ほたるの灯火
京都駅に着いた俺達はそのまま駅前のバスターミナルを目指した。バスターミナルは相変わらず人が多く、各方面へと向うバスも目まぐるしく出入りを繰り返していた。
ふと顔を見上げれば、ガラス張りの駅ビルに映る空模様は不気味な色合いを称えていた。ゆらゆらとうごめく様に、命の躍動を感じずには居られなかった。夕立前に見せる大きく膨れ上がった灰色の入道雲とは、何かが違うような危機感を覚える光景であった。酷く嫌な雰囲気が漂っていた。そっと空を見上げればぽつりと雨粒が一粒、頬に零れ落ちる。
「一雨来そうだな。急いだ方が懸命だ。小太郎、行くぞ」
空を見上げながら太助が呟く。
「あ、ああ。そうだな……」
俺はどこか他人事の様な口調で返答していた。
「……悪い。皆、先に行ってくれるか?」
心此処に在らずといった風に見えたのだろうか? 皆に先にバス停に向かうように告げると、太助が足を止める。何時もと変わらぬ涼やかな眼差しで俺を見つめていた。
「不安か?」
心の奥底まで見透かしそうな眼差しで、太助は静かな笑みを称えていた。鋭い眼差しだった。俺の挙動の全てを捕らえるかの様な眼差しだった。
「不安じゃない……といえば嘘になるな」
これ以上心の中を見透かされる前に、俺は返した。
「そうか。俺も不安だ」
俺の真似をしているつもりなのか、空を見上げながら太助が呟く。意外な言葉だ。怖いものなど、何一つ無いと思っていた太助が不安を口にしている。空を見上げながらも、横目で俺を窺いながらも、太助は静かな含み笑いを浮かべていた。微かに呼吸をしながら続けて見せる。
「信じられないような出来事ばかりが起こっている。一体、何が起きているのか気になって仕方が無い。当事者の首根っこ捕まえて、真相を吐くまで尋問してやりたい心境だ」
相変わらず物騒な発言を好む奴だ。しかも、その言葉には妙な真実味があるから始末に終えない。
「尋問ね……お前の場合、武力行使という名の脅迫だろう?」
「フフ、そうかも知れんな」
不安を口にしながらも、やはり太助は真っ直ぐに現実と向き合っている。何かある度にすぐに揺れ動く俺とは大違いだ。その威風堂々とした在り方に俺は何時だって憧れを抱いていた。身近に憧れる存在がいる。判り合える友として傍にいてくれる。本当に光栄なことだ。
「なぁ、小太郎……俺達は何時だってお前の傍にいる。それに――あの時、お前は俺に言ってくれただろう? 『お前は一人じゃない』……フフ、あの時のお前の言葉、今でも覚えているぞ」
「なっ!?」
耳が熱くなる感覚を覚えた。わざわざ小恥ずかしい思い出話を穿り返さなくても良いでは無いか?
蘇る太助との過去の思い出……。降り頻る雨の中、太助と殴り合い寸前の状態での言い争いをした記憶だった。喧嘩では無かった。ただ――互いの想いをぶつけ合い、互いの腹の内を見せ合いたかった。不器用な二人には、それしか術は無かったのだから……。
遠い目で動揺する俺を見つめながら、太助は何時もと変わらぬ涼やかな笑みを浮かべていた。
「急ぐぞ、小太郎。あいつらに置いていかれるぞ」
「足止めしたのはお前だ」
「そうだったか? どっちでも良いでは無いか」
「良くない」
不意にバスが停車する音が聞こえた。振り返ればバス停には何時の間にかバスが到着していた。丁度、輝達が停車したバスに乗り込む姿も見えた。茶化すような笑みを浮かべながら俺に向かい手まで振って見せていた。
「急ぐぞ、小太郎。バスに置いて行かれては困るからな」
「足止めしたのはお前だ」
「そうだったか? どっちでも良いでは無いか」
「良くない」
「フフ」
「わ、笑うな」
おかしなやり取りをしながらも、皆に続き俺達も急ぎバスに乗り込む。目的地は京都市立病院。桃山に聞いた話によると、その病院に山科は入院しているらしい。
ふと窓の外に目をやれば、京都駅のガラス張りの駅舎には暗く、厚い雲が反射して見えた。見る者全てを不安に陥れるような雲であった。これから起こる何かを示唆するかの様な暗く、厚い雲であった。
嫌な予感はというものは的中するものだ。俺達が乗り込むのと同時に雨が降り始めた。最初は、窓にポツポツ当たるだけだったが、すぐに勢いを増し、叩き付ける様な勢いで降り始めた。轟く雷鳴。駆け抜ける稲光に、鞍馬での記憶が蘇る。
「おーおー、派手に降って来たのじゃ」
京都駅前を発車したバスは烏丸通りを北上してゆく。雨足は強まる一方である。どこかで雷が落ちたのか、一瞬、目の前が真っ白になる程の稲光が見えた。続いて、爆音の様な凄まじい落雷の音が響き渡る。凄まじい轟音に力丸が腰を抜かしそうになるのが見えた。
「うぉっ!? ま、マジか……こ、腰が抜けるかと思ったぜ……おいおい、今のヤバくねーか?」
力丸の声に呼応するかの様に、大地が慌てた様子で振り返る。窓に顔をつけたまま、大地が震えた声で言葉に出来ない不安を口にする。
「間違いなく何処かに落雷したのじゃ! ビックリなのじゃ!」
窓の外は既に土砂降りになっていた。往来する車が大きく水溜りを撒き挙げる。
「それにしても、この天気……鞍馬の悪夢再びじゃの」
確かに大地の言う通りだ。この空模様は鞍馬で起こった悪夢を思い起こさせるには十分な光景であった。嫌な予感ばかりが膨れ上がってゆく感覚を覚えた。
「ううっ……雷は苦手なのに……」
雷が苦手な輝は頭を抱えて震えていた。まるで子供の様な怯え方だ。だが、誰にでも苦手な物の一つ位はあるものであろう。だが、輝の気持ちも判らなくは無い。鈍色の空を駆け巡る稲光に、凄まじい雷鳴の轟音を響かせられれば誰でも不安を駆り立てられる。ましてや鞍馬の悪夢を思い出すような天候ならば尚のことだ。
それにしても異様な悪天候だ。大地の言葉では無いが鞍馬での出来事を思い出さずに居られない。この世にあって、この世ならざる何かを肌で感じる空間であった。何に対して異変を感じているのだろうか? 考えながら周囲を注意深く見渡してみた。街中を駆け抜けるバス。何時もと変わることの無い、見覚えのある地元の光景であった。観光客もいれば地元の人々もいる。変わることの無い情景の中、一体何が可笑しいのだろうか? 周囲に漂う気配に意識を集中させた時、ようやく異変に気付かされた。肌を刺すような異様なまでに鋭い冷気に包まれていることに。やはりこのバスは何かがおかしい。いくら暑いからといって、こんなにもバスの空調が強くなるとは考え難い。体の芯まで冷え込むような妙な肌寒さ。異変を感じていたのは俺だけでは無かった。皆一様に小さく震えている。まるで極寒の気候だ。雪でも降りそうな冬の日の情景が思い浮かぶ程に。
「な、何かさ、随分と空調きつくね? すげー寒いんだけどさ……」
「か、環境に優しくないバスなのじゃ……くしゅんっ!」
力丸が、大地が肌を刺す様な冷たさに身震いしているのが見えた。この寒さは普通では無い。周囲から漂ってくる異様な気配に警戒していると、不意に太助が小声で耳打ちする。
「小太郎、耳だけ傾けろ……バスの最後尾席に錦おばさんが座っている」
「何だって!?」
そっと横目で確かめれば、確かに錦おばさんの姿が目に入った。錦おばさんが一連の事件に関わっているのは事実……そして、俺達と同じバスに乗っている。とても偶然とは思えなかった。やはり俺の予想通りに姿を現した。となれば間違いなく目的地は俺達と同じはずだ。警戒を怠る訳にはいかなかった。何かの間違いで錦おばさんが山科に危害を加えてしまったら、罪を償うのは錦おばさんになってしまう。情鬼に操られていた……そんな話を信じる者など居る訳が無いのだから。敵の動向に注意を払いつつ、同時に錦おばさんの動向にも注意を払う必要がある。俺の中でさらに緊張感が高まるのを感じていた。
バスは何事も無かったかのように烏丸七条の交差点を曲がる。後は病院までは一直線だ。
時折人の乗り降りがある様子だが、やはり錦おばさんが降りる気配は無い。それにしても、錦おばさんの表情は随分とやつれているように見える。何処か憔悴仕切っているようにも見えた。
不意に太助が再び耳打ちする。
「あからさまに見るな。気付かれるぞ」
「あ、ああ、すまん」
「謝るな」
「あ、ああ、ごめん……んん?」
「……フフ」
「わ、笑うなっ!」
雨はなおも降り続けている。バスに乗り込んでくる乗客達も見事にずぶ濡れだ。
異様な冷気に包まれたまま、バスは京都リサーチパーク前を発車した。次は京都市立病院のはずだ……だが、バスの外を流れる景色を何気なく眺めていた俺は、自分の目を疑った。バスは何事も無かったかのように、烏丸七条の交差点を曲がったのだ。
思わず振り返り、通り過ぎてきた道を振り返らずには居られなかった。そんな馬鹿なことがある筈が無いのだ。
(どういうことだ!? 何故、再び烏丸七条の交差点を曲がる!? では、一体俺達はどこを走ってきたのか!?)
訳が判らなくなっていた。見間違うはずが無い。此処は見知らぬ場所では無く、あくまでも良く見知った地元の光景であったのだから。この異変には皆も気付いた様子だった。動揺した様子で大地が慌てて振り返った。
「こ、コタよ。可笑しなことを聞くのじゃが……」
「ああ、言わなくても判っている。だから、落ち着いてくれ」
力丸ももまた「マジかよ!?」と小声で呟きながら、動揺した様子で外を見回していた。
だが、異変はこれだけでは終わらなかった。異様な冷気は消える様子は無く、何時の間にか青白いほたるが周囲を舞い始めていた。
「一体どうなっているんだよ。意味不明だぜ……」
どうやら皆には周囲のほたるは見えない様子であった。だが、ほたるの数を増すばかりであった。青白い光がバスの中に立ち込める。次第に立ち込める青白い光は強さを増し、バスの中は何時しか月明かりの様な青い光に包み込まれていた。俺は異様な殺気を、何者かの突き刺さるような殺気をヒシヒシと感じていた。
(厄介な状況だな。このまま俺達を封じるつもりか? 冗談では無い)
ふと、小太刀から授かった符の存在を思い出した。俺はカバンの中に忍ばせた符を、そっと一枚、取り出した。
「熱いっ!」
一瞬、掌に迸る火傷のような熱さを感じた。その瞬間、脳裏に小太刀の姿が浮かんだ。小太刀とその後ろに佇む数え切れない程の天狗達。激しく燃え盛る護摩壇を囲みながら皆が一斉に真言を唱える映像が見えた気がした。そこは深い木々に囲まれた場所であった。
『オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク、オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……』
鞍馬山に染み渡る真言の響き。遥か遠い地より小太刀らが唱える真言の音色が響き渡る。
小太刀らが奏でる真言がバスの中に染み渡ってゆく。それに伴い、ゆっくりと異様な空気が解けてゆく感覚を覚えていた。気が付くとほたるの姿も完全に消え失せていた。
(小太刀が鞍馬から俺達を助けてくれたのか?)
窓に叩き付ける雨の音。耳に入る音色に興味惹かれ、俺は何気なく窓の外に目線を送った。バスは丁度京都リサーチパーク前を発車するところであった。
「次は京都市立病院。終点です……」
案内の空虚な音声が告げる声が聞こえるのと、降車ボタンが押されるのとはほぼ同時だった。京都市立病院は終点なのだから降車ボタンを押さなくても確実に降りられるはずだ。それなのに敢えて押した誰かが居る。
俺は錦おばさんの動向に目をやった。間違いなく錦おばさんが押したのだろう。俺達の誰もが押していないし、他の乗客が押したとは考えにくい。それにしてもやはり奇異だ。人がそれなりに乗っているとは言え俺達に気付かないのだろうか? 錦おばさんはの目線は、ただ前だけを凝視していた。まるで顔を固定されているかの如く一点だけをじっと凝視し続けていた。瞬きさえしない表情は酷く気味悪く思えた。
やがてバスは病院内へと到達する。俺達は荷物を確認しながら他の人の流れに混じって降りた。どうやら皆も錦おばさんの存在には気付いた様子だが、そのあまりにも異様な雰囲気に戸惑っていた。
間違いなく異変は続いている。小太刀の言っていた憎悪の能面師とやらの仕業なのだろう。山科に会われては都合が悪いのであろうか? 一体奴が何を企んでいるのか皆目検討が尽かなかった。いずれにしても皆も異変を体験してしまった。動揺した素振りは見せなかったが警戒するに越したことは無い。遠隔地から助力してくれたとは言え、小太刀は此処に居ない。もしも鞍馬の時のように、大勢の敵に一斉に襲い掛かられたら太刀打ち出来ないだろう。
皆周囲に警戒を払いながらバスを降りる。雨は既に上がった様子だが、どうにも重たい空気が立ち込めていた。京都市立病院に到着した俺達は、そのまま受付を目指した。受付で山科のいる病室を確認し階段を登っているところであった。階段を歩きながら、ふと受付でのやり取りを思い出していた。何しろ……。
『ああ、あの山科さんですね?』
確かに「あの」と言ったのを聞いた。「あの」山科、と。
(……受付のお姉さん、失笑していたぞ? あの男……既に有名人になっているのか? 今度は一体、何をやらかしたのか?)
窓から見える外の景色は相変わらず大荒れの空模様であった。土砂降りの雨に激しい雷鳴。加えて駆け抜ける稲光。嫌な予感しかしなかった。だが、幸いにして病院の中は特に変わった様子は無さそうだ。少々拍子抜けしながらも階段を登ってゆく。山科が入院している部屋は六階なので、それなりに高さもある。当然、階段もそれだけ登る必要がある。エレベーターもあるのだが、図体のでかい男達五人でエレベーターを使うのも迷惑かと思ったので自粛した。
(まさかこの病院だったとはな……此処を訪れるのも久しぶりのことだな)
ちらりと横に目をやれば輝と目が合った。
「な、なに……?」
「あ、いや。何でもない……」
俺と目が合うと、輝は慌てて目を逸らした。
(やはり、あの時のことが気になっている様子だな。心配するな。皆には話さないさ……。これは、俺とお前との間の最高機密だからな……)
親しき友達とは言え、知らぬ方が良いことなど幾らでもある。鶴の恩返しの物語と一緒だ。知らない方が良いこと等この世の中には幾らでもある。
見覚えのある光景が気になるのか、輝は何時も以上に落ち着かない様子であった。そんな振る舞いをすれば余計に皆の興味を掻きたてる。予想通り、にやにや笑いながら大地が歩み寄る。ピッタリとくっ付かれ輝はますます動揺しているように見えた。
「むう……テルテルよ、さてはアレじゃな?」
にやにや笑いながらつつく大地に、輝は動揺した様子で問い掛ける。妙にぎこちない作り笑いに不安を駆り立てられる。俺が不安を覚えても何にもならないのは判っていたが……。
「あ、アレって……な、なにかな?」
緊張した面持ちで返す輝とは裏腹に、大地は可笑しそうにニヤニヤ笑い返すばかりであった。
「フフフ、とぼけても駄目なのじゃ」
なおも大地は不敵にニヤニヤ笑いながら続ける。
「ずばり! トイレに行きたいのじゃな! 判るのじゃ。バスの中は冷え冷えで、ワシもトイレに行きたくてのぅ」
「あ、あはは……そ、そうだねぇ」
意表を突いた返答を受け、輝は困った笑顔を浮かべていた。唐突に緊張の糸が切れた俺も、危うく階段を踏み外すところであった。危ない危ない……。
「おいおい。コタ、大丈夫かよ? 病院で怪我しちまったなんて、シャレになんねーぜ?」
「あ、ああ。ちょっと足を取られただけだ……」
やがて俺達は六階に到着する。車椅子をゆっくりと押す看護師とすれ違った。にこやかな笑顔で軽く会釈をされた。やはり病院だからか人はそれなりに居る。洗面所で花瓶を洗い、新しい花を生けている女性の姿もあった。松葉杖を駆使しながら、額に汗しながら歩行訓練に励む少年の姿もあった。恐らくこの場所には人の数だけの物語があるのだろう。そう考えると、病院という場所は実に赴き深い場所だと思った。
俺達は部屋番号を確認しながら山科を探していた。病院内は広く、中々目的の部屋を見付けることが出来なかった。慣れない病院の中をぶらぶら歩みながら、ようやく山科の病室を発見することができた。
「おーっと、発見。この病室みたいだよ?」
「ああ、そうだな。確かに山科と書かれているな」
そっと病室に顔を突っ込めば山科の姿が見えた。少々小太りの体型に丸い眼鏡。坊主頭。相変わらず冴えない顔をしている。狐みたいに細い目。その細い目で捉えながら、丸っこい手でせっせとりんごの皮を剥いている。相変わらずツッコミ所が満載過ぎて途方も無く声を掛け辛い……。
そんな俺達に気付いたのか、りんごを剥く手を止めると山科は子供のような笑みを浮かべた。
「おやおや。これは、これは……皆でお見舞いに来てくれたのですね」
どうやら予想していたよりも元気そうで一安心した。
錦おばさんとの過去のいさかい……目を背けたくなった映像が、ふと脳裏に蘇った。その影響だろうか? 皆が必死で抑えようとしていたが、俺は本能の赴くままにツッコミを入れていた。
「……で、何故、りんごの皮剥き中なんだ?」
俺のツッコミに皆が失笑する。だが、山科は相変わらず得意そうに微笑むばかりであった。
「ああ、これですか? いえね、桃山先生がお見舞いに来て下さった時に頂いた物なのですが、ほら、アレですよ! 私、独り身でしょう? 誰もりんごの皮剥きなんかしてくれないから、こうして自分のためにですね、りんごの皮を剥いていた所です。どうです? 途中で皮が途切れることなく綺麗に剥けるなんて、中々の器用さだとは思いませんかね?」
思わず皆一同に大きな溜め息が毀れる。この人の天然度合いは半端じゃない。天変地異が起こったところでも、間違いなくりんごの皮を剥き続けるだろう。しかも、途中で皮が途切れないことに感動を覚えながら。毎度の事ながら、この人は本当に凄い人だと思う……色々な意味で。
「それでさ、怪我の具合はどうなんだよ?」
苦笑いしながらも、本題を忘れることなく問い掛ける力丸。
「ふむ。それはですね……」
丁度皮を剥き終えた山科はりんごをまな板の上に置くと、今度は鮮やかな手付きでりんごを綺麗に切って見せた。その華麗な手付きに思わず力丸が目を丸くする。悪い癖が出たな……力丸は料理屋を継ぐ身。料理のことになれば状況の如何に関わらず迷わず興味を惹かれる。その癖を理解していて、シレっと狙い定める山科も人が悪い……。
「っつーか、包丁裁き鮮やかだなー。思わず魅入っちゃったぜ?」
「ははは。何を仰いますか。私は力丸君に弟子入りしたいと思っている位なのですよ?」
話題があらぬ方向に脱線しようとしている。これは軌道修正が必要だ。
「……りんご談義は置いておいて、怪我の具合はどうなんだ?」
「おお、そうでした。少々派手な擦り傷ではありましたが、順調に回復しています。もう数日で退院出来ると思いますよ。やはり、私が居ないと、皆さん寂しいのでしょ……」
「聞きたいことがある。事故が起きた晩のこと、詳しく聞かせてくれないか?」
ほくほく笑顔で再び話を脱線させようとするが、そうはさせない。山科が言い終わるよりも先に、俺は間髪いれずにこちらからの質問事項を叩き付けた。主導権は握らせない。間髪入れぬ俺の鋭い切り込みに、皆が失笑する声が聞こえてきた。
無い知恵を必死で絞って考え出した策であった。相手は俺達を侮っているのであろう。だからこそ可能な限りの挑発を行うことにした。事件のことをあからさまに調べあげてやれば、敵も苛立ち、俺達に攻撃を仕掛けてくるだろう。危険は覚悟している。悪いな……皆、巻き込むぞ。
「はて? 事故のことですか? ははは、まるで現場検証人ですね」
山科は妙に慣れた手付きで包丁を拭き、傍らに置くと、真剣な表情を見せた。
「ふむ。そうですね……」
しばし思案しながら山科は事故当時の様子を回想した。窓の外の荒れ狂う景色を見ながら、何かを思い出したらしく、にこやかな笑顔で俺に向き直った。
「おお、そうです」
その笑顔に俺は期待を託さずには居られなかった。
「丁度、今日の様な大荒れの天気でした。ただね、とても不思議なことがありましてね……普通に考えたら、こんな悪天候の中わざわざ出掛けたりしないでしょう? ですが、本当に自分でも不可解なのですが、何故か……どうしても行かなくてはならない気持ちになったのです」
山科の口から語られる言葉に、皆が息を呑む音が聞こえる。
「想いとしては、酷い空模様でしたから家から出たくなんか無かったのですが、何故か体が勝手に……というのも、変な話ですが、そう例えるのが適切だったのです」
やはり、自分の意思では無かったのだ。普通に考えたら理解に苦しむ。大雨洪水暴風警報が出ている状況で、わざわざ延暦寺に向かう理由が説明出来ない。それに、そんな悪天候だったならば、比叡山ドライブウェイ入り口となる田の谷峠料金所が通行止めになっていてもおかしくない筈なのに事故現場に向かった。まだ不可解な点は残る。
山科は気が付いた時には救急車で運ばれていたと言っていた。能面を被った女……恐らくは錦おばさんなのであろう。だが、裏付けが欲しかった。山科はそいつの姿を見ているはず。俺はさらに質問を続けた。まるで警察の取調べみたいだと笑われたが、どうしても必要な情報なのだ。引き下がる訳にはいかない。
「女性の方ですか? ふむ……」
山科は記憶の糸を手繰り寄せるかの様に考え込んでいた。皆が固唾を呑んで見守る中、不意に顔を挙げると、にこやかな笑みで皆を見回して見せた。
「おお、そうです、そうです。突然のことでした。雨で、視界は良くなかったのですが、あれは丁度、夢見が丘に差し掛かった辺りですね。突然のことでした。目の前に女性の方が飛び出してきたのです。私は驚き、避け損なって転倒したのです」
「飛び出して来た女……山科、その女の外見は覚えていないか?」
「ええ、覚えていますとも。あんなに印象的な姿をしている人は、そうそう居ないですからね」
いいぞ。話は一連の事件の核心に近付きつつある。皆がそう確信していた。
「その女性は……能面を、般若の面を被っていました……」
山科が言い終わると同時に、唐突に病院内の電気が一斉に消えた。落雷の影響でブレーカーが落ちたのだろうか? はたまた停電か? それにしては、あまりにもタイミングが良過ぎる。
「もー、ここから盛り上がるって所だったのにー!」
「おいおい、何だよ!? 何が起こったんだよっ!?」
突然の出来事に皆が動揺していた。だが、大地は妙に落ち着いた様子で周囲を見回していた。
「ふむ。停電じゃろうか?」
なおも大地は周囲の様子に耳を傾けていた。
「しかし……何じゃろうな? こんなに病院内は静かであったかのぅ?」
大地の言葉に何かを感じた俺は、急ぎ病室を飛び出した。予想通りだ……人の姿は全く無くなっている。しかも病院内だというのに妙な霧が立ち込めていた。月明かりの様な光を放つ青白い霧が立ち込めていた。何が起こっているのか調べる必要がある。そう考えながら身構えた時だった。
「うわっ、山科先生、しっかりしてよ!」
「おい、大丈夫かよ!?」
突然病室から聞こえてくる輝達の声に嫌な予感を覚え、俺は病室に駆け込んだ。不可解なことに山科も気を失っていた。憎悪の能面師の仕業以外には考えられなかった。こんな芸当は普通の奴には出来る訳が無かったのだから。
「山科は大丈夫か?」
「何が起きたか判らないが、意識を失っている様子だ」
「ちょっと、ちょっと……何か、この雰囲気、覚えがあるんだけどさ……」
静まり返った病院内……人の気配はしないはずなのだが、どこからか聞こえてくる無数の足音。予想通りの展開だ。いや、狙い通りというべきか……それに、誰も錦おばさんが降りた所を確認していない。つまりは俺達の知らない所で独自に行動したのであろう。
(良い動きだ。上手いこと罠に掛かった様子だな)
『とおりゃんせ、とおりゃんせ……』
錦おばさんの声だ……機械の様な抑揚の無い声が廊下に響き渡る。
皆の間に戦慄が走る。唐突に吹き荒れる風。雨が飛沫となり、窓に叩き付けられる。駆け抜ける稲光に照らされた瞬間、俺達は確かに見た……窓一面に張り付く般若の面を。一瞬だけではあったが確かに見えた。その光景に大地が腰を抜かして崩れ落ち、輝が悲鳴を挙げる。
「な、何じゃ、今のは!?」
「もうー、病院にまで追い掛けてくるなんて、しつこ過ぎるってっ!」
『ここはどこの細道じゃ……天神様の細道じゃ……』
声は確実に近付いている。微かに廊下の角の向こう側に人影が映る。間違いなく誰かがそこにいる。声の主が錦おばさんなのを考えれば間違いない。だが、映し出された影に、皆はさらに戦慄する。
「お、おいおい、あ、あれって……」
力丸が震えた声で皆の表情を見回す。
「包丁だな……」
太助は相変わらず冷静な表情で、含み笑いを浮かべる。
「此処で一気に復讐を果たすつもりか?」
「えぇ!? 冗談じゃねぇって。絶対、阻止しなくちゃヤバいぜ!?」
後ずさりしながら皆を見回す力丸とは対照的に、太助は静かに含み笑いを浮かべていた。
「阻止するさ。あの能面をつけられて、正気を失っているだけだろうからな……」
皆が動揺する中、俺は皆に気付かれぬように小太刀に貰った符をカバンから取り出した。再び稲光が駆け抜けると、窓に一斉に映し出される般若の面。笑い声まで聞こえてくる。それも一人や二人じゃない。数え切れない程の人々の気も狂わん程の高笑いが病院内に響き渡る。
『ちっと通して下しゃんせ……御用のないもの通しゃせぬ……』
唄は次第に近付いてくる。影では無く本人の姿が見えてきた。予想通り、錦おばさんであった。般若の面を被り、その手には大きな包丁を握り締めていた。憎悪の能面師……お前の思い通りにはさせない。
『この子の七つのお祝いに……お札を納めに参ります』
錦おばさんはゆっくりと近付いてくる。能面からは表情は伺えないが、恐ろしいまでの殺意を感じた。本気で人を殺そうとする殺意……恐怖で足が竦む。だが相当接近しなければ符を叩き付けることは出来ない。もっとだ……もっと、ぎりぎりまで引き付ける必要があるのだ。
『行きはよいよい帰りはこわい……』
凍り付くような冷たい風が吹き抜ける。
『こわいながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ!』
その瞬間……全ての音が消え失せた。錦おばさんの歩みも止まる。
静かに風が吹き抜ければ、甘い香りが漂う。風に乗って淡い色合いの桜吹雪が舞う。次の瞬間、地面を激しく蹴り上げると一気に錦おばさんが突進してきた。走るというよりも、滑るような動きで一気に距離を縮める。驚き、皆が慌てて身をかわす中、太助は涼やかな含み笑いを浮かべながら錦おばさんを凝視していた。
「生憎、こっちは喧嘩慣れしているんでね。殺すなら、此処だ。此処を狙え?」
自らの喉を指差しながら嘲笑う。
今のうちだ……太助が上手いこと時間を稼いでくれている。今のうちに小太刀から授かった符を使い一気に追い詰める。そういう算段であった。だが、事態は唐突に変わる。
何者かが廊下を駆け抜ける無数の足元が聞こえてきた。次第に足音は確実に増えてゆく。嫌な予感がする。敵を甘く見過ぎていたのかも知れない。雷鳴に映し出された影……車椅子を押す看護師の影もあれば、花瓶を手にした女性の影もあった。松葉杖の少年の影もあった。
迂闊だったのかも知れない。一斉に駆け込んでくる病院の人々。やはり、皆一様に般若の面をつけていた。やがて影ではなく人の姿が現れる。確実にこちらに向かって駆け込んで来ていた。
(不味いな……こんなにも大勢の相手に襲い掛かられては、どうすることも出来ない)
俺は小太刀から授かった符を握り締め必死で祈っていた。
(小太刀! 頼むっ! 俺達を守ってくれ!)
「くっ! 小太郎、これ以上時間を稼ぐのは厳しい!」
錦おばさんと対峙する太助も、段々と限界に近付いていた。何しろ相手は凶器を手にしている。その上本気の殺意で挑んでいる。防戦一方では時間を稼ぐのは難しい。
「病室には入らせぬのじゃっ!」
「もー、みんな止めてよーっ!」
「病人相手じゃ、手を出すこともできねぇし、絶体絶命かよ!?」
輝達もまた、襲い掛かる能面の者達を病室に入れないように必死で食い止めていた。だが、それも長くは持たないだろう。
(もはや、此処までか……すまない、皆、巻き込んでしまって)
その時であった。何かが俺の背後に舞い降りたような不思議な感覚を覚えた。
(小太刀? 小太刀なのか!?)
背後から二人羽織の如く操られるままに、俺は手にした数枚の符を飛ばした。符は俺達の周囲を旋回しながら舞っていた。体に起こった異変はまだ終わらない。
「臨・兵……」
体が勝手に動く。俺は声を発しながら次々と指で印を結んでいた。
「闘・者……」
空中に次々と光輝く文字が刻み込まれてゆく。
「皆・陳……」
体が燃え上がる様に熱くなる。沸き上がる力が一気に体中を駆け巡る様な感覚を覚えていた。
「列・在・前!」
九種類の文字と印の組み合わせ……何かの本で見たことがある九字護法印。宙に刻み込まれた九つの文字が円を描き、舞い踊る符が光を放ちながら一気に破裂した。九つの文字が次々と錦おばさんの能面に刻み込まれてゆく。光輝く文字が一際強く光を放つと同時に、錦おばさんは身動きを封じられていた。
「お、おのれ! 天狗の仕業か!? ううっ、じゃ、邪魔は……!」
鎖に縛られたかの様に身動きを封じられた錦おばさんは、酷く苦しそうに悶えていた。だが、俺の体に起こった異変はまだ終わらない。静かに呼吸を整えながら腹に力を篭めると、俺は力一杯の想いを放った。
「急々如律令!」
どこからか吹き込んできた桜の花弁は桜吹雪となり、つむじを作り上げながら錦おばさんの周囲に集結してゆく。次々と集いながら光はどんどん強くなる。昼間の太陽の様な眩し過ぎる光に包まれ、目を開けていられなくなる。光に包まれた錦おばさんはゆっくりと浮かび上がると、次の瞬間には廊下の窓を突き破り、凄まじい速度で何処かへと飛び去っていった。何が起きたのか理解出来ない輝達が呆然と立ち尽くすばかりであった。
『小太郎よ、五条大橋に向かうぞ……そこで決着をつける』
「皆、五条大橋だ。五条大橋に向かうぞ……な、何だ!?」
言い終わるよりも早く、小さな光の球がまとわり付く。一瞬意識を失ったが凄まじい速さで引っ張られた感覚だけは残された。小太刀の仕業か!? 目を丸くして驚く仲間達の顔が見えたのは一瞬のことだった。凄まじい速度で引っ張られ、俺は何も抵抗出来なかった。唐突に開け放たれた窓から、俺は一気に大空へと舞い上がっていった。皆の叫び声も遠退いていった。
目的地は五条大橋なのは間違いなかった。ゆっくりと下降しながら、俺は五条大橋に降り立とうとしていた。段々と近付いてくる地表の景色。不意に足元の揺らぎが消え失せる。しっかりと足場を確認して俺は立ち上がった。厚い雲に包まれているが、もう雨も、雷も過ぎ去ったようだ。気が付けば俺の傍らには小太刀が腕組みしながら佇んでいた。小太刀の言葉通り、俺は五条大橋に運ばれてきたらしい。
「手荒な真似をして済まなかったな、小太郎よ」
「ああ、もうちょっとお手柔らかに頼みたいものだな」
「フフ、考えておくとしよう」
小太刀は相変わらず涼やかな含み笑いを浮かべていたが、静かに錦おばさんに向き直った。
「さて……憎悪の能面師よ、もはや逃げ場は無いぞ?」
錦おばさん……いや、憎悪の能面師が後ずさりする。分が悪いことは明白であろう。いかなる抵抗を試みたところで、もはや逃げ場は無いのだから。
五条大橋は時が止まったかのように、俺達以外は誰も身動き一つ取らなかった。これもまた、小太刀の不思議な能力によるものなのだろうか?
「鞍馬に続き、またしても私の邪魔をするか……天狗風情が!」
憎悪の能面師は唇をかみ締めながら、体を小さく震わせていた。激しい怒りの表情を見せたかと思えば、次の瞬間には揶揄するような笑みを見せた。だが、能面の向こう側から感じられる確固たる殺意に満ちた眼差しに背筋が冷たくなる。
「のぅ、カラス天狗よ、私はこの者の『願い』を叶えてやった身……お前も知っておるであろう?」
憎悪の能面師は俺の眼差しから、目線を逸らそうとはしなかった。ぞっとする程に冷たい狂気に満ちた眼差しであった。吸い込まれそうな程に暗く、深い色合いに心まで奪われそうになった。呑まれそうになる恐怖心から、俺は慌てて目線を逸らした。
「お主は錦おばさんを操り、山科を殺めようとしておった。そうであるな?」
淡々とした口調ではあったが小太刀の声には確かな力が篭められていた。その言葉を聞いた憎悪の能面師は体を酷く歪ませながら高笑いを響かせた。耳障りな甲高い声が響き渡る。
「それがどうした?……この女の心には汚泥の如き憎悪が渦巻いておる。小太郎の時と同じように、私は手を貸しただけのこと」
止めろ……気安く俺の名を呼ぶな! 俺は言葉に出来ない気味の悪い悪寒を覚えていた。酷く不快な感覚だった。此の目の前にゆらゆらと佇む妖しげな魔物を殴り飛ばしたかった。だが俺が苛立てば苛立つほどに、憎悪の能面師は悦びを感じているようにさえ感じられた。まとわりつくような振る舞いに、肌の裏側がざらつく程の嫌悪感を抱かずにはいられなかった。そんな俺の想いを見抜いているのか、なおも艶かしく指先を動かしながら俺を舐めるように見つめていた。
「……のぅ、小太郎よ、まだ判らぬとでも申すのか? まだ思い出せぬと申すのか? 私に取って、この女の願いなどは微塵の価値も無きものぞ?」
憎悪の能面師は口元を酷く歪ませながら笑っていた。見透かすような、嘲笑するような、悪意に満ちあふれた笑いであった。それでいて年増女が色目を使うかの様な、甘ったるい口調で畳み掛けてくる。揶揄するような、誘惑するような、相反する感情の入り乱れた酷く不快な声色であった。体中の毛穴が開きそうな感覚に襲われていた。
「それに……何故、夢見が丘で山科に手を掛けなかったか、お前は疑問を抱いたはずだ」
憎悪の能面師はなおも俺から目線を逸らすことなく、淡々と話を続ける。
「私はお前に会いたかったのだよ。それなのにお前は私のことを思い出せないと申す。だから、この者を使うことにしたのだ。そう……お前と同じ『感情』を持つ、この者をな?」
「どういうことだ?」
ただただ俺は動揺していた。一体何を言わんとしているのか、まるで理解出来なかった。嫌悪感を露にする俺を見届けると、さらに口元を歪ませながら憎悪の能面師は高笑いを響かせた。
「思い出せぬというならば教えてやろう……かつて、お前は貴船神社で丑の刻参りを行った。必死の思いで呪いを掛けようと試みたであろう?」
頭から氷水を浴びせ掛けられたかのような衝撃を覚えていた。思い出したくも無かった出来事……考えたく無かったが、意味の判らなかった映像の数々が一つに繋がろうとしていた。
松尾の死の原因は、やはり俺だったということか? あの時見せられた、小学校の校庭に横たわり無残に死んでいた松尾は「真実」だったのであろう。
口元を酷く歪ませながら笑っていたが、憎悪の能面師は突然、怒りを露にして見せた。
「私はお前と共に歩みたいのだ。だが、お前は私のことを覚えてすら居ない……挙句の果てには、お前の願いを叶えてやった私を、化け物扱いし、憎み、拒み、討ち取ろうとさえした!」
共に歩みたいだと? 理解不能だ……その感覚、俺には全く以って理解出来ない。いや、理解したくも無ければ、同じ空気を吸っていることすら気持ちが悪い。一体何なんだこいつは? ただの変質者なのか? 頭が可笑しい奴なのか? 人の姿をした異形なる心持つ者……理解不能な想いに、俺の足は震えていた。あまりにも理解出来ない存在に、体が激しく拒絶反応を示していた。
「さぁ、小太郎よ。私と共に歩もうでは無いか? 今の私ならば、お前の『本当の願い』を叶えてやれる……憎いだろう? あの者が! 今度こそ殺してやろうぞ……愛しきお前のためにな!」
止めろ! 気安く俺の名を口にするな! 叫び声は空しく消え失せた。発することすら出来なかった。体中からにじみ出る汗。手足の指先も酷く痙攣し始めた。深過ぎる憎悪とは、これ程までに人を恐怖に陥れるのであろうか? 戦意はとうの昔に失せていた。ただ、逃げ出したかった。あまりにも気持ち悪すぎる存在の前から、一刻も早く。
「フフフ……強情なことよのぅ」
憎悪の能面師は赤く煌く唇を歪ませながら、不気味に微笑んで見せた。
「ならば仕方あるまい。お前の大事な者を奪ってやろう! そうすれば、お前は今度こそ情鬼と成り果て、私と共に歩む外、道が無くなる。そうであろう?」
不穏な言葉を口にしていた。俺の大事な者を奪う? 止めろ! 仲間達は関係ないはずだ! 叫んだ所で何の意味も為さないだろう。こいつは今、俺を恐怖に陥れることを快楽だと感じているはずだ。ああ、全身に鳥肌が立つ。殺してやりたいという気持ちすら沸き起こらない。吐き出しそうだ。何もかも、胃の中の内容物を洗いざらい吐き出したい程に不快な気分だ。
「だ、黙れ! 俺は……俺は、お前とは違う! 俺は……俺は情鬼などにはならない!」
やっとの思いで飛び出した一言であった。だが、憎悪の能面師は声を押し殺したように笑っていた。口元に手を当て、肩を小さく震わせながら笑っていた。一頻り笑い終えると、再び鋭い眼差しで俺を見つめていた。冷たい、冷たい眼差しだった。
「これは、これは異なことを申す。つまり、お前はお前自身を否定すると申すのか? 情鬼を否定する……それは即ち、お前の存在を否定することになるのだぞ? フフ、中々に滑稽なことを申すものよのぅ」
もはや言葉は出てこなかった。駄目だ……こいつは気が狂っている。情鬼という存在は、これ程までに異常な存在達なのだろうか? 対話が成立するとはとても思えなかった。俺を見つめる憎悪の能面師が唐突に声を張り上げた。
「あーっはっはっは! 堪らぬな……実に堪らぬぞ! その冷ややかなる振る舞い! 私の心を酷く沸き立たせてくれる。のぅ、小太郎よ、孤立無援の氷獄は寒かろう? 畏れることは何も無い。私が温めてやろう。一緒に温め合おう。二人で永遠の舞を紡ごうでは無いか!?」
気が動転していた。心がかき乱されていた。焦り、不安、迷い、恐怖。あらゆる感情が一斉に押し寄せてくる感覚を覚えていた。心が崩落しそうな感覚さえ覚えていた。もう限界だった……あまりの恐怖に俺は発狂しそうになっていた。動揺し切った俺を見かねたのか、隣で話を聞いていた小太刀が静かに前に出る。
「くだらぬ話をベラベラと……さらに罪を重くするつもりか?」
小太刀は静かに六角棒を構えた。背中から感じる強い怒りの想い。俺の気持ちを理解してくれたのだろうか? 不敵に笑う憎悪の能面師に向けて、小太刀は静かに真言を唱え始めた。
「ほう? 私を討ち取るつもりか? おお、怖い、怖い。戦う力を持たぬ非力なる私を、武力で捻じ伏せようと申すか? 何と野蛮な! 所詮、天狗なぞ野蛮なる夜盗と何ら変わりは無いということか!」
唐突に地面を蹴り上げると、憎悪の能面師は一気に跳躍した。
「フフ、天狗よ、先に仕掛けたのはそちらであるぞ? 私は野蛮なる者から身を守ろうとした。それだけのことよ……ぬんっ!」
憎悪の能面師の手から、赤と金、鮮やかな色合いを称えた舞扇が次々と飛び掛ってくる。鋭利な刃物の如き煌きを放ちながら、燕の様に孤を描きながら宙を舞う。くるくると回転しいながら、舞扇は一斉に俺に向けて襲い掛かってきた。
「うわっ!」
慌てて身を翻して避けた。ふと振り返れば、舞扇は橋の欄干に深々と突き刺さっていた。こんな物が体に当たれば無傷では済まない。
「相変わらず姑息な戦法を好む奴よの。狙うなら我を狙え!」
吼える小太刀を後目に、憎悪の能面師は高笑いを響かせながら再び宙に舞い上がる。今度は掌から白く光輝く蜘蛛の糸を放った。一斉に広がる蜘蛛の糸に絡み取られ小太刀が転倒する。
「小太刀! 大丈夫か!?」
「このような子供騙しで我を足止め出来るとでも思うておるか!?」
しっかりと地面に足を踏み込みながら、小太刀が真言を唱える声が聞こえた。次の瞬間、蜘蛛の糸は小太刀もろとも激しく炎上した。驚く俺を後目に小太刀はなおも真言を唱える。炎はさらに激しく燃え上がると、次々と雀に姿を変えた。煌々と燃え盛る火の玉となった雀が、憎悪の能面師に一斉に襲い掛かる。
「な、何!?」
無数の雀達が一斉に終結したかと思った次の瞬間、大きな火柱へと姿を変えた。突然空中に現れた巨大な炎の柱。強烈な熱気に顔が焦げる様な痛みを感じていた。
だが、まだ終わっていなかった。それどころか憎悪の能面師は無傷であった。ゆらゆらと橋の欄干に舞い降りると再び不敵に微笑んで見せた。その手には妖しく光る包丁が握られていた。不気味な笑い声をあげながら、憎悪の能面師は包丁をゆっくりと喉元に突き付けた。
「何の真似だ?」
小太刀が険しい口調で問い掛ければ、憎悪の能面師はさらに高笑いを響かせる。
「今、この手に力を篭めれば……この女は容易く死ぬ。試してみるか? この女を傷付けても、私は痛くも痒くも何とも無い。さぁ、どうした? 掛かって来ぬと申すならば、こちらから仕掛けるぞ?」
どこまで最低な奴なのだろうか。やること、為すことの全てが苛立つ相手であった。苛立った拍子に、俺はポケットに手を突っ込んでいた。ポケットの中で何かが手に当たる感覚を覚えていた。
(この感触は……そうか! まだ勝機はありそうだ)
俺は一歩、前へと歩み出た。
「憎悪の能面師、もう止めてくれ……どう足掻いても、俺はお前に叶わない」
「ほう? ようやく事態を理解してくれた様子であるな?」
「ああ……だから、錦おばさんに危害を加えるのはやめてくれ」
大きく手を広げ、敵意が無いことを示しながら一歩ずつ歩み寄った。
「小太郎よ! そやつの言い成りになってはならぬ!」
小太刀が必死で俺を阻止する声を背に受けていた。
(頼むぞ、小太刀……俺の想い、読み取ってくれよ……)
恐らく小太刀は、俺の考えを理解しているのだろう。だからこその迫真の演技。お前も中々の役者だな。
憎悪の能面師は静かに橋の欄干から舞い降りた。俺を受け入れるかの様に、大きく手を広げながら。俺はゆっくりと、ゆっくりと近付いた。ぎりぎりまで近付かねば攻撃が届かない。あと少し……あと少し……手が届く所まで来た所で俺はポケットの中に手を突っ込んだ。そして、そのまま護符を力一杯、能面に叩き付けた。
「死にさらせ、この腐れ外道がっ!」
「ぎゃああああっ!」
何て間抜けな奴なのだろうか。俺は心の中で目一杯、憎悪の能面師を嘲笑っていた。能面は白い煙を上げながら崩れ始めていた。この好奇を逃す訳も無く小太刀が一気に駆け込む。俺と入れ替わるようにしながら、六角棒で手にした包丁を叩き落した。弾かれた包丁はそのまま鴨川に落ちた。水が跳ねる音が聞こえたから間違いない。その音を耳にした小太刀は、舞い上がると、欄干の上に立って見せた。不敵な笑みを称えながら腕組みしながら憎悪の能面師を見下していた。
「敢えて此処、五条大橋を選んで貰えたことを光栄に思うのだな!」
小太刀が高らかに声を張り上げる。
「此処、五条大橋はかつて弁慶と牛若丸が対決した由緒正しき場所。小太郎が牛若丸ならば我は弁慶ぞ。一度は死闘を繰り広げた両雄が手を取り合ったのだ……観念するが良い。どう足掻いたところで、お主に勝機は無い。その身に刻むが良い。我が名は小太刀なり! 末代まで、我らが名を受け継ぎ、称えるが良かろう!」
(な、何かが激しく違う気がする……牛若丸と弁慶は対決した同士であって、別にタッグを組んだ訳では無い……それに、何だ、その時代劇の台詞の様な口上は……)
小太刀は橋の欄干に立つと一気に跳躍した。そのまま全体重を掛けて、憎悪の能面師の顔面目掛けて六角棒を力強く突き立てた。能面に亀裂が生じる音が聞こえたかと思われた次の瞬間、能面は真っ二つに割れて、錦おばさんの足元に落ちた。そのまま錦おばさんは力無く崩れ落ちた。
「錦おばさん、大丈夫か?」
ふと、気が付けば時が再び流れ始めている。威勢よく飛ばしてゆく車の群れ。行き交う通行人達。すれ違う人々は皆怪訝そうな眼差しをこちらに向ける。無理も無いだろう。五条大橋の上に倒れたまま、微動だにしない人の姿がある。非日常の光景以外の何者でも無い。
相変わらず小太刀は行方を眩ますのが好きな様子で、振り返った時には既に姿は無かった。入れ替わるように輝達が走り込んでくる姿が見えた。病院から五条大橋まで相応の距離がある。一体どういうことだ? これもまた小太刀の仕業か? 落ち着いたら締め上げて白状させてやる。
「コタ、やっと追い付いたよ……って、アレ? 錦おばさん!?」
息を切らす輝の視界に錦おばさんが飛び込む。驚き目を見開く。ぐったりと倒れ込む姿に驚いた力丸が慌てて携帯を取り出す。
「おいおい、大丈夫なのかよ? 救急車呼んだ方がいいんじゃねぇか?」
動揺する皆を尻目に錦おばさんはゆっくりと起き上がった。
「う、うーん……あら、イヤだ。ここは何処だい?」
何時もと変わらぬ表情に安心したのか、大地が歩み寄る。手を差し伸べれば「大丈夫だよ」と言いながら錦おばさんが立ち上がる。
「ここは五条大橋なのじゃ」
「えぇ!? 五条大橋だって!? おかしいねぇ、錦市場に買い物に出掛けたはずなのに?」
どうやら買い物に行っている最中に巻き込まれたのであろう。あまり余計な説明をすると、さらに混乱するかも知れない。何か適当な説明で言い包めて納得して貰いたい所ではあるが……ううむ、こういうアドリブに弱い自分が本当に情けない……。
「今日は暑かったからな。熱射病にでもやられたのかも知れないな」
「あら、イヤだ。熱射病って意外とおっかないんだねぇ」
納得するのか? 太助の意味不明な説明で納得しちゃっていいのか? ツッコミ所しか無かったが、本人が納得したのならばそれはそれで良かったことにしておこう。不思議そうに、一生懸命考え込みながらも錦おばさんは帰っていった。
「やれやれ……一体、何が起こっているのか意味不明過ぎるな」
太助は大きな溜め息を就いた。その表情は、どこか憔悴しているようにさえ見えた。
「あの能面の連中はどうなった?」
此処にいるということは、恐らくは無事に逃げ延びられたのだろう。だが、だからこそ気になる。一体あの後何が起こったのか。
「それはこちらの台詞だ。唐突に眩しい光に包み込まれたかと思ったら、次の瞬間には、あの能面の連中は皆倒れていた。一体何が起きたのかサッパリだ」
「患者さんも、看護師さんも、みんな廊下に倒れちゃっていてね。騒ぎになるのは目に見えていたから、さっさと病院を抜け出してきたんだ」
「大変だったのじゃ。とにかくワシらは大急ぎで病院から逃げ出したのじゃ」
「そしたらさ、急に眩暈に襲われてな。気付いた時には五条大橋だんだよな。訳が判らねぇよな」
皆、疲れ切った表情を浮かべていた。無理も無いだろう。立て続けに意味不明な出来事に遭遇したのだ。理解できる訳も無く、ただただ戸惑うことしか出来ないのだろう。俺は唸ることしか出来なかった。これから一体どうすれば良いのか? 焦りと不安だけが入り混じる。
その時であった。微かな鈴の音色に混じり、俺の耳元に小太刀の声が聞こえてきた。
『済まなかった……我の力が至らぬばかりに、皆を危険に晒してしまった。本当に申し訳ない』
(小太刀、憎悪の能面師はどうなった? 見事、討ち取ったのか?)
『詳しいことは後で説明する。ただ、安心して欲しい。奴からの干渉は完全に断ち切れた……いや、断ち切られたといった方が正確なところであろう』
(どういうことだ?)
『奴は我らの策を見抜いたのであろう。だから、敢えて手を引き、身を隠した。ほとぼりが冷めるのを待ち、次なる手段を講じてくるつもりであろう』
警戒心が強く、狡猾な戦術を好む者……そんな奴がわざわざ危険を冒すような真似はしないだろう。厄介な相手を逃がしてしまった。暫くは泳がすしか無いということだろう。嫌な展開になってしまった。憎悪の能面師を討ち取らない限り、操られる恐怖に怯えながら暮らすしか無いということになる。何か策を講じなくてはならない。
『次なる手は、また考えるとしようぞ』
小太刀の声は、それ以上は聞こえなくなってしまった。訳の判らない事態に俺は苛立ちを覚えていた。小太刀が悪い訳では無い。憎悪の能面師と呼ばれる情鬼のお陰で、こんな目に遭わされていることは理解している。では、この行き場の無い苛立ちは誰にぶつければ良いのか? 皆、疲れ切った表情を浮かべていた。本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。
「皆、済まない。俺が山科の見舞いに行こうと言わなければ、こんなことにはならなかった」
俺の言葉に、皆一様に顔をあげる。
「何が起きたのか良く理解出来てはおらんのじゃが、コタが悪い訳では無いのじゃ」
「ああ、そうだぜ。そんなに自分を責めちゃ駄目だぜ?」
太助は静かに目を伏せながら橋の欄干に手を掛ける。そっと鴨川に目を落としながら含み笑いを浮かべて見せた。
「普通じゃ無い出来事が起きているということだろう? 常識なんざ通用しないだろうし、多分、後戻りも出来ない。既に鞍馬での一件から始まっていると考えれば、まだ何も解決はしていないはずだ。いずれにせよ、首謀者を締め上げるしか無さそうだな」
やはり太助は鋭い。冷静に事態を分析し、理解の取っ掛かりを求めているように思えた。解決への糸口が何処にあるかなど皆目検討もつかなかったが、一つだけ明らかなことがある。この場でこれ以上議論したところで、恐らくは答には至らないのであろう。ならば、やれることは一つ。それぞれの家に戻り消耗した体力を回復する。無策のように思えるが、無知なる俺達にはこんな選択肢しか選べないのだ。非力な自分が悔しかった……だが、どうすることも出来ないのは紛れも無い事実なのだから。結局、俺達は煮え切らない想いを胸に、各々の家に戻ることにした。
一人になりたかった。色々と想いを整理するには一人が都合良い。何時もの振る舞いだから、輝も多くは問わずに先に帰ってくれた。飾らない心遣いが嬉しく思えた。
鴨川沿いにゆったりと歩く。相変わらず、この時期になるとカップルが等間隔に「置物」の様に立ち並ぶ。これもまた夏の風物詩とでも言うのだろうか。今の俺にはそんなものはどうでも良かった。 ただ憎悪の能面師の言葉だけが重く圧し掛かっていた。
鴨川の流れる涼やかな音色に、川端通を往来する車の音。風が吹けば、木々の葉が微かに揺れる音だけが響き渡る。置物達が語らう小さな声が混ざり合う。俺はジャリジャリ足音を立てながら歩いていた。わざと音を立てていた訳では無い。ただ、足が妙に重く感じられただけのことだった。
情鬼……人の心から生まれる存在。あいつが言うように俺もまた『情鬼』なのだろう。否定はしない。卓に対する激しい憎悪は事実なのだから。憎悪の能面師の言葉を否定することも出来なかった。鞍馬で小太刀が現れなかったら……俺は能面をつけ、卓を殺しに行っただろう。奴の家を知らない訳では無いから出来ないことは無かったはずだ。それに、俺が奴の居場所を知らなかったとしても、憎悪の能面師が的確に案内してくれたことだろう。錦おばさんが山科の病室に迷うことなく辿り着けたのと同じように。そして、俺は憎悪の能面師の願い通りに振舞い……情鬼になってしまっただろう。それが奴の狙いなのか? 俺を情鬼に仕立て上げたいのか? あいつと同じ道を歩ませるため? ああ、駄目だ。理解不能だ。あいつの考えなど理解できる訳も無いし、理解したくもない。相変わらず、川の流れは変わることなく響き渡る。
それにしても厄介なことになった。憎悪の能面師を取り逃してしまった……奴は用心深い奴だ。もはや簡単には足取りを掴めなくなるであろう。取り逃がしたことが重く圧し掛かる。危機は回避されたのでは無く、ただ一時的に見えなくなっただけに過ぎないということだ。
だが、未だ解せないことが多々消え残っている。憎悪の能面師が俺を狙っていることは確実な事実となった。それは理解できたのだが、鞍馬の街を巻き込んでまでの大騒動にまで発展させた意図が見えない。何故、鞍馬の街を巻き込む必要があったのだろうか?
『あーっはっはっは! 堪らぬな……実に堪らぬぞ! その冷ややかなる振る舞い! 私の心を酷く沸き立たせてくれる。のぅ、小太郎よ、孤立無援の氷獄は寒かろう? 畏れることは何も無い。私が温めてやろう。一緒に温め合おう。二人で永遠の舞を紡ごうでは無いか!?』
肌に纏わり付く様な笑い声に、冷たい眼差し。思い出すだけで背筋が寒くなる。止そう……奴のことは思い出したくも無い。
ふと夜空を見上げれば月明かり。穏やかな光で周囲を照らしてくれていた。鴨川は静かに流れ続ける。生温い風。川から漂う水の香りを肌で感じていた。風情を感じる光景ではあったが、それをぶち壊す「置物」たち。
(何だか落ち着かないな……それに、俺のような通行人は邪魔者だろう。さっさと退散してくれるか)
川から川端通りへと続く石段を登る。微かに吹き抜ける風が心地良く思えた。川端通は相変わらず車の往来が激しい。それに負けない程に人の往来も激しい。賑やかな街、祇園。夜になっても人通りは絶えない。人混みは好きじゃない。細道を通って家に向かうことにした。暗い通りに立ち並ぶ停められた車が目に付く。暗がりの中に浮かぶ車のテールライトの赤に、ウィンカーの黄色。無機的な、人工の光が妙に温かく思えた。
酔客で賑わう優雅な花見小路……祇園の夜ならではの光景を目の当たりにしながら俺は歩いていた。時折すれ違う人々は、妙に生気の失せているように見えた。不思議な感覚だった。夜半の細道を照らす街明かりの無機的な明かり。疲れ果てていた俺はうなされるように歩き続けていた。人々の声とすれ違いながらも、幾つも細道を潜り抜けてゆく。
歩き続けてようやく帰り着いた家。だが父も、母も顔を出さない。珍しいこともあるものだ。明かりも灯っていないのを見ると、家には居ないように思えた。
(二人で飲みにでも行ったのか?)
玄関の鍵を開けて、戸を開ける。静けさに包まれた細道に戸を開ける音が響き渡る。靴を脱ぎ玄関の戸を閉める。そのまま二階へと向かう階段を歩む。相当疲れていたのか、酷く足が重く感じた。ようやく、ゆっくり眠れる。安堵からか気持ちが緩んでいた。緩やかな睡魔に誘われ、今にも眠りに落ちそうな感覚を覚えていた。そっと部屋の扉に手を掛ける。ゆっくりと扉を開けた。部屋の扉を開け切った瞬間、不意に強い眩暈に襲われた。
(くっ!? 今度は何が起こった!?)
次の瞬間、俺は清水寺へと至る産寧坂の前に佇んでいた。
『清水寺にて待つ。参道を登ってくるが良い』
耳元に響き渡る小太刀の声。やれやれ……今度は清水寺に誘うとはな。どの道退くことは出来ない。ならば、ただ前へ前へと進む以外の選択肢は無いのだろう。俺は静まり返った産寧坂を歩み始めた。
この辺りは市内でも最も賑わう観光地。清水寺へと続く参道は朝早くから人で一杯になる。だが、夜の参道は静寂に包まれている。緩やかな坂道を俺は歩き続けた。風が出始めたのか、涼やかな風が心地良かった。どれだけ歩き続けたのだろうか? 細い道の両脇には店が立ち並んでいる。夜も遅い時間だ。どの店も明かりは消えひっそりと佇んでいた。時折見かける自動販売機だけが微かな明かりを放っていた。店の軒先に飾られた旗が風に揺れている。緩やかな風が吹き始めた。心地良い風だった。風を感じながらも、そっと振り返れば遥か彼方に見下ろす京の街並みの夜景が目に留まった。ずっと眺めて居たい衝動に駆られる光景であった。雲一つ無い月明かりの元に照らし出され、瞬く街明かり。家々から零れ落ちる明かりは、ほたるの様にどこか儚げな、壊れそうな寂しさに包まれた光景であった。それは帰る家々があることを告げる柔らかな街明かりであった。家々の柔らかな街明かりをじっと眺めていると、時が流れるのを忘れてしまいそうになる。このまま眺めて居たかったが、小太刀を待たせる訳にはいかない。大きく息を吸い込みながら、俺は清水寺に向き直った。
「……小太刀が待っている。清水寺へ急ぐとしよう」
しばしの休息を終え、俺は再び坂道を登り始めた。辺りは静まり返っている。俺の歩く足音だけが周囲に染み渡ってゆく。やがて目指す先に仁王門の鮮やかな朱色が見えてくる。月明かりに照らし出される仁王門。月明かりを背に、門の前で腕組みしながら佇む小太刀の姿が見えてきた。
「待っておったぞ、小太郎よ。ようやく時が訪れた。今、邂逅の時」
小太刀は満足そうな眼差しで、穏やかな笑みを浮かべていた。俺は額の汗を拭いながら問い掛けた。
「……それで? 奴の足取りが掴めたのか?」
「否。奴は身を隠すことに長けておる身。そうそう容易く足取りを掴めはせぬ」
「だったら、何故俺をこんな所に呼び寄せた?」
疲れも手伝い、俺は苛立ち混じりの口調で小太刀をなじっていた。俺の言葉に小太刀はしばし目を伏せて見せたが、次の瞬間にこやかな笑顔と共に大きな手を差し出して見せた。
「何のつもりだ?」
「これからも良しなに頼むとの意だ」
ますます俺の頭の中は困惑していた。これからもよろしく頼むとは、一体どういう意味なのだ? 一体何を意図しているのか理解に苦しんだ。
「言葉通りの意味だが、何か問題があったか?」
相変わらずマイペースな小太刀は、こちらの反応などお構いなしに淡々と話を進めようとする。実に強引なことだ。いや、こちらの考えは置いておいても突き通したい想いでもあるのだろう。
「小太郎よ、お主に頼み事があるのだ」
頼み事? 小太刀が俺に対して? 思わず身構えずには居られなかった。俺よりも遥かに優れた力を持つ小太刀が、情鬼と戦う能力を持つ小太刀が、何の知恵も力無い俺なんかに頼み事だと? 戸惑いながらも気が付くと俺は思わず正座していた。
「頼み事?……俺に一体何を頼むつもりだ?」
「お主の生き方に関わる重要な頼み事ぞ。此れはお主にしか頼めぬこと……」
小太刀は静かに俺を見据えていた。戦いの時に見せる表情とは、だいぶ異なる穏やかな表情に俺は動揺させられていた。まるでお伺いを立てるような振る舞いが意外に思えた。戦いの時に見せていた高圧的な振る舞いとは随分と異なる振る舞いに見えた。どこか消え入りそうな、憂いに満ちた振る舞いの様にも思えた。
カラス天狗という存在は、俺達とはまるで異なる存在だと感じていた。悪く言えば「遠い存在」に思えていた。
完璧過ぎる相手と接していると、自分の駄目さ加減が気に掛かりついつい卑屈になりそうになる。失礼な言い方だが……小太刀は冷静に物事を的確に判断する。だからこそ冷たい奴だと思っていた。だが、意外にも体温を感じさせる振る舞いを見せてくれた。それは言い換えれば、俺に対する信頼を意味しているのだろう。もっと言えば、俺に対して心を開いてくれたということなのだろう。そう考えれば悪い気はしない。親しみを覚える友好的な振る舞いを悪く思う奴はいない。
「小太郎よ、我がお主に求める物……それは『契約』ぞ」
「契約?」
「うむ。契約というのは、我らカラス天狗を行使する『天狗使い』になるということ」
また馴染みの無い言葉が飛び出した。天狗使い……何やら言葉の響きからだけ考えるに、俺が小太刀を行使するということか? 何だか妙な気分だった。俺は小太刀に助けて貰ったのに、俺が小太刀を行使する。随分と偉そうな立場に立ってしまうような気がした。主従関係という構図は好きでは無い。対等な立場にありたい。そう考えていたからこそ、無意識のうちに表情にも表れてしまったのであろう。小太刀はどこか寂しげな表情を浮かべていた。
「フフ、一度は『契り』を交わしたのは事実ではあるのだがな」
「何か言ったか?」
一瞬、小太刀の呟くような声が聞こえた気がした。
「何も言っては居らぬ。して、小太郎よ……返答はいかに?」
「俺はお前とトモダチでありたい。だから、何だか主従関係みたいな関係というのは違う気がする」
俺の言葉を受け、小太刀はなるほどと、何かを納得した表情を浮かべていた。
「ふむ。主従関係では無い。我と共に歩んで欲しいということぞ」
「何だ、そんなことか。容易いことだ」
俺は深く考えずに返答した。だが、小太刀は静かに腕組みしながら険しい表情を見せる。
「小太郎よ……『天狗使い』とは、戦いに身を置くことをも意味する。つまり……」
小太刀は言葉に詰まりながらも、じっと俺の目を見つめていた。どこかぎこちない、酷く不器用な振る舞いに思えた。だが、その不器用さは何だか他人事に思え無くて妙に親しみを覚えていた。
本当ならば良く考えるべきことだったのだろう。小太刀と共に歩むこと……それは、天狗の使命を分ち合うことと同義なのであろう。情鬼を退治し続ける……修羅の道を歩み続けることを意味するのであろう。気掛かりなこともあった。聞きたいこともあった。だから俺は遠慮することなく問い掛けた。
「小太刀、お前に聞きたいことがある」
「うむ。遠慮なく聞くが良い」
「何故、俺を選んだ? 自慢では無いが俺には何の能力も無い。むしろ足手まといになるだけのような気がするのだが?」
小太刀には戦う力があるが、俺には戦う力は無い。普通に考えれば俺は足手まといにしかならないだろう。それなのに俺を選んだ。一体、どんな根拠があって選んだのか? 実に気になるところであった。小太刀は腕組みしながら静かに目を伏せた。
「誰でも良い訳では無い。それだけは言っておく」
「ああ」
「大自然を愛する心……それから京の都を愛する心。我と同じ考えを持つ身に出会えた。故に共感を覚えたお主と共に歩もうと考えたのだ」
本当にそれだけなのだろうか? 随分と安易な理由のように思えた。だが余計な詮索は止めておこう。こうして出会えたことも、共に歩むことも、一つの縁なのだ。そのことに理由を求めるのも無粋なものだ。俺の反応を見届けながら、小太刀はさらに話を続ける。
「それに……我らカラス天狗は、お主らが思う程万能なる存在では無い。人の世にて我らが力を発揮するには、お主ら人の力が必要なのだ」
意外な事実であった。錦おばさんを相手にしていた時の小太刀の立ち振る舞いを見た限りでは、俺の存在など無用なように思えた。だが、小太刀は嘘を言うような奴では無い。その言葉は真実なのであろう。
「我らの操る力は人の世では体現出来ぬもの。お主に見せた術の数々は……小太郎よ、お主が我と心を一つにしてくれたからこそ為し得ることが出来たもの」
「意外だな……」
「うむ。人に憑依した情鬼を討つには、人の力が必要不可欠なのだ」
カラス天狗という存在は決して万能な存在では無い。驚くべき真実であった。「完全に剥離された情鬼であればカラス天狗達だけでも討ち取れる」。小太刀はそう続けて見せた。
「だが、今までにも数多くの情鬼を討ち取ってきた筈だろう? 憑依したままの状態の情鬼と対峙することもあったのでは無いか?」
恐る恐る問い掛ける俺の言葉に、小太刀は静かに吐息を就きながら微笑んで見せた。
「天狗使い無きカラス天狗は、人に憑依した情鬼をどう扱ってきたのだ?」
「ふむ……聞きたいか?」
小太刀は妙に悪意に満ちた笑みを浮かべながら、俺の反応を窺っていた。
「や、止めておく」
何となく想像は就いた気がする。剥離出来くても、情鬼は討ち取る必要はある。つまりは……そういうことなのだろう。だからこそ、小太刀は俺の手を借りようとしているのであろう。避けられる事態ならば避けようと考えるのは当然のことだろう。実に壮絶な話だ……。
もう一つ気になることがあった。何故、今になって情鬼の被害が出てきたのだろうか? 俺はもう一つの疑問を小太刀に投げ掛けてみた。
「情鬼は古き時代から存在し続けた存在……代々のカラス天狗達が討ち取ってきた。だが、その数は多くは無く、また大きな力を持つ情鬼も多くは無かった」
「そうか。昔から情鬼は存在していたということか」
「……これは我の憶測であるが、唐突に憎悪の能面師の様な、大きな力を持つ情鬼達が現れ始めたというのは不可解に思える」
情鬼……俺の心にも潜んでいるかも知れない存在。確か、情鬼は人の心の悪意から誕生する……小太刀から聞かされた言葉が脳裏を過ぎる。憎悪の能面師を討ち取ったとしても、また新たな情鬼が誕生するのだろう。仮に人の心から一切の悪意が消え失せれば、情鬼は二度と誕生することは無くなるかも知れない。だが、そんなことは現実にはあり得ない話だ。どう足掻いても、再び新たな情鬼が誕生し、新たな被害が広がるだけだろう。俺は皆と共に歩みたいし、京都という街が好きだ。それに真実を知ってしまった以上、此処で逃げ出しては自分を許せない。傷付き倒れる方がよほど救いはある。傷付くことから逃げ伸び、誰かが傷付くのを見届けるだけ……それは耐えられない。ならば……
「これが……俺の答だ」
「それでは?」
「ああ。共に戦おう」
「……ふむ。小太郎よ、場所を変えようぞ。本堂は舞台に参る」
一瞬、何か言いた気な表情を見せたが、小太刀は俺を先導するかのように歩き始めた。人気が無いとは言え、勝手に忍び込んで良いものなのか。微妙な気がしたが、恐らくは小太刀のことだ。言うだけ無駄なのだろう。俺は黙って小太刀の後に続いた。
轟門を抜ければ、すぐに目の前には雄大なる舞台が姿を現す。木々の香りが漂う舞台。夜半の清水の大舞台は当然のことながら人の気配は無く、月明かりだけが照らしていた。
「さて……それでは正式に契約を交わそうぞ」
小太刀は静かに腕組みしながら、俺の表情をじっと見つめていた。契約……一体、何をさせるつもりなのであろうか? 張り詰めるような緊張感を覚えていた。
「フフ、そう身構えることも無い。天狗使いとなるに辺り、知って置かねばならぬ知識を伝授するに過ぎぬ。先ずは……小太郎よ、お主の中に眠る『想い』を呼び覚ましてみようぞ」
小太刀は静かに目を閉じると、懐から数珠を取り出した。力強く握り締めながら、静かに真言を唱え始める。
「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタタラタ・センダマカロ・シャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン……」
小太刀の声だけが静寂の景色に染み渡ってゆく。繰り返し唱えられ続ける真言を聞いているうちに、段々と体の中で何かが燃え上がる様な感覚を覚え始めていた。燃え盛る炎を背にまとったかの様に鋭い熱気が体中を駆け巡る。不意に、俺の周囲を舞う青白い光に気付いた。
(これは……あの時見た、あの青白いほたるか!?)
虫の様な姿は確認出来なかった。ただ青白い光が次々と舞い上がってゆく。
(この光は……俺の体から出ているのか?)
次々と体から舞い上がってゆく青白い光。小太刀はさらに、力を篭めて真言を唱え続けた。周囲を見渡せば、辺り一面に青白い光が舞っていた。幾千幾万もの青白い光が舞う様は幻想的に思えた。
やがて青白い光は周囲の木々に着地してゆく。一斉に周囲の木々に青白い光を放つ果実が実ったかのような光景になった。数え切れない程の青白い光に包み込まれ、清水の舞台は月明かりの様な青白い光に包み込まれていた。ほたるのように明滅を繰り返す青白い光達。一体、この光は何なのであろうか? 青い光に照らし出された清水の舞台からは、変わることの無い市街の夜景が見えていた。現実と非現実の巡り合う不思議な光景の中に、俺は取り残されたように佇んでいた。
「この青白い光は人の『想い』そのもの。あらゆる人の感情が形を為した者達よ……これらの中には怒り、憎しみ、哀しみ。そうした感情も含まれておる」
何時の間にか小太刀は俺の隣に佇んでいた。腕組みしながら、目を細めていた。青白い光に照らし出された小太刀の横顔もまた、青白い光を放っているように思えた。
「小太郎よ、大自然の『目』となり、大自然の想いを受け止めてみせよ」
大自然の『目』となる? 一体どういうことなのだろうか? 大自然の想いを受け止める……小太刀が何を伝えようとしているのかは判らなかったが、乗り掛かった船だ。それならば最後まで突っ走るしか無いだろう。俺は小太刀に向かい、力強く頷いて見せた。小太刀もまた力強く頷くと、再び目を伏せ、真言を唱え始めた。心地良い旋律が体中に染み渡る。ゆっくりと、ゆっくりと、眠りに就くような感覚を覚えていた。涼やかな風が吹き始める。不意に体が浮かび上がるような感覚を覚えた。
薄れ往く意識の中で、小太刀の声が聞こえた気がする。「『水』の一生を旅するが良い」。そうか……この浮かび上がる感覚は、広い湖に浮かぶ感覚なのだろう。周囲を生命の息吹感じさせる木々の緑に囲まれた湖。ゆっくりと、ゆっくりと木々と共に一体化してゆく感覚を覚えていた。どうやら完全に水と一体化した様子だ。体を持っているという感覚が無い、ふわふわとした不思議な感覚を覚えていた。
強い日差しを浴びていた。夏の昼下がりを思わせる強い日差し。周囲の水温も次第に上昇してゆく。気が付けばゆっくりと浮上していた。
(なるほど……水は蒸発して水蒸気となり、雲となるということか)
考えているうちにも、どんどん浮上してゆく。周囲を見渡せば、次々と湖面から浮かび上がる水蒸気達。ゆっくりと、ゆっくりと上昇してゆき、手と手を取り合い集結してゆく。さんさんと照り付ける日差しの中で、やがて集い集まった水蒸気達は雲となり、膨張しながら発達してゆく。
やがてチリチリとした感覚を覚える。厚みを帯びた雲は鈍色の雨雲となり唸りをあげていた。夕立の始まりを告げる雷鳴、それから駆け抜ける稲光。次々と鈍色の雲から零れ落ちてゆく雨粒。落ちて行く雨粒を眺めていた。不意に、速度を上げながら落下してゆく感覚を覚えた。恐らく、次々と落ちて行く雨粒のうちの一粒になったのだろう。
みるみる迫って来る街の景色。地面に落下し、土と土の隙間を掻い潜るようにしながら流れている感覚。土に抱かれた温もりを感じながらも、ゆっくりと流れに身を委ねていた。土と土の隙間を駆け抜けているうちに、不意に早い流れに巻き込まれる。どうやら地下水と合流した様子。
不思議な光景であった。幾つもの水と水が出会い、流れが出来上がり、川の様に連なってゆく感覚を覚えていた。流れ流れて何処へ辿り着くのだろうか?
考えていると、不意に地上に飛び出した。地上の周囲は既に夜になっていた。夜空には月明かりが浮かんでいる。広い川に合流したようだ。周囲の景色から察するに、鴨川の上流に出たように思えた。長い旅路を経て鴨川へと戻って来たように思えた。
出町柳周辺で二つの川が合流する。ゆらゆらと揺らめく夕日に赤く染め上げられながらも、ゆっくりと流れ続けていた。やがて見えてくる四条大橋。水の流れと一体化しながら、ただ静かに流れてゆく。人々の賑わう声が聞こえてくる。夏の鴨川にはビアガーデンも設営される。盛り上がりを見せる季節ならではの風物詩を肌で感じていた。さらに流れ流れて、五条大橋が近付いてくる。
一体何処まで流れてゆくのだろうか? このまま海まで到達するのだろうか? そんなことを考えていると、一瞬、視界が揺らぐ感覚を覚えた。
再び気が付いた時には清水寺に戻っていた。周囲を見渡す。何時の間にか舞台は遥か視界の先に存在している。後ろを振り返れば水の流れる涼やかな音色。サラサラと流れる三筋の滝。心地良い音色が月明かりに染み渡る。
「ここは……音羽の滝か。舞台の下に移動してきたということか」
小太刀は一体何処に行ってしまったのだろうか? 周囲を見渡すが、小太刀の気配を感じることは出来なかった。唐突に事態は予期せぬ展開を迎える。荒々しく響き渡る太鼓の音色。
「な、何だ? 何が起こっている?」
視界の先、清水の舞台から響き渡る太鼓の音色。何が起きているのか見届けるべく、俺は急ぎ石段を駆け上った。少し離れた場所から望む清水の舞台。幾つもの篝火が焚かれ、盛んに火の粉を吹き上げている。篝火に照らし出されているにも関わらず、影の様に黒い者達が、一様に異様な舞を振舞っている。
(あいつらは一体何者だ?)
篝火の炎に照らし出されているにも関わらず、まるで影絵の様に黒一色の姿を保った者達。吸い込まれそうな程に暗く、重苦しい色合いを称えた者達。そいつらが清水の舞台で禍々しい舞を振舞っている。
こいつらは一体何者なのだろう? 考え込んでいると、不意に空からカラス天狗達が舞い降りてきた。その手には六角棒を握り締め、黒い者達を静かに見据えている。唐突に一人のカラス天狗が飛び掛る。それを皮切りに、他のカラス天狗達も一斉に黒い者達に襲い掛かった。逃げ惑う黒い者達を、次々と六角棒で撃退してゆく。瞬く間に黒い者達は、力尽きて舞台に崩れ落ちてゆく。次の瞬間、黒い者達の体から、青白い光が次々と放たれて行く。崩れ落ちるように影が消え去り、破片が全て青白い光へと変わってゆく。
(情鬼を討ち取るということは、こういうことを意味しているということか……確かに人と同じ姿をしているが、やはり、人ならざる存在達ということか……)
不意に俺自身の体からも青白い光が舞い上がってゆくのが見えた。体中から舞い上がってゆく青白い光は、やがて俺の目の前に集い、一つの塊になろうとしていた。ゆっくりと塊が人の形に変わってゆく。俺はただ静かに目の前の塊を見つめていた。否、目を逸らせる訳が無かったのだ。何しろ、目の前に佇む塊は、みるみるうちに見覚えのある姿に変貌しようとしていたのだから。
(こ……これは、子供の頃の俺自身か!?)
部屋の隅に座り込み、哀しげに窓の外を眺めている姿……忘れもしない光景だった。卓の首絞め事件の後、俺は結局、部屋から一歩も出ることの出来ない状態に陥ってしまった。そうした状態を『引き篭もり』と呼ぶことも知っていた。思い出したくない姿だった……自分自身の弱さを見せ付けられるのは耐え難い苦痛を伴うものだ。
不意に、昔の俺が顔を挙げる。俺も慌てて目線の先を追う。ゆっくりと迫ってくるカラス天狗達の姿が目に留まった。
(ま、まさか……俺を討ち取るつもりなのか!?)
「止せ! 止めろ!」
それは一瞬の出来事であった。逃げようと立ち上がった瞬間、カラス天狗達は手にした六角棒で次々と俺を叩き付けた。何の迷いもためらいも無く、表情一つ変えること無く、力一杯叩きのめした。
「や、止めろーーっ!」
一瞬、俺の声にカラス天狗達の動きが止まったが、すぐさま執拗に殴打を再開し始めた。
「や、止めろ! 痛いっ! 痛いよっ! 誰か! 誰か助けてーーっ!」
耳を塞ぐしか出来なかった。目を背けることしか出来なかった。俺が飛び出したところでカラス天狗達に勝てる訳が無いのだ。無表情のまま昔の俺を撲殺しようとしているカラス天狗達が、俺には鬼に思えてならなかった。
「はぐっ! ぐえっ! い、痛い……あ……ああ……た、助けて……」
微かに搾り出すように発していた声も、やがて消え往く様に消え失せていった。
(死んだのか? 昔の俺は……何ということを……)
恐る恐る目を開けば、今まさにゆっくりと青白い光へと還って行こうとしていた。憎しみに満ちた目からは血の涙を流していた……まるで俺を非難するかのように力強く突き出された指先に、心が酷く痛んだ。
(どうして……どうして、俺は……俺は勇気を持てない!?)
一瞬、目を背けた瞬間、何かが羽ばたく音が聞こえた。次の瞬間、突然目の前に突き出された六角棒に息を呑んだ。まさか、俺まで討ち取るつもりか? 恐る恐る六角棒を手にした者に目線を向ければ、そこには険しい表情を浮かべた小太刀が佇んでいた。
「小太郎よ。情鬼と戦うとはこういうことよ」
「小太刀……俺は……俺は……」
力無く膝から崩れ落ちた俺を、小太刀は腕組みしながら静かに見つめていた。
「済まぬな。油断させておいて、壮絶なる光景を見せ付けた非礼は詫びよう。だが、情鬼と戦うとは、このような苦しみをも受け入れねばならぬということぞ」
小太刀は俺を見つめたまま、静かに語り続ける。
「情鬼は人と同じく『命』を持つ身。否、命だけで無く『心』をも持つ身。生きようと願うのは、命ある者の摂理よ……情鬼を討ち取ることと、人を殺めることに大差は無い。小太郎よ、お主にそれだけの覚悟はあるか? 多くの屍を乗り越えてまで、守ろうというだけの覚悟はあるか?」
今なら未だ引き返すことは出来るのだろう。小太刀と出会わなかったことにして、今までと何ら変わらぬ暮らしを営むのも悪くは無いのかも知れない。だが、その結果、小太刀は共に歩むべき相手を失い、俺では無い誰かが同じ苦しみを背負うことになるだけだろう。
(本当にそれで良いのか?)
良い訳が無い……そんなのは嫌だ……誰かが苦しむのを見るのは、俺自身が苦しむのよりも、遥かに、遥かに辛いことだ。だったら、俺が背負うべきだ……逃げないさ。逃げて、逃げて、ただひたすらに逃げ続けた結果、俺は何もかもを失った。もう、何も失いたくない……だったら、答えは一つだ。
「……覚悟ならあるさ」
「ほう?」
「俺は……あの日、あの時、あの瞬間、何もかもを失った。生きることへの希望さえも捨て去ろうとした。だが、それでもなお俺は生きることができた……ならば、もう畏れる物は何も無いさ。修羅にだろうが、鬼にだろうが、何にだってなってやるさ!」
小太刀は満足そうに微笑みながら、そっと手を差し出した。俺はその手を力一杯握り締めた。 これで俺と小太刀は運命共同体になった訳だ。生きるも死ぬも一緒だ。随分と安易に答えを出してしまった。だが、深く考えれば答えは遠退いていっただろう。我が身を守ることだけを優先しようとしてしまう、自分の不甲斐無さを目の当たりにするだけなのは判っていた。迷ってしまえば、自ずと逃げてしまうだけだ。ならば、自ら退路を断てばよい。変わるんだ……俺も仲間達の様に、なりたい自分になるんだ。そのための第一歩だ。もう逃げ道は無い。だから突き進むだけだ。
運命共同体か……それならば。俺は手を握ったまま続けた。
「俺は皆から『コタ』と呼ばれている。小太刀は見た目が黒いから『クロ』とでも呼ばせて貰おう。 あだ名はトモダチの証だ」
小太刀は……いや、クロは俺の手を力一杯握り締めた。温かな感触のする手だった。涼やかな表情を見せていたクロだったが、大きく目を見開き、ついでに大きく翼を広げていた。良く判らないが……何やら、妙に興奮しているようにも見えた。握り締めた手にも、かなり力が篭っている。身を乗り出しながら迫ってくるクロの気迫に俺は動揺し切っていた。
(な、何がどうしたのだろうか?)
「我の夢……それは、人と友達になることであった。そして、コタは我を友と呼んでくれた! 何と嬉しきことよ……」
「そ、そんなに喜んで貰えると、俺も……」
「今宵は祝祭と参ろうでは無いか!」
「ひっ!」
目一杯顔を近づけながら、迫ってくるクロの迫力に思わず俺は尻餅をついた。それでもなおクロはぐいぐい迫ってくる。ついでに妙に鼻息が荒くなる様子に少々焦りを覚えた。よほど嬉しかったのだろう。涼やかな表情は崩れ、見せたことの無いような笑みを浮かべていた。小躍りし出しそうな勢いから察するに、クロに取っては大きな意味を持っていたのだろう。
「コタよ、良ければ我のお気に入りの場所を散策せぬか? 友とは自らが気に入っている物を分かち合うものと聞く。是非、我のお気に入りの場所を共に歩んで欲しいのだ」
冷静さはすっかり失われ、妙に熱の篭った口調で語り掛けるクロは、これまで見た姿とは大きく異なっていた。戦いに身を置いている時は敵を討ち取るべく気持ちを昂ぶらせているのだろう。だからこその冷徹な振舞いなのだろう。こうして普段の素顔を見るのは、当然のことながら初めてのことだが、クロは意外と面白い奴なのかも知れないと感じていた。それに、カラス天狗のお気に入りの場所というのも興味惹かれる。
「ああ、それじゃあ案内して貰おうか」
俺の返事を受けて嬉しそうに笑うクロの表情は、今まで見た彼のどんな表情よりも良い表情に思えた。その笑顔の中に俺は言葉に出来ない感覚を覚えていた。それは今までに感じたことの無い不思議な感覚だった。胸が締め付けられるような、息苦しくなるような……それでいて満たされる様な、本当に表現し難い感覚だった。分かたれた欠片同士が出会い、再び一つに納まる感覚。少々大袈裟過ぎる表現だがそんな感覚を覚えていた。もしかすると俺達は遥か昔からの親友同士だったのかも知れない。そう考えると歴史ロマンとでも言うのだろうか? 確かに、熱い想いのような物を感じた気がする。
クロと間近に向き合い改めて感じること。何やら良い香りがすることに気付いた。その香りはお香の様な、大自然の木々を思わせる香りがする。普段使っている道具の影響だろうか? 心が落ち着く良い香りを感じていた。
「クロは良い香りがするな」
「ふむ。白檀の香りよの。我が使っておる道具に起因するものぞ」
白檀の香り……太助が使っている扇子の香り。いや……もっと昔にも同じ体験をした気がするのだが? 思い出せない。思い出せない……ううむ、何かを忘れているような気がする。とても、重要な何かを。不意に思い出したところで、俺は思わず我に返った。
「なあ、クロ……」
「うむ? 何だ?」
「憎悪の能面師はどうするつもりだ?」
盛り上がるクロの熱情に水を差すつもりはなかった。だが、奴を討ち取らない限り不安は消え去らない。不安を抱く俺とは裏腹にクロは涼やかな笑みで応えてみせた。
「足取りが掴めぬ以上は泳がせておく他無い。それに――天狗と天狗使いとの間の絆の深さが無ければ、真の力は発揮できぬ。故に腹積もりを分ち合うことは極めて肝要なることぞ」
「そ、そういうものなのか?」
何だか都合よく丸め込まれてしまった気がするが、クロの強烈な押しの前に俺は太刀打ち出来る気はしなかった。
「さて。それでは参ろうぞ」
「あ、ああ……」
俺も歩み出そうとした瞬間、唐突に腕を力強く引っ張られた。凄まじい力に引っ張られ、俺の体が宙に舞い上がる。すぐさまクロがその背で受け止める。
「おいおい。随分と乱暴なことだな。もう少しお手柔らかに頼みたいものだが……」
「ふむ。細かいことは気にするな」
(気にするよ!)
月明かりを受けながら俺達は京の空を飛んでいた。こんな景色、当然のことながら生まれて初めての体験だ。人は鳥で無ければ、鳥にはなることも出来ない。鳥は普段こういった景色を眺めているのだろうか? そんなことを考えていた。夜空に瞬く朧なる月。普段とは違う場所から見る月も、やはり月であることには変わりは無い。だが、今宵の月からは物悲しさは感じなかった。穏やかな想いを感じていた。共に歩む仲間と共に見る月は、同じ月であっても違う顔を見せる物なのか。俺はただ静かに感慨に耽っていた。
次第に風が出てきたのか、俺は湿気を孕んだ心地良い涼風を肌で感じていた。静かなる月夜の晩。俺は夜空に浮かぶ月を眺めていた。
「我ら天狗一族は閉鎖的な一族でな」
唐突にクロが語り始める。俺は月を見つめながら耳を傾けた。
「人の世を守ることを使命とする一方で、人と関わることを好まない者達が多い。そんな一族の中では我は変わり者として見られておる。幼き頃より鞍馬の集落をコッソリ抜け出しては、人の世の中に身を置いたりしておったからな」
「ほう? どこかの誰かと良く似ている気がする」
好奇心旺盛な性分なのだろう。判らなくも無い。俺の身近なところにも無駄に好奇心旺盛なのが一人いるからな……。
だが、小太刀と接していると確かに好奇心を惹かれる。鞍馬の集落とは一体何処にあり、どのような生活を送っているのだろうか? 普段は何をしているのか? 好きな食べ物はあるのか? 急にクロが身近な存在に思えてきた。
「随分と北の方角に向かっているな。すっかり市街から離れた景色だ」
何時の間にか眼下に広がる景色は明かりの殆ど無い場所だった。これだけ暗いと、一体どの辺りを飛んでいるのか皆目検討もつかない。
「フフ、そろそろ目的地に到着する。着陸するゆえ、しっかりつかまっておるが良い」
クロは静かに身を翻すと、俺を気遣いながらゆっくりと着陸した。ゆっくりと地表が近付いてくる。舗装された道路と、まばらに佇む家々が目に飛び込んでくる。クロは慎重に着陸した。そこは何処かの小さなバスの待合所のように見えた。屋根と椅子のある簡素な外観。見覚えのある景色の様に思えたが暗過ぎて判然としない。周囲を見回せば看板が目に飛び込んできた。「京都バスのりば」と書かれた看板から、そこが何処であるかに気付いた。
「そうか。ここは大原か?」
「うむ。良くぞ判ったな」
クロは腕組みしながら嬉しそうに微笑んでいた。不思議なものだな……気が合いそうな気はしていたが、早くも好きな場所が一致するとは驚きだ。
「奇遇だな。俺も大原は好きな場所だ」
「ほう? これは奇遇なり。実に嬉しいことよの」
「ああ。子供の頃から何度も来ている場所だ」
目を閉じて風を肌で受け止めれば緑の息吹を感じられる。静かな景色には少し離れた場所を流れる川の音色だけが染み渡る。あの川の向こう側には中学校があったな……そんなことを考えながら、しばし目を伏せて風を感じていた。
「なぁ、少し歩かないか?」
「うむ。共に行こうぞ」
俺の提案に、クロは腕組みしたまま静かな笑みを称えていた。
バス停を後にして横断歩道を渡す。そのまま緩やかな坂道へと向かう。少し歩けば見渡す限りの田園風景が広がる。静寂の景色の中で、静かに風を受けて揺れる稲の緑。時に紫蘇の鮮やかな赤紫。大原は柴漬けで有名な街だ。こうして地元で育てた野菜を活かして柴漬けを作るのであろう。
俺達は三千院へと向かう緩やかな参道を歩んでいた。小川の流れる涼やかな音色が静かに染み入る。道中に存在する土産物屋は夜なので閉まっているが、明るい時間帯であれば此処は賑わいを見せる参道となる。立ち並ぶ土産物屋が往来する参拝客に声を掛ける光景が見られる。観光客に人気の高い三千院は、この参道をまっすぐ行けば到達する。この参道は三千院を往来する数え切れない程の人の流れを見届けてきたのだろう。
「この先に景色の良い展望台がある。高台より大原の地を一望できる場所ぞ」
参道の途中でクロは横道へ俺を案内しようとした。何処に案内しようとしているか判ってしまうからこそ思わず笑いが毀れる。
「お前は本当に面白い奴だな」
「うむ? 何が面白いのだ?」
「その展望台、俺もお気に入りだ。俺とクロは趣味が良く似ているな」
俺の言葉を受けながらクロは嬉しそうに微笑んでいた。本当に面白い奴だ。情鬼と対決していた時のクロは何だか気難しく、高飛車な印象しか受けなかったが、こうして普段の姿と見比べると中々に面白い奴だ。
そういえば、ふと気になっていたことがある。展望台へと続く小道を歩きながら俺はクロに興味を投げ掛けてみた。
「なぁ。クロってさ、人の年に換算すると何歳位になるんだ?」
一瞬困ったような表情を見せながらも、クロは可笑しそうに笑いながら返してみせる。
「我は十と七つであるが……コタはどうなのだ?」
「へ? 同じ年だったのか? ますます意外だな」
「ふむ。ということは、コタも十と七つか。なるほど」
妙に落ち着いている一面があったり、変に度胸があったりと、明らかに年上だろうと思っていたが意外にも同じ年とは驚いた。同じ年という事実にさらに親近感が沸いた気がした。
「さぁ、コタよ。展望台に到着するぞ」
展望台なんて呼び名ではあるが、良くあるテーマパーク的なご立派なものでは無い。地元の人々が勝手にそう呼んでいるだけの小さな広場だ。そもそも手書きの看板で「展望台」と書かれている辺りが、何とも地元を愛している感じで温かい気持ちになる。
「夜とは言え、意外にも月明かりは明るいものだな」
「うむ。風情があるな。こういう景色も悪くは無い」
闇夜の中、月明かりだけが優しく里を照らし出す。大原は平地では無いため斜面に田畑を作る。緩やかな斜面であるため階段状に水田が作られている。段々畑と呼べる程明確な段差がある訳では無いが、表現としては適切であろう。この段々畑の光景……子供の頃から好きな景色だった。山々の裾野に広がる広大なる若草色の敷物……大自然の作り上げる情景の中に、俺は生命の息吹を見出す感覚が好きだった。
不意に、静かに風が吹き抜けた。その風に呼応するかの様に新緑の葉を伸ばした稲がサラサラと揺れる。寄せては返す、さざ波の様な音色に二人でしばし聞き入っていた。何時までも聞いていたい音色であった。心地良い風であった。そっと頬を撫でる様な風が吹けば、その度に稲がサラサラと揺れる。
零れ落ちそうな程に瞬く星空に穏やかな月明かり。新緑の緑を称える稲達。風が吹けば青臭いような香りと共に、さざ波の様な涼やかな音色が響き渡る。いつまでも聞いていなくなる涼やかな音色だった。
心安らぐ光景であった。その一方で、ずっと胸の奥に支えている違和感は次第に膨れ上がってゆくばかりであった。
(おかしい……やはり、クロとは遠い昔に、出会ったことがあるような気がしてならない。何故、俺を大原に連れてきたのか? 本当に、単純に好きな景色を共有したかっただけなのだろうか? それとも、俺の心の奥底に眠る記憶を蘇らせようとでもしているのだろうか?)
そっとクロの表情を盗み見てみる。俺の眼差しに気付いたのか、腕組みしながらも温かな眼差しで応えてくれた。
「フフ、我の顔に何か付いておるか?」
「あ……いや。そういう訳では無い」
俺の勝手な勘だが、クロは何もかも知っているのでは無いだろうか? 一連の事件の真相も、俺の胸の奥に支えている言葉に出来ない想いも、全部、全て。
「フフ、コタよ、そんなに見つめられると照れてしまうでは無いか?」
「あ、ああ……ごめん」
だが、予想通りはぐらかされてしまった。その振る舞いは、俺の中に芽生えた思惑を確信へと導くには十分であった。
月明かりに照らされたクロの横顔。大きなくちばしに月明かりが反射している。穏やかな笑みを浮かべるクロの表情は、無垢過ぎて、あらぬ疑いを掛ける自分が恥ずかしくなった。
「良き景色よの……」
「ああ、そうだな」
時が経つのを忘れてしまいそうになる光景だった。
陽の光に照らし出される景色は、強い日差しと蝉の声に照らし出され活力ある印象を受ける。此処には確かに生命の息吹が宿っている。そう主張するかのような力強い印象を受ける。だが、月明かりの下の景色というのは、また違った趣がある。眠りに就く木々や草花の吐息。静けさの中に微かに染み渡る稲の葉が奏でる、さざ波の様な音色。こういう涼やかな情景も悪くない。
此処でこうしてクロと佇む……やはり、心の何処かで何かが引っ掛かる。もしかすると俺は昔、クロと大原の地を歩んだのかも知れない。幼い頃から大原には何度も訪れている……。
一つだけ――そう。一つだけ思い出した記憶がある。確か遥か昔……俺がまだガキだった頃に、この地を見知らぬ少年と歩んだ記憶がある。その少年と……確か、この周囲を歩いたはずだ。その後、俺達は――。
「コタよ」
回想への誘いは唐突にクロにより断たれる。
「あ、ああ。何だ?」
「友とは秘密を共有する物と聞く」
「は?」
「我だけが知る秘密の場所に案内しようと思うのだが、いかがであろうか?」
何かズレている気がする……。人の世に首を突っ込み、様々な文化を学んでいるだろうことは想像がつく。だが、その価値観はズレている。秘密を共有するのが友なのか? 何か違うような気がする……。友だからこそ、人には言えないような秘密を共有することもある。これなら、理解出来るのだが、ううむ……。
相変わらずクロは掴み所の無い奴だ。妙に強引な一面を見せたかと思えば、今度は俺の表情を伺いながら提案をしてみせたりする。姿形こそ違えど、内面は人と大差は無いのかも知れない。表情豊かなカラス天狗とは実に親しみ深いでは無いか。
「今度は、どこに案内してくれるのかな?」
笑顔で応えれば、クロも嬉しそうな笑顔で返してくれる。
「フフ、それは行ってのお楽しみよの。次の機会に案内するとしようぞ」
「ああ。その時は、よろしく頼むぞ」
小太刀は静かに月を見上げながら穏やかな笑みを称えていた。月明かりに照らし出されたクロの横顔は穏やかな月明かりに照らし出されていた。クロはそっと月を見上げながら小さく囁いた。
「ふむ。今宵はもう暫く、この地と共に在りたい」
「ああ。俺も同じこと考えていた」
「ほう? 奇遇であるな」
一陣の風が吹き抜ける。新緑の稲が奏でる涼やかな音色。青臭い香りを堪能しながら、俺達は景色と一体になれるように心を落ち着かせた。溶け込みたかった。一つになりたかった。大原の雄大な自然と共に、母なる大自然に還りたかった――大袈裟でも、何でもなく、そう表現するのが恐らくは最も適切だった。俺達を照らし出すのは満天の星明かりと柔らかな月明かりだけだった。風は、ただ静かに吹き抜けるばかりであった。
クロは俺と生活を共にすると言った。戸惑いはしたがクロの姿は俺にしか見えないらしい。少なくても家族を驚かすことにならなければ問題は無いだろう。随分ろ安易な考えではあったが、こうして俺とクロとの共同生活が始まった。その最初の夜は打ち寄せる波の様な睡魔に勝てず、俺は呆気なく沈黙した。色々なことがあったお陰で、すっかり体力を消耗してしまったのだろう。家に戻った俺は、ベッドに横たわるとすぐに眠りに就いてしまったようだ。
どれ位眠ったのだろうか? 心地良い眠りは唐突に打ち破られる。耳元を往来する不快な羽音……聞き覚えのある音だ。この不快な羽音の正体は蚊か? 人の安眠を妨害するとは許し難き蛮行。ええい、そこに居直れ!
ゆっくりと眠りから覚め始める。気が付いた時には、驚愕の表情を浮かべる小太刀の姿があった。
「んん? おお、クロか。良い朝だな」
「お、お主は一体どんな夢を見ておったのだ?」
クロは妙に動揺した表情を見せていた。一体何のことを問われているのかは寝起きの頭では良く判らない。
「いきなり……『ええい、そこに居直れ!』 とは、悪党を成敗する夢でも見ておったか?」
可笑しそうに笑うクロの反応に、先刻の自分自身の行動を振り返る。
(い、いつものアレをやってしまったか? ううむ……は、恥ずかしい……)
「わ、若気の至りという奴だ……」
「ふむ。良く判らぬが、まぁ良しとしよう。それよりも、コタよ。朝だぞ」
クロが窓の外を指差す。中々良い時間に目覚めることが出来たものだ。だが先刻の蚊の存在は見過ごす訳にはいかない。敵を討ち取らない限りは落ち着いて過ごせない。頻りに部屋を見渡す俺を見つめるクロは、腕組みしながらにやにや笑っていた。
「フフ。目覚ましには、実に効果的であったという訳だな」
「何の話だ?」
「蚊の音で目覚めたのであろう?」
何やら話の流れが読めてきた気がする。ことのつまり、俺を起こすためにクロが仕掛けたという訳か……効果はあったが何か納得出来ない。
不意に母が階段を登ってくる軽やかな足音が聞こえる。いつものように、俺を起こしに来たのであろう。既に目覚めている俺を見て、母が驚いたような表情を浮かべる。
「あら? 今朝はちゃんと起きれたんか? 朝食の準備は出来てはるから、早うお上がりやす」
何事も無かったかのように去ってゆく母。再びにやにや笑いながら腕組みしてみせる小太刀。
「フフ、言った通りであろう? 我の姿はコタにしか見えぬ」
「……なおのこと、要らぬ行動を起こすなよ?」
クロは俺の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、相変わらずにやにや笑うばかりだった。さて、クロと戯れている場合では無い。せっかく早起きしたのだから遅刻しないように準備をしなければならない。
それにしても目覚めた部屋にカラス天狗が居ることに、こうも違和感を覚えることなく、何事も無かったかのように過ごせるとは我ながら適応能力の高さに驚かされる。
朝食を済ませた俺はシャワーを浴びた。この蒸し暑さの中で一晩過ごせば相応に汗もかく。よし。これで身支度は万全だ。
着替えを済ませて玄関を出れば、どんよりと曇った空模様。沈んだ空模様とは裏腹に蝉の声が響き渡る暑さ。今日も暑くなりそうだ。早くも滲み出す汗を感じていると、不意に背後から声を掛けられる。
「おはよう、コタ。今朝はちゃんと起きられたみたいだねー」
振り返れば、にこやかな笑顔を浮かべる輝が佇んでいた。俺は苦笑いを浮かべながら返す。
「人を寝坊の常習犯のように言うな……」
「んんー?」
ふと、輝が俺の後ろをじっと凝視していることに気付いた。どこか怪訝そうな表情を浮かべていた。
(もしかして、輝にはクロの姿が見えているのか?)
妙な焦りからか、嫌な汗が噴き出す。
「ねぇ、コタ……あれから、何か変わったこと起きていない?」
「どういう意味だ?」
「うーん……何かの気配を感じるんだよねー。ちょうどね、コタの斜め後ろ辺り」
輝は好奇に満ちた笑みを浮かべたまま俺を見上げていた。そんなやり取りを見ていたのか、背後からクロが語り掛けてくる。
「輝は中々に勘が鋭いな。我の姿を感じ取っている様子」
なるほど。自称霊感少年というのも、あながち間違えてはいないのであろう。輝の意外な才能にクロは興味を惹かれたように見えた。やはり人の世のことには興味津々なのだろう。
「それにしても、可笑しな出来事が続出するよね」
「世の中は不思議に満ちているからな。良かったじゃないか? 不思議な体験できて」
「良くないってー。もうちょっと、穏やかなので良かったんだけどなぁー」
振り返りざまに輝が笑ったところで、タイミング悪く信号が赤に変わる。ここで一時停止。やはり、クロの言う通りその姿は輝には見えていないのだろう。微かにクロの気配を感じているといったように思えた。
ふと顔をあげれば空は静かに唸りをあげていた。深い灰色の空模様は見る者の心さえも濁らせるように思えた。
(嫌な空模様だな……)
深い灰色の空模様は晴れ渡ることの無かった俺の心を揶揄しているようにさえ思えた。透き通ることの無い濁った心模様。何かが引っ掛かっているのだが、その何かが明確に見えない不快感を覚えていた。静かに唸る空模様は気持ちを沈める忌々しい存在にしか思えなかった。思わず吐息が毀れる。
「曇っているせいか蒸し暑いよね。汗かいちゃうよ」
額の汗をハンカチで拭いながら輝が笑う。
「汗臭さは男らしさの証らしいぞ?」
「えー、ナニそれー」
「うちの親父の格言」
そういうのは格言とは言わないよ。輝は可笑しそうに笑っていた。
信号が青になる。再び学校を目指し一歩を踏み出せば、ぽつりと一粒の雨粒が頬に零れ落ちた。冷たい感触に一瞬足を止めそうになったが、後ろは振り返らない。前へ進むことしか出来無いのだから。道は俺達の前には出来やしない。道は俺達が歩いた後に出来るということだ。
教室に着いたが、窓の外は相変わらず落ち着かない空模様だった。鈍色の空は重く圧し掛かるかのように幾重にも渡って重なり合っているかのように見えた。時折小雨混じりの雨が降る、梅雨の残り香のような空模様だった。気象庁は梅雨明け宣言することをためらっている様に思えた。「明けた」と明言してしまえば色々と面倒なことになるのだろう。まぁ、俗に言う「オトナの事情」という奴だろう。
それにしても気が滅入る空模様だ。ふと昨夜のことを思い出す。クロと共に大原を歩んだ光景の中に、そっと佇んでいた川原の紫陽花の青紫色。
(紫陽花の綺麗な季節だな。今度、クロと一緒に三千院に紫陽花を見に行くとするか)
そんなことを考えながら窓の外の景色を眺めていた。不意に扉が開くと、桃山が勢い良く教室に入ってきた。今日の桃山は落ち着いているように見えた。何時もと変わらぬポニーテールを綺麗に結い上げている様子からも、落ち着いている様は伺えた。予想通り、数日後には山科が退院するという連絡があったことを伝えてくれた。
「ま、あたしが担任じゃあ色々と不安だったかも知れないけどねー」
山科が戻れば桃山も再び副担任に戻る。手放さなければならない担任の立ち位置が少々名残惜しそうに思える笑顔であった。
その後は何事も無く一日が過ぎ去っていった。そして迎えた放課後。だが、まだ非日常から俺達は完全に逃げ切れた訳では無かった。錦おばさんの件は結局のところ何一つ判ったことは無いのだから。無理に穿り返すつもりは無い。ただ、錦おばさんがあの後どうなったのか、気掛かりだった。あの事件に巻き込まれたのは事実なのだ。だとしたら、その後の状況が気にならない訳が無い。それに――避けて通ることが出来ない道であることは間違いない。ふと、横に目をやれば、クロは何かを考え込んでいる様子であった。そっと、目を開くと俺に向かい力強く頷いて見せた。なるほど……。ならば答は一つだ。皆で歩む帰り道。会話の途切れた瞬間を見計らい、俺は皆に提案する。
「なぁ、皆。錦おばさんの所に行かないか?」
俺の提案に皆快く賛成してくれた。心配な気持ちは一緒だということだろう。俺達は皆で錦おばさんの銭湯を目指すことにした。無論クロも一緒だ。
夕暮れ時になっても暑さは一向に退く気配を見せない。人通りの絶えない街並みに蝉の声が染み渡る。東大路通を北上し祇園さん前の交差点を曲がり、四条通へと入ろうとしていた。ここは特に人通りの多い賑やかな通りだ。飲食店も多く立ち並ぶ。
そろそろ輝の心霊話にも飽きてきたのか、立ち並ぶ飲食店に目線を送りながら力丸が話題を変える。
「そういえばさ、この間さ、亀岡の所に遊びに行きついでに、伏見の鳥せいに行って来たんだよ」
伏見の鳥せい……また、微妙な話題に切り替えてくれたものだ。有名な店だ。地酒と――それから、鶏肉料理の店。ふむふむと、腕組みしながら興味津々に耳を傾けるクロであったが、俺はクロの反応が気になって仕方が無かった。
「伏見の鳥せいと言えば、酒蔵じゃのう。さては、リキよ……お主、酒を呑みに行ったのじゃな?」
「まぁ、酒豪の亀岡と出掛けて、酒を呑まない訳は無いな」
畳み掛けるような大地と太助の突っ込みに、一瞬、怯む力丸であったがすぐに否定する。
「酒を呑んでいたのは亀岡だけ。オレは焼き鳥を食ってただけだっつーの。大体酒呑みはおめぇらだろ?」
一瞬、取り乱したような素振りを見せたが、すぐに二人に対して切り返す。
「俺は梅酒が好きだな」
フフと笑いながら太助が返答する。
「ワシは地酒が好きじゃな」
したり顔で胸を張りながら大地が返答する。
「二人とも問題発言だな……」
シレっと放たれる問題発言に突っ込みを入れずには居られなかった。
「や、焼き鳥……とな?」
背後からぽつりと聞こえる裏返った声。嫌な予感を覚えつつ恐る恐る背後に目線を送れば、予想通り、立ち止まったままクロは硬直していた。
(あー、やっぱり反応する内容だよな……)
「な、何をニヤついておるか?……わ、我は、断じて『鳥』では無い……ぞ」
クロは心中穏やかでは無い様子であった。ここまで取り乱している姿は始めて目の当たりにした。何しろやたらと目が泳いでいる。鳥では無いと主張はするものの、やはり「焼き鳥」という表現には多分に反応する様子。意外な弱点を見つけたが、迂闊に刺激すると反撃が恐ろしそうだ。何やらブツブツと文句を言っている様子だが、良く聞こえないので放置しておくとしよう。
「焼き鳥かー。ううむ、やはり焼き鳥には、やはり地酒じゃな」
あくまでも地酒を推す大地に、輝が苦笑いしながらツッコミを入れる。
「えっと……ロックはまだ、未成年でしょ?」
「フフ、軟骨のコリコリを堪能しつつ、地酒を頂くと言うのはじゃな、中々に良いものなのじゃ」
「ななな、軟骨を、コリコリ!?」
再び背後から聞こえるクロの裏返った声。そっと振り返れば予想通り、再び硬直していた。
(おーおー、目を真ん丸くしてみたり、青ざめてみたり、クロは意外に表情が豊かだな)
「お前は酒呑みのオッサンか……」
フフと笑いながら太助が突っ込みを入れれば、力丸が頭の後ろで手を組みながら満面の笑みで応える。
「オレはやっぱり、焼き鳥だったら肉食うかなー。あー、でも、皮も棄てがたいんだよなー」
「に、肉を食う!? そ、それに、か、皮となっ!?」
段々とクロの表情が険しくなってきたぞ……。この話題は少々危険性を孕んでいる気がする。ううむ……それにしても、随分と盛り上がっている様子。後でこいつらは酷い目に遭わされるだろうな。ま、俺じゃないから後は頑張って耐えてくれ。
「こ、コタよ……ひ、人と友になるというのは、意外なる衝撃の連続なのだな……」
「ま、まぁ、そうだな。文化の違う者達同士が手を組めば、驚くこともあるよな」
全然フォローになっていない気がする。少々クロには重た過ぎるカルチャーショックだった様子。これはクロと一緒に出掛ける際には注意が必要だな。すぐに思い浮かんだが、伏見のお稲荷さんは絶対に駄目だろう。何しろ名物は「スズメ焼き」だからな。店先から漂う香ばしさ。肉の焼ける音、脂が焦げる香り。香りは焼き鳥そのものなのだが、どうにも、あの見た目は好きになれない。以前、親父と一緒に伏見に出掛けた時に、愛想の良い店のおばさんに薦められたが、店先で思わず硬直してしまった記憶が蘇る。
『頭蓋骨はね周りのお肉だけ食べたら、棄ててねー』
シレっと言われた壮絶過ぎる一言に、ますます硬直させられた。あの光景を目の当たりにしたらクロは倒れてしまうかも知れない。くれぐれも気をつけよう……。
何時もと変わらぬグダグダなトークを繰り広げているうちに、俺達は錦おばさんの銭湯に到着しようとしていた。四条通から錦市場方面に抜けた先に佇む昔ながらの銭湯。四条通りや錦市場を表通りとするならば、ここは裏通りになる。
人通りの絶えない四条通は人の往来の絶えない賑やかな通りで、車も人もひっきりなしに往来する。四条通から錦市場方面への道に入ると、道幅は一気に狭くなる。
錦市場は食材を売る店が立ち並ぶ賑やかな通り。様々な食材を扱う店々が立ち並ぶ活気あふれる場所。力丸のお気に入りの場所のひとつでもあった。
この界隈は路地裏に入ると人々の生活の香りが漂う。古めかしい木造の家々が立ち並ぶ情景は温かみに満ちている。美味い食い物屋も多く、力丸や太助に色々な店を教えて貰った場所でもある。
錦おばさんの銭湯は錦市場を使う人々に古くから親しまれている場所でもあり、俺達も良く活用している場所でもある。少々古びた外観ではあるが昭和の赴きを残す味のある佇まいは何時訪れても心が落ち着く。時の流れは残酷で、何時だって走り抜けてゆくばかり。だから、時の流れが止まった様な赴きは心が安らぐ場所でもあった。大きな煙突は、盛んに黒煙を吐き続けている。湯を沸かすために薪を燃やす。それもまた、この街のあるべき姿なのだろうから。
「それじゃあ、皆で入るぞ」
俺が先陣を切れば皆が後に続く。
「ふむ。ここが銭湯か。中々に味があるではないか」
銭湯という物に興味があるのか、クロは興味深そうに周囲を見回していた。着いて来いと声を掛ければクロも皆に続いた。
比較的早い時間帯なのもあり、俺達の他には誰も訪れていない様子だった。むしろ好都合だ。他の人がいたのでは、錦おばさんと込み入った話も出来ない。だからといって腰を据えて話し込むのもそれはそれで怪しまれる。適度に引き際を心得る必要がある。その微妙なさじ加減が難しい。
「あら。皆揃って、いらっしゃい。良く来てくれたねぇ」
錦おばさんは何時もと変わらぬ豪快な声で出迎えてくれる。だからと言って五条大橋での事件のことを覚えているかと直球ストレートな聞き方は絶対にまずい。少々変化球で挑む必要がある。
「この間は無事に帰れたのか? 熱射病を甘く見ない方が良い」
俺は何食わぬ顔でさらりと話を切り出した。
「無事に帰って来られたわ。心遣いありがとうね」
クロは俺の背後で腕組みしながら、静かに錦おばさんの動向を見据えていた。
「あれからね、ちゃんと外を歩く時には帽子を被るようにしたのよ」
「そうか。なら一安心だな」
中々切り出せる雰囲気では無かった。だからと言って下手に聞き出し、警戒されてしまうことは避けたい。そんな俺の想いを知ってか知らずか、やれやれと言った表情で太助が救いの手を差し伸べる。
「そうそう。バイク事故で入院していた山科は、数日後には退院するらしいぞ」
「そ、そうなのかい? ま……まぁ、大事に至らずに良かったじゃないか」
一瞬……本当に一瞬だったが、錦おばさんの目が泳いだ。やはり、一連の出来事が記憶に残っているのだろうか? 考え込む俺にクロが背後から語り掛ける。
「ふむ、これはどうしたことか?」
「どういうことだ?」
「ふむ……見えぬ。心の内が見えぬ。深い霧の中にいるかのような光景よの」
回りくどい言い回しに少々不安を覚えた。だが、クロの鑑識眼は少なからず俺達のそれよりも遥かに鋭く、的確に事実を見極めている。深い霧の中にいるかのような光景……それは、一体何を意味しているのだろうか? 疑問を抱く俺の問い掛けに応えるかのように、クロが向き直る。
「深い……実に深い霧で、自らの本心を隠しているように見える。霧が深過ぎて、まるで本心を見抜くことが出来ぬ。相当、隠したい想いなのであろう」
脳裏を過ぎる想い……蘇る記憶。武司さんの死。錦おばさんと山科との間に起こったすれ違い。唐突に響き渡った怒号。動揺した表情で葬儀場から飛び出した山科。それに続き、包丁を手にした錦おばさんが罵声を浴びせた光景。
『帰ってくれ! あんたに……あんたなんかに、来て貰っても駄目なんだよ! 武司を、武司を返しておくれ!』
髪を振り乱し山科を怒鳴り付けた錦おばさん。自らの手を負傷してまで、必死で止めようとした賢一さん。それから――降り頻る雨の中、濡れることさえ厭わずに土下座し、地面に頭を擦り付けていた山科。
『武司を! 武司を、返しておくれ! あああああーーっ!』
忘れたくても忘れることの出来ない程に鮮烈な情景。目を背けたい程に悲痛な出来事であった。
必死で隠し通そうとする錦おばさんの悲痛な想い。それが判ってしまうからこそ深入りすることは出来なかったし、真相を明かすつもりも無かった。いや……俺達、部外者が無理矢理こじ開けるような真似をしてはならないと確信していた。
「閉ざされた扉を無理にこじ開けようとすれば、扉は酷く壊れてしまい二度と開かなくなるであろう。時が来るのを待つのが良かろう。だが、忘れてはならぬぞ?」
クロの言いたいことは判っている。判っているからこそ余計に迷いが深まる。
その深い憎悪は理解している。触れてしまったからこそ見えてしまう想いもある。
恐らく、錦おばさんは意図的に隠そうとしているのでは無いだろう。深過ぎる憎悪……もしかすると、霧が深いことの意味は違うのでは無いだろうか? 憎悪が深過ぎるからこそ暗過ぎて何も見えなかっただけなのでは無いだろうか? 決して覗き込むことの出来ない自らの心は、あまりにも深過ぎて、奈落の底は光さえも届かない程に遠く、暗い場所になってしまっているのだろう。錦おばさんの心の闇は、もはや見ることすら叶わない程に深くなってしまったのだろう。情鬼……いや、人事では無い。俺にも……。
錦おばさんの想いは判らなくも無い……もしも仲間達を失うことになったら……それが誰かの手によるものだったら? 俺は絶対に、そいつを許すことは出来ないだろう。そいつを殺して俺も死ぬだろう……。俺が何を考えているのかに気付いたのか、クロは静かに俺をみつめていた。
「おーい、コタ、何しているんだー? 早く入ろうぜー」
風呂場から力丸の豪快な笑い声が響き渡る。
「あ、ああ。すぐ行く」
余計な詮索はここらが潮時だろう。俺は制服を籠の中に脱ぎ捨てると、急ぎ皆の後を追った。無論クロもまた服を脱ぎ捨てると俺の後に続く。服の上からでも判る見事な体付きは、服を脱ぐと実にはっきりと判る。思わず見とれてしまった。そんな俺の視線に気付いたのか、クロが照れ臭そうに笑い返す。
「こ、コタよ……そんなに見つめられると照れるというものぞ」
「あ、いや、スマン」
微妙に気まずい空気が流れる中、風呂場から輝の弾んだ声が響き渡る。
「あー、やっぱり広いお風呂はいいねー」
「足が伸ばせるってのが、何よりも幸せだよなー」
「ううーん、いい湯だねぇ。ますます、可愛くなっちゃうよねー」
輝の発言に思わずコケそうになった。
「ならないだろっ!」
「うわっ! みんなで声揃えて、全否定しちゃうー? 傷付くー」
(いやいや、傷付くような性分でも無いだろ……)
相変わらず輝の発言は微妙過ぎる。さすがは自称アイドルだな……。
俺も皆に続き風呂場に向かう。湯をかぶり、体を軽く流す。ふと、横を見ればクロも俺の真似をしていた。銭湯を訪れるカラス天狗……中々に珍妙な光景だ。
皆がくつろぐ浴槽に足を入れる。相変わらず結構な熱さだ。だが、この熱さが無いと錦おばさんの銭湯に来たという感じがしない。
傍らではクロが気持ち良さそうに翼を広げている。
「ふむ。これが銭湯という物か。温泉のようなものであるな」
「温泉とは少し違うな。もっと人工的なものだ」
「なるほどな。だが、これはこれで中々味があって悪くない」
広い浴槽が気に入ったのか、クロは上機嫌な様子だ。
「あ、良いこと思い付いたー」
風呂場に輝の明るい声が響き渡る。
刹那、安堵に満ちた皆の表情が一瞬にして戦々恐々な殺気を感じ取り強張る。
「ほう……それで、次なる戦場は何処だ?」
湯で顔を潤しながら太助が冷ややかな口調で問い掛ける。
「嫌だなぁー、その手の話じゃないよ。ほら、丁度今日は、天神さんで縁日やっているじゃない? お風呂上りに夕涼みも兼ねてみんなで行かない? って思ってね」
輝は可笑しそうに笑いながら返してみせた。
思わず皆一斉に顔を見合わせる。ついでに顔を寄せ合い緊急の作戦会議が開催される。
「ふむ……天神さんの周辺で、その手の話は聞こえては来ておらぬの」
「まぁ、そういう話題とは縁遠そうな場所だから、大丈夫だよな」
ここ数日、特に強烈な体験をしているせいか、皆、妙に慎重になっている。冷ややかな反応を輝は苦笑いしながら受け止めている様に見えるが、数日もすれば綺麗さっぱり忘れるだろう。しっかりと記憶しているならば、可笑しな事態には陥らないはず。だが、何度も繰り返しているのは何故か? 人は忘却する生き物なのだ。そんな哲学論で自らの行いを性善説に持ってゆくのは如何なものかと思う。
「縁日か……風情があって悪くないな。折角だから浴衣で向かうのも粋だな」
危険性が無いと判れば盛り上がるのが常。憎悪の能面師の足取りも掴めないのも事実。病は気からと言う。見果てぬ恐怖に怯えるよりも攻めに転じるべし。それに人の世の文化を知る良い機会だ。クロも案内しよう。予想通り、ちらりと目線を送れば嬉しそうに肩を組んでくる。
「浴衣で縁日か。ふむふむ。実に興味を惹かれるな」
「縁日には露店もある。露天では様々な物が売られる。ちょっとしたお祭りみたいなものだな」
「ほう? それは楽しみよの」
縁日とは元来は神仏と縁のある日を指し示す言葉であるが、それは昔の話と化している。今では小規模な祭と化しており露天も多数出される。縁日には皆とも良く出掛けるが、行動パターンが実にハッキリと表れる。輝はあんず飴など甘い物、大地はイカ焼きなど酒のつまみ系、力丸は焼きそばやらフランクフルトやら腹に溜まりそうなもの。で、それを涼やかな目で見届ける太助といった具合に個性がハッキリ分かれる。俺はカキ氷があれば満足。ねぎ焼きが売っていれば、何が何でも食べる。ねぎは万物の頂点に立つ食い物だと信じて疑わないからな。
縁日はその雰囲気が良い。賑わう感覚が皆と繋がっていることを再認識出来て安心出来るのだ。夜の街に賑わいを見せる縁日と来れば、クロも興味も惹かれることだろう。しかし、浴衣か……まぁ、探してみるか。
皆で話し合った結果、現地に集合という段取りになった。皆、住んでいる場所もバラバラなのを考えれば妥当な案であろう。言い出した輝には幹事の役を担って貰うという名目上の大儀を与えた。俺達は時間差で現地到着を目指すことにした。クロと一緒に行動する以上は、出来るだけ余計な気配りをせずに移動したいという想いもあった。
「えー、なに、なにー? ぼくだけ先に行くのー?」
「言い出したのは輝、お前だろう?」
「う……仕方ないなぁ。判ったよ。でも、みんなも早く来てよね」
輝は少々不満そうではあったが幹事の役目は果たして貰う必要はある。何しろ現地に着いたが誰も居ないのでは路頭に迷うから……と、もっともらしい理由を付けて、上手い具合に輝を煙に巻いたところで一旦解散となった。
家に戻ってきた俺は浴衣を探していた。そういえばクロの姿が見えないが何処に出掛けたのだろうか? 相変わらず気まぐれなことだ。
(それにしても……「出掛けて来る」と言いながら、窓から飛び立つのはどうかと思うのだが……)
「おかしいな。何処に仕舞いこんだか……」
思い付く場所は大体探したが、探し物は中々見付かる気配を見せない。こういう時は捜査の基本に帰るべきだ……と考えるまでもなく、まだ探索していない場所に答があるのだろう。まだ探していない場所……タンスの奥を探ってみた。すぐに見覚えのある藍色が見えてきた。
「よし、無事に浴衣を発見したぞ」
これで準備は万端だ。それにしてもクロは何処に行ったのだろうか? チリーン。緩やかな風が吹けば軒先に飾られた風鈴が涼やかな音色を放つ。暑さ対策の扇子も用意した。これは太助の真似。これで少しは男前度上がるだろうか?
「良し。取り敢えず着替えるとするか」
鏡の前に立って帯を締めていれば、不意に玄関の戸を叩く音が聞こえる。
(お届け物でも来たのか?)
俺は急ぎ、帯を締め終えた。玄関に向かえば、どこか見覚えのある大柄な人影が写る。何となく想像は出来たが、恐る恐る戸を開けてみれば
「コタよ、我も浴衣に袖を通してみたのだが、いかがであろうか?」
予想通り、そこには涼やかな笑みを浮かべるクロが佇んでいた。それにしても、浴衣に袖を通してって……一体どこから調達してきたのだろうか? 余計な詮索はさておき、よくよく見れば中々に渋好みな若草色の浴衣。体格の良さも手伝ってか良く似合っていた。
「ほう、意外に様になっているな。男前度も上がったんじゃないか?」
階段を登りながら軽口を叩いて見せれば、クロは笑いながら応える。
「フフ、我に惚れるなよ?」
(コイツ……意味判っていて言っているのか? いや、意味判っていて言っているとしたらそれはそれで悩ましい……いやいや、色々と問題だな)
頭を抱える俺を、首を傾げながら見つめるクロ。悩ませているのはお前だ。それにしても上手い具合に翼を収納するとは中々に器用なものだ。
「クロは見事な体格だから、何だか外国人が浴衣を着ているみたいだな……」
「む。何を申すか。我は国産ぞ?」
(こ、国産って……おいおい、それじゃあ、ますます鶏肉の産地だ。それで良いのか?)
さすがに翼を収納した状態で空を飛ぶことは出来ないだろうし、何よりも目的地の天神さんは人も集まる場所である。そんな所に大空から着陸という構図は要らぬ問題に繋がることは間違いない。ここは大人しく陸路で向かう作戦とするべきであろう。
「クロ、四条河原町からバスで移動するぞ」
「うむ、了解した。それでは早速参ろうぞ」
部屋を後にしようとした所でクロが足を止める。険しい眼差しで虚空を見つめたまま、しばし何かを思案している様子。
(もしや……憎悪の能面師の気配を感じ取ったのだろうか?)
緊張が走る。俺は慎重に周囲を見渡していた。
「ふむ。コタと二人きりでの旅路とはな……これが俗に言う『逢瀬』という奴であるな?」
危なく階段を勢い良く踏み外すところであった。
(コイツ……意味判っていて言っているのか? いや、意味判っていて言っているとしたら、それはそれで悩ましい……いやいや、極めて深刻な問題だろ……)
「まぁ、良い。軽くボケたところで、北野天満宮を目指すとしようぞ」
軽くボケたところで……やはり、クロは途方も無く中途半端に人の世のことを理解している様に思えた。お笑いにも通じていそうな辺りが、どうにも珍妙な奴だ。例えるならば外国人留学生と共に暮らすような感覚か? お国が違えば文化も異なる。ううむ……これは本格的に教育しなければならなそうだ。少々悩ましい気持ちを胸に抱きながらも、俺達は家を後にした。
「ふむ。コタよ、折角であるから腕でも組むか?」
「……あのなぁ」
「フフ、コタは愛い奴よの。照れておるのか?」
全身全霊の力を篭めて、それこそ命を賭して教育しよう。上機嫌なクロの笑顔からは、どこまで本気で言っているのか判らない辺りが恐ろしい。単純に俺の反応を見て楽しんでいるだけなのか? それとも……本気で言っているのか? クロは感情を隠すのが巧いだけに注意が必要そうだ。何だか出掛ける前から無駄に汗をかいた気がした。
外に出れば、すっかり夕暮れ時になっていた。今日は湿気が多いらしく酷く蒸し暑い。せっかく銭湯でサッパリしてきたというのにまた汗ばんでしまいそうだった。先刻のクロとのやり取りでも無駄に汗をかいた気がする。
雲は消え失せ、夕焼け空が街並みを照らしていた。路地裏は夕方の風情を感じさせる光景。夕食の支度をしながらも窓は開けておかないと暑くていけない。窓の傍に蚊取り線香を灯す家も目に付いた。クロは興味を持ったのか不思議そうに蚊取り線香を見つめている。
「これは線香か? ふむ。ぐるぐる渦巻きとは中々に風変わりな線香であるな」
「ああ、これは蚊取り線香だ。蚊を寄せ付けないようにするものだ」
「ふむ。なるほど。人の世には我らの知らぬ文化が多々あるものよの。実に興味深い」
夕暮れ時の路地裏。打ち水をしている小料理屋の女将さんの姿が見える。涼やかな風に心が穏やかになる。俺達に気付いたのか笑顔で会釈をしてくれた。俺も会釈で返す。和服の女将さんが打ち水をする。こういう風情ある光景は涼やかな気配りに満ちていて悪くない。
皆が忙しく行き交う路地裏。夕暮れ時になるとこの界隈は特に賑わう。花街らしい光景だと考えながらも花見小路へと抜ける。
「この辺りは賑わいを見せておるな」
「ああ。花街だからな。夜になると、賑やかになる」
「ふむ。確かに酒の香りがする」
クロは酒好きなのだろうか? 偏見かも知れないが天狗達は酒豪揃いのような気がする。恐らくはクロも凄まじい酒豪なのであろう。俺の詮索混じりの眼差しに気付いたのか、腕組みしながらクロが笑い返す。
「フフ、コタの父上は中々の酒豪とお見受けした。我らが里に是非とも案内したいものだな」
「カラス天狗達は酒豪揃いなのか?」
「ふむ。我は呑まぬが、底なしの酒豪揃いであるのは事実よ」
勝手な想像だがクロには呑ませない方が良さそうだ。何やら危険な香りがする。
夕暮れ時の花見小路は店開きの準備に忙しい。観光客だろうか? 人通りは何時も以上に多く感じられた。規則正しく並ぶ石の床に、黒を基調とした店がずらりと立ち並ぶ。ぼんやりとした明かりは控え目に辺りを照らし出している。夕焼け空の赤と、黒を基調とした街並み。控え目の明かりが通りを華やかなに描き出している。わき道に目をやれば、やはり雰囲気を感じられる景色が広がる。こういうわき道には興味を惹かれる。ついつい吸い込まれそうになる衝動を抑えながら、俺達は歩き続けた。
クロと他愛も無いお喋りをしているうちに花見小路を抜けて四条通へと至る。この道は祇園さんから始まる長い道。土産物屋や飲食店が所狭しとならび賑やかなる繁華街。人の波に混じりながら俺達は四条河原町のバス停を目指した。
南座を過ぎればやがて見えてくる四条大橋。鴨川の流れは涼やかな音色を称えていた。人の往来の多い四条大橋を抜け、さらに賑わう四条通を歩き続ける。河原町通の交差点を過ぎれば、ようやくバス停に到着する。それにしても暑い。歩き回ったおかげで余計に暑くなった。額の汗を拭いながら早くバスが来て欲しいと願っていた。俺の願いが届いたのか、すぐにバスが到着する。後はこのままバスに揺られて北野天満宮前まで向かえば良い。俺達は出来るだけ人目に付き難い最後尾の座席に並んで腰掛けた。幸いバスはそれ程混雑していない様子であった。
日はすっかり沈み、辺りには夜の帳が見え隠れし始めていた。夜の街並みは人工的な明かりに照らし出されて、これはこれで風情があって悪くないものであった。街灯の明かりに飲み屋の看板。パチンコ屋の派手なネオンに信号の明かり。人の作り出した街を彩る、人の作り出した景色。クロは興味深そうにバスの外を流れ往く景色を眺めていた。
バスという閉鎖空間は時として人生模様を照らし出す鏡にもなる。殆どの乗客はすれ違うだけの存在達ばかりで、二度と会うことも無いであろう一期一会の人々なのだろう。だからこそ、こういう場所には物語があるのでは無いかと考える。
観光客も乗っていれば仕事帰りのサラリーマンだって乗っている。もしかすると、俺達と同じく天神さんの縁日に向かう人々も乗っているのかも知れない。人と人が交差する場所には物語が生まれるものなのだろう。そう考えると感慨深い気持ちになる。だからなのだろうか? ついつい停留所に着く度に乗り込む人々、降りて行く人々をまじまじと見てしまう。
傍らでは相変わらず興味津々に街を見つめるクロの姿があった。
「クロは大自然の守人でもある訳だろう? 人の築き上げた街に違和感を覚えたりしないのか?」
「少なくても我は違和感を覚えぬ。だが……」
俺の問い掛けにクロはしばし考え込んでいたが、どこか哀しみを孕んだ瞳で俺を見つめながら、身振り手振りを織り交ぜ語り始めた。
「多くの天狗達はこうした文明を嫌う」
クロの言葉に俺は、思わず振り返っていた。だが、クロは静かな笑みを称えたまま話を続ける。
「自然を破壊し、その上に築き上げられた街並み。いうなれば人の築き上げた街は『墓標』そのもの……そんな見方をする者達も少なくは無い」
街は墓標そのもの……衝撃を覚える表現だった。だが、確かにそうなのかも知れない。人は大自然を破壊し、その上に街を築き上げた。大自然を生きる者達からすれば、とんでもない略奪行為だ。人の幸せのために、どれだけの木々達が、草達が、あるいは、そこに住んでいた生き物達が犠牲になったのだろうか? 知らぬことは罪。知らなかったから無罪放免等ということは在り得ないのだ。
「ごめん……」
思わず謝る俺に向き合うと、クロは静かな笑みを称えながら肩を組んでくれた。
「謝ることはあるまい。人は過ちを犯す生き物であるが、同時に罪を償うこともできる生き物である。我はそう信じておる」
クロは本当におかしな奴だ。視点の切り替えとでも言えば良いのだろうか? 天狗としての視点と、人としての視点を巧みに切り替えながら物事を考えている。だから、視野の広い考え方が出来るのかも知れない。その器用さは学びたいものだ。
「こんな狭いバスであっても様々な人々が存在する。バスに乗り込む者もいれば、バスを降りる者もいる。人の数だけ物語があるということよの」
「へぇ。クロは詩人だな」
「フフ、我に惚れたか?」
「……そういうことにしておこう」
自然に言葉が零れ落ちた。俺の肩に回されたクロの腕にも不意に力が篭った気がした。不思議な気分だ。クロとならばそれも悪くないと思えた……自分で自分の考えが見えなくなってきた。クロは本当に不思議な奴だと思った。冷静沈着な一面もあれば、とても純粋な一面もある。時に子供の様な無垢一面を見せることもあれば、心をかき乱す振る舞いを見せることもある。
「我がコタを守る。何があってもな?」
不思議な感覚だった。遠い昔にも、同じ台詞を耳にしたことがある気がする……。
「守る、か……俺、男なんだけどな?」
クロは微笑みながら俺の顔を覗き込んで見せた。
「ならば、コタが女であったならば違和感は無かったであろうか? そうでは無かろう? 友とはもっと普遍的なものであると我は認識している」
確かにその通りだと思った。どうやら人という生き物は一度自らの価値基準が定まると、その物差しでしか物事を推し量れなくなるらしい。俺が嫌うオトナ達の在り方と何ら変わらないでは無いか。やはり、クロと接していると多くのことを学ぶことが出来そうだ。
「フフ、クロは人よりも、ずっと人らしいのかも知れないな」
「褒め言葉であるな」
クロは満足そうな笑みを浮かべながら窓の外を眺めていたが、不意にこちらに向き直る。
「コタよ、我はコタと共に多くの場所を歩んで見たい」
「ああ、俺もお前と一緒に色んなことを学びたいな。クロと一緒にいると色々と学べそうだ」
「ふむ。そうであるな。我とコタならば多くのことを共に学べるであろう」
大自然を生きる身であるからなのだろうか? クロは本当に大きく感じられた。見た目も確かに俺よりも一回り大きいが、そんなことは関係ない。見た目なんて所詮は仮初の器に過ぎないのだから。
「悪くないものだな。クロとの二人旅というのも」
「フフ、そうか? 光栄よの」
「ああ……自分でも良く判らない感情だけど、クロと出会えて良かったと思っている」
クロは窓の外の景色をみつめていた。駆け抜けるバスと同じく外の景色も駆け抜けていた。時の流れを。人が築き上げた『墓標』という名の街明かりの中を。窓の外を流れる景色を見つめながら、クロは静かに微笑んでいた。満たされているのだろうな……俺も同じだ。何だろうな、この感覚。言葉に出来ない感覚。だけど決して悪い感覚では無い。また言われてしまうだろうか? 『余計な詮索は止せ』と。そうだな……詮索なんて無粋な行為だ。あるがままの流れを肌で感じ取り、あるがままの流れを肌で受け止めれば良い。
「もう、すっかり夜だな」
「うむ。良き夜よの」
周囲は何時しか完全な夜になっていた。バスは夜の街を淡々と走り続けていた。暗闇の中に人が築き上げた文明の光だけが瞬き続ける。飲食店の看板であったり、ガソリンスタンドの照明であったり、パチンコ屋の派手なネオンであったり。煌びやかな景色を見ながら、『墓標』という表現が俺の中で重く圧し掛かってくるのを確かに感じていた。