと……道雪の、いや、憎悪の能面師の言葉通りの満月の晩となった。雲ひとつ無い空模様。広大な庭園に面した部屋に俺は佇んでいた。目の前には酷くやつれた勝頼の姿があった。あの時の言葉を恐れているのだろう。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ! 俺は死にたくない……死にたくない! 正勝も、三成も、お雪も、みんな死んじまった……今度は俺の番だ! ああ……頼む、道雪、どうか……どうか俺を許してくれ!」
不意に空が唸りをあげる。ふと振り返れば何時の間にか、夜空の満月を覆い隠すかの様に厚い雲が膨れ上がっていた。ポツリ、ポツリ。庭に降り注ぐ雨粒の音が聞こえてくる。
「ひ、ひぃっ! あ、雨! あ、ああ……もうお終いだ!」
雨足は一気に強まり叩き付ける様な雨に変わっていた。ゆらゆらと何かが揺らめく姿が見えていた。良く目を凝らして見れば、それは憎悪の能面師の姿であった。漆黒の衣に身を包み力強く舞っていた。ふと顔を挙げた瞬間に駆け抜ける稲光が照らし出す。
「う、うわああっ! は、般若の面! 道雪、俺が悪かった! 本当に悪かった! だから、だから、どうか命だけは! 命だけは……あぐっ!?」
不意に聞こえる勝頼の悲鳴。だが、唐突に混じる妙な声が気になった。俺は慌てて勝頼に駆け寄った。勝頼は左胸を必死で抑え、その額には玉の様な汗が滲んでいた。
「はぁっ、はぁっ……い、痛てぇ……な、何なんだよ!?」
慌てて服を脱ぎ捨て自らの体に起きた異変を確認するが、何の異変も見られなかった。
「ああっ! うぐっ! ぐっ!」
勝頼は次々と苦しそうな声を発していた。やがてゆっくりと、口元から黒い血が流れ出す。そっと手を口に宛てれば、べったりと張り付く黒い血。
「な、何だよ、これ!? うっ! い、痛てぇ! 痛てぇよ! 誰か! 誰か!」
勝頼の悲鳴に応える者は誰もいなかった。俺には見えてしまった……廊下に倒れる人々の姿が。恐らく、既に皆、生きてはいないのだろう。つまり勝頼を救い出せる者は誰一人いない。この広い屋敷の中で、いくら悲鳴を挙げても誰も気付かないだろう。憎悪の能面師はなおも狂ったように舞を振舞い続けていた。雨足は強まる一方であった。雨足が強まるにつれて、勝頼が悲鳴を挙げる感覚も短くなってきた……段々と声は小さくなってゆく。もう、助からないだろう。程なくして勝頼は、静かに崩れ落ちた。その口からは、それまでよりも遥かに大量の血が流れ出た。墨の様に真っ黒な血であった。
「……お前の様な腐れ外道の血は、赤くないんだな」
ふと庭先を見れば、既に憎悪の能面師の姿は消え失せていた。ゆっくりと雨も止めば、再び雲間から満月がその姿を覗かせていた。柔らかな月明かりに辺りが照らし出される。柔らかな月明かりは、無様に事切れた勝頼の姿をも照らし出していた。
再び場面が元の場所に戻る。涼やかな木々の香りと、水気を孕んだ苔の香り。土と石の香りに、胸につかえていた不快な澱みが消え失せてゆく感覚を覚えていた。
「見届けたか? お主が見た情景こそが、事の真相ぞ」
「……後味の悪い情景であった。これが奴の真実という訳か」
憎悪の能面師は情鬼の中でもかなり力の強い部類に入るだろう、とクロが補足した。そうあって欲しいものだ。あんな恐ろしい奴が跳梁跋扈しているとは考えたくも無かった。
「憎悪の能面師が放った呪いは強大なものであった。呪うという感情だけが一人歩きしてしまったのだ……情鬼となってな? その結果、貴船から鞍馬一帯の人々が次々と死滅することになってしまった。表向きは『疫病の流行』とされているが実際はそうでは無い」
人の想いという物は時として凄まじい力を発揮するに至るということを知った。たった一人の想いが、数え切れない程の人の命を奪い去った。恐ろしいことだが、それもまた曲げようの無い真実ということになる。憎悪の能面師の深淵なる哀しみの想いは直視するには辛過ぎるものであった。だが退く訳にはいかない。情鬼とは言え、その命を刈り取ったのは事実なのだ。誰かの命を刈り取るということ……それは言い換えれば、その者の命を背負わなければならない。それだけの覚悟が無いならば、俺にはクロと共に戦うだけの資格は無いと思った。
大丈夫だ。心の準備は出来ている。もう、何を見ても畏れないし逃げもしない。憎悪の能面師、お前の想い……俺が背負い生きてゆく。それがお前に対する精一杯のはなむけだ。
「ふむ。もう一つの種明かしもしようぞ」
「もう一つ?」
「うむ。あの童謡に篭められた想いよの」
とおりゃんせ……一連の出来事の中で何度も登場した童謡。確かに、この童謡の謎も何一つ解けてはいない。四条に戻るぞ。クロの言葉に従い俺は再びクロに背にまたがり夜空に舞い上がった。
祇園に舞い降りた俺達は先斗町通を歩んでいた。人通りの絶えない賑やかな夜の街。クロは周囲の様子に興味を抱いている様子だった。
「ふむ。賑やかな街並みよの。華やかなる夜の街といったところであろうか?」
「ああ。この界隈には飲み屋も多いが、同時に小料理屋も多い。この季節は鴨川に向かい川床も設置される」
クロは人の文化に随分と深い興味関心を抱いている様子だ。好奇心旺盛で、見知らぬ物を指差しては、あれは何だ? これは何だ? 熱心に質問を投げ掛けていた。
「人の世とは中々に楽しい場所よの。さて……本題に入るとするか」
「ああ、そうだったな」
「あの唄の一節にあるくだり……恐らくその部分に意味があるのでは無いかと我は考える」
あくまでも憶測ではあるがと前置きしてから、クロは自らの見解を述べ始めた。行き交う人々の流れに混ざり俺達もゆるりと歩いていた。
「丑の刻参りとは、これ即ち他者を呪い殺すための呪術の手段。憎悪の能面師も、錦おばさんも、自らの行いが正しくないことなど重々承知しておったのであろう。だからこそ……行きはよいよい、帰りは怖いと続くのであろう」
クロは含み笑いを浮かべながら俺をちらりと見た。なるほど。「お前はどう捉えるか?」そういうことだな。「行きはよいよい、帰りは怖い」。実に意味深なフレーズだ。ただでは帰っては来られない。そういう意図が篭められているのだろう。だからこそ唄はこう続くのだろう。「怖いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせ」と。
「因果なものだな……錦おばさんも、憎悪の能面師もこの唄を口にしていた。時代を超えて二人の思惑は何処かで重なり合っていたのかも知れない」
俺の見解に興味を示したのか、クロは腕組みしながら聞き入っている。
「ほう? 中々に興味深い解釈であるな。続きを聞かせてはくれぬか?」
「ああ、もちろんだ」
恐らくは二人の思惑は何処かで重なり合っていたのだろう。行きはよいよい……丑の刻参りに至る前、つまりは呪いに手を染める前の自分は少なくても人であった。だが、丑の刻参りを行った後の自分。人を憎み、恨み、その想いを呪いに託す……もはや、この時点で人が人であることを棄てていると解釈できる。だからこそ畏れていたのかも知れない。情鬼に成り果ててしまうことを。それでもなお、心を抑え切れなかったからこそ、何度も何度も繰り返し通い詰めてしまった。だから……怖いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせと続く。
「……俺には、こういう風に解釈出来た」
クロは腕組みしながら静かに俺の仮説に耳を傾けていた。聞き終えたクロは静かに唸っていた。
「ふむ……なるほど。人ならではの解釈ということか。フフ、中々に興味深い。我も学ぶ所があった。しかし……因果な出来事であったの。憎悪の能面師もまた道を踏み外してしまったのであろう。色恋沙汰は人を盲目にすると聞く。時にあらぬ道へと人を誘う想い……抜け出せぬ迷い道に入り込んでしまったのが運の尽きであったろう」
人の心さえも見抜ける鋭い鑑識眼を持つ身。クロはもしかすると、俺の過去の真実も全て知っているのでは無いだろうか? あの時……鞍馬で出会った、思い出せない少年とは……クロ自身では無かったのだろうか? 問い掛けたい思いはあったが「鶴の恩返し」を思い出していた。
(そうだったな……要らぬ詮索は人を不幸へと誘う。道を踏み外しあらぬ場所へと転落するのは避けたい。要らぬ詮索は止めておくとしよう……)
「ふむ。だが、憶測は憶測よの。人の心は実に複雑怪奇な玉手箱よ。我らが幾ら知恵を巡らせたとしても、それは真実とは程遠いものかも知れぬ」
そうかも知れない。俺達には憎悪の能面師の心も、錦おばさんの心も、本当の意味では見透かせやしないのだから。所詮、憶測は憶測に過ぎないということだ。
徒然に歩いているうちに何時の間にか先斗町通を抜けていた。俺達はそのまま涼を求めて鴨川へと降りていった。どうやら人混みが苦手というのは、俺もクロも一緒らしい。やはり俺達は良く似ているのかも知れない。
「コタよ、疲れたであろう?」
にやにや笑いながらクロが語り掛ける。
「ああ。あまりにも非日常過ぎて、身がもたなそうだ」
「フフ、そうであろうな。だが……我らの戦いはまだ始まったばかりぞ。長く、険しい道になるやも知れぬ。だが、どうか我と共に歩んで欲しい」
そう言いながら、大きな手を差し出した。
「まだ共に歩んだ時間は短いかも知れないが、乗り掛かった船だ。最後までお供させて貰おう」
俺はその手をしっかりと握り締めた。
月明かりが綺麗な夜だった。雲ひとつ無い透き通るような夜空。もう梅雨は明けたのだろう。渋っていた気象庁も、ようやく見切りを付けたのか、翌日には梅雨明け宣言が出された。夏の始まりだ。これから、どんどん暑くなってゆくのだろう。
今になって思う。憎悪の能面師となってしまった道雪は、同じ境遇に陥っていた俺を救いたかったのだろう、と。都合の良い解釈なのかも知れない……それでも、独りぼっちになることの哀しみは俺自身も良く心得ている。いびつな感情なのかも知れないが、俺に理解して欲しかったのでは無いだろうか? 同じ痛みを知っている俺に、自らの行いが間違いでは無かったと、嘘でも良いから言って欲しかったのかも知れない。
「憎悪の能面師……人の想いというのは実に難しい。正しく生きている奴が、ある日突然陥れられる。昨日の味方が今日の敵になることもある……」
判っていたのだろう? 仮に俺がお前と共に歩んでいたとしても、お前は救われなかっただろう。ただ無碍に、さらなる深みに嵌ってしまっただけだろう。
「釈然としない最期だったな……人として破綻していた勝頼。そんな勝頼に恋心を抱いてしまった道雪。『生きる』ということは深い哀しみに満ちた道を、ただ無常に歩き続けるということなのだろうな」
それにしても不思議な体験をした……あの青白い光は例えるならば、ほたるの灯火の様な物だった。ほたるという生き物と一緒だ。夜半の景色の中に、儚く光り、すぐに散ってゆくだけの存在。ほたるか……切ない生き物だ。だからこそ好きになれたのかも知れない。幼虫の時は他の生き物を食らう捕食者としての生き方をするが、成虫になれば水以外は口にしない。幼虫の時に蓄えた命だけで生き永らえる。皮肉な物だ。水しか口にしない……それは「死に水」を意図しているのかも知れないな。儚い命、儚い物語だ。
人はいつか必ず死ぬ……その時が早いか、遅いか、それだけの違いしか無いんだ。もしも……もしも、皆を失ってしまったとしたら……その時、俺は……果たして、俺のままで居られるだろうか? それとも儚い命を、あの青白いほたるの灯火の様に燃やして、すぐに冷たく乾いた存在に成り果ててしまうのだろうか? 『生きる』とは出会いと別れの連続なのだな。でも、やはり別れは……哀しいな。
ああ、何だか眠くなってきた……なぁ、憎悪の能面師。いや、道雪よ。生まれ変われたら、お前の舞を教えてくれないか? 悲哀に満ちたお前の舞……俺の心の中で何時までも大切に仕舞って置くとしよう。再び出会えるその日を楽しみに待っている。その時まで、しばしの別れだ……。
翌日は朝から澄み渡る晴天であった。朝から暑い一日であった。ここ数日非現実の世界を体験し過ぎたせいか、まともな日々のありがたみを改めて実感していた。変わらぬ日常というものが如何に大切なものであるかを感じていた。
早くも蝉が鳴き始めている。七条交差点を曲がり学校へと続く緩やかな坂道を駆け上がる。辺り一面から蝉の鳴き声が響き渡る。坂の途中にある喫茶店の軒先に飾られた風鈴。少々不釣合いな見た目ではあるが、そこはご愛嬌。風が吹けば涼やかな音色で涼やかな気分にしてくれる。店先に置かれた朝顔の鉢植えも風情があって悪くない。鮮やかな紅や紫、紺の花は目にも涼やかであった。
校門を潜り抜け校庭を駆け抜ける。下駄箱で靴を履き替えて教室へと駆け上がる。予想通り、皆既に登校していた。
「ああ、コタ。おはよう」
何時もと変わらぬ輝の笑顔。それに続くように力丸が、大地が、太助が声を掛けてくれる。皆、変わり無さそうで一安心だ。大袈裟な気もするが、妙な出来事の後だからこそ気になってしまうものだ。
「何かさ、今日は暑いよねぇ」
輝が切り出せば、嬉しそうに笑いながら力丸が相乗りしてくる。
「暑過ぎだよな。ウチの近所の上賀茂神社からさ、朝早くから蝉の声が大音量で聞こえてくるんだぜ? もう、その声聞いているだけで暑くて、暑くてよ」
「ふむ。それで今朝も汁だくというワケじゃな?」
お馴染みの嵐山旅館団扇を力丸にお裾分けしながら、大地が笑う。
そうこう話し込んでいるうちに教室の扉が開く。今朝は桃山では無く山科がホームルームに現れた。無事に退院出来たのであろう。
「はーい、皆さん着席してください。ホームルームを始めます」
何時もと変わらぬ一日が始まった。山科の怪我も完治し無事に復帰できた。ようやく平和が戻ったのだろう。いや……水を差すつもりは無いが、一時的な平和なのであろう。クロが言っていた言葉を思い出す。人の心から情鬼は誕生する。怒りや哀しみ、憎しみや迷い。負の感情が消え失せることなど在り得ない話なのだ。情鬼は幾らでも誕生するはずだ。それに……憎悪の能面師が口にしていた「あのお方」と呼ばれる黒幕の存在も明らかになっていない。あの青白いほたるや、青い僧衣に身を包んだ謎の人物の素性も明らかにはなっていない。本格的な戦いはこれからになるだろう。
もう一つ、クロの言っていた話が気になっていた。
情鬼と大自然との間には大きな関わりがあるという話。昔と比べて、今の街は随分と栄えている。便利にもなった。多くの天狗達が言う通り、俺達は大自然の墓標の上に暮らしている。大自然は癒しの力を持っている。即ち、木々や草花の存在は、人だけでは無く情鬼達も癒してくれる存在である。現代社会は古き時代の社会と比べて圧倒的に大自然が減少している。だからこそ、情鬼達を静めるための力も弱まり、情鬼達が生まれやすい状況に陥っていると聞かされた。このことも念頭に置きながら今後のことを検討していかねばならないということだろう。
「ふむ、小太郎君。環境問題について熱く検討するのは良いことですが、私の話にも耳を傾けて頂きたいものですがねぇ?」
「へ?……あ、アレ?」
相変わらず、何時ものアレをやってしまったらしい。傍らでは輝達がにやにや笑っている。
「あ、ああ。済まなかった」
変わることの無い平和な一日であった。皆も平和をかみ締めている様に見えた……。
そして迎えた放課後。実に平和な一日であった。梅雨明け宣言の通りに空は晴れ渡っていた。夕方から夕立の可能性があると、天気予報が言っていたのを思い出していた。確かに、大きく膨れ上がった黒い雲がせり出してきているのも事実。雨が降り出す前に帰るのが懸命であろう。
「ね。ね。みんな、ちょっと良いかな?」
輝の軽やかな声に皆が一斉に立ち止まる。ついでに戦々恐々とした表情で振り返る。中々の警戒態勢だ。今回の一件で危機意識は相当高まったことであろう。皆の険しい表情に、大いに怯みながらも輝は笑顔を絶やさない。
「え、えっと……今日すごく暑いじゃない? 何か冷たい物でも食べたいなぁと思ってね」
再び皆が顔を見合わせる。
「冷たくなるような体験をしたいという訳では無さそうじゃな」
「いや、必ずしもそうとは限らないぞ? 以前も、似たようなフリ方で嵌められた記憶がある」
「でもよ、今回は妙な捻りは無いと思うぜ? あんな体験したばかりだしな」
(おーおー、皆疑り深いな。さて、輝はどう切り返すのか?)
皆一様に目を細めながら輝を見つめている。無言の圧力にたじろぎながらも、輝は精一杯の笑顔で無実を主張する。
「か、鍵善良房のくずきり食べたいなーって思っただけなんだけど」
意外にも普通な発言に皆一様に、安堵の吐息と共に賛同の意を示した。オカルトの次は甘味という訳か。平和な方向に興味が向けられるのであれば、それに越したことは無い。俺達は四条通の鍵善良房を目指して歩き始めた。
夕方ということもあって車の通りは多い。皆で他愛も無い話をしながらだと、移動時間もさほど気にはならないものだ。やがて祇園さん前の大きな交差点に出る。鍵善良房も此処まで来れば目と鼻の先だ。だが、異変は信号で起こった。赤信号から青信号へと変わる。そして……。
信号機から響き渡る音楽に俺達は凍り付きそうになった。流れてきた音色は忌まわしい音色であった。機械音ではあったが聞き間違うことは無い……「とおりゃんせ」であった。
「誰か……ボタン押したか?」
珍しく動揺した口調で太助が皆に問い掛ければ
「い、いや。誰も押してねぇよ。そ、それによ……」
力丸が青ざめた表情で皆を見回す。それを受けた大地が震えた声で
「この信号、とおりゃんせは流れなかったような気がするのじゃが?」
輝は言葉を失っていた。俺達も、ただただ硬直していた。やがて信号が点滅して赤になる。
どうやら、まだ俺達は解放された訳では無いのかも知れない。日常の中に潜む、非日常はすぐ後ろに立っているのかも知れない。