表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

ほたるの灯火

 夜半の叡電に揺られ、半ば夢見心地な気分ではあったが、心地良い眠りは唐突に終焉を告げられる。何のことは無い。ことのつまり、出町柳に到着し、ついでに皆に放置されただけのことであった。おまけに車掌に苦笑い交じりに起こされただけのこと。酔い潰れていた訳では無いが、誰もが知る有名な台詞で起こされたのは人生初のことであった。何だか一気に老け込んだ気がした。それにしても、起こしもせず物陰から悪意に満ちた笑みを浮かべる辺り、皆実に良き友達だ。

 階段を下り京阪の出町柳へと移動する。出町柳から祇園四条までは大した距離では無いが、とにかく外は暑い。しかも嫌な汗を掻いたこともあり、少しでも涼やかな場所に身を置きたかった。そんな訳で、俺達は出町柳を後にし京阪電車に揺られながら祇園四条まで向かうことにした。

 機械音だけが響き渡る無機質な改札を抜け、石の香りが漂うホームへと降り立つ。皆、何時もと変わらぬ様子で楽しそうに談笑している。どこかで信じ切れない自分がいた。こいつらは本当に俺の仲間達なのだろうか? あの能面の奴らに未だ惑わされてはいないだろうか? そんなことを考えながら、皆の振る舞いを注意深く観察していた。

(色々なことがあり過ぎたから、少々疑心暗鬼に陥っているのかも知れ無いな)

少なくても奇異な振る舞いや、何らかの異変は感じられなかった。ただの取り越し苦労であったか。再び安心していた。やがて列車がホームに近付いてくる。暗いトンネルの向こうに光が差し込み始め、ついでにトンネル内に金属音が反響する。ブレーキを踏みながら駆け込んでくる列車の音が響き渡る。やがて列車は完全に停車し扉が開いた。皆、我先にと空いている席に急ぐ。そんなに焦らなくてもホームには俺達以外いない。心配せずとも占領状態になるだろう。

 祇園四条までのしばしの旅路。俺はただ静かに窓から駅の電光掲示板をみつめていた。微かに薄暗いホームの明かり。流れ往く電光掲示板の文字。言葉に出来ない無機的な光景に無限の哀しみを感じていた。随分と無機的な景色だ。鞍馬で感じた景色とは大きく色合いの異なる、人々の息吹が感じられない景色であった。ここには命の息吹は無い……ようやく手にした平和なのに、何故か言葉に出来ない空虚さを覚え、心がしんみりと冷えてゆくような気がした。

(何だろう? 言葉に出来ない哀しみに満ちてゆく。離れてゆくから? 鞍馬から? いや……違う。そうでは無いような気がする。では一体? この感覚は一体何なのだろうか?)

やがて列車が走り出す。みるみるうちに駅の明かりが遠ざかり、漆黒の闇に飛び込む。

 地下鉄の景色は嫌いじゃない。駅は明かりがあり煌々と照らされているが、駅と駅の間は漆黒の闇。電車の音だけが反響する不可思議な閉鎖空間になる。時々思う。例えば駅と駅の間で列車が事故か何かで唐突に停止。なおかつ停電が発生し、安全地帯であるはずの列車内さえもが闇に呑まれたら……どれ程の恐怖なのだろうか? 遭遇してみたいとは思わないが、その時、俺はどんな行動を起こすのだろうか? 窓の外を駆け抜ける規則正しく並ぶ電灯の白い光を眺めながら妄想だけが駆け巡っていた。

「ねぇ……コタってばさ、さっきからブツブツ言っているけど、どうしたの?」

 輝が怪訝そうな表情を浮かべながら俺を覗き込む。

「お得意の妄想が暴走しているのだろ」

 にやにや笑いながら、ボソっと太助が呟く。

「おー、いつものアレじゃな」

 人差し指を立てながら大地が笑う。

「心の中だけにして置けって。虚空に向かって森本レオ口調で語るの、すげー不気味だぜ?」

 やれやれといった表情で、何時ものように力強く肩を組む力丸。

(……こいつらも何時か、妄想の偉大さに気付くはずだ)

 やがて祇園四条に到着する。俺達は改札を抜けて地上への階段を歩んでいた。すれ違う人もいない空虚な光景。階段の先からはうっすらと街明かりが覗いていた。

ようやくの思いで地上に出れば、目の前に広がる南座。城を思わせるような圧倒的な存在感。紫の垂れ幕に赤い提灯。月明かりを背に今夜も威風堂々と佇んでいた。懐かしの四条の町並みが視界に飛び込んで来る。賑わう四条通は人も車も引っ切り無しに往来する。その光景は京都一の繁華街の名に相応しい情景であった。非日常な体験をしてしまうと変わらない日常の世界が如何に大切であるかを思い知る。良き教訓になった。

 頬を撫でてゆく風は生暖かいと呼ぶにはあまりにも暑過ぎる。湿気を孕んだ熱気はただでさえ汗ばむ体に纏わりつくような感覚で、茹だる様な気候に思わず力が抜ける。

「ひー、外に出ると暑いのじゃ……」

「夜になっても観光客の足は途絶えねぇなぁー。さすがは祇園だぜ」

 静かに周囲を見渡せば見慣れた景色がそこにはある。揺るぎ無き四条大橋の光景も、橋向こうに続く賑やかな街明かりも何一つ変わっていない。俺達は、ふらふらとにしんそばの松葉に向っていた。南座の賑やかさについ惹かれてしまった。こういう景色を見ると本当に心から安心できる。やっと忌まわしい悪夢から解き放たれたのだと実感できる。大袈裟かも知れないが……助かった。本気でそう感じていた。懐かしい景色が現実の物であることを確かめる様に、周囲を見渡していると不意に鼻腔をくすぐる香ばしさが漂ってくる。

「うーん、何か美味しそうな匂いするねぇ。ふむふむ、これは鰻の松乃だねぇ」

 鰻を焼く香ばしさに、ついつい引き寄せられてしまう。空腹には勝てないものだ。

「お目当てはそんな高級品では無いだろう? ほら、こんな所に立っていても暑いだけだ」

 皆が汗だくの中でも太助は相変わらず涼やかな振る舞いを見せる。色んな意味で変わらない光景であった。振る舞いも言動も涼やかな太助は殆ど汗をかかない。本人曰く決して代謝が悪い訳では無いらしいのだが、毎度のことながら不思議に感じる。やはり白檀の香り漂う、あの風情あふれる扇子の賜物なのだろうか? 興味津々な眼差しを向ける俺に気付いたのか、太助は涼やかな含み笑いを浮かべて見せる。白檀の香り漂う扇子で風を扇ぎながら静かに歩み寄る。

「何だ、小太郎? 俺があまりに良い男だから見とれていたか?」

(見とれてはいたのはお前の扇子だ……相変わらず、誤解を招く表現が好きな奴だ)

祇園の街は相変わらずの賑わいを見せる。夜だというのに人の波は一向に途絶える気配を見せはしない。漂ってくる鰻の良い香りにしばし足が止まりそうになりながらも、俺達は一銭洋食の店を目指し、信号で待っていた。やがて信号が青に変わる。往来する人の波に混じり俺達も歩き出した。



一銭洋食。お好み焼きの原型となった食べ物。此処の店では甘辛いタレが印象的な一銭洋食が楽しめる。メニューはこれだけ。少々妖しげな店構えも洒落が利いていて悪くは無い。軒先には犬にパンツを引っ張られる男の子のマネキンが得も言われぬ異彩を放つ。中々捻りの利いた光景に怯まされながらも、店内に入れば目のやり場に困る絵が描かれた、これまた洒落の利いた絵馬が埋め尽くす光景に遭遇出来る。何故か和服姿のマネキン人形が椅子に腰掛け佇んでいたりと、昭和のレトロな風景を描いたのだろうが、それにしてはかなり風変わりな光景である。これはこれで非日常の光景だ。

「何時来てもカオスな店だよなぁー」

 頭の後ろで手を組みながら、力丸がにやにや笑う。

「いらっしゃいませ。五名様でしょうか?」

 その背後から、不意に店員に声を掛けられ、驚きついでに慌てて振り返る。余程驚いたのか、条件反射的に応えていた。

「ああ。五人前頼む。それで、皆、飲み物は何にする?」

 皆、満場一致でラムネを頼む辺り中々に粋な反応だ。

この店にはメニューが一品しか無い為、席に着けば、何人前注文するかを聞くだけだ。今回は珍しく力丸は一人前しか頼まなかったな。普段なら三人前は軽く食うのだが、やはり、奇妙な体験をしたことが影を落としているのだろうか?

 そんなことを考えていると、店先から一銭洋食を焼く小気味良い音が聞こえてくる。ついでに良い香りに思わず腹が鳴る。恐怖と空腹との間にさしたる関連性は無さそうだ。どうやら恐怖とは関係なく腹は減るものらしい。

 レトロな店内に懐かしい曲が流れる。あみんの「待つわ」。その時代には俺はまだ生まれていなかった気がするが、何故懐かしい曲なのだろう? これは懐メロ好きの親父の影響だな。そういうことにして置いた方が幸せだろう。

「それでさ、あの後どうなったの?」

 目を輝かせる好奇心旺盛なトラブルメーカーに再び現実に引き戻され、思わずため息が毀れる。輝の好奇心は留まる所を知らない。ましてや非日常の体験をした後だから、なおのことだろう。これは迂闊な返答は出来ない。重要な部分を避けながらも、上手い具合に本筋を伝えない限り引き下がらないだろう。全く……身近な所に事件リポーターモドキがいるのは、それはそれで疲れる。

「能面を被った人がうじゃうじゃ出てきて、それから……えっと、どうなったんだっけ?」

 輝は何やら記憶が曖昧な様子であった。操られていた時の記憶は鮮明には覚えていないのだろうか? それならば、なおのこと必要以上のことを喋らない様に細心の注意を払わないといけない。何しろ輝の勘の鋭さは半端じゃない。知恵を絞って考えた嘘を一瞬で見抜く辺りは、恐ろしい才能だ。女の勘は鋭いと聞くが、輝の勘の鋭さはそこいらの女の比では無い。占い師の如く的確に見抜き、その上確実に当てる。まるで心の内を見透かされているかのように。

 輝曰く、霊感が非常に優れているらしく、簡単に見抜けてしまうらしい。まったく……どこのインチキ霊能者に告げられたのか知らないが実に迷惑な話である。

「そうそう。思い出したよ。確かロックが能面をつけたら……」

「うむ。剥がれなくなってしもうて、路頭に迷った所までは覚えておるのじゃ」

 大地は何故かマネキンのかつらを被りながら不敵に微笑んでいた。

「うぬっ!? このかつらもカビ臭いのじゃ!」

 だが、唐突に漂ってくるカビ臭さに動揺したのか、慌ててかつらを地面に叩き付ける。その様子を見ながら、輝が可笑しそうに笑う。

「あはは。もう、ロックってば何しているのさー」

笑いながらも、ふと何かを思い出したかのように輝が身を乗り出す。

「アレ? でも……そうだよねぇ? ぼくも、その辺りまでの記憶しか無いんだよねぇ。何でだろう? ううーん……」

 腕組みしながら考え込む輝の姿に、何やら不穏な物を感じずには居られなかった。余計なことを口にするのは、燃え盛りたい炎にわざわざ油を注ぐようなものだ。要らぬ行動は慎むのが長生きの秘訣。ここは、ひたすらに沈黙を貫き通すか、そうで無ければシラを切り通すとしよう。

 それにしても……皆、気付いていたのだろうか? 一昨日の晩に鞍馬で起きた一件から一晩経ったという事実に。記憶が無いから仕方が無いのだろうか? 落ち着いた所で説明するとしよう。

「はーい、お待たせしましたー」

 丁度、ラムネが人数分運ばれてきた。皆条件反射的にラムネを口にしながらも、考え込んでいた。立ち込める沈黙。だが、すぐに沈黙は輝の好奇心で打ち破られる。

「えっと……その後、何がどうなったんだろう?」

「さぁな。次に気が付いた時には、このザマだ」

 太助は苦々しい表情を浮かべながら、腕に出来た赤々とした大きな斑紋を睨み付ける。

「あー。余計なこと思い出させるから、まーた痒くなってきちまったじゃねぇかよ」

「ほら。リキは一番肉厚だから、美味しそうに見えたんじゃない?」

「表面積のでかさでいったら一番じゃからのぅ」

「肉厚だの、表面積のでかさだの、失礼な野郎共だぜ。大体、オレはだな……」

「はーい、お待たせしましたー」

 やがて一銭洋食が人数分運ばれてくると、皆一斉に無言になった。熱弁を奮おうと立ち上がった力丸も「まぁ、今日はこんな所で勘弁してやろう」と、ぶつぶつ言いながらも大人しく椅子に腰掛けた。

「いただきまーす」

一斉に割り箸を割る軽やかな音色が響き渡る。こうなると後は動かすのは口だけ。ただし喋り目的では無く目の前の美味いご馳走をたいらげるためにだ。

 男という生き物は実に単純である。旨い物を目の前にすれば、ぴたりと会話は止まる。囀る小鳥のように、喋り続けながら食を進める女という生き物の価値観は、恐らく未来永劫理解出来ないだろう。

 焼きたてだけに口中に熱さが染み渡る。一銭洋食の甘さと辛さの入り乱れるタレは何度食べても好きな味だ。子供の頃から何度も食べているのもあるのかも知れない。学校からも近いし、放課後に小腹が好いた時には、何時もご厄介になっている馴染みの店だ。九条ねぎの芳醇な香りが堪らない。やはりねぎは万物の頂点に立つべき存在だ。うどんでも蕎麦でもねぎは大量に、だ。ねぎ焼き等は最高のご馳走の一つだ。ラーメンには埋まるほどねぎを入れないと気が済まない。皆からはヒンシュクを買うが、好きなものは好きなのだ。仕方が無い。

「やはり出来たては熱々だな」

「コタの大好きな、九条ねぎもたっぷり入っているよ」

「この玉子の半熟加減は、匠の技だよなー。オレも腕を磨くぞー」

 皆、汗だくになりながらも黙々と食い続ける。これが女子高生の集団ならばもっと賑やかなのかも知れないが、男子高生の集団なぞこんなものだ。先行するのは食い気という訳だ。

「それにしても、謎が深まるよねー」

 輝は相変わらず話を元に戻そうと必死で軌道修正を試みる。ふと横を見れば、余程話に夢中なのか……口の周りがソースだらけだ。それはネタなのか? 思わずコケそうになる。

(おいおい、輝……口の周りがソースだらけだぞ……)

 目で促したのに気付いたのか、慌ててお手拭でゴシゴシしてみせる。全く、その集中力をもっと別のことに活かせば良い物を……と、説教臭いのはオッサンの証拠だったか? 要注意だな。

「えっと……ぼく、何を話そうとしていたんだっけ?」

「初恋の相手について、熱く語ろうとしていたのだろう?」

 空になったラムネのビンの中をふらふらと転がるビー玉を眺めながら、太助が含み笑いを浮かべる。

「ああ、そうそう、ぼくの初恋の相手は……って、あ、アレ?」

(惜しいな、太助よ……もう少し、上手く誘導尋問していれば、口を滑らせていただろう)

 外から吹き込む風は相変わらずジットリとした湿気を孕んでいる。だが、どこか違和感を覚えずには居られなかった。何に違和感を覚えるかと問われると返答に窮するのだが。

 不意に輝の視線を感じ、そっと顔を挙げれば、何やら妙に目を輝かせている。にこにこ笑いながら、じっと見つめる目線には嫌な力が篭っている。これは警戒水位を突破したな。要注意だ。

「そういえばさ、どうしてコタだけ全然蚊に刺されていないの?」

 予想通り、そこを攻めてくるか。だが、真相は語らない。

「さぁな。俺みたいな捻くれ者には、蚊も興味を示さないのかも知れないな」

 太助流の含みを篭めてさらりと交わす。そもそも蚊に刺される訳が無い。ひたすら走り続けていたのだから、蚊が刺せる隙等あるはずがない。対する輝達は、どういう状況であったかは定かでは無いが、あの蒸し暑い気候の鞍馬に一晩中居た訳だ。当然、蚊に刺される確率は高くなるだろう。

「それにしても奇怪な話だ。皆が同じ光景を見ているのだから、夢では無いだろう。それに、あの能面をつけた集団に襲われようとは予想もしなかったな」

 皆を見回しながら、太助は一連の出来事を振り返っていた。お冷で喉を潤すと、俺の表情を覗き込みながら問い掛ける。

「そういえば、確か――山科を襲ったのも能面を被った女だったな?」

 さすがは太助。やはり着眼点が鋭い。真相を知っていたならば俺の口から説明することも出来たのかも知れないが、生憎真相は藪の中に潜んだままだ。小太刀は何かを知っている様子ではあったが黙して語ろうとはしなかった。仮にあの極限状態で余計な話をされても、恐らく俺は混乱して取り乱していただけだろう。まったく……小太刀も中々にいい性格をしておられる。

(あの冷静さは、太助以上かも知れないな……)

 チリーン。小太刀の飄々とした含み笑いを思い出した所で、不意に風に乗って、涼やかな鈴の音色が響き渡った。

(鈴の音?)

 俺は驚きついでに立ち上がり、周囲を見回した。だが何も見当たらない。皆が怪訝そうな顔で俺を見ていた。

「おいおい。コタ、いきなり立ち上がって、どうしちゃったんだよ?」

「鈴の音色、聞こえなかったのか?」

「いや? 猫でも通ったんじゃねぇのか?」

俺の問い掛けに力丸は苦笑いしながら首を傾げていた。どういうことだ? 俺にしか聞こえなかったのか?

「な、なぬぅ!? ねねね、猫じゃと!? あ、ああっ……そ、その言葉だけで体中が痒くなるのじゃっ!」

 猫アレルギーの大地は、猫の接近を感じ取ったのか、一人身悶えしている。

『その通り……お主にしか聞こえぬ音色よ』

(その声は小太刀か?)

『……深夜零時、八坂神社にて待つ』

 皆と共にいるのを気遣っての振る舞いなのであろうか? いずれにしても深夜零時に祇園さんで待つとは、何か判ったことがあるのかも知れない。どうにかして時間までに向う必要がある。真相を知りたかった。何も判らないまま取り残されるのは、酷く不安な気持ちにさせられるだけだから。

「コタってば、どうしちゃったの?」

「あ、ああ……ちょっとトイレに行きたくなってな」

 苦し紛れな返答を返す俺を、輝は怪訝そうな笑みを浮かべながら見つめていた。だが、不意に何かを思い出したのか、険しい表情で時計を凝視していた。微かに聞こえた溜め息。

「ぎゃー、痒いのじゃ!」

「何時までやっているんだ……」

「わはは、にゃーってか? にゃー、にゃー。わはははは!」

「にゃー、痒いのじゃ……って、にゃーじゃ無いのじゃ! ぎゃー!」

 痒がる大地を冷ややかな笑みを浮かべながら見つめる太助。面白がり便乗する力丸。

(おいおい、お前ら……店を壊すんじゃ無いぞ)

 輝は勘が鋭いから、俺が何か隠し事をしているのは既に気付いているのだろう。不意に話題を変えると、何事も無かったかのように一銭洋食を食べ続けてみせた。それ以上に、時計を目にした時から妙に落ち着きがなくなっていることの方が気になっていた。理由は判っている。だからこそ俺は何も言えなかった。

結局、一銭洋食を食べ終わった所でこの日はお開きとなった。

俺は輝と二人、四条通を歩んでいた。だいぶ人気は減ったが、それでも人通りは少なくは無かった。輝はずっと、足元を見つめたまま静かに歩むばかりであった。俺の目には、輝は敢えて能面の話題には触れないようにしているように見えた。変な気を使わせてしまったか? だが、逆に気になる。気を使っている背景には何があるのであろうか? 余計な詮索は止せと、何処からか声が聞こえそうな気がした。店を去った後も俺の耳から、あみんの「待つわ」が何時までも消えることは無かった。



 一銭洋食の店を後にし、俺は輝と共にただ静かに家へと続く道を歩んでいた。

輝は家が隣ということもあり、幼い頃から何をするにもずっと一緒だった。見慣れた四条の大通りを共に歩んでいたが、何かが違うような不可解な違和感を覚えていた。

 祇園さんへと向かう道を歩む俺達の間に言葉は無かった。あの母親のことを考えれば、輝も落ち着かないだろう。

「山科先生の怪我、早く良くなると良いね」

 足元に目線を落としたまま、呟くように輝が口を開く。

「あ、ああ……そうだな」

 辺りは妙な静けさに包まれていた。俺達の歩む足音だけが周囲に響き渡る。

「そうだ。明日さ」

 不意に輝が顔をあげた。街灯に照らし出された輝の表情は、どこが寂しげに見えた。

「みんなでお見舞いに行こうよ。きっと、喜んでくれると思うんだよね」

 今にも壊れそうな笑顔だった。四条通の街灯に照らされて輝の赤い髪がくっきりと浮かび上がる。柔らかな光の中に浮かぶ笑顔を俺はただぼんやりと見つめていた。輝の笑った顔は本当に子供みたいに思えた。何も知らない奴には、輝はただの子供染みた奴だとしか思えないのだろう。童顔で背丈も低いから余計に子供っぽく見えてしまうのかも知れない。

俺に取って輝は弟の様な存在だ。手の掛かる問題児としての一面は頂けないが、それもまた輝の個性だ。兄の気苦労は絶えないが、それも悪くは無いと思っている。

 祇園さん前の大通りは相変わらず交通量が多い。此処は四条通と東大路通が出会う場所。交通量の多いT字路で信号が変わるのを待つ。祇園さんの西楼門。鮮やかな赤が夜半の街に浮かび上がっていた。祇園さんの玄関口とも呼べる西楼門を見つめながら、俺は先刻の小太刀の言葉を思い出していた。暗い晩の中でも燃えるような赤い色を称えた西楼門は、ゆらゆらと揺らぐ俺の心を見透かしているかのように思えた。

(深夜零時に祇園さんで待つ、か……今が二十二時。風呂に入る位の余裕はあるかな)

「あー、もうっ、すっかり汗でベタベタだよー」

 輝は笑いながら、腕で汗を拭っていた。

「色々なことがあったからな」

「……家、帰りたくないなぁ。あの人、きっと怒っているだろうなぁ……」

 唐突に輝の表情から笑顔が消え往く。そのまま静かに立ち止まると、足元に目線を落とした。無理も無いだろう。輝の母親は、いきなりウチに乗り込んできて、ついでに喚き散らすような人物なのだ。行方不明になり一晩家に戻って来なかった事実を黙って受け入れるとは到底考えられなかった。あの人は子供の心配をする以上に世間体を心配する。輝が可哀想で仕方が無かった。だからこそ俺は決意していた。どんな状況になっても、必ず俺が輝を守ると。それもまた兄の務めだ。誰も守ってくれないなら、俺が守らなければ誰が輝を守る? 絶対に守るさ。

「輝……大丈夫か?」

「あ、ああ、うんっ。平気。平気だよ……。ほら、もう……慣れているからさ。あはは……」

 どんな返答が返ってくるかなど、判り切っていたのにわざわざ問い掛けていた。俺も嫌な奴だ。

 やがて信号が青に変わる。時の流れは本当に残酷だ。少しくらい手加減してくれても良いでは無いかと思う。だが、そういう時には決して手加減はしてくれない。時の流れというものは本当に残酷だと思う。

「輝、信号が変わったぞ?」

「あ、うん……」

 目線を落としたまま歩き出す輝の足取りは酷く重たく感じられた。つられて俺の足も重たくなる。お前が悪い訳じゃない。それに俺も同罪だ。俺も背負う。お前だけに背負わせはしない。罪……償わない訳にはいかないから。それに俺は兄貴だからな。兄が弟を守るのは当然のことだ。絶対に守り抜くから心配するな……そう言ってやれれば、輝はどれだけ勇気付けられたことだろうか。言えない自分の情けなさに腹が立った。何をいまさら照れているのか……理想と現実の境界線。それもまた残酷な現実なのかも知れない。

「時々さ」

 嬉々とした笑みを浮かべたまま輝が顔をあげる。頭の後ろで手を組んだまま話を続ける。

「ニュースとかで見掛けるじゃない? 子供が親を殺しちゃったって事件。何かさ、共感出来るんだよね。あー、その気持ち判るなーって思っちゃうんだよねー」

 信号が点滅し始める。輝を促し足早に駆け抜けた。

「ちょっと、嫉妬しちゃうよね。ほら、ぼくには、そんな勇気無いからさ。えへへ……」

 言葉に窮する俺を後目に、妙に嬉々とした表情で輝は喋り続けた。不自然なまでに活き活きとした表情に不安を覚えていた。だが、その表情とは裏腹に輝の足取りは重かった。無言で険しい表情を浮かべる俺に気付いてのか、輝は慌てた様子を見せていた。

「で、でもさ、理解も出来るし、共感も出来るけど、実行に移すのは別問題だよね」

「……」

 無意識のうちに険しい表情を見せてしまっていたのかも知れない。不意に輝の笑顔が固まった。慌てて腕を下すと、慌てた様子で強張った笑顔を見せた。

「あははー。ごめんね、変なこと言っちゃって……」

 違うんだ、輝。何か気の利いた言葉の一つでも言ってやれない自分に苛立っているだけなんだ。「俺はお前の味方だ。俺がお前を守る」。何故、その一言が言えないのか? ただただ悔しかった。

 再び輝は黙り込んでしまった。やはりあの母親のことを危惧しているのだろう。輝の両親は二人とも教師。だからこそなのだろうか? 人一倍成績に関しては口やかましい。特に母親が……反発するかのように髪を染めたのは大分昔のこと。愛嬌のある顔立ちに良く似合う赤毛の髪。当然、あの母親とは衝突したらしい。もっとも本人は髪の色を戻すつもりは毛頭無いらしい。童顔に良く似合っているし、俺は悪くないと思う。

 最近は太助に憧れて、アクセサリーにも興味を示している。変わりたいのだろう。その気持ちは良く判る。人は本当に非力な存在だ。多勢に無勢。力無き者は、力ある者に虐げられ続けるしか無いのだ。親なんて生き物はどこもそうなのだろう。子供のクセに……そうやって俺達の意見など、何の価値も無いかのように斬り捨てる。ろくに耳も貸さずに良し悪しの判断が出来るのだろうか? それこそが傲慢というものである。子供は親の言いなりになれば良い。そういう身勝手なことばかり主張するから、追い詰められ過ぎた子供に殺されるのだ。判っていない。押さえ付けられたバネという物は、押さえ付けられる力が強ければ、強い程……反発した際に跳ね返す力も強まるのだ。良く言うでは無いか。『因果応報』と。

だからこそ変わりたいという気持ちを抱くのは理解できる。大きな変化は望めない。ならば小さな変化を為し遂げながら外堀を埋める。外見を変えるだけでも心の持ちようは変わるものだ。力丸は外見を変えることで、思い描いた自分を作り上げる事に成功した。昔の力丸の写真を見た奴らは、一瞬、それが誰だか判らなかったと皆一様に口にする程に変化したのだ。

輝にだって出来るはずだ。変化することを時に不安に感じている様子ではあるが、何も心配することは無い。どんなに変わったとしても輝は輝のままだ。俺の弟であることには変わりは無い。

 夜半の大通りには俺達の歩く音だけが響き渡る。言葉無く肩を並べて歩く俺達の横を遠慮無しに車が走り抜けてゆく。明らかなスピード違反だ。事故でも起こして勝手に死ねば良い。だが、俺達を巻き込むなよ。その中に無駄に爆音を轟かせるバイクの集団がいた。凄まじい爆音に思わず耳を塞いだ。

「うわっ! 耳がキーンとしちゃったよ」

「暴走族か……くだらない烏合の衆め。事故でも起こして死んでしまえばいい」

暴走族……大人に成り切れない子供達。ニュース記事で以前読んだな。頭の悪い記事だった。読んだ瞬間、俺は記事を破り捨てたくなる衝動に駆られた。学者という人種やジャーナリストという人種は嫌いだ。上から目線で見知らぬ者達の心を見透かしたつもりになっている。お前達は神にでも成り上がったつもりか? 笑止千万。図々しいにも程がある。机上の空論を展開するだけでは、どんなに頑張ったところで真実からは程遠い結論にしか至らない。それが判らぬ以上、お前達はあの暴走族と何ら変わりは無い。

突然の喧騒が過ぎ去れば再び訪れる沈黙。相変わらず車がスピードを出して駆け抜けてゆく。東大路通を抜けて細い路地に入るまでは油断は出来ない。俺達は青になった信号を渡り、建仁寺の方角を目指し路地裏に入った。ようやく大通りの喧騒から開放される。

花見小路は酔っ払った観光客達のお陰で賑わう。何の言葉も浮かんで来ない不器用な俺達には、この酔客達の賑わいは救いになったのかも知れない。

 路地裏に入れば静かな街並みが広がる。観光客からすれば意外な場所に住んでいるように思われるが、地元に住む者はこれが日常の風景なのだ。不思議でも何でもない。ありふれた光景だ。小道に入り、幾つ目かの曲がり角を過ぎれば目的地に到着する。

「はぁ……帰って来ちゃった」

「……」

 相変わらず、気の利いた言葉の一つも口に出来ない不器用さに苛立つ。だが、輝は何時もと変わらぬ笑顔で応えてくれた。

「コタ、また明日ね。夜更しして、寝坊しちゃ駄目だよー?」

「判っているさ。また明日」

「うん。また明日ねー」

 輝の作り笑いが哀しい程に痛々しく思えた。俺に何かしてやれることは無いのだろうか……。

追い詰められ過ぎて、あの日のような事件を起こさなければ良いのだが……。人は極限まで追い詰められた時に、想像を絶する行動に出ることがある。後から冷静になって考えれば、それが如何に無謀な行動であったか判るのだが、頭に血が上っている時はそこまで考えられない。

「輝!」

「え?」

 思わず輝を呼び止めていた。驚き、振り返る輝。今……此処で想いを伝えられなければ、俺は本気で自分を許せなくなっていただろう。だから、勢いに任せて想いを伝えることにした。

「理不尽な難癖つけられたら俺に言えよな……ボコボコにしてやるからさ」

「コタ……」

「何があっても俺は味方だ。絶対にお前のことを守るから。だから、心配するな」

「……コタ、ありがとう」

 朝露の様に消え入りそうな表情だった。微かに見せた笑み。それだけでも十分、想いは伝わったと感じていた。不意に哀しそうな笑みを浮かべる輝に動揺させられた。

「あのね……」

「なんだよ。言いたいことあるならハッキリ言えよ」

「うん。もしも……もしもだよ? ぼくがトンでもないコトやらかしそうになったら止めてね」

 意外な言葉だった。だが考えてみれば可笑しな話でも無い。幼い頃の輝だったら、あの母親には抵抗出来なかっただろう。だが、今の輝には十分に立ち向かう力がある。否……十分過ぎる程の力があるはずだ。一つ間違えればニュースにあがった様な事件にもなり兼ねないだろう。それに……輝は過去に一度、あの母親を殺害し掛けている。未遂に終わったが、もはや修復不可能な親子関係に陥っている。壊れた家庭なのだから可笑しな話では無い。

「安心しろ。お前が手を下す前に、俺が手を下している」

 正義の味方の発言では無いな。我ながら実にセンスの無い言葉であった。だが、あながち間違いでは無いし、少なからず本心ではある。俺の物騒な発言が可笑しかったのか、輝は声をあげて笑っていた。

「コタってば無茶苦茶だねぇ。ま、そんなことにはならないから安心して」

 輝は手を振りながら帰っていった。俺も手を振りながら見送った。何だか大袈裟な話だ。隣に住んでいて、何時も一緒にいる兄弟みたいな関係なのに随分と仰々しい見送りだ。輝を見送り、俺も家に戻ろうと玄関に手を掛けようとした瞬間であった。

唐突に玄関が開いた。俺の声に気付いたのか母が出迎えてくれた。

「あら、小太郎。遅かったやないの? ご飯、食べはるやろ?」

「あ、ああ……」

「そう? ああ、ほなら、すぐ用意するからなー」

 母は何時もと変わらぬ上機嫌な振る舞いを見せる。うちの母は本当にマイペースだ。無茶なことばかりする俺を相手に苦労が絶えないことも判っている。この母だったからこそ俺は平和な日々を過ごせているのだろう。ふと、隣に佇む輝の家に目をやれば、二階にある輝の部屋に明かりが灯るのが見えた。

(もしも、輝の母親が俺の母親だったら、俺は既に犯罪者になっていたかも知れないな)

「小太郎、何してはるん? 早うしぃや」

「あ、ああ。判っている」

 余計なことを考えないようにした。難しく考えれば、考えるほどに、深みに嵌りそうな気がしたから。ふと、時計を見れば時間は確実に過ぎている。あまり、のんびりもしていられない。



 居間に入れば既に食事の準備は終わっていた。相変わらず種類が豊富だ。思わず怯んでしまう。傍らでは日本酒片手に赤ら顔の父が座っている。

「おお、小太郎。帰ったかー。わははは」

(既にだいぶ出来上がっている様子だな……)

 浴衣が微妙に肌蹴ている様子から察するに、今日は既に相当呑んでいると見た。迂闊に関わると面倒ではあるが、放置するとそれはそれで寂しそうな顔をする。父は中々に扱いが難しい。ちらちらこちらを見ながら、何が楽しいのか妙な笑みを浮かべている。酒の肴に用意した枝豆を口に放り投げながらも俺に差し出す。やれやれ、仕方が無い。付き合ってやるか。

「中々に美味い枝豆だぞ。お前も食え」

「ああ、頂くよ」

 一人息子ということもあり、父は俺のことを本当に可愛がってくれる。図体もでかければ懐もでかい。そんな父は俺の最も尊敬する存在であり、時には親友にも、時には人生の師匠ともなる存在である。我が家程、息子と親父との仲の良い家庭というのも珍しいだろう。それに色んな意味で親父はいい男だ。普通に男前なのもあるが、柔道でしっかり鍛え抜かれた肉体美を誇っているというのもある。まぁ、少々崩れてきているが、それも愛嬌の内だ。元は父の影響で俺も幼い頃から柔道を嗜んでいる。そういう面でも自慢の親父だ。

「おお、小太郎は随分と汗かいているなー。そうかそうか。そりゃあ喉も渇いているだろう?」

(ううむ……予想通り、面倒くさい絡み方してきたぞ……。異様なまでの酒癖の悪さが無ければ本当に、最高の親父なのだが……やはり人は完璧にはならないものなのだな)

 親父は酒を呑むと元より年中上機嫌な性分にさらに磨きが掛かる。良く言えば人当たりが良くなり、悪く言えば面倒な酔っ払いになる。

「小太郎は、今夜は何を呑むのかなー?」

(今夜は何を呑むって……普段から呑んでいるかのような言い方は、どうかと思うぞ)

「お父はん……ええかげんにしぃや?」

 低い、妙にドスの利いた声に猫背の父は一瞬にして、背筋がシャンと伸びる。ついでに裏返った声で俺に向き直った。心無しか、赤ら顔が少々青褪めているようにも見えた。

「は、ははは……良く冷えた麦茶でいいかな?」

(父よ、そこで冷蔵庫から麦茶を持ってくる時点で見事に敗北しているな……)

 そんな父を後目に母は手際良く食器を並べる。ついでに豪華に山盛りなご飯を持ってくる。相変わらず盛り方が半端じゃない。仏壇に供えるアレと良い勝負だ。

「今夜はお魚のたいたんに、ひろうずの煮物に、おなすの田楽……それから、シジミのお味噌汁や。ささ、冷めない内におあがりやす」

 一つ一つの皿が妙にでかいのは何時ものことだが……何だ、この異様にでかい魚は。何の魚かは判らないが、皿からはみ出す程に大きな魚の煮物。美味そうな香りを放っている。母曰く、大きなブリが手に入ったので、自ら捌き煮魚にしてみたらしい。

こんな大きな魚を捌ける元芸妓というのも、かなり微妙過ぎる気がする……。間違いなく、世の男達の夢と希望と、それからロマンと呼ばれる妄想を台無しにしているだろう。

一口箸を付けて見る。うむ。これは、食が進みそうな味だ。生姜の香りと深い甘味のある味わい。箸で簡単に解れる程に柔らかく煮込まれている。これは見事な逸品だ。

母は料理自慢で近所の主婦達相手に料理教室を催したりもしている。腕は確かなのだがサービス精神が旺盛過ぎて大量に食事を作るのが難点だ。で、それを親父と俺で食う訳だ……。ふと、横を見れば、最近腹が出てきたことを妙に気にしている親父のたわわに実った腹が目に入る。

(俺も数年後にはこうなるのか……ううむ、悩ましい)

 何だかんだと言いながら俺は黙々と食事を進めた。傍らでは親父が黙々と一升瓶を開けようとしていた。

それにしても今日は暑い……。エアコンが利いていても、やはり暑さには叶わない。食事をしながらも汗が滴ってくる。

「いや! 小太郎、えらい汗かいたなぁ」

 乱暴に腕で汗を拭う俺を見て何を思ったのか、慌てて風呂場に向かう母。相変わらず落ち着きが無い。しばし俺を見つめながら親父はニヤニヤ笑っていた。

「わはは。良いでは無いか。汗は青春の証だ。ちょっと位の汗臭さは男らしさの証だ」

(いや、その考え方も可笑しいから……)

 汗……思わず、数日前に遅刻した際に喰らった亀岡のベアハッグを思い出し、危うく新鮮なお好み焼きの具材が誕生する所であった。危ない、危ない……。

「ど、どうした? 大丈夫か?」

「あ、ああ……ちょ、ちょっと、禍々しい映像が蘇っただけだ……」

「ま、禍々しい?」

「あ、いや……何でもない」

 いかん、いかん。必要以上に親父の好奇心に火を点けるような発言は避けねば……目を大きく見開き、身を乗り出しながら興味津々に耳を傾ける様はまるで子供だ。面倒なことになる前に、俺はさっさと食事を済ませた。食事を終えて食器を流しへ運んでいると、満面の笑みを浮かべた母が乱入してくる。柔らかな笑顔を浮かべながら、ビシっと無言で風呂場を指差す。

(ああ、言わなくても判っている……さっさと風呂に入るさ)

 判ればよろしいと頷きながら母は台所へと向かう。

俺の目線の先には、モソモソと野生の熊の様に酒を求めて台所へ忍び込んでゆく父の姿が見えた。母の不在を確かめながら、コッソリ忍び込もうとしているつもりなのだろう……だが、次の瞬間、ピシャっという軽やかな音と「痛っ!」という短い悲鳴が聞こえた。それだけで何が起こっているのかが容易に想像がついた。

(親父の酒好きは半端じゃないからな……俺も親父みたいになるのか? ううーん、親父のことは尊敬しているが、ああいう一面は尊敬したくない……特に、母にピシャリと撃沈される様は何とも格好悪いでは無いか)

 対岸の火事だと思って油断していれば明日は我が身だ。早く風呂に入らないと無敵艦隊の矛先がこちらにも向けられる危険性がある。背後に母の鋭い視線を感じた気がして、思わず背筋がシャンと伸びた。

「あ……」

(こ、このリアクションは親父と行動パターンが一緒ということか? ううむ……ああはならんぞ、多分。いや、絶対に)

「小太郎、早うお風呂入りや。洗濯でけへんからなー」

「わ、判っている」

 とにかく、ここは素直に言うことに従おう。恐る恐る振り返れば、顔は笑っているが目は笑っていない母の表情が見えた。なまじ口調と表情が柔らかい分、迫力もあるというものだ。母、強し。

俺は急いで風呂に向った。すっかり汗でベタベタだ。服を脱ごうにも貼り付いて中々剥がれない。服を脱ぎながら洗面台の鏡に映る自分の姿に目が留まる。少し日焼けしたのだろうか? 腕の色合いが少し変わっているように思えた。ついでに腕も、胸も肉付きが良くなったように思える。ふむ、力丸直伝の筋トレの賜物だろうか? 中々に良い感じになってきた気がする。思わず力を篭めポーズを決めてみた。

(こ、この行動パターンは力丸の行動パターンだな……何か、周囲に毒されているのか、俺?)

 汗ばんだ胸元はベタベタしていて、ついでに芳しい香りを放っていた。

(う……真面目に汗臭いな。ツーンと来たぞ、ツーンと……これが男らしさの証か? ううむ、在り得ないな。さっさと風呂に入ろう)

 そそくさと脱ぎ終え浴室へと向かう。湯気に混じって漂う仄かな石鹸の香りに、再び亀岡の笑顔が浮かんできたが瞬殺した。清々しい入浴タイムに禍々しい映像は必要ない。

(そうさ。汗臭い方が救われただろうに……何故、ベアハッグを喰らった瞬間に、亀岡の胸元から爽やかな石鹸の香りがしたのか? 余計に気色悪いぞ……ううむ、学校七不思議の一つだな)

 思わずボディーソープのボトルを握り締めたまま、唸ってしまった。

 夜だと言うのにどこかで蝉が鳴いている声が聞こえる。どうやら外は相当暑い様子だ。



 ゆったりと浴槽に浸かっていた。こうしてゆったりと浴槽に浸かっていると、気持ちも安らぐ。賑やかな蝉の声はそこかしこから聞こえてくる。蝉達が主催する唄の大会……そう考えると中々に趣があるでは無いか。しかし、あまりのんびりもしてはいられない。小太刀に指定された時刻は、刻一刻と近付いているのだから。

「小太刀、か……やはり、あれは夢でも、幻でも無いのだろうな」

 カラス天狗。物語の中でしか見たことの無い存在。予期せぬ存在との出会い。今更ながらではあるが疑問が残る。初対面のはずなのに小太刀は何故、俺の名前を知っていたのであろうか? いや、小太刀は不思議な術をも使いこなす身。それ位のことならば、容易く調べられそうな気がする。だが、それだけでは説明がつかない思惑が残る。

「初対面のはずなのに……何故懐かしさを覚えたのだろうか? まるで、遠い昔に知り合ったきり、長い時間を経た友人同士が出会った。そんな感覚だったな……邂逅?」

では、一体何処で出会った? そもそも人ならざる姿をした存在と過去に友達になった記憶等は残っていない。小太刀……お前は本当に不思議な奴だ。

「余計な詮索は止せ……また、澄ました顔で俺を諭すのか?」

思わず小太刀の低く、渋い声を真似てみた。

慌てて周囲を見回し誰も見ていないことを確認する小心者な自分が少し可笑しかった。もっとも、此処は風呂場だ。覗き見するような変態でもいない限りは目撃者など存在する筈がない。

安心して再び浴槽に浸かろうとした所で、不意に猫の鳴き声が聞こえた。思わず、俺は窓から顔を出していた。

「目撃者か!? 俺の秘密を知った以上は、生かしておく訳にはゆかぬ!」

(……いやいやいやいや、俺は何をしているのだ?)

果てしない恥じらいを覚え、思わず我に返った。

それにしても判らないことだらけだ。小太刀が『奴』と呼んでいた黒幕らしき存在と錦おばさんとの関わりも……山科の事故のことも、武司さんの過去の記憶も、全部、全て、判らないことだらけだ。

「小太刀……根拠など全く無いが、お前のことを信じても良いのだろうか?」

再び猫の鳴き声が聞こえてきた。タイミング良過ぎだろう……。いや、小太刀のことだ。案外、どこかで俺を見ている可能性も否定出来ないな……油断ならぬ。

取り敢えず体を洗おう。顔も、体もベタベタだ。

蝉の声を聞きながら俺は体を洗っていた。色々と考えるのは止めだ。小太刀の言う通り、無駄な詮索をしたところで答には至らないのであろう。俺が直面している問題は多分、そんなに簡単な結論で片付くような代物にはとても思えなかった。色々な要因が複雑に絡み合い、互いに干渉し合い、時に密接に関わり合っている。そんな複雑な仕掛けの様な気がしてならなかった。

「いずれにしても、祇園さんに行かないことには話が始まらないという訳か……」

シャワーを捻り、あふれ出す水で乱暴に顔を洗い終えると俺は風呂場を後にした。



 風呂から上がった俺は、こっそりと家を抜け出した。迂闊に母に気付かれると色々と面倒なことになるのは避けられない。親父に気付かれるともっと面倒なことになる……。忍び足で家を抜け出し、そっと玄関の戸を閉めた。外は静寂に包まれていた。酔客達も家路に就いたことであろう。人気の無い街並みだけが広がっていた。

 外に出ると深夜にも関わらず相変わらず蒸し暑かった。まとわりつくような不快な湿気と熱気に再び汗が噴き出す。だが、怯んでいる場合では無い。約束の時間までそうそう時間は残されていない。細い路地を歩み抜けながらも祇園さんへ向かい急いだ。

 賑わっていた花見小路は既に静まり返っていた。一夜の宴が終われば、再び静けさを取り戻す。静まり返った花見小路を駆け抜けながら四条通へと抜ける。後は祇園さんまで一直線だ。信号を渡り、時計を確認する。深夜零時丁度。祇園さん前の鳥居に到着。良し。無事に到着できた。だが、小太刀は一体何処に居るというのだろうか? 不意にけたたましい爆音が背後を駆け抜ける。驚き振り返れば、暴走族が爆音を轟かせながら走り去るのが見えた。少し遅れて、その後を追い掛けるパトカーのサイレンの音と警官の声。

「速やかに止まりなさい!」

(やれやれ。夜だというのに騒々しい街だ)

相変わらず湿度は高く、立ち止まっているだけでも汗が噴き出す。風呂に入ったばかりなのに、既に着替えたばかりのシャツは汗でぐっしょりだ。それにしても暑くていけない。袖をめくり、肩を出す。多少は肌で直に風を感じられる分ましになるだろう。しかし厳しい暑さだ。本音を言えばシャツを脱ぎ捨てたいところではあったが、幾らなんでもそれは慎むことにした。

(小太刀は一体何処にいるのだろうか? さすがに人目につく場所にはいないか)

 八坂神社の玄関口、鮮やかなる朱色の西楼門を潜り抜け境内をさらに奥へと進む。

 昼間は人通りも多く、賑わいを見せる八坂神社も、さすがに深夜になれば静まり返る。暗い境内を宛ても無く歩くが、相変わらず小太刀は姿を見せる気配すら無い。これでは埒が明かない。目印としては最も有効と思われた本殿前で待つことにした。風の無い夜。雲間から微かな月明かりが覗く。

(それにしても、厳しい暑さだな……)

額の汗を拭った時であった。不意にどこからともなく笛の音が響き渡った。驚き、振り返れば、舞殿に佇む人影。見覚えのある後姿に思わず息を呑む。仄かな月明かりに照らされながら、色鮮やかな紅の舞扇を手に舞う姿。大柄な体付きに似合わぬ繊細かつ、妖艶な動きに思わず見とれてしまった。

「フフ、待っておったぞ、小太郎よ?」

 含み笑いを浮かべながら小太刀は手にした鈴を鳴らす。涼やかな音色が風に乗って吹き抜ける。不思議な音色だった。その音色を耳にした瞬間、静かに汗が引いてゆくのを感じていた。

「これは驚いた。実に見事な舞だ」

「些細な余興よの。お主の舞を見よう見真似で演じてみただけのもの」

 満更でも無さそうな表情で、小太刀は腕組みしながら含み笑いを浮かべていた。俺も小太刀の真似をするかの様に腕組みしながら含み笑いで応えて見せた。

「いやいや、見事な腕前だ。俺の方が教えを請いたい位だ」

「フフ、随分と謙虚なことよの」

 振る舞いを真似されたのが可笑しかったのか、小太刀は静かな笑みを浮かべながら腕を組みし直して見せる。

「……黒幕について、先ずは説明せねばならぬ」

 黒幕……それは一連の事件を巻き起こした張本人。自らの手を汚さぬ狡猾なる存在。何も知らなければ素通りできたのかも知れないが、少なからず関わりを持ってしまった。輝では無いが好奇心を掻き立てられる。もっとも、好奇心は猫をも殺す。判っているさ、そのくらい。

「情鬼『憎悪の能面師』……それが一連の事件を巻き起こした情鬼なり。そして先にも話した通り、情鬼を討ち取ることが出来るのは我ら天狗一族の者のみ」

「ああ。小太刀が討ち取ろうとしているのは、まさしくそいつなのだろう?」

「うむ、その通りだ。そして……もう一つ、重大な事実を伝えねばならぬ。だからこそ、こうして夜半の八坂神社まで足を運んで貰ったのだ」

 わざわざ呼び出してまで伝えたいこととは、少なからず何か良からぬ内容なのだろう。不安になる俺の気持ちに呼応するかの様に、不意に一切の音が消え失せる。風が止み、木々の葉を揺らす音が聞こえなくなる。

「小太郎よ……憎悪の能面師は間違いなく、お主を狙っておる」

「俺を? どういうことだ?」

「何故、お主を狙うのか? その意図までは汲み取れぬ。だが、奴は必ずやお主の前に姿を現すであろう」

 小太刀はじっと、俺の眼差しを見据えていた。鋭い眼差しだ。判ってはいたが認めたくなかった事実。何故あのような化け物に狙われなければならないのか、皆目検討が尽かなかった。ただ、厄介なことは間違いない。執念深く俺を狙い続けるだろう。俺を「情鬼」とやらにさせるために。そこに一体どのような意図があるのか? 知りたくも無ければ、知る価値も無い。

「ふむ……確実なことは一つ」

 小太刀は人差し指を立てながら、真剣な眼差しで俺を見つめていた。思わず溜め息がこぼれる。理由は判らなくても、やるべきことは一つだけだ。

「ああ。あいつを退治しない限り、俺達の平和は保障されない訳だ」

「うむ。そういうことになるな」

 随分と気安くに言ってくれる。戦う力を持つ小太刀は良いかも知れないが、俺は本当に非力な存在だ。また襲われたとして、今度は無事でいられる保障は何処にもない。焦る心の声を聞いていたのか、あるいは最初から策を講じていたのか、小太刀は懐から数枚の札を取り出した。何やら不思議な文字が刻まれた白い札であった。

「これは?」

「お主に授けておこう。憎悪の能面師に出くわしたらその札を叩きつけよ」

 一体どういう効果があるのかは判らないが、小太刀が授けてくれたものだ。効果は確実であろう。だが、奴は一体どういう形で関わってくるのであろうか? 予測が出来ないだけに気味が悪く思える。

「我らが前面に出ていては、奴は警戒して姿を隠すであろう。言葉は悪いが……小太郎に囮になって貰い奴を油断させる。間抜けにも姿を現した時が奴の最期よ。我ら天狗一族総出で今度こそ息の根を止める」

 小太刀は涼やかな顔でさらりと戦術を口にしてみせた。餌を撒き、間抜けにも引っ掛かった相手に一斉に襲撃を仕掛ける。えげつない戦術ではあるが、確実に仕留めることが出来るだろう。物事を為し遂げるのに綺麗も汚いも無い。戦いの基本だ。確実に勝つための戦術……それは、アタリマエ過ぎるが、相手よりも優位な状況に立てばよい。例えば毒で相手を弱らせてから仕留めるという手もあるだろうし、一人の相手に多数の味方で挑むという手もある。手段などは幾らでもあるのだ。手を汚す覚悟が出来るか出来ないかだけの話だ。

 いとも簡単に割り切れる自分自身の心が可笑しく思えた。やはり俺の心にも「鬼」は棲んでいるのだろう。俺達の幸せのためならば、情鬼が無様に死のうが何だろうがどうでも良かった。微塵の慈悲さえ不要だと考える。身の安全さえ……自分達の幸せさえ守れるならば、他者の犠牲等どうでも良い。息をするかの如く他者を平気で踏み付けられる。本当の意味での鬼は、むしろ俺なのだろう。だが、それでもよかった。所詮、綺麗事だけでは人は生きられないのだから。

「良いだろう……俺が囮になる。明日にでも山科の所に見舞いに行く予定だ。好都合だろう」

 小太刀は俺の目をじっと見据えたまま力強く微笑んで見せた。必ず守る。だから、何も不安に思うことなく行動しろ、と言葉を添えながら。言われなくてもやってやるさ。乗り掛かった船だ。途中で降りるのも負けた気がする。それ以上に、皆に危害を加えるというならば容赦はしない。俺の仲間に危害を加えるならば、そいつは敵だ。敵ならば殺すしかない。和解出来るような柔軟な考えは持っていないのだろうから。

 輝が見舞いに行くことを提案したのは何かを察したからなのかも知れない。それに、これは俺自身の問題でもある。避けようの無い障壁ならば殴ってでも破壊するしかない。明日につなげるため、俺は戦う覚悟を決めた。もう畏れないさ……。

「そうそう、言い忘れたが……」

「む? 何だ?」

「その……ありがとうな。お前が助けてくれたお陰で皆を助けることが出来た。本当に感謝する」

 素直に伝えた感謝の気持ち。一瞬、戸惑ったような表情を浮かべながらも、小太刀は力強く腕を組むと満足気に微笑みんで見せた。

「フフ、気にするで無い。まぁ、何かの機会に人の世の美味い食い物でも奢ってくれれば良しとしておこう」

「ああ。何か良さそうな物を選んでおく」

 その言葉を聞きながら、小太刀は満足そうに微笑んでいた。不意に一陣のつむじ風が境内を駆け抜けた。突風の様な強い風であった。再び顔をあげた時には既に小太刀の姿は無かった。

「相変わらず、気まぐれな奴だ……」

さて、戻るとしよう。母に見付かると面倒だからな。

夜の祇園さんは相変わらずの湿気を孕んだ気候であった。既にシャツが肌に張り付き始めていた。不快な感覚。戻ったら再び風呂に入ろう。妙に静まり返る境内を歩みながら、俺はそっと月を見上げていた。



 翌朝は透き通る様な青空に包まれていた。朝から良く晴れており、賑やかな蝉の声もあちらこちらから聞こえてくる。相変わらずじっとりとまとわりつく様な暑さに包まれていた。

 昨晩は不安を抱いていたせいか良く眠れなかった。だが、時間は待ってはくれない。生きている以上は時の流れに従うしかないのだ。俺は眠い目を擦りながら通い慣れた道を走っていた。カバンの中には小太刀から授かった札も仕舞い込んである。噴き出す汗を拭いながら七条の交差点を曲がる。緩やかな上り坂も一気に駆け上がり、今朝は颯爽と校門を抜けた。

相変わらずの亀岡は、今朝も直立不動の構えを崩すことなく不敵に笑っていた。時計をちらりと眺めながら不敵にわらうばかりであった。今朝は見事関門を通過出来たか、と。

亀岡を後に俺は教室へと急いだ。下駄箱で靴を履き替え、階段を駆け登る。教室の扉を開けば、皆も早々と到着していた。

「ああ、コタ。おはよう」

 輝がにこやかな笑顔で挨拶をすれば皆も後に続く。俺も皆に「おはよう」と返す。

「皆、今朝は妙に早いな」

「何だか良く眠れなかったのじゃ。能面がまだ顔に張り付いている様な気がしてのう……」

 顔を手でペタペタやりながら大地が苦笑いすれば、力丸が豪快に笑いながら大地の肩を組む。

「そいつぁ災難だったな。まぁ、オレは蚊に刺された跡が痒くて、痒くて眠れなかったぜ」

 皆それぞれに思惑は抱いている。それは喉の奥に引っ掛かった魚の骨の様な物。日常の中に唐突に現れた非日常。不安感を皆一様に感じているのは間違いない。何としても早期に解決を目指す必要がある。だからこそ俺は皆に提案する。悪いな、拒否権は無いぞ。解決するためには絶対に必要なのだから。

(小太刀……お前に託すぞ)

信じているからこそ迷うことなく、自分でも驚くほど自然に言葉が出てきた。

「放課後、山科のところへ見舞いに行くぞ」

 一瞬、皆目を丸くして戸惑っていた。互いに互いの顔を見合わせながら動揺した表情を見せる。やはり皆も感じていたのかも知れない。山科への見舞い……そこに繋がる存在も。

「マジかよ? 俺も同じことを考えていた」

 不意に太助が口を開く。珍しく少々驚いたような表情を浮かべていた。

「ワシもなのじゃ。それを皆に話したくて……」

「早々と学校に来ちまったってか? おいおい、オレもだぜ?」

「えー、一体どうなっちゃっているの? 皆で同じことを考えているなんて」

 日常が非日常に変わる瞬間……普通に考えたらあり得ないことだ。皆が同じことを考えていた。事前に示し合わせた訳では無い。どこかで通じ合っているのかも知れない。同じように、この世ならざる者に関わってしまった同士ということだろうか。

 俺は迷っていた。真相を皆に伝えるべきか否か。だが……此処まで足を踏み込んでしまったのだ。ならば、もはや当事者だ。それに情報は多い方が良い。皆の身を守るためにも。

「皆に伝えていなかったことがある」

 唐突に切り出す俺を見つめる皆の表情が険しくなる。だが、話さない訳にはいかない。俺は怯むことなく話を続けた。

「大地が能面をつけ、その後大勢の人々に襲われた。そこから先の話だ」

 俺は皆の顔を見回した。皆一様に真剣な眼差しで俺の話に耳を傾けてくれていた。

「話を続けるぞ……無事に逃げ延びた俺は、皆の足取りを追って貴船を訪れていた」

「貴船だと? 鞍馬では無いのか?」

 眉をひそめながら、太助が鋭く切り込んできた。「ああ、貴船だ。鞍馬の間違いでは無い」。俺は短く説明すると、さらに続きを聞かせた。そう……ここからが話の核心に迫る部分だ。皆の注意を引き付ける為に俺は敢えて前置きをした。

「そこで、俺は錦おばさんに出会った」

「え? えっと……話のつながりが良く判らなくなったよ?」

 皆、互いの顔を見合わせていた。確かに輝の言う通りだ。普通に考えたのでは理解出来ないだろう。だから、俺は皆に告げた。実に可笑しな注意喚起だ。「普通では無いことが起こっている。そう解釈してくれ」。さらに俺は話を続けた。かつて起こったであろう武司さんの悲劇と、その顛末。葬儀の場面で起きた出来事。そして……錦おばさんが、山科に対して並々ならぬ憎悪を抱いていること。

 皆、言葉を失っていた。当然だろう……誰も予想もしない真実なのだから。無論、俺は皆に絶対に口外するなとも伝えた。

「そんなことがあったとはな。賢兄からも、それらしい話は聞かされていたから、ある程度は知っていたが……」

 太助は酷く動揺していた。ある程度は事実を知っていただけに、余計に驚いたのであろう。

不意に何かに気付いたのか、輝が不意に声を挙げた。

「ああ!」

「な、何だよ……びっくりするじゃねぇかよ」

「テルテルよ、一体どうしたと言うのじゃ?」

 勘の鋭い輝のことだ。恐らく山科の事件と錦おばさんの関連性に気付いたのであろう。

「もしかして、山科先生が事故を起こすキッカケになった女の人って……」

「恐らくそうだろう」

俺の言葉に再び皆の表情が凍り付いた。

 しかし改めて考えてみると理解不能な話だ。仮に、大雨に紛れて山科への復讐を果たすのであれば、事故を起こした山科を放置した方が確実では無かったのだろうか? わざわざ救急車を呼び出す意図が見えなかった。何を考えているのかが見えない……だが山科は今、病院に入院している。殺害とまではいかなくても、途方も無い恐怖心を与えるのが目的だとしたら、病院に入院している山科の前に姿を現すのが効果的だろう。事故を起こさせた張本人が病院まで押し掛けて来たならば、誰であろうとも多大な恐怖を感じることだろう。いずれにしても確実に病院に現れる……そう考えたからこそ、皆と病院に向うことを提案したのだ。

 憎悪の能面師は俺を狙っている。錦おばさんは山科を狙っている。そして憎悪の能面師は錦おばさんを操ろうとしている……憎悪の能面師の目的は良く判らないが、病院に向えば狙われている二人が同じ場所に存在することになる。危険性は伴うが囮作戦としての意味はあるだろう。

不意に教室の空気が変わる感覚を覚えた。俺達五人以外は誰も気付いていない様子だが、明らかに吹き抜ける風が冷気を伴っている。良くないことが起こる予兆は確かにそこに存在していた。此処には似つかわしく無い異様な気配が立ち込める。辺りを警戒するかのように皆の表情も険しくなる。何かが起こるのか? 一斉に身構えたところで唐突に日常に連れ戻された。

「はーい、授業を始めますよー」

 勢い良く教室のドアを開く音。響き渡る桃山の声に俺達は我に返った。ついでに見えない何かから解放されたような不思議な感覚を覚えていた。

「あら?」

 教室を見渡していた桃山の目線が止まる。輝達の存在に気付いたのだろう。

「輝君達、無事だったのね」

 一瞬、目を丸くする桃山であったが、次の瞬間、何か言いたげな眼差しで俺を見つめていた。何を言わんとしているかはすぐに想像がつく。だから、俺は静かに頷き返した。

それでいい。そう言いたげな表情を浮かべると、桃山は再び皆を見渡した。

「はーい、それじゃあホームルーム始めるわよ」

 何事も無くホームルームが終われば、変わることの無い一日が始まる。だが、正直授業には身が入らなかった。山科のこと、錦おばさんのこと……二人の間に起きた出来事を考えると落ち着かない気持ちで一杯だった。山科と錦おばさんとの間に存在する、言葉にすることが出来ないわだかまりを考えると、ただ居た堪れない気持ちになるばかりであった。同時に憎悪の能面師が俺に狙いを定めているという事実……その事実もまた、俺をどうしようも無い程に不安な気持ちを掻き立てられる原因となっていた。

桃山からの追求をどう避けようか? 憎悪の能面師からどう逃げようか? ろくでもないことばかりが頭を占領し、心が落ち着くことは無かった。囮になるなんて……威勢良く言って退けたが、いざ、現実に直面すると不安で仕方が無くなる。人は本当に身勝手な生き物だ。

 結局、魂が抜けたような気持ちのまま一日が過ぎ去っていった。そうして迎えた放課後。

「皆、悪いが先に校門で待っていてくれるか?」

 皆に校門で待つよう告げ、俺は職員室へと向った。

放課後の廊下は強い日差しに照らし出されて鮮明な白に包まれていた。職員室へと続く廊下に足音が響き渡る。落ち着かなかったのだろう。廊下の向こうからゆっくりとこちらに向かって歩む桃山の姿が見えた。

「あたしと小太郎君は通じ合っているのかしらね?」

 静かな笑みを浮かべながら、相変わらず桃山は返答に困る表現を使う。

「教師と生徒の道ならぬ恋、か……まぁ、それも悪くは無いな」

 窓の向こうに目線を投げ掛けながら返してみせれば、「それも悪くないわね。考えておくわ」と、可笑しそうに笑いながら、桃山は窓に腕を重ねてみせた。遠く目線を投げ掛ける横顔に、俺は思わず見とれていた。

「余計な詮索をするつもりは無いわ。皆も無事に戻ってきたことだし」

 先手を打たれた。桃山は外の景色に意識を向けているように振る舞いながらも、横目でしっかりと俺の反応を伺っている様にも見えた。やれやれ……これは迂闊なことは言えないな。

「ねえ、小太郎君。一体、何が起きたのかしら?」

「さぁな……」

 予想通りだ。一旦退いたように見せ掛けて、しっかりと詮索を仕掛けてきた。だが、まともに応えるつもりは無い。巻き込みたくなかったのだ。これは人の手に負えるような話では無い。迂闊に興味本位で首を突っ込めば取り返しがつかなくなる。

 俺が何を考えているかなど、既に見抜いているのであろう。桃山は可笑しそうに笑いながら、こちらに向き直って見せた。

「何か知っている。でも、あたしには教えてくれない。そういうことかしら?」

「かもな……」

 桃山は窓を開けるとそっと顔を出した。風に揺れて長い髪がなびいていた。良い香りが風に乗って漂う。桃山は遠くを見つめたまま可笑しそうに笑って見せた。

「フフ。何だか、仲間はずれにされた気分ね」

 お前は子供か。思わず突っ込みを入れたくなったが、出掛かった言葉は飲み込んだ。

何だか桃山は俺とのやり取りを楽しんでいるようにも見えた。根掘り葉掘り追求してくるかと身構えていたが、意外にもあっさりと手を引いて見せる。だが、油断は出来ない。

俺は以前、桃山が妙なことを口にしていた言葉を思い出していた。

『いい女ってね、変に追及したりしないものなのよ? ほら、男の人ってそういう女をうっとうしいと思うでしょう? だから、あたしは待つの。何時か口を滑らしたくなったら、黙って聞いてあげるの。あたしは港になるの。疲れ果てた男の人達の帰る場所になるの。ほら、ね? いい女でしょ?』

 自分で自分のことを「いい女」と評するのはどうかと思うが……まぁ、確かに無駄に詮索好きな女よりも、口を滑らせたくなるまで待つ女の方が魅力的ではある。追われれば人は逃げたくなる物だが、さも興味が無いといった振る舞いをされると、逆に興味を惹かせたくなるものだ。まったく……そういう振る舞いを好むから、周囲からも妙な目で見られるのだ。

「まぁ、いいわ」

 諦めたように見せ掛けつつも、恐らくは諦めていないのだろう。そう考えると桃山のにこやかな笑顔は案外、怖い含みを帯びた笑顔なのかも知れない。

「でも……あまり危ないことはしないで欲しいわね。もっとも――そんなこと言われて、はい、そうですか、なんて言ってくれるとは期待していないけれど」

 窓の外、風に揺れる木々の葉を見つめたまま、桃山は可笑しそうに笑っていた。今度は母親の様な振る舞いを見せる。緩急自在に操る変幻自在の投手。それもまた「いい女」の在り方なのか? 問い詰めようかと思ったが、要らぬ地雷を踏むのは賢くない。止めておこう。

「山科先生のところにお見舞いに行くのでしょう? 気をつけていってらっしゃい」

 その一言だけ告げると桃山は鼻歌混じりで廊下を歩んでいった。一体何が言いたかったのだろうか? 桃山が考えていることは理解できなかった。ただ、俺達のことを心配してくれていることだけは判った。

(その気持ちだけはありがたく受け取らせて貰うとしよう)

 俺は皆の待つ校門を目指し、桃山に背を向け歩き始めた。

「小太郎君!」

不意に、背後から桃山の呼び止める声が聞こえ、俺は静かに足を止めた。

「困ったことがあったら何時でも来なさい! あたしは小太郎君達の味方だからね!」

 背を向けたまま俺は黙って手を振った。桃山の想い、本当に心強かった。ああ、困った時には相談に乗って貰うさ。何だかんだ言って頼りにしているからな。去り往く桃山の背に向けて、俺は心の中でそう告げた。

既に陽は沈み始めている。ゆっくりと赤々と萌え上がり始めた空を見つめていた。皆を待たせたままだ。俺は急ぎ廊下を駆け抜けた。



 足止めを食ったが俺達は予定通り山科の病院に向かうために京都駅を目指していた。皆一様に黙り込んでいた。判っていた。俺達が向かおうとしている先には、確実に非日常の現実が待ち構えている。厄介な蟻地獄だ。一度迷い込んだ者は、その蟻地獄の中から抜け出すことは出来ない。俺達は踏み込んではいけない領域に足を踏み込んでしまったのだ。逃げ出すことは出来ないだろう。逃げられないならば立ち向かうしかない。恐らく、皆、同じことを考えていたのだろう。

 学校から京都駅を目指して俺達は歩いていた。七条から京都までは大した距離でも無い。

何時の間にか空は異様な様相を称えていた。渦を巻くような入道雲。どんよりと深く、重々しい灰色の空。唸りを挙げている。もはや、予感は確信に変わっていた……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ