ほたるの灯火
唐突に降り出した雨は、まるで、そうなることが定められていたかの如く土砂降りの様相を呈した。道路に幾つもの川の様な流れが出来上がる程の激しい土砂降り。雨に濡れながらも、俺は必死で七条駅への道を走り続けた。こんなことになるなら傘を持って来るべきだった。叩き付ける様な雨に体が濡れてゆく。
すっかりずぶ濡れになりながらも七条駅まで到着できた。地下へと続く階段を下ってゆく。少し前に此処を訪れた時には皆も一緒だった。その事実が胸に突き刺さる。
相変わらず地下から吹き付ける生暖かい風。無機的な改札を抜け、駅のホームへとさらに階段を下る。待つことも無く列車が訪れた。俺は急ぎ、列車へと駆け込んだ。誰も乗り合わした乗客の居ない列車。気が楽で良い。奇異な眼差しで詮索されでもしたら、そいつを殴り殺していたかも知れなかったから。
目的地の東福寺駅は良く使う駅だ。JRと京阪が合流する場所。だからこそ京都駅に向かう際に良く経由する場所でもある。何時もは素通りするだけの駅。二つの道を走る列車が出会う駅。駅のベンチに腰掛け、俺は行き交う列車を静かに眺めていた。駆け抜ける列車の音。ガタンガタン、ガタンガタン。繰り返される旋律を肌で感じていた。ついでに屋根に叩き付ける様な雨音。傘もささずに歩き回ったおかげですっかりズブ濡れだった。肌に張り付く夏服の不快な感覚を覚えていた。
駅から少し歩けば駅と同じ名を持つ寺、東福寺が静かに佇む。深い谷底に掛かる、天に浮かぶかの様な通天橋からの眺めは実に美しい。新緑の時節には木々の青々とした息吹を感じられ、紅葉の時節になれば色鮮やかな木々の葉に包まれた優雅な景色が広がる。風が吹けば、ハラハラと静かに舞い落ちて往く赤や黄色の色鮮やかな木の葉に感じる無常観。悪くは無いものだ。哀しみに満ちた情景を見届けることで、心の安らぎを覚えていた様な気がする。
(輝は、通天橋から眺める景色が好きだったな……)
「紅葉の赤が綺麗だね」
満足気な笑みを浮かべる輝の横顔を思い出していた。
「ああ。悪くない光景だ」
風になびく赤い髪。紅葉にも退けを取らない鮮やかな色彩。俺も隣に並び、同じ景色を一緒に眺めていたっけな……。
(眺めていた?……違う! 過去の出来事になんかさせるものか。過ぎ去った時間に閉じた話になどさせない。必ず救い出す!)
ああ、きっと皆を助け出す。今年は皆と一緒に訪れようと約束した。誰か一人が欠けても駄目だ。約束したのだから。
俯いた拍子に髪から雫が落ちた。石造りの地面に落ちると小さな染みになった。
(俺は……こんなところで、何をしている? 過去を振り返るために訪れたのか?)
電車がホームに近付いているのか? 不意に踏切が点滅しながら鳴り響く。カンカンカンカン。思い出に縋るだけの意気地無し。カンカンカンカン。今此処で立ち止まってしまえばそれまでだろう。感傷に浸るために訪れた訳では無い。この地に何かがあるという期待を託せばこそ、此処を訪れたのだ。だが、応える者は誰もいなかった。ただ呆然と踏切の赤く明滅する光を見ていた。
程なくして轟音を立てながらホームに列車が入ってくる。雨を纏い濡れた列車の扉が開けば、人々が次々と降りてくる。駅を行き交う人々が奇異な眼差しで俺を見つめる。視線を浴びながらも、俺はただベンチに腰掛けていた。何が面白いのか理解に苦しむ。笑えば良いさ。俺は救いようも無い程に孤立無援な存在だ。可哀想だと憐れめば良いさ。時の流れに逆らおうとする者。いや、時の流れに取り残された迷子と言った方が良いのだろうか? いずれにしても奇異な存在に成り果てていた。
再び空虚に去ってゆく列車だけを見送っていた。降り続ける雨。屋根に叩き付ける雨の音。水気を孕んだ石の香り。轟く雷鳴。昨晩の出来事を思い出さずにはいられない。ふと皆の笑顔を思いだしていた。鞍馬へ向かう前に立ち寄ったハンバーガー店での一場面を思い出していた。
(過去の記憶になどさせるものか!……皆、済まない。もう少しだけの辛抱だ。俺が何とかする。何とかしてみせる。だから、もう少しだけ我慢してくれ……)
雨足は強まる一方だった。そっと顔をあげれば、相変わらず留まる所を知らない激しい雷鳴と稲光が駆け抜ける。夕立にしては随分と長い時間降っているように思えた。雨足はまるで衰えるところを知らない。深い鈍色の空からはただ無情にも雨が零れ落ちる。
何度も列車が訪れた。乗り降りする人々の流れ。列車は再び駅を去ってゆく。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか? 恐らくは、さほど時間は経っていないのだろう。だが、何時の間にか駅には俺以外残ってはいなかった。辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。東福寺……結局、何も起こらなかった。空振りだったのだろうか? 所詮、勘なんて物はその程度の物なのだろうか? 苛立ちと、焦りと不安。どうすることもできない無力な自分への怒り。
「まもなく列車が通過いたします。危ないので白線の内側までお下がりください」
静かなホームに無機的なアナウンスが響き渡る。
(通過列車か……)
駅のホームに列車が駆け込んで来ようとしているのが見えた。
(覚悟が足りないと言うならば……)
俺はそっとベンチを立ち上がった。もうじき列車はホームに到達するだろう。踏み切りの音が響き渡る。カンカンカンカン。明滅する赤い光をじっと見つめていると、何かが込み上げて来る感覚を覚えた。
絶望? 違う。これは『賭け』だ。もしも、俺に皆を救い出せる力があるならば、何かを為し遂げることが出来るはずだ。そのためには覚悟が足りないのかも知れない。あの日、あの時、屋上から飛び降りた瞬間に、確かに何者かに救出された。他力本願……そうなのかも知れない。だけど、この事態を打開するためには大きな力が必要なのだ。俺にはその力は無い。だが、今まで何度となく窮地は仲間達の協力により切り抜けて来た。
「俺は非力で、無力で、どうしようもない奴だ。だが、友と共にあるならば道は切り拓かれるはず。賭けてみるさ……どうか、俺に力を!」
思い切り地面を蹴り上げて俺は飛び出した。ためらったら尻込みしてしまうだろう。逃げ出してしまうかも知れない。もう、逃げない! そう決めたのだ。覚悟があれば死だって受け入れられる。いや、生きようとする力が、想いが勝つと思った。信じていた。だから……ホームに今まさに入り込もうとする列車に、俺は飛び込んだ。激しく響き渡る列車の警笛。急ブレーキ。響き渡る金属音。擦れ合う金属の酷く不快な音が響き渡り、耳に鋭い痛みが駆け抜けた。
次の瞬間異変が起きた。確かな異変であった。恐る恐る目を開ければ、列車は今まさにホームを通過するところであった。慌てて周囲を見渡せば、俺はベンチに腰掛けたままだった。何時の間にか雨も止んでいた。空を見上げれば雲が途切れ始めていた。
(やはり……何者かが力を貸してくれているということか)
「どこのどいつか知らないが、俺に手を貸してくれるお節介な奴よ。もう少しだけ俺に手を貸してくれ! 俺は皆を助け出したい。だから、どうか手を貸してくれ!」
誰も応える者はいなかった。代わりに、再び脳裏に見覚えのある映像が浮かび上がってきた。細い路地。夜の装いを称えた街並み。月明かりに照らし出された、妖しげな光景。賑やかな笑い声が響き渡る小道。雨上がりだからだろうか? まだ濡れた傘を手にした人々が往来する。店の名を告げる看板や、白い提灯。軒先を飾る小粋な灯籠がぼんやりと照らし出す街並み。しっとりと水気を孕んだ石床を人々が歩く音が響き渡る。そこに入り乱れる笑い声……。鴨川から漂う湿気なのか、雨上がりの湿気なのか、熱気を孕んだ湿気が霧の様に漂う細い路地。
(ここは……先斗町?)
先斗町。夜の街。多くの飲み屋が集う街。夜な夜な宵の宴が繰り広げられる花街。人の想いの集う場所。そこに行けば何かが判るのかも知れない。何者かが手を貸してくれているのは間違いない。だとしたら、その導きに従う他無い。
「判った。先斗町だな……ああ、すぐに向かうさ」
一瞬、凄まじい冷気が駆け抜ける感覚を覚えた。酷く禍々しい感覚……左隣に何者かの気配を感じた。禍々しい殺気を放つ楕円形の何かが転がっている。
(これは……能面!?)
そっと手が伸びて能面を静かに手に取る。雪の様に白い手に、血の様に真っ赤な爪。俺はその手の動きを目で追う。左隣に佇んでいたのは真っ赤な着物に身を包んだ者。ゆっくりと能面をつける姿が見えた。小面の面。真っ赤な着物に身を包んだ者は、こちらに体を向けようとしていた。舞扇で口元を隠しながら静かに向き直った。
『愚かなことを……自ら命を絶って何とするつもりだ? 私はお前の死を望んでなどおらぬというのに……フフ』
「お前はあの時の! 答えろ、お前は一体何者だ!?」
『私が何者か……とな? これはこれは異なることを聞く……私はお前の願いを聞き入れてやった者。それから……フフ、共に歩む者であろう? さぁ、我が元に来るが良い。お前を抱きしめてやろう……永遠にな?』
男は完全に向き直ると、口元に宛がった舞扇をそっととずらした。不意に能面の口から凄まじい冷気が吹き付ける。あまりの冷たさに俺は、思わず目を閉じてしまった。一瞬、周囲が荒れ狂う吹雪に包まれたような感覚を覚えた。
『勘違いするな? 私はお前を手助けする者などでは無い。お前は奈落の底に堕ちるのだ……情鬼となり、私と共に歩むのだ……安易に死ぬことは、私が許さない……さぁ、這い上がってくるが良い。その時、もう一度、お前のことを慈しんでやろうぞ……』
「き、消えた?」
再び目を開けた時には、変わることの無い東福寺駅構内の光景だけが空虚に広がっていた。真っ赤な衣の男は消え失せていた。意味の判らない言葉だけを残して勝手に消え失せるとは、一体何がしたかったのか?……否、詮索しても答えは得られないだろう。ならば行動を起こすしか無かった。
何時の間にか雨はすっかり止んでいた。雨上がりだからこそ、ジットリとまとわり着く様な湿気と暑さを感じずには居られなかった。すっかり汗まみれだ。だが、怯む訳にはいかない。皆が待っているのだから。俺はホームを移動し京阪に乗り換えた。向かう場所は祇園四条だ。
祇園四条。去り往く列車を見届けながら歩き出した。地上に出て鴨川に架かる四条大橋を歩む。列車の中はエアコンが利いていて涼しかったが、外に出れば蒸し暑さが蘇る。そう考えていたが期待は裏切られた。いや……むしろ想定どおりというべきか。
(異様な冷気を感じる。やはり、確実に近付いているということか)
雨雲は完全に消え失せ、代わりに月明かりが静かに街を照らしていた。賑わう交差点で信号が変わるのを待つ。やはり何かがおかしい。ここ四条通は祇園の中でも最も賑わう大通り。人の波が途切れることは無い場所なのだ。だが南座の前も、にしん蕎麦の松葉の前も人の姿も皆無に等しく気配すら感じることはなかった。
流れる鴨川の音色。それ以外の音は何も無かった。普段であればこの辺りは夜でも賑わっている。河原町の界隈では同年代の連中が意味も無くたむろしては、無駄な話に花を咲かせる。呑みに訪れる観光客の姿も珍しくは無い。鴨川への納涼床も出ている以上、賑わう場所であるはず。車もひっきりなしに往来する場所なのだ。こんなにも静まり返っている光景は初めて目にする。
やがて信号が青に変わる。道路の向かい側に抜ければ、すぐに先斗町通りに入る。宵の宴が繰り広げられる賑やかな花街。細い路地の両脇には店が所狭しと立ち並ぶ。昼間は静かな通り。夜になると賑わいを見せる通り。柔らかなオレンジ色の明かりに照らし出され、どこか妖しげな雰囲気を纏いながらも賑わいを見せる。時折、舞妓が行き交う姿も目に留まる場所。だが、ここもやはり妙な静けさに包まれている。賑わいは失われ、まるで誰かの葬式の様な雰囲気に包まれていた。
(ここまでハッキリと主張されると、むしろ潔さすら感じる)
そう思った瞬間一気に空気が変わる。異様な冷気に包まれ人の姿が煙のように消え失せた。変わりに周囲に舞い始める青白い光。冷たい光を放つほたる達が周囲を舞う。いや、何時の間にか先斗町通りを覆い尽すかの如く無数のほたるが舞っていた。通り全体が青白い、冷たい色合いに包まれる。
深い色合いを称えた時代を感じさせる黒塗りの建物の立ち並ぶ細道。通りの両側には、普段であれば賑わいを見せる飲食店が立ち並ぶ。人の気配も、物音も、何も無い花街。静まり返った細道は奇異な空気に満ちていた。賑わいを見せるのはほたる達だけ。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ……」
どこからともなく聞こえてくるとおりゃんせの歌声。
「お約束通りの展開という訳か……俺は此処にいる。さっさと姿を現せ!」
だが誰も応えはしない。とおりゃんせの歌声だけが聞こえてくる。不意に、何かが足元に落ちる微かな音が響き渡った。そっと足元に目をやる。
「藁人形……!」
見間違えるはずがなかった。あの時、俺が作った藁人形だった。酷く粗雑な造りで、これが藁人形だと説明されても理解し辛い程のものだった。だが、藁人形の胸に貼られた和紙に刻まれた名前……「鴨川卓」の名前は確かに俺が書いたものだ。憎悪に我を失い作り上げた物だ。まともに作れる訳も無かった。乱暴に刻まれた文字は走り書きそのもの。酷く歪んだ字ではあったが、確かなる憎しみが、怒りがそこには刻み込まれていた。
「もっとも、これは失敗作だった。卓では無く、松尾が死んだのだからな」
藁人形……少なからず、これは何らかの思惑を意図して投げ掛けられたものなのだろう。敵の正体は判らないが、随分と遠回しな意思の疎通を取ろうとしているように思えた。藁人形から思い浮かぶことを連想してみた。
藁人形……卓へ向けられた果てしない憎悪。その結果、松尾が身代わりになって死んだ。思い出したくも無い映像。あざとく開かれた口。あり得ない方向に曲がった四肢。砕けた眼鏡。それから、酷く腐臭の漂う汚物の混じった血溜まり。
(違うな……これは結果だ。結果では無く、そこに至るまでの道筋に意味があるはずだ)
再び記憶を手繰り寄せる。雨の鞍馬……一人寂しく歩いたこと。卓へ向けられた果てしない憎悪。それは怒りに変わる。輝から聞いた話……ああ、そうだ。此処で藁人形の存在を知る。藁人形……至る先は丑の刻参り。丑の刻参りを行った場所……丑の刻参り……丑の刻参り……。
「貴船神社……そうか。なるほど」
そう。あの日、あの時、卓に対する憎しみを叩き付けたくて仕方が無かった俺は、輝から聞いた話を思い出していた。貴船神社は丑の刻参りで有名な場所だと。意外だった。生まれ育った街に、そんな忌まわしい真実が隠されていようとは思わなかったから。それでも何でも良かった。自分を納得させることが出来るならば、どんなにでたらめな噂でも何でも良かった。だから、俺は行動に移した。幾つもの本を読み漁り、適当な知識ではあったが強引に儀式を行った。藁人形と釘。それから木槌があれば、取り敢えずは形になるだろう。そんな、安易な気持ちで儀式を行った。結局、そんなことをしても気持ちは晴れなかったし、孤立無援な現実も変わらなかった。俺が引き篭もりになってしまった事実も、何一つ変わらなかった。唯一変わったことと言えば――あの儀式を行ってから一ヶ月ほど経った時に松尾が自殺した。丑の刻参りのことなど、すっかり忘れていただけに酷く恐怖を覚えた。
「貴船神社か……良いだろう。行ってやるさ……散々俺を振り回した罪、償わせてやる」
怒りという感情は、憎しみという感情は実に判り易い感情だと思う。判り易い上にとても大きな力を秘めた感情でもある。人の心が持つ力というものは侮れないものだ。松尾の死で確かな力を俺は実感した。そして同時に理解した。俺は「鬼」なのだということを。「人」であることを棄てたもの。言い換えれば、かつては「人」であった存在だということなのだろう。
まるで麻薬だ。あの時も……卓を殺そうと、首を絞めていた時も、腕に突き刺さる爪の痛みなど、微塵も感じなかった。後になってから酷く痛んだのを考えれば、怒りという感情は人を「鬼」に至らしめる原点なのだろう。激しい怒りに支配された「鬼」は人としての存在を失う。実際、今の俺を支配している感情は恐怖心などでは無い。むしろ、恐怖心など微塵も感じなくなった。ふつふつと燃え上がるような感覚。俺は酷く心地良い快楽を覚えていた。ふつふつと沸き上がる殺意……。
「馬鹿にしやがって……殺してやるから待っていろ!」
鬼にだって何にだってなってやるさ。皆を救い出すため? 違うな……あんな、惨めな想いをするのは、孤立無援の寂しさを再び体感する位なら、俺は鬼になることなぞ厭わない。俺の幸せを奪おうとする奴は誰であろうと許さない。邪魔をするなら……ためらうことなく殺す。それだけだ。
再びの出町柳は夜半の闇に包まれていた。辺りは静けさに包まれていた。人生とは実に因果なもので、再び叡電に揺られながら俺は貴船口を目指していた。乗り合わせた乗客は他にはいない。辺りはすっかり暗闇に包まれている。こんな時間帯に貴船神社に向かう奴など極一部の例外を除いてはいない。あの時の俺のように丑の刻参りに向かう奴くらいだろう。
頼りない明かりに照らされた車内。ガタンガタン。ガタンガタン。列車は、ただ無機的な音を立てながら市街を後にした。市街の風景から景色は段々と木々に抱かれた景色に移り変わる。昨日も見た光景だ。違っている部分といえば隣にいるはずの仲間達が居ない。不安で無いと言えば嘘になる。自らを奮い立たせるために、殺意という感情を起爆剤にしてみたが効果は薄そうだ。
不気味なまでに静まり返る車内。ガタンガタン。ガタンガタン。酷く揺れる列車の中、俺は何者かの視線を感じていた。それは四方八方から感じられた。得体の知れない存在への不快感。ただ、俺は窓の外を流れる景色を眺めていた。幾つもの無人駅を後にした。外の景色は黒一色。殆ど何も見えない。窓に映る俺の顔さえも、ぼんやりと浮かび上がるようにしか見えなかった。吐息だけが漏れる。ガタンガタン。ガタンガタン。揺れる列車の音を肌で感じながら、ただ静かに、俺は窓の外を眺めていた。
暗がりの中を列車は静かに走り続ける。駅に着いては、また駅を発つ。叡電は再び暗がりの中を走る。ぼんやりとした明かりの薄暗い駅には、確かに人影はあった。だが俺の乗っている電車に乗ろうとする奴は誰もいなかった。まるで、この電車の存在など見えて居ないかの様に思えた。
確かに俺の乗っている列車が駅に停車しているにも関わらず、時刻表を神経質そうに眺めながら溜め息を就く若い女性の姿が見えた。退屈そうに遠くを見つめる中学生位の少年達の姿が見えた。やはり、この電車はこの世ならざる物だということなのだろう。
(なるほど……既にこの電車はこの世の物では無いということか。上等だ。受けて立つまでだ)
暗闇だけが広がる線路を駆け抜けては、思い出したかの様に、仄かな明かり灯る駅に到着する列車。どれだけの時間走ったのだろうか? 俺はずっと車窓からの光景を眺めていた。終わりの無い暗闇だけが何処までも広がっている様に思えた。時折見える民家の明かりや、街灯。通り過ぎる車の明かりだけが、夜空に浮かぶ星の様に心の支えになってくれた気がした。
やがて、列車がゆっくりと減速を始める。駅が近付いてきたのだろう。到着。貴船口。貴船神社は、貴船口から降りて道なりに歩いた先にある。夏の夜。雨上がり。湿気を孕んだ蒸し暑い空気に満たされている。
「……到着か。もう、逃げやしない」
ゆっくりと列車が停車する。静かに扉が開く。消え入るような弱々しい明かりだけが駅構内を照らす。近くを流れる貴船川の音と水気を孕んだ空気を肌で感じながら改札を抜ける。石段を下れば既に駅の売店は店仕舞い。閉ざされたシャッターと古めかしいガチャガチャだけが薄明かりの中にぼんやりと佇む。時の流れに取り残されたかのような光景だった。薄暗い通りを抜ければ静寂と漆黒の闇夜に包まれた道路に出る。貴船川のせせらぎの音色が闇夜に染み渡って行く。明かりに釣られて舞い込んできた蛾を避ければ、後はこの道を歩き続けるだけだ。ふと、振り返れば暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる様な駅の明かり。この駅だけが暗闇の中に浮かぶ灯火のようになっていることだろう。つまりは帰るべき道標となる筈だ。
貴船神社へと至る道は酷く薄暗かった。微かな月明かりだけに照らし出された道をひたすら歩き続ける。まだ木々には雨の痕跡が残っているのか? 時折、木々の葉から雨粒が落ちる音が響き渡る。人気の無いアスファルトの道は風が木々の葉を揺らす音以外は静寂……貴船川の流れる音と、蛙や虫の鳴き声以外は何も聞こえてこない。山肌から染み出す地下水が道路を川の様に這う。水の流れを避けながら俺は貴船神社へと至る道を歩んでいた。
「あれは?」
どれだけ歩いただろうか? 不意に俺の視界に異様な物が入り込む。遥か先を歩く人影。異様な姿の人影であった。白い装束に身を包んだ女。後姿ではあったが、確かな殺気を放っていた。女はゆっくりと歩んでいた。右手に木槌……それから左手には恐らく藁人形。だが、何よりも異様なのは微かな月明かりしか無い場所であるにも関わらず、その姿が異様なまでに鮮明に浮かび上がっていることであった。まるでほたるのように青白い、冷たい光に包まれているように見えた。
「人では無い存在か……正体を暴いてやる」
滑るようにゆっくりと移動する謎の女。俺は距離を縮めようと歩幅を広げながら歩いた。迂闊に物音を立てないように、気付かれないように慎重に歩き続けた。少しずつ距離が縮まってゆく。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ、天神様の細道じゃ……」
とおりゃんせを口ずさみながら女はゆっくりと移動を続ける。ここで俺は確かな違和感を覚え始めていた。
(この声……聞き覚えのある声だ。だが、誰だ? 顔見知りの誰かであるのは間違いないはずだが……)
聞き覚えのある声ということは、少なからず顔見知りの誰かであるはず。だが、どうしても思い出せない。顔見知りどころか頻繁に顔を合わせている人のはずなのだ。それにも関わらず思い出すことが出来ない。
不意に強烈な眩暈に襲われる。世界が揺らぐような酷く不快な感覚。堪え切れず思わず膝から崩れ落ちた。
「くっ!」
本当に一瞬のことだった。再び顔を挙げた時には、既に白装束の女の姿はどこにも無かった。
「き、消えた!?」
まるで最初から存在していなかったかのように女は消え失せていた。
「行き先は一緒ということか。いや、むしろ誘いに来たのか?」
目線を道の奥へと向ける。誰も応える者はいない。
「良いだろう……その化けの皮を剥がしてくれるさ」
俺は再び貴船神社への道を歩み始めた。涼やかな川の音しか聞こえない静かなる道。微かな月明かりだけが頼りだった。やがて川に設置された川床が見えてくる。料理旅館ふじや。仄かな光を放つ赤い提灯。一度は泊まってみたいと思っている、高級感漂う料理旅館の荘厳なる佇まいを通り過ぎる。ここまで来れば貴船神社本社は目の前だ。だが、目的地は此処では無い。ここから、さらに細くなる坂道を歩き続けた先にある貴船神社は奥宮。あの時、俺が丑の刻参りを行った場所でもある……長い道のりではあるが逃げ出す訳にはいかない。
唐突に強い風が吹き抜けた。真冬の吹雪を思わせるような肌を切るような冷たい風。その冷たい風に乗って舞い散るのは桜の花弁。あり得ない光景だった。異様な冷気が吹き付ける中を艶やかな桜色の花弁が舞い落ちる。それに呼応するかのように静かに提灯の明かりが消え往く。
「そんな小細工には、もう驚かされないさ。それに決めたのだ……決して逃げないと」
命を棄てる覚悟――何処までこの気持ちを保てるかは不安ではあったが、逃げたくは無かった。他力本願ではあるが、見えない何者かが支援してくれている。そんな心強さがあったから勇気を保つことができているのかも知れない。恐らく自分一人だったら此処には訪れなかっただろう。いや、訪れることが出来なかったというのが正解だろうか。
吹き付ける桜吹雪に逆らいながら俺は道を歩み続けた。道は一気に細くなり傾斜も険しくなる。それでもなお俺は歩き続けていた。程なくして貴船神社奥宮が見えてくる。
暗闇の中に浮かび上がる鮮やかな鳥居を潜りぬけ参道へと向う。暗闇に映える赤い灯籠。灯籠のぼんやりとした明かりが静かに参道を照らし出す。何時の間にか桜吹雪も止み、再びまとわりつくような湿気に包まれていた。異様なまでの静けさ。微かに流れる川の音しか聞こえない。不意に渇いた木の音色が響き渡る。カツーン。カツーン。規則正しく聞こえる木槌の音。聞き覚えのある音だ。
「丑の刻参りか……つくづく演出好きな奴だ」
朧な光を放つ灯籠を横目に参道を上り切る。奥の方から木槌の音色は聞こえてくる。恐らくは先ほど見掛けた白装束の女であろう。体中の神経を研ぎ澄ましながら俺はゆっくりと境内を伺った。周囲は木々に包まれている。いきなり予想外の場所から襲い掛かられたら一溜まりも無い。ましてや周囲は漆黒の闇夜に包まれている。こちらとしては圧倒的に不利な状況だ。
カツーン。カツーン……。規則正しい木槌の音色が唐突に途切れれば辺りは静寂に包まれる。そっと風が吹き抜け、木々の葉が揺れる音が響き渡る。俺は石段を登り切り、境内に至った。声はさらに奥から聞こえてくる。
「憎い……憎い! 山科、あいつのせいで!」
俺は耳に入る声だけを頼りに、暗闇の中を注意深く歩き続けた。やがて暗闇の中に浮かび上がる青白い光。白装束の女が憎悪に満ちた言葉を口にするのが見えた。木槌を握り締めながら、小さく肩を震わせ、嗚咽しているようにも見えた。不意に白装束の女が振り返る。般若の面。激しい恨みを意味する能面。
「……何者かは知らないが、皆を返して貰おうか」
「返して……貰おうだって? 何を言っているんだい……その前に、あたしの武司を返しておくれ! うわあああっ!」
唐突に女が飛び掛ってきた。とても、人の動きとは思えない動きであった。地面を蹴りあげると、鳥のように宙に舞い上がる。そのまま勢い良く飛び掛かってきた。予想もしない動きに、一瞬動揺させられたが、俺はすぐさま身構えた。
「なめるなよ」
相手の勢いを活かし、俺は女の腕を握り緊めると、そのまま力一杯投げ飛ばした。大木に背中から派手に叩き付けられ女が呻く。
「この化け物め……」
「う、うう……」
よろめきながら立ち上がる女。叩き付けられた衝撃で、ゆっくりと能面が剥がれ落ちるのが見えた。
「な!?」
剥がれ落ちた能面から現れた顔に、俺は驚愕させられた……。顔見知りも何も良く知っている人物だった。錦おばさん……俺達が良く行く河原町の銭湯の主であった。
「に、錦おばさん? どうして……」
訳が判らなかった。何故、錦おばさんが此処にいるのか? 何故、丑の刻参りをしていたのか? 何もかもが理解出来なかった。あまりにも想定外の出来事に俺はただ困惑していた。
「返せ……」
「え?」
「あたしの……あたしの武司を返しておくれ!」
理解出来ないことだらけの中で微かに繋がる事実。武司という名に覚えがあった。
そういえば……以前、錦おばさんから聞いたことがある。錦おばさんの一人息子のことを……彼の名は武司だったはず。比叡山へと続くドライブウェイの一角から転落して亡くなってしまったという話を。
一人息子を失った哀しみからなのだろうか? 錦おばさんは俺達のことを自分の息子のように可愛がってくれた。世話好きで、気立ての良いおばさん。恰幅が良く、俺達が悩み事を相談すれば豪快な笑い声で笑い飛ばしてくれる。
『なんだい? そんなことで悩んでいるのかい? 美味いモン食って、一晩ぐっすり寝ちまいな。そうすりゃあね、明日の朝には綺麗サッパリ忘れているもんさ。あっはっはっは!』
あの豪快な笑い声を聞くと自分が抱えている悩みがちっぽけな物であったと気付かされる。俺達にとっては第二の母親のような存在でもあった。だからこそ理解出来なかった。気立てが良く、世話好きで、心優しい錦おばさん。
『ありゃ? どこで暴れて来たのさ? 襟がほつれているじゃないか。これじゃあ、綺麗なお嬢さんとすれ違っても格好付かないじゃないか。ほれ、直しておいてあげるよ。風呂から上がるまでには仕上げておいてやるからさ。え? お代だって? そうだねぇ。出世払いで手を打つよ。あっはっはっは!』
そんな、錦おばさんと禍々しい丑の刻参りとは、どう考えても繋がらなかった。だからこそ俺は妙に冷静に考えていた。「返してくれ」という一言が気になっていた。事故ならばそんな言い方はしないはずだ。ということは「事故」で無く、何らかの「事件」だと考えるのが妥当だろう。
(武司さんの話は事故では無く何らかの事件ということか?)
「許さない……許さない! あたしは、あんたのことを絶対に許さないよ!」
一瞬のことだった。強い衝撃を受け、俺は突き飛ばされた。次の瞬間、俺の上に圧し掛かる重圧。木槌を振りかぶった錦おばさんの姿が目に映った。
「錦おばさん、落ち着け! 俺だ、小太郎だ!」
「山科あぁーーっ! 死ねえぇーーっ!」
思わず目を閉じた。次に来るであろう脳天への衝撃に身構えていた。無駄なことだ。この至近距離で、渾身の力を篭め、木槌で殴られ無傷でいられる訳が無いのだ。だが、衝撃は訪れない……。どういうことだ? 恐る恐る目を開けば、そこは見覚えの無い場所であった。
(またか。一体、どうなっている……)
「武司君、早まってはなりません!」
唐突に響き渡る大声に俺は慌てて振り返った。
(山科?)
俺に声を掛けたのは山科であった。だが俺は武司さんでは無い。一体どういうことなのだろうか? 必死の形相の山科と、その隣には険しい表情を浮かべた賢一さんの姿があった。学生服を着ている辺りからしても間違いなく過去の情景だろう。
「武司、駄目だ……自棄になるな! 死んじまったら、それまでなんだぞ!」
(もしかして、これは……武司さんが死に至った原因なのでは無いだろうか? だとしたら、これは武司さんの目線ということになるのだろうか?)
周囲の景色を目で追う。夕焼け空。萌え上がる様な赤。山科も、賢一さんも、それから……多分、武司さん自身も萌え上がる様な赤に染まっていたのだろう。目の前には道路が広がり、時折車が速度を上げて駆け抜ける様子が見えた。ふと背後からは水気を帯びた強い風が吹きつけているのに気付いた。思わず背筋が寒くなる。そっと、後ろを振り返れば、すぐ後ろは急斜面であった。その斜面を降りた、遥か彼方には海を思わせる様な琵琶湖が雄大な姿を広げていた。視界に広がる街並み。雄大な琵琶湖の湖面が、キラキラと夕焼け空を抱く様は幻想的で、酷く哀しみを掻き立てられた。雄大なる自然の美しさに俺の心が大きく揺れ動かされた。緊迫した空気の中で、ただ己の命を燃やさんばかりに鳴き続ける蝉の声が妙に無情に思えてならなかった。
『此処は比叡山ドライブウェイの夢見が丘……』
誰かが俺の耳元で囁き掛ける。
(武司さん? 駄目だ! 早まっては駄目だ!)
無駄なことだとは判っていた。過ぎ去った時の流れを変えることは出来る訳が無い。一度刻まれた歴史は変えられないのだ。それに……何も知らない俺なんかに死を決意した武司さんを止められる訳が無い。その気持ち、俺も判るから……本当にどうしようも無くなった時、人は考える力を失う。死んでしまったら、もうどうすることも出来ないことも判っていた。
あの時、死を覚悟した俺を止められる者は誰もいなかっただろう。判っているからこそ、武司さんのどうすることも出来ない哀しみも理解できてしまう。一体、彼の身に何が降り掛かったのかも判らない。ただ一つ確かなこと……これは本当にあった過去の出来事なのだろう。錦おばさんが深い憎悪を抱くに至った出来事なのだろう。無駄なことは判っている……それでも、何とかして生きて欲しかった。遺される錦おばさんのことを考えれば、何としても阻止したかった。
『綺麗事だけでは生きられない』
頭の中に武司さんの哀しそうな声が響き渡る。
(武司さん、俺の話を聞いてくれ! 頼む!)
『……では、小太郎君、君に問う。仮に俺の死を阻止出来たとして、その先のことをどう考える? 死を決意した者が死を阻止された時、そいつには何も残らない。生きる希望を失い、死への恐怖だけが残る。生きていても、何も解決手段も見付けられず、俺は生きて、生きて、苦しみ続けなければならない。俺はどうやって生きれば良い? 道を示してくれ』
(それでも、生きていれば! 俺も辛い出来事を体験した。でも、生きて――)
『君には救いの手を差し伸べる人がいてくれた。でも、俺には……!』
(賢一さんも、山科も、本気で考えてくれているはずだ!)
『……君は偽善者だ』
(え?)
『君は恐らく、俺の自殺を阻止した英雄になれるだろう。多くの人から賞賛の声を得られるだろう。その一方で俺は周囲からは好奇の目で見られる。自殺にさえ失敗した惨めな奴だと嘲笑われるだけだ。判るかい? 人は他人の不幸に敏感に反応するものだ。他者の不幸に、自らの幸福を見出す生き物なのだ。死に損なった上に、生きて、生きて……恥を晒し、苦しみ続けろと言うのか!? 自殺に失敗した者の味方など、誰一人として存在しない。親族からは恥さらしと罵られ、いっそ死んでしまえば良かったと蔑まれる! 周囲の連中からは色眼鏡で見られるだけだ! 事態は何も解決しない。苦しみは深まるだけだ。それに俺を虐げた奴らはさらに図に乗るだろう。その時に死の恐怖を知ってしまった俺は、さらなる覚悟を持って自殺に望まねばならない……判るかい? 救いなんか何処にも無い。標的になった者は、こうなることを皆から望まれるだけだ。こうなることは運命だった。定めだった。逃げられる訳が無いんだ。小太郎君、君も知っているはずだ。同じ境遇を体験したことのある君ならばね?』
何も言い返せなかった。同じ苦しみを知っているからこそ、同じ体験をした身だからこそ、何も言葉が浮かんでこなかった。俺は良き仲間達に支えられてきた。だから生きることができた。確かに武司さんには賢一さんという親友がいたのだろう。でも、だからと言って万人が救いの道を手にできるとは限らない。
『小太郎君。君に……君に、俺の苦しみを背負うだけの覚悟はあるとでも言うのかっ!? あるというなら、示してくれ! 俺が生きるための希望を! さぁ、どうした!?』
何も反論出来なかった。俺には武司さんを阻止することは出来なかった……無力さが悔しかった。だが、どうすること出来ないのは事実だ。それに……俺は人を救うどころか人を殺めてしまったのだから。直接手を下した訳では無いが、それは曲げようの無い事実。松尾の死は俺のやった行為の結果によるものなのだろうから。
「武司、待ってくれ!」
「武司君、いけません!」
賢一さんの声が、山科の声が、空しく響き渡った。武司さんは静かに背を向ける。ゆっくりと柵を越える。そっと下を見る。急な斜面だ。だが、これでは上手くやらなければ死ぬことは出来ないだろう。ふと、俺は右手に握られている何かに気付いた。ひんやりとした冷たい感触……それはサバイバルナイフであった。血が付着したナイフ……それも、かなり新しい血だ。誰の血なのだろうか? 一体、武司さんの身に何が起きたのか? ただただ困惑していた。だが俺の想いとは裏腹に、手が勝手に動く。武司さんの一瞬のためらい……。それから、錦おばさんの顔を思い浮かべていた。
『母さん……ごめん』
頬を大粒の涙が伝う。一粒。また一粒。悔しくない訳が無い。哀しくない訳が無い。好んで死を選ぶ奴なんて誰もいない。生きたい! その叫びが聞こえるからこそ、俺は張り裂けそうな想いで一杯だった。目の前で人が、今、まさに死のうとしているのに何も出来ない無力さが悔しかった。
覚悟が出来たのか、武司さんは冷静だった。驚くほどに冷静だった。そして、大きく……大きく、深呼吸をすると、武司さんは手にしたサバイバルナイフを首元にあてがった。
(さようなら、小太郎君……)
「駄目だっ! 武司さんっ、どうか、どうか思い留まってくれっ!」
俺は必死で武司さんの腕を抑えようとした。だが俺の願いは届かなかった。次の瞬間、武司さんは手にしたナイフを力一杯引いた。コンサートの幕開け……第一ヴァイオリンが開幕を告げる瞬間。願いを篭めて、祈りを篭めて、弦を引き寄せるかの様に力強く奏でられた瞬間であった。一瞬の静寂……だが、すぐに首筋を駆け巡る鋭い痛み……いや、火傷したかの様な熱さを感じた。次の瞬間、首筋から赤い飛沫が舞い上がるのが見えた。夕焼け空を染めるかのような、真っ赤な飛沫が空高く舞い上がる。
「武司君っ!」
「武司ーーっ!」
秋の紅葉嵐を春の桜吹雪を思わせる様に、パァっと真っ赤な飛沫が空を染め上げた。一瞬の出来事だった。哀しい程に赤々と炎上するかの様な夕焼け空。その赤さよりも、さらに赤い飛沫が舞い上がった。ゆっくりと力が抜けて行く。そのまま急斜面を転がり落ちる感覚を覚えていた。不思議と落ち着いていた。諦め……なのだろうか? 速度を上げながら転がり落ちて行く。木々の枝の欠片があちこちに突き刺さり、それでもなお速度は落ちることは無い。骨が軋み、何かが突き刺さる鮮烈な痛みが駆け抜けた。次の瞬間、凄まじい衝撃を感じた。恐らく、急斜面を転がりながら、大きな樹木に頭から突っ込んだのだろう。一瞬軋む様な音が響き渡り、ゆで卵の殻を潰すような感覚が駆け巡った。本当に一瞬のことだった。一瞬、体中に電気が走る様な感覚を覚え、酷く痙攣したが、すぐに意識は潰えていった。痛みは感じなかった……ただ、頭頂部に酷い衝撃と亀裂が生じる間隔、それから……何かが零れ落ちる様な重力感を感じていた。恐らく頭蓋骨が砕け、即死だったのだろう。せめてもの救いは苦しむ間も無く死ねたことだろうか……。ゆっくりと頭から温かな何かが流れ出す感覚を覚えていた。ただただ、脱力感しか残らなかった。言葉に出来ない哀しみで一杯だった。会ったことも無い人ではあるが他人という訳でも無い。だからこそ何かしてあげたかった。判っている……それこそが、『偽善』だというのだろう。
指を動かそうとしても全く動かない。ゆっくりと指先から痺れが生じ、ジワジワと体が冷えてゆく感覚を覚えていた。こんなにも暑い夏の日なのに、体が冷えるという感覚は酷く矛盾しているように思えてならなかった。
真っ赤に萌え上がる様な夕焼け空の下。木々に包まれた場所。すぐ、向こうには琵琶湖が広がっている。夏の夕暮れ。強い日差しと暑さ。木々の香り。小鳥達の声。響き渡る蝉の声。それとは対照的にパトカーのサイレンが響き渡る。恐らく山科と賢一さんの悲鳴も聞こえていたのだろう。ゆっくりと意識が遠退いてゆく。死ぬとはこういうことなのか……そんなことを、随分と冷静に考えていた。もう、視界は真っ白で何も見えない。辺りは騒々しくなっていた。
悔いとは決して前には立たないものなのだろう。自殺に失敗した人の殆どが口にしていた証言。『ああ、やっぱり止めて置けば良かった……』。武司さんの心の叫び、聞こえた気がする……武司さん、首筋に宛がったサバイバルナイフを力一杯引いた瞬間、泣いていた。静かな青空が一転して鈍色の空に変わると、叩き付ける様な土砂降りの様相に変わるのが判った。死ななければ良かった……やっぱり、生きていたかった!
俺は泣き叫びたかった。声を張り上げて、人目も憚らずに、ありったけの声で泣き叫びたかった。偽善なのかも知れない。偽善でしか無いのかも知れない。それでも……武司さんの哀しみは、あまりにも大き過ぎて、恐らく、俺の体もぐちゃぐちゃになってしまっていたのかも知れない。そんな気がしていた……。
『もう……戻れないのだな。だってさ、ほら……頭蓋骨割れて、中身、出て来てしまっただろう? もう……戻れないんだ……もう……』
乾いた口調で笑いながら話す武司さんは、時折、嗚咽混じりの声で呟いていた。俺は、ただ、それを黙って聞くことしか出来なかった。それは、あまりにも辛過ぎて聞きたくなかった。ペンで鼓膜を突き破りたかった。鼓膜が破れる痛みの方が……まだ楽だった様に思えていた。
再び場面が変わる。シトシトと降り続ける雨。酷く湿気に満ちた空気だった。嫌な気配が立ち込める。周囲には薄い霧が掛かっているかのような光景。線香の香りが立ち込める。行き交う人々は皆、喪服に身を包んでいる。葬式。誰の葬式かはすぐに判ってしまった。武司さんの葬式。酷く湿気に満ちた空気は、それだけでは無い重みに満ちているように思えた。人の死という物は、これ程までに誰かの人生を変えてしまうものなのだろうか。何度目にしても慣れることは出来ない、黒と白の鯨幕。
「帰れっ!」
「お、落ち着いてください!」
唐突に響き渡る怒号。動揺した表情で飛び出したのは山科であった。それに続き錦おばさんが現れる。手には包丁を持ち、夜叉の如く髪を振り乱していた。周囲の人々が必死で止めようと試みるが、包丁を持っているせいか思うように阻止出来ずにいた。
「帰ってくれ! あんたに……あんたなんかに、来て貰っても駄目なんだよ! 武司を、武司を返しておくれ!」
「おばさん、落ち着けって!」
錦おばさんは髪を振り乱しながら、凄まじい形相で山科を睨みながら怒鳴っていた。賢一さんが荒れ狂う錦おばさんを必死で止めようとしていた。壮絶な光景に、俺はただただ言葉を失っていた。憎しみという感情は、ここまで人を狂気に駆り立てるものなのかと感じていた。
「落ち着いてなんか居られるものか! 加害者の名を明かせ!」
「それは出来ません! 加害者の生徒にも、加害者の生徒にも! 未来はあるのです!」
「ふざけるんじゃないよ! うちの武司を殺しておいて……未来だって? そんなもの要らないさ。今すぐ、あたしが、此の手で、殺してやるっ!」
「お、おばさん、落ち着いてくれよ!」
「私が至らなかったばかりに、本当に申し訳御座いません!」
「申し訳ないと思うなら、今の言葉、武司を見てから言ってご覧よ! 首にパックリと開いた傷口を見ても、熟れ過ぎたスイカみたいに無残に割れちまった頭を見ても、そんな台詞が言えるのかい!? えぇ? 答えなよ! 黙っているんじゃ無いよっ!」
「本当に! 本当に申し訳御座いません!」
激しく降り頻る雨の中、濡れることさえ厭わずに土下座し、地面に頭を擦り付ける山科の姿を見つめていた。叩き付ける様な雨の中で、喪服はびしょ濡れになっていた。地面に頭を擦り付けながら、嗚咽しながら許しを請う山科の姿は、あまりにも痛々しくて目を背けたい光景だった……そこには行き場を失った怒りが、憎しみが、確かに渦巻いていた。誰が悪い訳でも無い。誰もが何も言えない状況だった。
山科の立場を考えれば、例え加害者が誰か判っていてもその名を明かすことは出来なかっただろう。賢一さんも同じだ。錦おばさんの様子を見ていれば、そんなことは出来なかったはずだ。仮に加害者の名を知ってしまったとしたら、錦おばさんは本気で復讐してしまっただろう。
一方で錦おばさんの気持ちも判らなくは無かった。大切な一人息子を奪った、憎い犯人を見過ごす訳にはいかなかっただろう。法の下に裁きを下す……それが摂理ではあるが、少年法という大きな壁が立ち塞がる。だからこそ抑えようの無い怒りと、哀しみで八方塞りになってしまっているのだろう。武司さんの葬儀の場には、行き場を失った深い、深い、哀しみが降り注いでいた。空から零れ落ちる雨は容赦無く皆に降り注いだ。俺にはこの雨粒のひとつ、ひとつが武司さんに思えてならなかった。
(泣いているのか、武司さん? 死んでしまったことが哀しくて? それとも……遺された人々を想って?)
「武司を! 武司を、返しておくれ! あああああーーっ!」
力なく崩れ落ちると、錦おばさんも声を張り上げて泣き叫んだ。
「だったら、せめて、武司の後を追わせておくれーっ! もう、生きていても、仕方が無いんだよーっ! うわあああーーっ!」
獣の様な声を張り上げて泣き叫んでいた。手にした包丁を首に宛てようとして、周りの人々が必死で取り押さえていた。もみ合いになりながら賢一さんが負傷するのが見えた。包丁の刃の部分を乱暴に握り締めて取り上げる様が、次の瞬間、苦悶の表情を浮かべる賢一さんの足元に赤い雫がポタポタと零れ落ちるのが見えた。雨に濡れた地面に倒れ込みながら、声を張り上げて泣き叫ぶ錦おばさんの姿があった。山科は未だに地面に頭を擦り付け、必死で謝罪していた。見ていられなかった。目を背けるつもりも、逃げるつもりは無かった。ただ、何もしてやれなかった無力さが悔しくて、哀しくて、とにかく苛立った。
「誰か! 誰か、救急車を呼んでくれ!」
「先生も頭を上げてくださいよ!」
「一体、どうなっちまっているってぇんだよっ!? 此処は葬儀の場なのだぞ!?」
怒号と罵声だけが飛び交っていた。空虚に乾いた、酷く冷たい哀しみに満ちあふれた光景は、凍て付くような寒さに震えているように見えた。
そうか……判ってしまった気がする。錦おばさんの持つ深い哀しみは、行き場の無い憎しみへと変わったのだろう。その結果として、あの丑の刻参りに至ったのだろう。そう考えると色々と話が繋がる。
(山科のバイク事故……そこに飛び出して来た能面を被った女。その女とは、恐らくは錦おばさんなのだろう)
逆恨みといえばそれまでなのだろう。山科は直接の原因では無いはずだ。武司さんの自殺を必死で阻止しようとしていたのだから。だが、サバイバルナイフを握り締めた状況で、武司さん自身も完全に腹を括っていた状況で、一体どうやって阻止することが出来ただろうか。
山科のことは俺自身も良く知っている。教師というよりも僧侶に近い考え方を持つ人物だ。間の抜けた風体とは裏腹に、実に物事を鋭く見ている。ふらりと現れては、心に響く言葉で生徒達を迷いから救い出す存在。校内一の人徳者として誰からも親しまれる人物なのだ。錦おばさんも恐らくは自分の行いが間違っていることは判っているのだろう。だが、どうすることも無い想いというのは誰しもが抱く物なのであろう。行き場の無い想い。その想いが山科に向けられてしまったのだろう。やるせない話だ。誰も悪くない。なのに何故こんなにも哀しみに満ちているのだろうか。
錦おばさんの行動については、だいぶ明らかになった。だが、説明がつかないこともある。前も見えない程の土砂降りの中を、一体どうやって錦おばさんは比叡山ドライブウェイへと向かったのだろう? 錦おばさんは運転免許証こそ持っているがペーパードライバーだと言っていた。仮に運転できたとして、前も見えない程の土砂降りの中、比叡山ドライブウェイを走れるものなのだろうか? それだけでは無い。とおりゃんせの唄を口ずさんでいた、あの能面の人々は一体何者なのか? 全てが解明した訳では無い。
考え込んでいると、唐突に何者かに首を絞められた。
(な……何だ!?)
目の前には般若の面を被った錦おばさんの姿があった。凄まじい力で首を絞められていた。息を吸い込もうにも、あまりにも強く締め付けられているために、全く抵抗が出来ない。酸欠からなのだろうか? ゆっくりと……ゆっくりと視界が霞んでゆく。
雨足は相変わらず強い。梅雨の季節特有の生暖かい気候の中で、哀しみに満ちあふれた雨だけが容赦なく降り続く。どこからか湿気た線香の煙が漂ってくる。葬式の香り……だが、不気味なまでに周囲は静まり返っている。ゆっくりと意識が戻ってきたところで、俺はしっかりと地面を踏みしめながら周囲を見渡した。
視界に飛び込んで来るのは白と黒の鯨幕。大きな花輪も雨に降られ、哀しげに濡れていた。周囲が白々と見えるほどに線香の煙が立ち込めていた。
(おかしい……妙に静まり返っている。それに人の気配がまるで無くなった……何が起きている?)
不意に雨足が強まり、さらに視界を遮る。線香の煙も一段と濃くなり始めた。異様な冷気を肌で感じずには居られない。不意に俺の視界に、思考回路を停止させる物が飛び込んできた。
「ま、松尾……かよ子だと!?」
首筋に雨粒が落ちたのか、背筋を冷たい雫が伝ってゆく。あまりにも在り得ない光景であった。松尾かよ子……忘れることの出来ない名前。忌まわしい名前。ああ、そうさ……屋上から飛び降り自殺した小学校の教師。いや、これは絶対に在り得ない光景なのだ! 松尾は俺が中学生になった頃に自殺したのだ。どう考えても松尾の葬儀に出くわせる訳が無いのだ。だとしたら、目の前に広がる光景は一体何だというのか? 偶然、同姓同名の誰かが死んだとでも言うのか?
「お前が殺したんだ!」
「え?」
唐突に誰かに言葉を投げ付けられ、俺は驚き振り返った。何時の間に現れたのか、俺のすぐ後ろに傘もささずに佇む少年が居た。少年は険しい眼差しで俺を睨み付けながら、しっかりと俺を指差していた。まだ幼い少年は目に一杯の涙を称えながら、ただ静かに俺を睨み付けていた。怒り、憎しみ、それから……途方も無い哀しみに満ちた眼差しだった。
「お前がお母さんを殺したんだ!」
「な、何を言っ……」
「お前がお母さんを殺したんだ! 返せ! ぼくのお母さんを返せ!」
(ま、まさか……この少年は松尾の!?)
一段と線香の煙が濃さを増す。まるで濃霧の中に佇んでいるかの如く、視界は白々と染め上げられていた。
「お前が私の妻を殺したんだ!」
「え?」
何時の間にか数え切れない程の人々がそこにいた。まるで最初からそこに居たかの様に違和感無く佇んでいた。皆一様に喪服に身を包んでいた。黒、黒、黒! ただただ黒一色の世界に摩り替わろうとしていた。
「返してくれ! 私と息子の人生を!」
「私達の友達を返しなさいよ!」
「お母さんを返せ!」
「娘を……あたしの娘を返しておくれよ!」
「あ……ああ……違う……違う、俺じゃない……俺じゃない……」
もう、どうすることも出来なかった。一斉に取り囲まれ、皆に口々に罵声を浴びせられ、俺はただ、小さくうずくまることしか出来なかった。雨は強く降り続き、線香の煙は濃さを増すばかり。返せ!返せ! 繰り返し、畳み掛けるように浴びせられる様々な人々の放つ言葉。そう……それは立派な「呪い」であった。
(そうか……俺が松尾を殺してしまったために、こんなにも多くの人たちが哀しんでいるというのか? いや、違う! そうじゃない! 松尾を殺したのは俺じゃない! あいつが勝手に自殺なんかするから!)
不意に周囲が静寂に包まれる。耳に入る音に意識を集中してみた……道路に叩き付ける雨の音以外、何の音も聞こえなくなった。憎しみに満ちた言葉は、もはや何処にも感じられなかった。今度は一体何が起きたと言うのか? 見つめたくなかった。どう足掻いても逃げ切ることの出来ない八方塞りの状況の中で、救いの手が差し伸べられるとは到底考えられなかった。だが、好奇心とは恐ろしい物で、こんな状況に置かれていても……いや、こんな状況に置かれているからこそ、何が起きているかを把握しない訳にはいかなかった。俺は恐る恐る、目を開いてみた。
「ひっ!」
何時の間にか俺の周囲を取り囲むように喪服姿の人々が覗き込んでいた。これ以上無い程に口元を歪ませながら不気味に笑っていた。
「お前が悪いんだ! お前が全部、全て悪いんだ!」
「お前が呪いを掛けたせいで死んだんだ!」
「お前が死ねば良かったんだ!」
一斉に憎しみに満ちた言葉を叩き付けられ、どうすることも出来ない程に追い詰められていた。馬鹿にするような嘲笑いと、憎しみに満ちた言葉を叩き付けられ、体中が燃え上がる様に熱くなっていた。もう、どうなっても構わないと思っていた。もう、どう足掻いても抑え切れそうに無かった。
「止めろーーっ! 俺じゃない! 俺のせいじゃない! 俺は! 俺は! 俺は悪くないっ!」
見苦しい言い訳にしか過ぎないことは判っていた。それでも抑え切れなかった。どうすることも出来なかった。叫び声を挙げなければ、俺自身が壊されてしまったかも知れない。いや、もう既に……俺は壊れてしまったのかも知れない。哀しかった……俺が俺で無くなってしまう気がして。
再び周囲は静寂に包まれる。また、同じ手で俺を苦しめるつもりか? それが復讐なのか? 逆恨みでしか無い……俺は被害者だ! どうやったら、被害者が加害者になるというのか!?
「被害者が加害者に転ずることは、珍しいことでは無いよ。俺が良い例だろう? 違うかい、小太郎君?」
突然背後から誰かに声を掛けられた。それは聞き覚えのある声だった。驚き、振り返れば、何時の間にか周囲の光景は変わっていた。そこは埃っぽい体育倉庫であった。驟雨の如く響き渡る蝉の声。微かに隙間から差し込む日差しの色合いから察するに、どうやら夕焼けの時間帯のように思えた。妙な蒸し暑さを感じる場所であった。
「い、痛てぇ……て、てめぇ……何てことを!」
「あ……ああ……!」
人の声に驚き振り返れば、何時の間にか数名の人が存在していた。一際大きな体格の生徒が額に汗を滲ませながら苦悶の表情を浮かべていた。太ももに宛てられた手、滴り落ちる真っ赤な血……驚愕の表情を浮かべる、彼の仲間達が見つめる先に佇む生徒。
(た、武司さん!?)
見間違える筈が無い……錦おばさんの家に遊びに行った時に、何度か線香を上げさせて貰った武司さんの顔を見間違える筈が無かった。あの時、俺は武司さん自身と一体化して、武司さんの最期を見届けたのだから。
だが、だからこそ意味が判らない光景であった。武司さんが手にしたサバイバルナイフからは、確かに血が滴り落ちていた。
(これは……まさか、武司さんが刺したのか!?)
「ひ、人殺し!」
「え……ひ、人殺し……?」
「このクソッたれが! ナイフで人を刺すなんて、何を考えてやがる!」
大柄な生徒が凄まじい形相で吼える声が響き渡る。それを皮切りに、取り巻き達が一斉に声を張り上げる。
「人殺し!」
「武司が竜二さんを刺した!」
「誰かーっ! 人殺しの武司を捕まえてくれ!」
皆が声を張り上げる。肩を小さく震わせながら、武司さんは虚空を見つめるばかりであった。
「違う……違うんだ……違うっ!」
「何が違うってぇんだよっ!? てめぇが俺を刺したんだろ!? くそっ! 誰かさっさと救急車を呼びやがれっ!」
夕暮れ時の体育倉庫で起こった惨劇。不意に、誰かが勢い良く倉庫の扉を開ける。目が眩む程に赤々とした日差しが飛び込み、全てを赤々と染め上げる。なおも蝉は激しく鳴き声を張り上げる。命の灯火を焼き尽くさんばかりに激しく、猛々しく、狂おしく。
「武司っ! こ……これは一体っ!?」
「違う……違うんだ……」
「見たかよ、賢一……武司が俺を刺したんだ! そのサバイバルナイフでなっ!」
「何だと!? それは、俺がお前に贈ったナイフ……何故、こんなことを……」
「俺じゃない……俺は悪くない……」
武司さんはうわ言のように、震えた小声で何かを呟き続けていた。足を抑えながらも、なおも出血が収まらない様子の竜二はうめき声をあげていた。呆然と立ち尽くす賢一さん。何が何だか、訳が判らなくなる情景だった。一体、何が起こったというのか? これが武司さんの自殺に繋がった事件だとでも言うのか? ただ、一つ判ったこと……武司さんは、どうすることも出来ない状況に陥ってしまったのだということ。
「うわああああーーーっ!」
突然、悲鳴を挙げると武司さんは突然走り出した。
「ああ、おい、武司! 待てよ!」
すぐに後を追い掛ける賢一さんの姿を、俺は呆然と見ていることしか出来なかった。誰かが呼んだのか、救急車のサイレンの音と、警察のパトカーのサイレンの音が入り乱れていた。校舎の方から救急隊員と教師達が駆け込んで来るのが見えた。
どうすることも出来ない絶望……そこに置き去りにされた、どうすることも出来ない哀しみに俺は押し潰されそうだった。
不意に俺の足元に一匹の蝉が落ちてきた。そっと手を伸ばしてみたくなった。指が触れた瞬間、蝉は微かに鳴き声を挙げると、それを最期に動かなくなってしまった。何処を見つめているのか判らない空虚な眼差しだけが遺された。俺はそっと身を起こして空を見上げた。綺麗な夕焼け空だ。涼やかな風がそっと吹き抜けた。一瞬の心地良さ。蝉達の鳴き声だけが響き渡る。
(一体何が起きたのかは判らないが、どうすることも出来ない四面楚歌の状況に陥ったのは間違いないのだろう……)
何が何だか俺も理解不能だった。一体俺は何を見ているのだろうか? これは現実なのか幻なのか? 誰が何のために、こんな映像を俺に見せているのか? 意味不明だった。意味不明過ぎて、ただただ恐ろしくて俺は叫びたい衝動に駆られていた。
再び気が付いた時には、やはり目の前には般若の面を被った錦おばさんの姿があった。凄まじい力で首を絞められていた。微かに戻ってきた意識の中で、俺は必死に抵抗した。食い込む指を何とか引き剥がそうとしていた。だが、とても人とは思えない力で指は食い込んでくる。
「に、錦おばさん……何故!?」
「さぁ、どうした小太郎よ? 武司の最期を見届けたのだろう? ナイフで刺したことも、自殺したことも全て真実だ! 判るか? お前の呪いを、その身に受け止め鳥になった、あの女教師のこと! 良く思い出せ! 他の誰でも無い……お前が殺したのだ! お前が、お前が殺したのだ! お前も、あの松尾という女教師の葬儀の場で頭を擦り付けるが良い!」
明らかに錦おばさんの声では無かった。
「や、止めろ! それ以上言うな! それ以上……俺を怒らせるな!」
「あっはっはっは! そうだ! それで良い! もっと憎め! 怒れ! 激しく燃え上がる憎悪の炎に、その身を焦がし、理性など捨て去れ! 本能に忠実になれ! 良く思い出せ……お前がこんなにも傷付いているのは誰のせいだ?」
必死で抵抗を試みるが、ギシギシと凄まじい力で指が食い込んでくる。骨が軋む程に強い力。ゆっくりと意識が遠退く。
「ほら……良く見ろよ、小太郎? 俺の顔に覚えがあるはずだろう? ひゃーっはっはっは!」
「き、貴様は鴨川卓! ああ……ああっ! 俺は……お前に復讐することだけを希望とし、糧とすることで此処まで生き続けて来た! 今度こそ、お前に引導を下してやるっ!」
「ひゃーっはっはっは! どうした? どうした? お前の怒りはその程度か? ほら、さっさと反撃しないと、お前の首を圧し折るぞ? そうしたら、今度こそ輝は俺の思い通りだ! 悔しいだろう? 妬ましいだろう? 嫉妬の炎で、その身を焦がし、燃え尽きちまうが良いさ! ひゃーっはっはっは!」
卓の忌まわしい笑い声を聞きながら、俺の意識が再び遠ざかってゆく感覚を覚えていた。目の前が白々と歪んでゆき、ゆっくりと体の力が奪われてゆく感覚を覚えていた。
「ぼくは卓君とは仲良くしたくない」
はっきりと聞こえた声。その声は輝の声であった。再び周囲の景色が変わっている。そこは見覚えのある光景……思い出したくもない小学校の光景であった。薄暗い曇り空は、今にも雨が降り出しそうな空模様であった。夕方の廊下で対峙する輝と卓の姿を見ていた。険しい表情を浮かべたまま輝は卓と向き合っていた。
「何で、俺とは仲良くしたくないんだよ?」
「何でだって?」
輝は眉をひそめながらも、じっと卓を睨み付けていた。
「ぼくに意地悪ばかりするからだよ。意地悪する人とは仲良くなんかなれないよ」
俺の知らない場所でのやり取りだった。確かに、卓は輝に妙に興味を抱いていた。理由は俺にも、輝にもサッパリ判らなかった。だが、今の俺ならば何となく判る気がしなくない。
(いずれにしてもお前は歪んだ心の持ち主だ……輝がお前を拒むのも頷ける)
「何でだよ!?」
不意に卓が声を荒げる。輝が思わず目を見開くのが見えた。
「俺が仲良くしてやろうって言っているのに……俺の誘いを断るなんて、どうなるか判っているんだろうな?」
卓は凄みを利かせた声で威嚇しているつもりなのだろうが、輝は哀しそうな表情で溜め息を就きながら目を伏せた。静かに顔を挙げると、憐れむような目で卓をじっと見つめる。
「ねぇ、脅迫することが仲良くすることになるの? 違うよね? だから、ぼくは君とは仲良く出来ないよ」
輝の凛とした声が廊下に静かに響き渡る。くるりと踵を返すと、輝は歩き出した。廊下には輝の歩く足音だけが響き渡る。唐突に雨が降り出した。窓に叩き付ける雨の音が響き渡る中、後に残された卓は両手を握り締め小さく肩を震わせていた。
「俺は……俺は、お前のことが好きなんだよーーっ!」
「え……?」
肩を震わせ、顔を真っ赤にしながら放たれた言葉に驚愕したのか、輝が振り返った。目を大きく見開きながら、酷く動揺した表情を浮かべながら。
「ど……どういう意味?」
「俺が知りてぇよ! とにかく、俺はお前のことが好きなんだ!」
卓が口にした「好き」という感情が一体どのような色合いの物かは俺には想像も出来なかったし、想像したくもなければ、理解も共感もしたく無かった。ただ……言葉通りの意味だとしたら、なおのこと卓の行動は理解不能だ。想いを寄せた相手が振り返らないから、壊そうとでも考えたのだろうか? いずれにしても意味不明な思考回路の持ち主だ。
まったく……何処までも気色悪い奴だ。こんな奴に輝は想いを寄せられていたとはな。背筋が寒くなる。ますます殺したくなる相手だ。今すぐに息の根を止めてやろう。
再び激しい眩暈に襲われた。立っていられないほどに激しい眩暈……俺は思わず膝から崩れ落ちた。背中に感じる冷たい感触……雨? 叩き付ける程に強い雨。そっと顔を挙げれば、そこは四条大橋の下であった。静かに流れる鴨川の音色を肌で感じていた。強い雨……妙に生暖かい湿気のまとわりつく気候。妙な胸騒ぎを覚える雨であった。鴨川に降り注ぐ雨の音色。四条大橋を行き交う車の音だけが響き渡る。往来する人々の流れは途切れることは無い。観光客もいれば、地元の人達もいた。変わることの無い時の流れがそこにはあった。誰も、この場所で人が死のうとしているなんて微塵も予想していないだろう。
(この光景……この空模様……まさか!?)
予想通りの光景であった。それは過去の一時点で起こった惨劇。四条大橋の下に力無く横たわる輝の姿があった。川の向こう側では、納涼の季節特有の川床が組まれている。人々の賑わう声が聞こえて来る。だからこそ理解出来ない光景だった。変わることの無い日常の中に、ぽつんと現れた哀しみが……。
(駄目だ、輝! お前を死なせる訳にはいかない!)
あの日、あの時、お前は大量の睡眠薬を飲んで自殺を試みた。輝、お前は知っていたはずだ。睡眠薬を大量に飲んだところで死ねる訳が無いことを。致死量に達する前に吐き出してしまうだろうから死ねる訳が無い。もっとも、その事実を知ったのは皮肉にもお前の自殺未遂の後だったが……だが、急いで吐き出させなければ後遺症が残る。あの母親に対しての意思表示なのだろうが、それにしては代償が大き過ぎる。急ぎ、吐き出させなければ!
「そうはさせねぇぞ、小太郎」
唐突に背後から何者かに羽交い絞めにされた。凄まじい力で腕を締め上げられる。思い出したくも無い不快な声の持ち主……何故かは判らないが、卓に羽交い絞めにされていた。
「お前は此処で、輝がじわじわ死んでゆくのを見届けるのさ」
「離せっ! 邪魔をするな!」
「俺を振り解いて、輝のところへ行けばいいじゃねぇかよ? ひゃーっはっはっは!」
不快な笑い声が頭に響き渡る。だが、卓は恐ろしい力で俺を締め上げる。必死で抵抗を試みるが、まるで動じる様子が無い。一体どうしたと言うのか?
「ほれ、ほれ、急がないと死んじまうぜ?」
「この腐れ外道が! 殺してやる! 殺してやる!」
「ほう? やれるもんなら、やってみろよ! 所詮、お前は口先だけなんだよ。何も出来ねぇんだよ! ひゃーっはっはっは!」
雨だけが降り続ける。輝は微動だにせずに横たわったままだった。気持ちばかりが焦る。だが、卓の力は凄まじく、まるで身動きが取れない。
「悔しいか? 俺が憎いだろう? 殺したいだろう? ほら、もっと怒りに身を燃やせよ! お前の中に眠る情鬼を目覚めさせちまえよ!」
「言われなくても……てめぇのことを絶対殺してやる! 覚悟しろよっ!」
口だけじゃない! 俺は口だけじゃ無いんだ! 輝を助け出さなければ! くそっ! 何で、こんなにも凄まじい力で締め上げるんだ! 殺す! 殺す! 絶対、貴様のことを殺してやる!
「やれやれ……これじゃあ面白くねぇな。それじゃあ、俺がお前を殺してやろうか?」
次の瞬間、背後から物凄い力で首を絞められた。異様に大きな手が首に食い込んでくる。凄まじい力で指が肉に食い込み、骨が軋む感覚を覚えていた。必死で怒りの感情を燃やそうとするが、首を絞められているおかげで息が出来ない……抵抗する指にも力が入らなくなる。視界が白く、白く霞み始める。
(くそっ! ああ……何てことだ……意識が遠退き始めた……)
ごめん……輝、お前のことを見捨てることになってしまうな。向こうで出会えたら、その時にはお前に詫びなければならないな……済まない、輝……俺は口先だけだったのだろうか……。
「……ああっ!」
次の瞬間、卓は唐突に何者かに弾き飛ばされた。首を締め付ける手も解ける。一体、何が起こったのか理解出来なかった。激しく咳き込みながら、急ぎ、呼吸をする。ゆっくりと色を帯びてくる世界。
(此処は……貴船神社? 夢を見ていたのか? それとも幻だったのか? そうだ! 錦おばさんは?)
再び気が付いた時、俺は貴船神社に佇んでいた。夜半の貴船神社。何故、此処にいるのか?ああ、そうか……そうだった。仲間達を助ける為に、俺は導かれるように貴船神社を訪れた。そして、錦おばさんに襲われたのだ。その錦おばさんは地面に崩れ落ちている。俺の前に佇む大柄な人影。大きな翼を背に持つ者は錦おばさんを静かに見下ろしていた。
「……怪我は無いか?」
錦おばさんを見つめたまま、そいつが俺に語り掛ける。そいつはゆっくりと振り返った。額には頭襟、首からは結袈裟、腰には引敷を巻き、袖無しの鈴懸から覗く丸太の様に太い腕。体付きもひどく大柄に見えた。山伏を思わせる様な服装。黒く、大きな翼。カラスの顔を持つ者。見間違えるはずがない。あの時……鞍馬で俺を窮地から救ってくれたカラス天狗のことを。
俺の無事を見届けると、カラス天狗は錦おばさんに向き直った。
「さて……情鬼よ、此処にお主の居場所は無い。覚悟するが良い!」
身の丈ほどもある六角柱の棒を手にすると、カラス天狗は静かに構えた。大きな翼を目一杯広げた姿は勇壮の一言に尽きた。対する錦おばさんは明らかに動揺しているように見えた。後ずさりしながらゆっくりと距離を空ける。次の瞬間、唐突に周囲の木々が紅葉してゆく。みるみるうちに、木々の葉が赤や黄色に染まる。一斉に降り注ぐ落ち葉。つむじ風が巻き起これば、周囲は色とりどりの落葉に包まれ視界が遮られる。しばしのつむじ風。風が過ぎ去った時には、錦おばさんの姿は無かった。
「……逃げ失せたか。まぁ良い。いずれ仕留めてくれよう」
カラス天狗がゆっくりと近付く。俺の前に佇むと、そっと手を差し伸べた。
「大丈夫か? 立てるか?」
「ああ。また……お前に助けられたな」
「無事で何よりであった」
俺は不思議と落ち着いていた。理由は判らなかったが、目の前に佇むカラス天狗が見知らぬ他人には思えなかったのだ。どこかで、過去に出会ったことがある……そんな気がした。不思議な感覚だった。少なくても、カラス天狗の知り合いは一人もいない。だが、どこかで……遠い昔に一度、出会ったことがある。そんな、不可解な感覚を覚えていた。
(遠い昔に……何処かで出会った気がするのだが、何故思い出せないのだろう?)
動揺する俺を後目に、カラス天狗は腕組みしながら口を開いた。
「さて……小太郎よ、我はお主に手を貸すために現れた」
「昨晩もそうだったが……何故、俺の名を知っている?」
静かに俺の表情を覗き込みながら、カラス天狗は可笑しそうに微笑む。
「今、重要なのは、その理由を知ることであるか?」
確かに、カラス天狗の言う通りだ。俺は何のために此処まで来たのか? 理由は一つしか無い。行方の判らなくなった仲間達を救出するためだ。俺の心を見透かしているのか、カラス天狗は腕組みしながら俺の表情をじっと見つめていた。
「情鬼を討ち取るには、我らカラス天狗の力が必要となる」
聞き覚えのある言葉だ……あの能面をつけた、不気味な男が何度も口にしていた言葉。「鬼」という言葉が気に掛かった。情鬼とは……一体どういう存在を指しているのだろうか? 不可解な思惑が心の中で引っ掛かり、不快な感覚で一杯になっていた。
「情鬼……あいつも口にしていた言葉だ。情鬼とは一体何者なのだ?」
「いずれ説明しよう。今は、一刻も早くお主の仲間達を救い出さねばならぬ」
カラス天狗は実に冷静に物事を判断してみせた。そこには余計な感情は含まれておらず、虎視眈々と目的を達成しようとしているように思えた。
「そうだな……残念だが、俺は非力だ。皆を救出するための力も、知恵も、何も無い。だから……」
「本当にそうであろうか?」
相変わらず不敵な含み笑いを浮かべたままカラス天狗は俺を見つめる。鋭い眼差しだ。何もかもを見透かすかのような澄んだ瞳。些細な嘘など容易く見抜いてしまうのだろう。だが、その言葉の真意は何なのだろうか?
「悲観すること等何一つ無い。友を想う強い気持ち……その気持ちがあればこそ、彼らとの絆を手繰り寄せることも出来得るであろう」
否定しようかと思ったが、重要なのはそんなことでは無いはずだ。
「フフ、判っているでは無いか?」
「……人の心を見透かすな」
返事は無かった。相変わらずの含み笑いを浮かべながら、カラス天狗は大きな手を差し出してみせた。
「我の名は小太刀だ。小太郎よ、よしなに頼むぞ」
「……ああ、よろしく頼む」
大きな手は力強く、温かな感触だった。心強い気持ちになれる感触だった。しかし――小太刀という名……何処かで聞き覚えがあるように思えた。何処かと問われると、正確なことは思い出せない。ただ、遠い昔……何処かで出会ったことがあるように思えてならなかったのだ。今、重要なのはそんなことでは無い。言われなくても判っているさ。俺の心を見抜いたのか、小太刀は満足そうに微笑んでいた。
良い香りがした。記憶に残る香り……白檀の香を思わせる香りであった。懐かしい香りだ。心安らぐ香りに、しばし時を見失いそうになる。
「小太郎よ、鞍馬に向かうぞ」
だが、唐突に現実に連れ戻される。ついでに小太刀の言葉に驚かされた。
「鞍馬に?」
「うむ。お主の友は未だ鞍馬の地におる。急ぎ、参るぞ」
小太刀は俺の腕を掴むと、力一杯地面を蹴り上げた。
「え? え? ちょ、ちょっと……」
「ほれ、しっかりと掴まっておれ。この高さから落ちれば命は無いぞ?」
力強く大空へと舞い上がる。みるみる貴船神社が遠退いてゆく。
(やはり、このやり取り、何処かで体験した気がする……!)
いや、余計な詮索は止めておこう。皆を救出することだけを考えるべきだ。目の前にある物に向き合わなければならない。
(皆、もう少しだけ待っていてくれ)
やがて眼下には見覚えのある巨大な天狗像の赤ら顔が見えてくる。漆黒の闇夜の中でも良く目立つ赤ら顔。目指すは鞍馬の駅前広場。小太刀は狙いを定めると一気に急降下する。一瞬、目の前が白くなるような感覚を覚えた。遠退く意識。だが、それも唐突に終わりを告げる。次の瞬間、俺達は鞍馬の駅前広場に降り立っていた。さあ、反撃開始だ。
鞍馬の駅前広場に降り立った小太刀は静かに目を伏せ腕組みをしていた。どうやら先刻まで雨が降っていたらしく、肌にまとわり付くような湿気だけが置き去りにされていた。不気味なまでに静まり返る街並みからは完全に人の気配は消え失せていた。明かりも消え、人の気配も消え、この場所だけが取り残されたかのようになっていた。明らかにおかしい。駅の明かりはやはり消えたままであった。頬を撫でるようにすり抜ける風に思わず背筋が伸びる。
ふと傍らを見れば、静かに小太刀が目を開く。微かな吐息混じりに俺に目線を投げ掛ける。
「奇異なことだな。殺気がまるで感じられぬ。奴ら、身を隠しているのやも知れぬ」
「俺達を警戒しているということか?」
「うむ。姑息な奴よの。真正面から挑んでも勝ち目が無いと判断したのであろう。懸命なことよ」
小太刀は相変わらず涼やかな含み笑いを絶やさない。確固たる自信の表れなのだろう。その自信に満ちた振る舞いは、確かに心強く思えた。悔しいが人ならざる者達との戦いにおいて、自分の存在は本当に無力だと思い知らされた。精神を揺さぶる攻撃……人の精神は本当に脆く、儚く、壊れやすいものだ。僅かな衝撃でも容易く揺らぐ。何度と無く不可解な仕掛けに翻弄され続けてきたのだから。
「ふむ。埒が開かぬ。周囲の様子を伺うぞ。小太郎よ、我の傍から離れるで無いぞ?」
「あ、ああ……」
「なに。そう、身構えるな。我がお主を守る。何も不安に思うことは無い」
今更ながらだが小太刀は不思議な奴だ。何故、俺のためにそこまで体を張れるのだろうか? カラス天狗という存在は、恐らくは人よりも遥かに優れた能力を持っているのだろう。それに……何故人のために、俺のために行動を共にしてくれているのか不思議でならなかった。そんな俺の眼差しに気付いたのか、小太刀は静かに足を止めた。好奇に満ちた、透き通る瞳で俺を見据えていた。心の奥底まで容易く見抜けそうな程に、深い色合いを称えた眼差しであった。思わず吸い込まれそうになる感覚を覚える。
「何故……我がお主と共に歩もうとするか? 何故、お主を守ろうとするか? 疑問に思うておる。そのような表情を浮かべておるな?」
「……ああ。それに、昨日、鞍馬の山中で奴らに襲われた俺を守ってくれたのも、お前なのだろう?」
「うむ。いかにも」
小太刀は静かに腕組みしたまま、俺の目をじっと見つめている。吸い込まれそうな程に深い色合いを称えた瞳だった。俺が何を考えているかなど容易く見抜ける。涼やかな色合いを称えた、それでいて刃物の様に鋭い眼差しだった。
「では、我からも問い掛けさせて貰おう。小太郎よ、何故お主は命の危険を賭してまで仲間達を救出しようと思ったのか?」
「そ、それは……一人になるのは嫌だからさ。孤独の寂しさには耐えられない。だから……」
静かに腕組みをしながら小太刀は俺の返事に耳を傾けていた。相変わらず鋭い眼差しで、じっと、俺の瞳を見つめていた。
「果たしてそうであろうか?」
「え?」
「それならば我に全てを任せて置けば良い。小太郎よ、お主は家で待っておれ。我が全てを片付けてお主の仲間達を奪還してくれようぞ」
「し、しかし、それでは!」
涼やかな振る舞いを見せる小太刀とは対照的に、俺は思わず声を荒げていた。そんな俺の反応を見届けた小太刀はどこか満足そうに微笑んでいた。
「な、何がおかしい……」
「矛盾しているとは思わぬか? 返答としては実に奇異な返答よの」
「そ、それは……」
目が泳ぐ俺の隣に佇むと小太刀は力強く肩を組んで見せた。驚くほどに温かな感触だった。
「理由など無い。強いて理由を挙げるとすれば……彼らがお主の『トモダチ』だからであろう?」
何も言い返せなかった。小太刀の言っている事はその通りであった。本当の理由は……皆、俺の大切な『トモダチ』だからだ。どこか小恥ずかしく思っていたのだろう。この考え方に至った理由は実に薄暗い考えに基づくものなのだから。はっきり言えば、俺には他に心を通わせられるトモダチなど居なかった。だから大切に思うのだ。一度何もかもを失ったからこそ、こういう考えに至ったのも事実なのだから。
「……それならば、小太刀、お前が俺と共に歩もうと思うのも?」
「さてな。我にも真相は判らぬ」
小太刀は再び、どこか皮肉った含み笑いを浮かべて見せる。何だか上手い具合に煙に撒かれたような気がする。相変わらず小太刀は馴れ馴れしく肩を組んだまま、そっと空を見上げて見せる。
「まぁ、我は人の生活や文化に興味を抱く身。そういうことにしておいては貰えぬか?」
「おかしなカラス天狗だな」
「おかしな人に言われたくは無い」。
相変わらずの含み笑いで小太刀が応える。
一つだけ判ったことがある。俺は小太刀に興味を惹かれている。カラス天狗という人ならざる存在……異なる世界を生きる者達。御伽噺という虚構の世界を生きるだけの、架空の存在と思っていた存在は、以外にも人と大差の無い存在であることが判った。だが、確かに人には無い不思議な力を持つのも事実なのだろう。そういう意味では小太刀の言う通り、俺は「おかしな人」なのだろう。変わり者という表現が適切なのかも知れない。
異変に遭遇しなければ、こうして共に歩むことも無かったのかも知れない。良く考えてみれば実に現実離れした構図だ。カラス天狗と共に夜の鞍馬を歩む。そんな構図、一体誰が想像しただろうか? 自身の環境への適応能力の高さに驚かされる。
「ふむ……まるで気配を感じなくなったか」
「一体、どうすれば良い?」
「フフ、容易いことよ。身を隠してなど居られぬ状況を作り出してやるまでよ。小太郎よ、場所を変えるぞ。我が背に乗るが良い」
「あ、ああ」
一体、今度は何処へ向かうと言うのだろうか? だが、小太刀のことだ。何か策があっての行動なのであろう。俺は小太刀の策に想いを託し再び鞍馬の夜空へと舞い上がった。
「ふむ。此処は中々に良い眺めよの……鞍馬の地が一望できる場所であるな」
訪れたのは金剛床。鞍馬寺の高台に位置する場所。小太刀に連れられて降り立った場所。「床」の名の通り、舞台を思わせる様な場所。振り返れば鞍馬寺の本殿金堂が勇壮なる姿で佇む。黒塗りの門に、鮮やかな朱色の柱。おぼろなる明かりを称えた明かりが周囲を緩やかに照らし出す。仄かに香の残り香が漂う場所であった。
「ああ、確かにこの場所からならば鞍馬を一望できるな。だが、これが策なのか?」
俺の問い掛けに小太刀は静かに頷いた。
「お主には……舞の心得があったな。我が笛を吹くゆえ、ひとつ舞を見せては貰えぬだろうか?」
「ああ。確かに、舞の心得はあるが……」
小太刀がどんな作戦を講じているのか、俺には皆目見当もつかなかった。舞……少なくても、戦うための手段としては使い道が思い浮かばなかった。さぞかし怪訝そうな顔をしていたのだろうか? 小太刀が静かに歩み寄る。
「ふむ。では、小太郎よ、ひとつ問う。能面とは何のために使う道具であるか?」
「能面……その名の通り、能を演ずるために使うものだ」
そうか。一連の出来事には能面が関わっている。つまりは……。
「敵は能に通ずる者。そういうことだな?」
「うむ。その通りだ。奴は自らの舞に絶大な自信を誇っておる。用心深い奴ではあるが……その反面、極めて直情的な面も持ち合わせておる」
まるで敵の素性を知っているかのような言葉に確固たる信頼を感じていた。如何なる策かは皆目検討は尽かぬが天狗の講じる戦術。お手並み拝見といこうではないか。
「小太刀、お前の言葉に希望を託させて貰うぞ」
「うむ。それでは始めようぞ」
小太刀は懐から笛を取り出すと静かに息を吹き込んだ。緩やかに吹いていた風が一瞬止まる。全ての時が止まったかのような不可解な感覚。月明かりさえも時を休めたかのように思えるような不可視の一瞬。次の瞬間、木々の香りを孕んだ風が駆け抜けてゆく。続いて透き通った音色が響き渡る。月明かりに照らし出された阿吽の虎達もまた俺の姿を見届けているように思えた。
木々の葉と同調するかのような笛の音を背に受けながら、俺は想いを篭めて舞を披露した。聞いたことも無い程に透き通った音色に心が沸き躍る。何かを考えていた訳では無い。何かを演じようとしていた訳でも無い。不思議なことに体が自然に舞を描こうとしていた。月明かりしか無い鞍馬寺の舞台。焦るな、焦るな……まずは深呼吸。はやる気持ちを抑え、沸き上がる熱情に身を委ねる。眼下に鞍馬の街並みを見据えながら、ただ、静かに精神を統一して一歩を踏み出した。
舞は元芸妓の母に幼い頃から教え込まれたこともあり、心得はあるつもりだ。能の舞とは恐らくは異なるものなのであろうが、舞を演じるという心に差は無いだろう。どちらも芸能という繋がりはある。ならば志とて通ずるものはあるはずであろう。
舞い始めて暫く経つ。周囲の異変に驚かされていた。吹き抜ける風に乗るかの如き桜吹雪に包まれていた。季節は確かに夏の始まり。少なくとも桜の季節では無い。だが、俺は心を乱されることなく舞い続けた。緩やかな湖面に自らを重ね合わせる。小さな波紋すら、立てぬように心を穏やかにする。母に教わった心を今一度かみ締めながら。
小太刀はなおも涼やかな旋律を奏でている。木々の葉と同調するかの様な笛の音は、何時しか月明かりとも、鞍馬山とも同調しているかの様に思えた。木々の葉が奏でる音色は、川の流れの様に涼やかに波打ち、月明かりに煌々と照らし出されている感覚を覚えていた。
周囲はいつの間にか満開の桜に包まれていた。不思議な光景であった。月明かりと満開の桜。風に乗って散り往く桜吹雪。此の場所だけが摂理から切り離されているかのような感覚。桜の花の甘い香りを肌に感じる。心が緩やかにかき乱される様な不思議な感覚。だが、不快な感覚では無い。懐かしさを覚える柔らかく、優しい旋律。まどろむ様な甘美な感覚が爪先まで痺れ渡る。
不意に風向きが変わる。山から人里へと吹き下りる風の流れ。次第に強まる風。それが一体何を意味しているのかは判らなかったが、明らかに空気が変わった。それに呼応するかのように遠くから風に乗って流れてくる禍々しき歌声。
「とおりゃんせ とおりゃんせ……ここはどこの細通じゃ 天神様の細道じゃ……」
「フフ、宴につられて現れた様子よの」
そっと笛を下すと、小太刀は腕組みしながら、自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「小太刀、あいつらは一体何者なんだ?」
「情鬼と呼ばれる存在ぞ」
「こいつらが情鬼……」
「うむ。人の心より生じる悪意の化身よ。怒り、憎しみ、哀しみ……人が持つ、あらゆる負の感情より生まれた存在達よ。お主も見たであろう? 憎しみに我を見失った者の姿を」
(錦おばさんか……)
驚愕の表情を浮かべる俺を見つめながら、小太刀は静かに、力強く頷いた。
「小太刀、錦おばさんは……助かるのか?」
小太刀は腕組みしながら静かに頷いた。
「あれは情鬼では無い。諸悪の権化たる情鬼に操られておるだけのこと……だが、心に深い憎しみを持つ身。故に時間が経ち過ぎればもはや身も心も完全なる情鬼と成り果てるであろう」
小太刀の言葉に背筋に冷たい物が走った。だが、最悪の事態も想定して行動しなければならないのは事実なのであろう。動揺する俺に、さらに追い討ちを掛けるかのように小太刀が続ける。
「先に言って置かねばならぬが……もしも、完全に情鬼と化した場合、救い出す術は無い。その時は……残念だが、討ち取ることになる」
それは輝達にも当て嵌まるのかも知れない。だとしたら、なおのこと急がなくてはならない。小太刀が急いでいた理由をようやく理解した。それにしても情鬼とは不可解な存在だ。疑問を抱く俺の表情に気付いたのか、小太刀は地面に絵を描きながら説明を始めた。
「情鬼とは人の心から生まれいずる存在。怒り、憎しみ、哀しみ……あらゆる負の感情が集いて誕生する鬼のこと。中には情鬼に取り込まれ、自らが情鬼となる者も存在する。同時に情鬼は負の感情を持つ者を自らと同じく情鬼に変える能力も持つ。我らカラス天狗一族はこの情鬼を討つことを生業とする身」
情鬼……俺の中にも存在しているのかも知れない。いや、俺自身が情鬼なのかも知れない……。否定出来なかった。迷い、憂い……。不意に、小太刀が俺の腕を掴む。
「さぁ、覚悟は出来ておるか? これ以上、時間を稼がせる訳にはゆかぬ。参るぞ、小太郎よ」
ああ、そうさ。悔やむことは後からしか出来ない。だったら、悔いを残さないように、必死で今を生きるしかないんだ。何しろ時の流れは残酷だ。待って欲しいと願えば願う程に、急ぎ足で俺を置き去りにして逃げ延びようとする。だったら……!
「ああ。行こう、小太刀。皆を助け出すぞ」
再び俺達は夜空に舞い上がった。月明かりに照らされながら、一気に鞍馬を目指して舞い降りた。
再び舞い降りた鞍馬は妙に静まり返っていた。だが、先刻とは異なりそこら中から殺意を帯びた鋭い視線を感じる。空は厚い雲に覆われており、嫌な空気が漂っていた。纏わり付く様な湿気の中、ゆっくりと雨が降り始めた。静かに空を見上げながら小太刀は不敵な笑みを浮かべていた。
「さて……今度は一人とて逃がしはせぬ」
小太刀は懐から数枚の深緑色の符を取り出すと、鋭く宙に放った。符は風を切り裂き、大空高くへと舞い上がっていく。続けて小太刀は聞き慣れない言葉を呟いた。その瞬間、符は一気に青い炎を噴き上げると、数え切れない程の落ち葉に姿を変えた。
桜吹雪の如く大空高くに舞い上がった落ち葉は、一斉に鋭いつむじ風となって周囲を包み込む。あまりの風の勢いに、とても目を開けていられる状態では無かった。
風に乗った落ち葉は刃の如く次々と家々や地面に突き刺さる。それと同時に、落ち葉は淡い光を放ちながら周囲を巻き込む様に氷の花と化した。一瞬、辺り一面が銀世界に包まれたかのような光景に移り変わった。それは一瞬の光景であった。次の瞬間、軽やかな音を放ちながら白銀に凍り付いた落ち葉が砕け散った。サラサラと周囲に冷たい氷の残り香が舞う。
「い、今のは一体!?」
ただただ、驚かずには居られなかった。これがカラス天狗の能力だというのであろうか? 人には為し得ぬ不思議な力を使いこなす姿に圧倒された。
「限定的ではあるが、この一体に結界を張った。『奴』からの干渉を防ぐためにな。さて……鬼ごっこと決め込ませて貰おう」
腰に括り付けた巨大な法螺貝を手にすると、小太刀は力一杯息を吹き込んだ。法螺貝の音色が辺り一面に響き渡る。染み渡る音色に呼応するかの如く不意に空が暗くなったかのように思えた。だが、よく見れば空が暗くなったのでは無かった。
次々と鞍馬山から舞い上がる黒い人影。大空高く舞い上がったかと思えば、次々と鞍馬駅前の広場に舞い降りる。圧倒的な光景だった。小太刀と良く似た服装のカラス天狗達が次々と舞い降りてきたのだから。
カラス天狗達は静かに隊列を組む。狭い広場に集結する数え切れない程のカラス天狗達。黒い翼と対照的な白い装い。皆、手には同じように六角棒を握り締めていた。ただただ、俺は言葉を失っていた。あまりにも現実離れした光景だったのだから。
何時しか雨は本降りになっていた。降り頻る強い雨の中、小太刀は六角棒を力強く掲げると、声を張り上げた。
「皆の者、鞍馬の人々はこの地に封じた。一人でも多くの人を救出する。いざ、戦いの時!」
小太刀の言葉に呼応するかのように、天狗達が鬨の声をあげる。地響きを思わせる程の衝撃を肌で感じていた。圧倒的な光景に俺は腰が抜けそうになっていた。
(こんなにも大勢の仲間達を従えるとは……やはり、小太刀は凄い奴なのかも知れない)
同胞達に向けられていた力強く、鋭い眼差しを見つめていた。まじまじと見つめる俺の視線に気付いたのだろう。小太刀はゆっくりと振り返ると、腕組みしながら静かに微笑んでみせた。
「小太郎よ、良く見ておくが良い。これが我等の使命よ」
空中から奇襲を掛ける天狗達に追われ、能面を被った人々が逃げ惑う。何も知らない者が見れば、明らかに天狗達が悪者のように思えてしまうだろう。だが、真相はそうではない。
燃え盛る炎を背に纏い、憤怒の形相で睨み付ける不動明王。その姿が不意に脳裏に浮かんでいた。
(不動明王を始めとする明王達は、猛々しい怒りを持って人々を救済すると聞く。俺のように聞き分けの悪い奴には、時には厳しい教えも必要ということなのだろう)
大柄な体付きとは裏腹にカラス天狗達の動きにはまるで無駄が無かった。流れるような動きで駆け抜け、あるいは大空高くに舞い上がりながら次々と人々を追い詰める。そして、手にした六角棒で顔面を力一杯突く。
(実に器用なものだな……狙っているのは能面だけ。その下の顔には、傷を付けない様に細心の注意を払って狙いを定めている。絶妙な力加減。熟達した身だからこそ為し得る芸当なのだろう)
能面の人々は完全に防戦一方であった。ただ、無意味に逃げ惑うだけの烏合の衆と化していた。天狗達の敵では無いということであろう。多数の天狗達が逃げ惑う人々を包囲しては、次々と能面を砕いてゆく。辺り一面、能面の破片だらけだ。もはや、能面をつけている人は残り少なくなってきた。大多数は既に解放されていたのだから。
「ふむ。だいぶ数も減ってきたように見える。良き頃合よの……一気に打ち崩してくれようぞ!」
大きく翼を広げ、空を見上げながら小太刀は力強く吼えた。
「お主の仲間達は、だいぶ魅入られておる様子。少々手荒だが強引に引き摺り出すぞ!」
小太刀は乱暴に六角棒を構えると、懐から何枚も符を取り出した。毒々しい紅い符は見た目からしても、何か禍々しい雰囲気を放っているように思えた。今度は一体何をしようというのか? 何枚もの紅い符を手にしながら、小太刀は静かに何かを呟いていた。耳を澄ませ、良く聞けば真言であった。真言を唱えることで何かの術を成し遂げようとしていた。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
唐突に吹き荒れる風。その風に乗って舞うは儚き色合い称えた桜の花。春の宵を思わせる様な優雅な光景がそこにはあった。鞍馬山から雪の様に舞い落ちる桜吹雪。淡い桜色に周囲は包まれ、甘い香りが立ち込めた。一年の年月を待ち侘び、ようやく咲き誇る桜。数日と持たぬ命を風に散らしながら、ただ儚く消え往く花。潔さがあるからこそ、儚い寂しさが生まれる。それは春の宴。一夜限りの恋文。俺は胸が締め付けられるような想いに包まれていた。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
なおも小太刀は真言を唱え続ける。勢いを増す桜吹雪に包まれ夜半の鞍馬は華やかな光景に彩られていた。柔らかく、甘い香りが周囲に立ち込める。ささくれ立った心が解けていく。そんな感覚を覚えていた。安らぎを覚える香りと光景であった。
小太刀の声に呼応するかのようにカラス天狗達が一斉に集い、共に真言を唱える。
「オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャクウン・バンコク……」
空からゆっくりと舞い落ちる桜の枝。たんぽぽの綿毛のようにふわりと舞い降ちてくる。次々と木の枝の端に小さな炎が灯る。柔らかな桜色の炎。穏やかな香りが周囲に立ち込める。線香を思わせる木々の枝が、柔らかな煙を発しながら舞い落ちてくる。不思議な光景であった。
「愛染明王の真言なり」
「愛染明王?」
「うむ。情欲を司る明王の力を借り、『あの者』からの想いを断ち切ったのだ。あの者は他を呪う心だけが一人歩きした存在。決して叶うことの無い恋の願いが転じ、愛憎に身を投じた修羅と化しておる。何故この地に降り立ったのかは判らぬが、鞍馬の地は完全に異界と化していた。まずは奴からの呪縛を解き放つ。力が及ばなくなれば、もはや人々を操ることも出来まい」
なおも吹き荒れる桜吹雪は幻想的な光景であった。夏の暑さと瑞々しい木々の緑。この暑さには不釣合いな桜吹雪ではあったが、月明かりに照らし出された桜の花は美しく、そして、深い哀しみに満ちているように思えて仕方が無かった。
不意に、駆け抜けるように勢い良く風が吹き抜けていった。それは禍々しさを孕んだ黒い霧のような風であった。どうしたことだろうか? 風が吹き抜けた瞬間から周囲の雰囲気が変わったような感覚を覚えていた。憑き物が取れたという表現……実際にそうした体験をしたことが無いが、俗にいう憑き物が取れたという表現が近しいのかも知れない。ふと、小太刀に目線を送れば、満足そうに腕組みしながら頷いて見せた。
「これ以上、この地に留まることを避けたのであろう。実に姑息な奴よの……自らの手は汚さずに、婉曲的に仕掛けるのみ。そして、いざ、自分の身に災いが降り掛かる予感を感じ取れば、鼠の様に逃げ去る……さて、小太郎よ。行ってやるが良い。皆も直に正気を取り戻すであろう」
「本当か!?」
「うむ。最初に能面と遭遇した場所……そこに皆は居る筈だ」
満足そうに微笑む小太刀。大勢のカラス天狗達が静かに俺を見つめていた。早く行ってやれ……そんな想いが伝わってくるような気がした。
恩知らずなのかも知れない。所詮、人は自らの役目さえ果たせれば他者のことなどどうでも良くなる生き物なのだろう。割り切れない想いではあったが俺はひたすら走り続けた。
(そうさ……皆と再会できたら、その時は小太刀には礼を告げよう)
図々しい考え方だった。だが、嫌な自分に構っている余裕は無かった。とにかく皆の無事を確かめたかったのだ。ひたすら、息を切らしながら俺は走り続けた。ジットリとした気候に汗が吹き出す。俺は額の汗を乱暴に拭いながらも走り続けた。
(もう少しだ……この先の緩やかなカーブの先だ)
やがて俺の視界に見覚えのある姿が飛び込んでくる。気を失っているのか、四人はぐったりとしていた。体の大きな赤い斑点があるのを除けば外傷は見られなかった。この赤い斑点は恐らく、藪蚊にでも襲われた痕跡なのであろう。
「みんな、しっかりしろ!」
肩を揺すり意識を取り戻させる。必死だった。もしも、皆の身に何かが起こってしまっていたら取り返しがつかない。焦りと不安。とにかく必死で皆を揺すって叩き起こした。やがて、皆ゆっくりと起き上がる。
「ううーん、へへっ、オレ、もう腹いっぱいだぜ? そんなに食えねぇっつーの」
まだ半分寝ぼけている力丸は口元から涎を垂らしながら、不気味な笑みを浮かべたまま大地に抱き付いた。予期せぬ展開によほど驚いたのか、大地が飛び上がるのが見えた。
「ぎゃっ!? り、リキよ、わ、ワシに想いを寄せておったのか!? なななな、なんと!?」
「うぉっ!? ろ、ロック、お、オレと仲良くしたい気持ちは良く判るが、ちょーっと落ち着け。な?」
「何を言うか? それはワシの台詞なのじゃ!」
(良かった。本当に良かった……皆、無事だったのだな)
じゃれ合う二人を、太助は生暖かい眼差しで見つめていた。
「……小太郎、俺達は一体どうなっていたのだ?」
なるほど。記憶が残っていないということか。それならば状況を説明せねば……。俺は手短に皆にこれまでの状況を説明した。無論、小太刀の存在は伏せて。何しろ若干一名、無駄に反応する奴がいるからな……。
「うわぁ、凄いよ! リアルに体験しちゃったよー! ああー、感動だなぁ!」
(……輝、この状況を喜べるお前の図太さに、俺は心の底から感動する)
とにかく戻ろう。安心した瞬間、急激に疲れが出てきた気がする。ふと、隣を見れば輝が険しい表情を浮かべながら、ゆっくりと後ずさりする。
(まさか……まだ、何か起きているとでもいうのか!?)
思わず身構える俺を後目に、輝は苦笑いを浮かべながら
「えっと……コタってば、ものすごーく汗臭いよ……」
唐突にとんでもない暴言を吐いてくれた。
「な……っ!?」
凍り付く俺を見ながら力丸が豪快に笑う。
「いやいや、そういうオレ達も……う、うおっ!?」
首筋の辺りの匂いを嗅ぎながら力丸が険しい表情を浮かべる。仕方が無いだろう……何しろまとわり着く様な湿気の中で、一昼夜しっかりと熟成されたのだ。相応の状態にはなるであろう。だが、それは言い換えれば、皆が無事であったことの証でもある。その程度で済んだのだ。幾らでも取り返しがつく。汗臭さは……男らしさの証だ。
「……おい、お前ら。さっさと駅に向かうぞ」
涼やかな顔で太助が先陣を切れば、皆が慌てて後に続く。
駅へと続く緩やかな下り坂。正気を取り戻した人々の姿が目に入る。次々と人々は意識を取り戻していたが、同時に酷く困惑しているように見えた。当然のことであろう。いきなり、気が付けば家の外にいるのだから。それも、この一帯の家々の人が皆同様の状態に陥っているのだから。理解に苦しむのは当然だろう。やがて俺達は駅に着く。駅の周りは、特に賑わっていた。まるでお祭騒ぎだ。駅員達も狐につままれた様な表情ではあったが、慌てた様子で駅へと戻っていった。これならば出町柳まで戻れるだろう。
不思議なことに桜の花びらは一枚も残されていなかった。砕かれた能面の破片も残されていなかった。痕跡を微塵も残すことなく事を為し遂げる……これも天狗の為せる技なのであろうか?
改めて礼を告げようかと思ったが、小太刀は何時の間にか姿を隠していた。この混乱の中で、さらなる混乱となることを避けようという心遣いなのだろうか?
「それにしても……何か、あちこち痒いのじゃ……」
「何か、派手に蚊に刺された跡があるぜ……うぉっ、か、痒い!」
大地が、力丸が騒ぎ出す。落ち着いた所で気付いたのだろう。あちこちを薮蚊に刺されたのが痒み出したのだろう。騒ぐ二人を後目にしながら太助が含み笑いを浮かべる。
「相変わらず落ち着きの無い連中だ……」
(お前は落ち着きが有り過ぎだ……)
「どうやら電車も動き始めた様子だな。小太郎、出町柳まで戻るぞ」
「ああ、そうだな。余計なゴタゴタに巻き込まれるのは避けたいからな。皆、出町柳に戻るぞ」
鞍馬駅前は相変わらず祭でも開催しているかの様な賑わいを見せていた。後は皆で何とかしてくれることだろう。少々無責任ではあるが、迂闊に介入すればさらなる混乱を招かないとも限らない。此処は地元の人々に任せ俺達部外者は退散するのが正しいだろう。それにしても……色々なことがあり過ぎた。どっと疲れた気がする。取り敢えず出町柳まで移動することにした。大地の提案で、とりあえず一銭洋食でも食べに行こうという話に落ち着いた。今までの経緯を説明するのは腹が落ち着いてからにしよう。若干一名やたらと盛り上がっているのがいるが……他は皆、怪我をすることも無く無事に戻れそうだ。
列車の中は時間帯も時間帯なせいか閑散としていた。皆思い思いの席に座り込む。窓の外には静かな夜の景色が広がる。列車の照明に照らし出され、俺の顔が窓にぼんやりと浮かび上がった。皆、賑やかに騒いでいた。駆け回ったせいか汗と泥に汚れた顔が映っていた。皆が無事ならばそれで良い。思わず安堵の吐息が零れ落ちた。
(ふぅ……ようやく落ち着ける)
「おー、ロック! ここにスッゲーでかいのがあるぜー!」
「ぎゃー、触るで無いっ! せ、折角落ち着いて来たのに、あー、再び痒みが!」
「わはは! こりゃあ面白ぇや」
「うぬぬ、反撃なのじゃ!」
「う、うぉっ!? 耳の裏とは、またマニアックな部分を狙いやがって!」
「……楽しそうだなお前ら。俺達はあくまでも赤の他人だ。くれぐれも声を掛けるなよ?」
じゃれる大地と力丸にチラリと目線を送りながら、太助が苦笑いを浮かべる。
何故、俺だけ蚊に刺されていないのか、皆不思議がっていたが余計な真実は知らなくても良い。やがて発車のベルが鳴り響き電車が動き出す。窓の外に浮かぶ景色は、どこまでも続く闇夜だけであった。皆を無事に救出することが出来た。安堵からだろうか、不意に強い睡魔に襲われた。少しだけ寝させて貰うとしよう……俺は襲い掛かる睡魔に身を委ねると、しばしの眠りに就いた。