ほたるの灯火
結局午後の授業は殆ど耳に入らなかった。どこまでも透き通る青空をただ、じっと見つめながら時の流れに身を委ねていた。じっとりとまとわりつくような暑さの中、汗が流れるままに。ただひたすらに俺は空を見つめていた。意味なんか無かった。どう足掻いても、魂が抜けたような感覚からは逃れられなかったのだから。時の流れの狭間に一人放り出されたような孤独感。言葉にできない哀しみと背中合わせになっている。そんな不快な感覚を覚えていた。
そして訪れる放課後。空虚なまでに時間は過ぎ去っていった。
何かに誘われるように学校を後にした俺達は、ジリジリと照り付ける日差しを背に浴びながら緩やかな坂道を歩いていた。空を見上げれば入道雲が大きく発達している。蝉の鳴き声が相変わらず威勢良く響き渡る。不意に俺達の横をトラックが轟音を立てながら勢い良く駆け抜けてゆく。地面を伝わる衝撃を肌で感じた。不意に思い出したかの様に、力丸が頭の後ろで腕組みしながら歯を見せて笑う。
「ところでさ、なーんか腹減らねぇ?」
「相変わらず食欲旺盛な奴だな」
「ほら、オレさ、ガンガン育ち盛りだからさ」
「意味が判らんな」
太助の冷ややかな口調も力丸には効果は無い。「ま、細かいことは気にするな」と力丸が満面の笑みで返せば、太助はやれやれと苦笑いで応えた。外見に似合わず気の回る力丸のことだ。重苦しい空気を打ち破ろうと、気を利かせてくれたのだろう。
学校を出て七条まで移動する。そこから出町柳まで京阪で一本。歩いても行けるが、この暑さの中を汗だくになりながら歩き回るのはあまり得策とは思えなかった。背筋を漂う不快な寒気は消え失せないが、体が感じる暑さは間違いなく現実のものなのだから。
七条駅に到着した俺達は地下に繋がる階段を降りた。ひっきりなしに駆け抜ける車の喧騒と強い日差しから逃れ、微かに埃っぽさの混じる、エアコンの冷たい空気に生き返る感覚を覚える。そのまま皆で駅の改札を抜けて、ホームへと向かった。薄暗い構内を生温い風が吹きぬける。
薄暗さが辛く思えた。あの不可解な光景が再び現れないかと不安で仕方が無かった。幼い頃から柔道を学び、それなりに自身の強さも心得ている身としては、見えない恐怖に怯える姿を見せたくなかった。だが精神というのはこれ程までに脆く、儚く、壊れやすい物なのかと今更ながらに実感させられた。
「間もなく電車が参ります。白線の内側までお下がりください」
構内に響く空虚なアナウンスの声。やがて、ゆっくりとホームに列車が走り込んで来る。押し出された風に煽られて、髪が、服が舞い上がる。埃っぽい生暖かさが酷く無機的に思えた。
俺達は訪れた列車に乗り込んだ。すぐに列車は走り出す。生温い扇風機が吹き出す頼り無い風を浴びながら皆他愛も無い話で盛り上がっていた。皆の楽しげな話声に耳を傾けながら、俺は窓の外を駆け抜ける蛍光灯の白い明かりをじっと見つめていた。煌々と灯る駅の明かりとトンネル内を駆け抜ける蛍光灯の白い明かりを交互に繰り返す。
地下鉄の光景は不安な気持ちを呼び覚ます光景に思えた。途方も無く恐ろしい何者かがひしめく異界へと繋がる入り口の様に思えた。蛍光灯の白い明かりだけが頼りのトンネル。もしも、このトンネルが永遠に終わることなく続いてしまったら、俺はどうなってしまうだろうか? 恐ろしくて堪らなくなる。閉じ込められたら、二度と光を浴びることは出来なくなってしまうだろう。だから、駅に到着すると安心する。蛍光灯の無機的な明かりの中に、確かに人の存在を感じることが出来るから。
トンネルと駅とを幾度か繰り返せば、程なくして出町柳に到着した。空調の利いている地下のホームから地上に出ると一気に暑さが襲い掛かる。南北に抜ける川端通は相変わらず交通量が多く、市バスが往来する様が目に留まった。ふと、賀茂大橋の下を流れる鴨川に目をやれば三角の中洲。それから飛び石が目に飛び込む。楽しげに水遊びする子供達の姿にしばし目を奪われる。
(水遊びか。涼やかなだな。そういえば、あの橋は……)
俺はふと思い出していた。此処は去年の夏に皆で訪れた場所。皆で眺めた五山の送り火。ちょうど、賀茂大橋の辺りからは大の字が良く見える。煌々と燃え上がる炎を眺めながら、「また来年も皆で来よう」と約束したことを思い出していた。
(また来年……違うな。ずっと、皆、友達でいよう。来年も、そのまた来年も、ずっと、ずっと……何時までも変わらぬ友達でいよう。そういう想いを篭めた言葉だったのだけれど、皆に伝わっただろうか?)
燃え上がる炎を眺めていた自分と重ね合わせ、しばし時を忘れていた……不意に、力丸の豪快な笑い声に一気に現実に連れ戻された。
「ほらほら、みんな、さっさと行くぜ! わはははは!」
「ちょっと、ちょっとー、離してよー!」
「うぬー、襟を掴むで無いわーっ!」
輝と大地を両腕に抱えながら、力丸は強引に店に入った。俺も皆の後を追って店に入った。
店内は空調が良く利いていた。その涼しさに生き返る感覚を覚えた。
「いらっしゃいませ。何になさいましょうか?」
「えっと……」
手際良く注文を済ませると、皆の待つテーブルへと向かった。力丸の豪快な笑い声が静かな店内に響き渡る。商談に花咲かすサラリーマンが鋭い眼差しで睨み付けていた。だが、皆まるで動じる様子は無い。
(やれやれ……)
「腹が減っては戦はできねぇって言うだろ?」
「それで、一体何の戦いに行くつもりだ?」
太助の涼やかな突っ込み。「細けぇことは気にすんな」と、力丸は満面の笑みで笑い返す。それにしても……毎度思うのだが、この男は一体何人前食うのだろうか? ハンバーガー三個にポテト。ナゲットに飲み物、ついでにソフトクリーム。これらをたかだが数分で完食する。体の大きさに胃袋も比例しているのだろう。
氷が解けた結果なのか元々そうなのかは判らないが、俺は味気無いアイスコーヒーを口にした。皆、楽しそうに談笑していた。俺は窓の外の大通りを往来する車の流を、じっと見つめていた。まるで走馬灯の様だ。見たことも無いのに勝手に走馬灯みたいだと思っていた。車は尚も川端通を無常に往来するばかりであった。
腹ごしらえを終えた俺達は鞍馬を目指して、出町柳より叡電に乗り込んだ。小さな車両には俺達以外に人の姿は無く、静寂に包まれていた。皆の楽しそうな話し声だけが車内に響き渡る。俺は窓の外に目線を投げ掛けていた。
(本当にこれで良かったのだろうか?)
微かに吐息がこぼれたところで発車のベルが鳴り響く。やがてゆっくりと電車が走り出す。出町柳が少しずつ遠ざかって往く様を俺は静かに眺めていた。
「それじゃあ、鞍馬のうわさ話検証の旅へ、出発進行ーっ!」
「はは……テルテルってば、テンション高けぇな」
「だってー、ワクワクするじゃない?」
(お前だけだ……)
はしゃぐ輝を後目に、俺は窓から覗く車窓を眺めていた。暮れ往く夕日を見届けながら揺られる叡電は、建物と建物の間の細い線路を駆けてゆく。夕暮れ時の住宅地の景色は活気にあふれていた。夕食の買出しなのか、たくさんの荷物を自転車で運ぶ主婦も居れば、会社帰りのサラリーマンの姿もあった。カンカンカンカン。赤いランプが明滅する踏み切りを通り過ぎる時の何気ない光景が好きだ。その街の生活の匂いが感じられるから。
叡電は無常にも突き進む。街中を駆け抜ける電車は細い線路を走り続ける。どの駅も線路の向こう側とこちら側に綺麗に分かれている。互いを往来するためには線路を跨いで歩くしかない。
一乗寺、修学院、宝ヶ池と至るにつれて次第に民家はまばらになる。京都精華大前を越えた辺りから木々に抱かれた大自然の景色に変わってゆく。流れ往く車窓からの眺めに、言葉に出来ない不思議な想いを抱いていた。どんな想いかと問われると、それは恐らくは形に出来ない想いだとしか言えないものであった。
揺れる列車。楽しそうに語らう仲間たち。萌え上がる赤一色の夕焼け空。ぶつかりそうな程に間近まで生い茂る木々の姿。胸が締め付けられる様な不可解な想いを感じていた。だが、それは嫌な感覚では無かった。何か……思い出すことの出来ない遠い昔の記憶と再び邂逅する瞬間。そんな「含み」を感じさせる、どこか甘美な胸の痛みであった。
「おお、すごいのじゃ。木々がぶつかりそうなのじゃ」
大地の弾んだ声が響き渡る。叡電の線路は本当に細い。美しい自然を出来るだけ傷付けない様にという配慮なのだろうか。そうだとしたら、その心遣いに共感できる。このまま走り続ければ鞍馬に到達する。
鞍馬か……周囲を木々に包まれた山々に抱かれた光景。人々がすれ違うだけの祇園の雑踏とは赴き異なる幽玄の世界。川の流れる涼やかな音色と蝉の声。鞍馬は古き時代を感じさせる懐かしい街並み。いつ訪れても良い場所だ。やはり人は土と共に歩み、木々と共に生きるべきなのだ。過ぎた文明は人を破滅に誘い、人を不幸にする。だから俺は自然と共に歩む道を選びたい。こうして生い茂る木々達に包まれていると心が安らぐ。木々は人から何かを奪ったりはしない。木々は人を傷付けたりしない。ただ、俺達に安らぎを与えてくれるだけだ。それなのに人は互いに傷付け合い、人から何かを奪うばかりだ。だからこそ皆と過ごす時を大切に思う。俺達は互いに支え合いながら生きてきた。皆心に傷を負った者達同士。傷付け合うだけの連中とは違う。そんなことを考えながら、俺は窓の外を静かに過ぎ去ってゆく景色を眺めていた。
どれだけ走ったのだろうか? 列車は市原を後にしようとしていた。市原から二ノ瀬間は紅葉並木が広がる。秋になれば一斉に装いを変える鮮やかな紅葉の赤に包まれた幻想的な光景を楽しめる。去年の秋、皆で混雑した車内から眺めた記憶が脳裏を過ぎる。だが、俺にはどうしても、木々がざわめいているように思えてならなかった。戻ることの出来ぬ片道切符。そんな想いが胸に込み上げ、言いようのない不安に駆られていたのもまた事実であった。
「なぁ、テルテル。この辺りは去年の秋に来たところだよなー?」
「ああ! そうだよねぇ。紅葉の赤が綺麗だったなぁ」
窓に顔をつけながら力丸が、輝が弾んだ声を響かせる。
「で、はしゃぎながら大地が茶をばらまき、大騒ぎになった場所でもあったな」
「うぬー、そんなこともあったような気がするのじゃ」
涼やかな笑みを浮かべながら太助がちらりと横目で大地を見れば、わざとらしく呆けた素振りで大地が頭を掻く。皆の他愛も無いお喋りを聞いていると、それだけでも穏やかな気分になれる。ああ、俺はもう孤独では無いのだな。安心感に満たされる。
やがて電車は貴船口に到着する。この辺りは民家が殆ど無い。貴船は人の気配が感じられない場所。初めてこの駅を降りた時は随分と驚かされた。仙人の住む世界という表現が適切だろうか? 木々と清らかな流れの貴船川に抱かれた場所。人ならざる者達が棲んでいると言われても、何の違和感を覚えることも無い場所だ。貴船口駅の車窓から外の景色を見つめていると、列車は静かに動き出した。次は終点の鞍馬……俺は言葉に出来ない胸騒ぎを覚えていた。目に見えない何者かが迫り来るような危機感を覚え、掌はじっとりと汗をかいていた。
「間もなく鞍馬。鞍馬。終点です。どなた様もお忘れ物をなさらぬように……」
しばし木々の中を駆け巡れば、やがて車内アナウンスが流れる。鞍馬。叡電の終点。俺達の目的地。静かに列車が止まる。扉が開けば瑞々しい木々の香りが漂う。
(着いてしまったか……)
駅から降りたら、本当の意味で後戻りできなくなるだろう。行きはよいよい、帰りは怖い、か。……楽しげにはしゃぐ輝の笑顔に、俺はどこかが痛むような感覚を覚えていた。
鞍馬駅は昭和の香り漂うレトロな駅。駅舎の天井から吊り下げられたシャンデリアを模したかのような明かり。物静かな明るさは長い歴史が感じられる格子状の天井と良く合う。壁に目をやれば赤ら顔の天狗の面と黒い顔のカラス天狗の面が掛けられている。額縁に入れられた幾つかの写真が壁を彩っていた。どこか懐かしさを感じさせる、温かみのある写真たちであった。駅舎を往来する人々の声に耳を傾けながら、俺は色褪せたベンチに腰掛け靴紐を結び直していた。どことなく寂しさの漂う駅は、夕暮れ時という時間の影響も相まってノスタルジックな風合いを醸し出していた。
鞍馬の駅舎を出て少し歩けば小さな広場に出る。視界に飛び込んでくるのは大きな赤ら顔の天狗の像。顔だけの巨大な姿で訪れる者たちを出迎えてくれる。
「鞍馬ならば少しは涼しいかと思ったが、大して気候は変わらないものだな」
じっと立っているだけでも汗が滲む。夕方だと言うのに暑さは一向に衰える気配を見せない。夕立を予感させるような入道雲も、夕日を浴びて萌え上がる様な赤に染まっていた。出町柳を出た時は赤々と萌えるような夕焼け空であったが、鞍馬に着く頃には日はすっかり沈み燻る炭火の様な色合いを称えていた。夕暮れ時であることを象徴するかの如く蜩の物憂げな鳴き声だけが響き渡っていた。随分と気の早い蜩だ。皆、気付いていない様子だが、蜩の声が聞こえるにしては季節が早過ぎる気がする。違和感を覚えながらも、皆歩を進めてゆく。カナカナカナ。蜩の物憂げな鳴き声だけが周囲の木々に染み渡る。
「ううーん、いいねぇ。何だか、雰囲気出てきたって感じだよねぇ」
半刻にも渡る長旅に疲れたのか、輝が大きく背伸びをする様が見えた。
「何時に無くご機嫌だな」
「そりゃあねぇ。このまま何事も無く終わっちゃったら、味気ないじゃない?」
皮肉のつもりで言った口調もこのオカルトマニアには通用しないらしい。輝は目を細め上機嫌そうに笑い返してみせた。
不意に微かな物音が聞こえた。そっと後ろを振り返れば、大柄なカラスが威嚇するような眼差しでこちらを見つめている。電柱にカラス。ありふれた光景だが何か意味深な物を感じる。随分と大柄なカラスだ。襲い掛かられたら怪我では済まないかも知れない。そんな俺の想いに呼応するかの様にカラスは大きな口を開けると、威勢良く泣き声を響き渡らせた。
「ひっ!……な、なんじゃ……ただのカラスなのじゃ。驚かすで無いのじゃ……」
突然、背後から発せられるカラスの鳴き声に、大地が驚きの声を挙げれば
「まったくだぜ。いきなり、後ろからカァーってビックリするじゃねぇかよ。心臓が口から飛び出したらどうしてくれるんだっつーの」
力丸も同時に驚きの声を挙げる。
「安心しろ。人の体の構造上、斯様な事態は起こり得ない」
それを涼やかな笑みで受け流す太助。扇子から漂う白檀の華やかな香りが鼻腔をくすぐる。皆の間に言葉に出来ない緊張感が張り詰める中、そんなことはどこ吹く風。輝は何時もと変わらぬ調子で駆け回っていた。むしろこのカラスの登場で、さらに背中を後押しされたかのようにさえ見えた。調子付いた足取りで、足元にあった木の枝を拾うと勢い良く振り回しながら皆を先導する。「みんな、張り切って行こう」。輝の明るい声に満場一致で溜め息が毀れる。
此処、鞍馬はカラス天狗の伝承が色濃く残る地。山と木々に囲まれた静かな街並み。喧騒からかけ離れた静かな場所は、いつ訪れても心を落ち着かせてくれる。幼い頃より良く訪れた場所だ……辛い時、哀しい時、どうすることも出来ない思いを抱え切れなくなった時に、心の拠り所を求めて訪れたものだ。
そっと頬を撫でる様に一陣の風が吹き抜けた。一瞬の涼やかさに心が潤され、ふと我に返る。
顔だけの天狗像を後にすれば土産物屋が立ち並ぶ。すぐ向こうには広大な山と木々が広がる。人の手が入らない大自然には想像もしないような者達が住んでいることだろう。賑やかな街並みも夕方になれば静けさを取り戻すものだ。
「うーん、さすがに駅の周辺はふつーな感じだね。しかーし、我々取材陣は、うわさの真相を探るべく、さらに山間の道を歩むのであった!」
輝の上機嫌な声が周囲の景色に染み渡る。
「だが、得られたものは何も無く徒労に終わった。結局のところ、うわさ話はうわさ話でしか無かったという結論に至った」
俺の言葉に輝は足を止めると振り返った。夕日に照らし出された赤毛は、文字通りに燃え盛る炎の様に赤々としていた。胸元で煌くペンダントも夕日を浴びて赤い光を称えていた。
「もう、コタってば、雰囲気壊さないでよね。折角盛り上がって来たのにさ」
(盛り上がっているのは輝、お前だけだ……)
立ち並ぶ土産物屋も夕暮れ時になれば客足も遠退く。商売にならないのに店を開けておいても仕方が無い。慣れた手付きで軒先の商品を片付ける様子が目に付いた。こんな夕暮れ時の来訪者……しかも、観光客でも無さそうな連中はさぞかし、胡散臭い存在に見えたことだろう。片付けをする土産物屋の店員達が、怪訝そうな眼差しでこちらを窺っているのが見えた。一瞬だが、店員達がうすら笑いを浮かべていたようにも思えた。本当に一瞬ではあったが、悪意に満ちた不気味な冷笑を浮かべていた様に思えた。俺の勝手な思い過ごしならば良いのだが……。
相変わらず上機嫌な輝は、子供のようにはしゃぎ回る。その横顔は童顔なのも手伝い本当に子供のように見える。
鞍馬駅前の小さな広場を抜け、左手に曲がれば多聞堂。こちらも早々と店仕舞いしたようだ。
「あー、多聞堂はもう閉まっちゃっているねぇ。牛若餅食べたかったなー。アレ、美味しいんだよねぇ。鞍馬に来たら、欠かさずに食べているのだけどなぁ。うーん、残念!」
「輝……何か、明らかに目的が変わっていないか?」
残念そうに肩を落とす輝に、突っ込みを入れずには居られなかった。
「もう、コタってば、細かいことは気にしない、気にしない」
(気にするよ……)
妙な視線を感じ後ろを振り返れば、先刻のカラスがまだこちらを見つめていた。何時の間に移動したのだろうか? 何の物音も聞こえなかったが……。不思議な気配を放つカラスであった。何かを伝えようとしているかのように、じっと俺を見つめていた。不思議な感覚だった。このカラスには、どこかで出会ったことがあるような気がしてならない。もっとも、カラスの友人に心当たりは無いのだが……。
「はいはーい、コタ、置いてくよー」
輝の声が響き渡る。「すぐに行く」と返答し、再び振り返った時には、既に先刻のカラスの姿は無かった。飛び立つ際に何の音も出さずにいられるのだろうか? やはり何かが可笑しい。
立ち並ぶ土産物屋を抜ければ鞍馬寺に続く参道と大きな仁王門、それから仁王門に至る石段が視界に飛び込む。煌々と燃え上がる様な夕日を受けて、鞍馬寺の入り口に聳える仁王門も、石段も燃え上がる炎の様に赤々としていた。石段の両脇には鮮やかな赤い灯篭が立ち並ぶ。灯籠の放つ仄かな光が夕焼け空の中で幻想的に浮かび上がって見えた。不思議な光景だ。現実にあって現実では無いもの。仁王門の放つ雰囲気は非現実の世界への誘いにさえ思えた。阿吽の呼吸を紡ぎ出す二体の仁王像は、決して開かれることの無い異界への番人……俺にはそう思えた。
この景色に合うはずの無い自動販売機の、無機的にくすんだ赤が妙に景色に溶け込んでいた。長い年月を経て雨風に侵食された古びた電信柱に、時の流れを感じさせる錆色のバス停。夕刻の鞍馬は現実と非現実の出会う街。この街は時の流れが止まっているように思えた。勇み足で駆け抜ける時代の中に取り残された迷子のように思えた。
仁王門を過ぎれば緩やかに曲がりくねる道に至る。視界の先には常に山肌が見える光景。道の両脇には人々が生活している香り漂う家屋が立ち並ぶ。流れる川の音色が心地良い。周囲を見渡しながら歩いていると、ふと小さなポストが目に付いた。
(この小さなポストを見ると思い出すな……あの日、あの時、此処を歩いた。哀しみに満ちた記憶だ……)
いつの間にか蜩も鳴くのを止めたみたいだ。こちらも店仕舞いということだろう。
俺達は坂道をゆっくりと歩き続けていた。既に日は沈み、辺りは夜の闇に包まれ始めていた。どれだけ歩いたのだろうか? 代わり映えのしない風景だけが続いてゆく。ふと、後ろを振り返れば家々の高低さが鮮明となり随分と登ってきたことが判る。
「なーんか、みんなノリ悪いねぇ?」
唐突に沈黙を破る輝の声。場違いなまでに明るい口調の輝に対し、皆の表情は暗く重たかった。ノリが悪い訳では無い。何かが可笑しいのだ。普通に考えればこれから夕食の時間帯に差し掛かるはず。料理の準備をしていれば、少なからず何らかの食べ物の匂いがするはずだ。それに、あまりにも静か過ぎる。川の流れる音。俺達が歩く足音。それだけしか音が聞こえないのだ。今の季節であれば、虫の声や蛙の声が聞こえない訳が無い。だが、そうした自然の音が聞こえなかった。突然、廃墟になってしまったかのような不気味な静けさに、皆、緊張感を感じていたのだろう。
「テルテルは異変に気付かねぇのか?」
「え?」
真剣な表情の力丸に見つめられ、輝は周囲を見渡していた。耳を傾け、目を凝らしながら周囲を注意深く観察していた。
「うーん、静かだよねぇ」
「それだけか?」
「確かに静か過ぎるよね。ぼく達の歩く音しか聞こえないもの」
蝉の声も聞こえなくなった。もう夜なのだから当然と言えば当然だろう。だが、川が流れる音しか聞こえないというのは妙な話だ。
「車も通らねぇし、人の気配もしねぇ。虫の声も、蛙の声も聞こえねぇんだよなぁ。うーん……何て言えば良いのかな? とにかく、何かおかしいよな」
力丸の言葉に皆が無言で頷く。確かな違和感がここにはある。静か過ぎるのだ。まるで、長い間放置され続けた廃墟のように人の気配が感じられなかった。この世でありながらも、この世ならざる場所に迷い込んでしまった。あり得ない話なのかも知れないが、表現としては適切なのかも知れない。
俺はこの光景の中で妙な感覚を覚えていた。視線を感じるのだ。それも一人や二人では無い。無数の視線……殺意の篭められた鋭い視線を感じていた。俺は皆に気付かれぬよう目だけで周囲を伺った。
異変の正体を理解した気がする。暗闇に紛れる人の姿があった……玄関を少しだけ開けて顔を覗かせる者もいれば、二階の窓から微かに障子を開けて覗きこむ者もいた。車の隙間から目だけ出す子供の姿もあれば、あからさまに家の隙間から覗き込む老婆の姿もあった。
(な……何なんだ、コイツらは?)
皆、俺をじっと睨み付けながら薄ら笑いを浮かべていた。どうやら皆も視線に気付いたらしく周囲に目線を送り、青ざめた表情を浮かべていた。
「な、何!? 何なの、あの人たち!?」
いきなりでくわした異常事態によほど驚いたのか、輝が裏返った声を挙げる。俺は思わず輝の口を押さえた。動揺する輝に俺は小声で警告を告げた。
「大きな声を出すな……迂闊に刺激すれば、何をされるか判ったものでは無いぞ」
「驚いたな……何の気配も感じなかった」
さすがの太助も、この状況には動揺を隠せないらしい。
「ひ、人が居るのに……何故、家は真っ暗なのじゃろうか?」
大地の震えた声に、俺は改めて家々を目で追った。
確かに在り得ない状況だ。外はすっかり暗闇に包まれている。人の気配を感じないのも奇異な話ではあるが、この暗闇の中で明かりさえ付けないというのも可笑しな話だ。
「な、なぁ……オレ、さらにおっかねぇ事実に気付いちまったんだけどよ……」
怯えた表情で力丸が皆の表情を覗き込む。何に気付いたのかと俺は尋ねてみた。
「街灯の明かりもあるけどさ、この辺り殆ど真っ暗だろ? なのにさ、何で……」
言葉に詰まる力丸。言いたいことは良く判る。周囲はだいぶ暗い。街灯の明かりも頼りない。だが覗き込む人々の姿は照明で照らし出したかのように鮮明に暗闇に浮かび上がっている。冷たく、青白い色を放ちながら。
気が付くと俺達は必死で走っていた。言葉を発することも無く、ひたすら走った。この場に止まってはいけない。そんな危機感に駆られて、ただただ走り続けていた。
月だけが夜空を優しく照らしていた。まばらにしか無い街灯は、中の電灯が切れ掛けているのかチカチカ点滅している。仄かな月明かりに誘われるがままに、あらぬ世界へと迷い込みそうな感覚に陥っていた。生温い風だけが吹き抜ける中で、皆、肩で荒く息をしていた。
「はぁ、はぁ……い、一体、何がどうなっていやがる!?」
額の汗を拭いながら力丸が声を荒げる。だが誰も応えられなかった。皮肉なものだ。奇怪な展開を期待していたはずの輝は、あまりの出来事に顔面蒼白になっていた。奇怪な体験を期待して皆で騒ぐのと実際に想像もしない展開にでくわすのとでは大きな隔たりがあるということだろう。輝は青ざめた顔をしながら尚も小さく肩を震わせていた。
「むー。ところで、此処はどこなのじゃろう?」
周囲を見渡しながら大地が皆に問い掛ければ、
「鞍馬温泉の近くまで来てしまったのだろうな。もう少し歩けば鞍馬温泉に至るだろう」
太助が返答する。駅から相当移動したことを考えれば、目印が無くても想像がつくのであろう。
「ふむ。随分と奥の方まで来てしまったということじゃな」
驚いた拍子に俺達は鞍馬の奥地へと向かい逃げてしまったらしい。もう少し歩けば鞍馬温泉に至るだろう。しかし厄介なことに京都市街へ戻るためには一度鞍馬駅に出る必要がある。先程の民家の前を通らなければならない。
(どうしたものか……)
答えは二つに一つ。このまま鞍馬温泉に一度逃げ込むか、それとも鞍馬駅まで逃げ切るかの二つに一つだ。まともに考えれば鞍馬駅まで逃げ切るのが正解だ。奥地へ向えば袋小路だ。鞍馬温泉を過ぎた先は山道になる。さらに窮地に追い込まれることは自明であろう。ここはやはり多少の危険性を伴う可能性は否定出来ないが、駅へと向うべきであろう。俺は皆に撤収の考えを伝えようとした。だが……。
「皆、このまま鞍馬温泉に向かってみないか?」
飛び出した言葉は、考えていたものとは正反対の返答であった。皆が驚いた様な顔で俺を見つめる。自分でも何が起きたのか理解出来なかった。
(何故だ? 鞍馬温泉に向うつもりなど毛頭無いのだが……)
もう一度訂正しようと試みるが、どうしても声が出ない。
(一体どうなっている!? どうして声が出せない!?)
何が起きているのか理解出来ない現実に俺は焦っていた。苦笑いしながら太助が俺の肩を叩く。
「幽霊見たり枯れ尾花。事態の真相を暴き出したいという訳だな? まぁ、お前は一度言い出したら聞かないからな」
(違う! 違うんだ! 駄目だ……鞍馬温泉に向っては駄目だ! 取り返しがつかなくなる!)
「まったく、コタまでテルテルみてぇなこと言い出しちまうかぁ?」
「うむ。乗り掛かった船なのじゃ。幸い、鞍馬温泉は近くじゃからのう」
皆には俺の想いが間違えた形で伝わってしまったように思えた。予期せぬ展開に恐怖を覚え、動揺を隠し切れない輝。気落ちした輝を擁護するための行動と受け止められてしまったように思えた。違う!……そうじゃない! こんな薄気味悪い場所にからは一刻も早く立ち去りたい。酷く嫌な予感がしていた。何か、とても良くないことが起こりそうな恐怖感で一杯になっていた。
「コタ……どうして?」
戸惑った表情で輝が見つめている。だが、応えられる訳が無かった。「自分でも理解出来ないが、思惑とは違う言葉が飛び出した」。一体誰が、そんな言葉を信用するだろうか? こうなった以上は成り行きに任せる他無いのだろう。俺は覚悟を決めた。
「幽霊見たり枯れ尾花だ。安心しろ。何も起こらないさ」
輝は沈んだ表情で、静かに目を逸らした。ああ、判っているさ……何も起こらない訳が無い。まるで意味を為していない弁明だ。輝は悲痛な表情を浮かべていたが、皆の手前、今更退くことも出来ずにいた。嫌な予感しかしていなかったが、もう後戻りは出来ない。俺達はさらに奥へと進むことにした。
歩き始めてすぐに「鞍馬温泉」の看板が見えてくる。予想通り、鞍馬温泉は暗闇に包まれていた。異様な光景であった。鞍馬温泉は宿泊設備も抱えている。明かりが一切灯っていない状況などは在り得ないこと。
仄かな月明かりに浮かぶ鞍馬温泉には異様な空気が漂っていた。寂れた佇まいは、まるで何年も放置された廃墟の様に薄暗く、どこか汚れた印象にも見えた。
「そんな……どういうこと? なんで真っ暗なの?」
「……何を動揺している? こういう展開を期待していたのでは無いのか?」
皮肉な笑みを浮かべる太助に、輝は言葉に詰まっていた。だが確かに異様だ……まるで人の気配が無い訳では無かった。つい今さっきまで人がいた気配は残っているのだ。例えるならば、皆一斉に俺達を驚かすために明かりを消した。そんな表現が適切とも呼べる雰囲気だった。そして、相変わらず何の音も聞こえない……代わりに妙に肌寒い風が吹き抜けた。背筋が寒くなる感覚が漂っていた。昨日の体験が蘇り、足の震えが止まらない。背筋を冷たいものが駆け抜ける。不安と恐怖。声を張り上げ、叫びたい程に鼓動が高鳴っている。今すぐにでも逃げ出したかった……。だが、皆を置いて逃げる訳にはいかない。
その時であった。唐突に半鐘のけたたましい音色が響き渡った。
「な、何なのじゃ!?」
「おいおい、今度は何が起きたんだよ!? もう勘弁してくれよ!」
繰り返し叩かれる半鐘の音色が響き渡る。どこかで火事でも起きたのだろうか? 背筋が凍り付く思いだった。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。
「逃げるぞ! 何か嫌な予感がする!」
戸惑う俺達を動かしたのは太助の怒号だった。俺は慌てて皆を見回した。
「駅だ! 駅まで走るぞ!」
何が起きたのかなんて理解する必要も無かった。ただ一つ判ること。この場に止まってはならないということだった。とにかく俺達は必死で駅まで走った。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。一体何が迫ってくるのかは想像も出来なかったが、とにかく走り続けるしか無かった。逃げなければならない。ここに止まってはならない。そんな気がしてならなかったのだ。それに……この辺りには火の見やぐらは何処にも無いのだ。それならば、半鐘の音はどこから聞こえてくるのか、という話になる。誰もそのことを口にしないのは、これ以上可笑しな出来事が起きるのは阻止したかったからであろう。今この状況で何かを口にすれば、不安は形を得て現実の物となってしまう。そんな気がしてならなかったのだろう。
目指す先も鞍馬駅である以上は一本道。道を間違うことは在り得ない。ひたすら走り続ければ良いだけのことだ。カンカンカンカン。なおも半鐘の音色が激しく響き渡る。俺達の鼓動も、この半鐘と同様に凄まじい早さで刻まれていたことだろう。走って、走って、とにかく走り続けた。息が切れて、肺が痛む感覚を覚えた。立ち止まる訳にはいかなかった。どれくらい走っただろうか? 駅まであとどれくらいだろうか?
「駅はまだ見えて来ないのかよ!?」
「相応の距離はあるはずだ。とにかく急いで逃げるぞ」
何故こんな事態に遭遇しているのか意味不明だった。だが一つだけ判ること。それは、この場に留まってはいけないという事実。だからこそ半鐘の音に追われる様に俺達は走り続けるしか無かった。足が吊りそうになったが、それでも必死で走り続けた。危険が迫っているのは間違い無かったのだから。
いよいよ限界が近付いてきたところで、唐突に半鐘の音色が止んだ。何事も無かったかのように突然静まり返る。
「あ、あれ? 鐘の音色、止んだみたいだぜ?」
力丸は慌てて足を止めた。周囲に耳を傾けながらも、やはり音が止んだことを確認していた。
「一体何だったのだ? どこかで火事が起きたようには感じられなかったが」
なおも警戒心を解くことなく太助は周囲の異変に気を配っていた。皆突然静まり返った街に警戒心を抱いていた。罠か? 安心させておいて不意を突くつもりか? いずれにしても油断は出来なかった。
ふと周囲を見れば大地の姿が無かった。慌てて周囲を見渡せば、ある民家の玄関先にしゃがみ込んでいた。水路を流れる水の音だけが妙に鮮明に響き渡る。「大地、何かあったのか?」。声を掛けようと、近付いた俺の視界に異様な物が飛び込んできた。何か、言葉に出来ない禍々しさを放つ楕円形の物体であった。大地は目を大きく見開き、瞬きすらせずにその禍々しき物体を凝視していた。
「おお、コタか。この家の玄関先に何か落ちているのじゃ」
抑揚の無い口調であった。こちらを振り返ることもなく、棒読みの様に放たれた言葉に戦慄を覚えた。大地はそっと手を伸ばそうとしていた。とても嫌な気配を感じていた。
(駄目だ! 大地、それに触ってはならない!)
またしても発しようとした声は何者かに阻止された。静かになった街の様子に皆は、ほっと胸を撫で下ろしていた。だが、俺の恐怖は終わっていなかった。何故他の仲間達は大地の異変に気付かないのか?
(誰か! 誰か、大地を阻止してくれ! 気付いてくれ!)
俺の切迫した想いとは裏腹に大地はゆっくりと手を伸ばす。そして楕円形の物体を手にした。暗くてはっきりとは見えないが、目を良く凝らして見つめてみた。小面の面。噂に聞いた能面がそこにあった。若い女性を象った面はどこか薄汚れており、酷く気味が悪く思えた。異様に赤々とした、濡れた光沢を放つ唇が艶かしい雰囲気を孕んでいた。だが、その妖艶な雰囲気とは裏腹に、能面は氷の様に冷たい眼差しを称えていた。
「ロック、何か面白いでもあったのか? ん? な、何だよそれ?」
大地の後ろから恐る恐る覗き込む力丸は大地が手にした物に気付いて酷く驚いていた。
「うぉっ!? う、薄気味悪りぃ能面だな……」
能面……恐らく輝が入手したうわさ話にあった物は此れなのであろう。
「え? それって能面? それじゃあ、うわさ話は……」
俺の後ろから恐る恐る覗き込みながら、輝が驚嘆の声をあげる。
ぶつぶつ言いながらも、大地はおもむろに、不器用な手つきで能面をつけようとしていた。何を言っているのか聞き取れない程に小さな声であったが、唄のようにも聞こえた。
「止せ! 駄目だ、大地! それをつけてはならない!」
俺の声に驚き、皆が大地を止めようとした。だが、時既に遅し。大地は既に能面を身に付けてしまっていた。
「お、おいおい……ロック、大丈夫かよ? そんな気色悪いのつけちまって……」
力丸が心配そうに声を掛ければ、大地は微かに咳き込んでいた。幾らなんでも玄関先に無造作に置かれた能面に違和感を覚えない訳が無い。だとすると、大地はこの能面に魅入られたのだろうか? そう考えれば一連の行動も説明がつく。理解も、納得も出来ないが……。
「うえっ……か、かび臭いのじゃ」
我に返ったのか、大地はかび臭さにむせていた。妙な匂いが気持ち悪いのか、大地はさっさと能面を外そうと試行錯誤していた。だが、不器用な手付きにしては、妙に手間取り過ぎているように思えた。
「何なのじゃ、これは!? こんなかび臭いのは、さっさと外すのじゃ……って、おりょ?」
妙に裏返った声をあげる大地に、輝が笑いながら突っ込みを入れる。
「もう。ロックってば、そんな古典的な手には引っ掛からないよ。ぼく達を驚かそうとしているのでしょうけど、その手には乗らないよー?」
一瞬、場に笑い声が零れ落ち、緊迫した空気が緩んだ気がした。だが大地の声は酷く震えていた。肩を小さく震わせながら、奥歯をカタカタと鳴らしていた。再び皆の間に戦慄が駆け巡る。
「い、いや、そうじゃないのじゃ。は、外れないのじゃ……」
「えぇっ!? マジかよ? ちょっと待ってな。オレが外してやるからよ」
冗談では無いことはすぐに判っていた。大地はこんな薄気味悪い状況で、冗談を言って皆を盛り上げるような性格では無い。驚いた力丸が慌てて力を篭め能面を剥がそうと試みた。
「ぎゃー、痛い、痛い! リキよ、止めるのじゃ!」
「おいおい、マジかよ? この能面……顔にベッタリ貼り付いちまってるぜ?」
力丸が発した驚愕の悲鳴に、皆の間に再びの戦慄が駆け巡る。
だが、異変はこれでは終わらなかった。不意に霧が立ち込め、周囲は異様な冷気に包まれる。背筋を何か、氷の様に冷たいものが伝っていく感覚を覚えた。緊張に堪えかねたのか、輝が裏返った声で皆を見回す。
「こ、今度は何が起きようとしているの!?」
それを制するかのように、太助が皆の前に手を突き出す。
「静かにしろ。何か声が聞こえる……」
俺達は静かに耳を傾けた。何かの物音が聞こえる……耳を済ませて聞いてみれば、どうやらそれは砂利が擦るような音のように思えた。つまりは人の足音だ。それも数え切れない程の。不意に一斉に街灯の明かりが音も無く消えた。辺りは完全な闇夜に包まれる。照らすものは雲間から覗く、頼りない月明かりしか無い。
『とおりゃんせ とおりゃんせ……』
不気味な歌声が聞こえてくる。抑揚の無い、機械が作り出す音声のような声。ついでに闇夜に浮かぶおぼろげな光。ほたるの光の様にぼんやりとした明かりは、鞍馬温泉の方から列を成して道を下ってくる。慌てて振り返れば、鞍馬駅側からもゆっくりと光の群れが道を上ってくる。おぼろげな光は提灯の明かりであった。人々は手に手にゆらめく光を称えた提灯を持ちながら、ゆっくりとにじり寄ってくる。
『ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ……』
異様な光景だった。様々な能面を被った人々が道の向こう側と、こちら側とから迫ってきていた。まるで、逃がしはしないと言わんばかりに。能面に隠れて表情は伺い知ることは出来ないが、無機的に紡ぎ出される声は抑揚が無く、冷たい殺気を孕んでいた。
昨日体験したのと同じ光景だった。言葉に出来ない恐怖に足がすくむ。震えが止まらない。吐き出しそうな程に動揺していた。破裂しそうな程に鼓動が高鳴る。どうすることも出来ない恐怖。耐え難い現実から逃げ出すことしか考えられなかった。信頼できる仲間達が隣にいる。その心強さだけが辛うじて心の支えになっていた。
『ちっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ……』
ゆっくりと足音が近付いてくる。明らかに俺達を追い詰めるかのように。逃げ道は無い。鞍馬駅から鞍馬温泉までの間は道が一本だけだ。わき道など無い。
『この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります……』
皆一様に戦慄していた。あまりにも異様な光景は、この世の物とは思えない光景であった。追い討ちを掛けるかのように不意に唸りを挙げる空。轟く雷鳴。空を駆け巡る稲光。
「くっ! こうなったら、手当たり次第殴り飛ばしちまうか!?」
力丸が皆に向って吼える。それも一つの手かも知れない……我が身を守るためであれば、得体の知れない連中がどうなろうが知ったことでは無い。賛同できる意見だ。
不意に人々が歩を止める。再びの静寂。何もかもが一瞬沈黙した。雷鳴も、稲光も、人々が歩む音も、それから……不気味な唄も。唐突に頬に雨粒が落ちた。まるでそれが開幕の合図であったかのように響き渡る微かな声……。
『行きはよいよい 帰りはこわい……』
「あ、アレ? 急に静かになったよ?」
次の瞬間、人々は声を張り上げ、続きを全力で唄い上げた。
『……こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ!』
刹那……辺り一面を包み込むような稲光の激しい閃光。それに続けて何処か、近くに落雷したかのような凄まじい轟音が響き渡る。体中に衝撃が伝わって来る程の激しい轟音は地面をも唸らせた。山が唸りを挙げたかの様な衝撃が体を駆け巡る。呼応するかの様に、辺りには視界を遮る濃く、冷気を孕んだ霧が立ち込める。雨足も一気に強まった。
次々と能面を被った人々が迫ってくる。じわじわと距離を縮められながら、俺達は逃げるので精一杯だった。
叩き付けるような激しい雨。視界を遮る雨と深い霧。轟く雷鳴と駆け抜ける稲光。人々はじわじわと輪を縮める。俺達を包囲するかのように。捕らえられれば命の保障はされないだろう。不安と焦りに支配されそうになる。どうすれば良い? 迷う俺の心を見抜いたのか、唐突に力丸が力強く吼える。
「うぉおおっ! てめぇら邪魔なんだよっ!」
そのまま体ごと力一杯体当たりをかませば、跳ね飛ばされた能面の人々が倒れる。
「今だ! 皆、駅に向かって走るぞ!」
力丸の言葉に続き走り出そうとしたが、大地はうずくまりながら何かをブツブツ呟いていた。やはり、この能面と人々の奇行には関係がありそうだ。そうだとしたら一刻も早く鞍馬から逃げ出さなくてはならない。俺は急ぎ、大地に手を差し伸べた。
「大地、立てるか!?」
「だ、大丈夫なのじゃ。それより、早く逃げるのじゃ!」
こんな展開を一体誰が予測したであろうか? 叩き付けるような雨の中、俺達は必死で走った。相変わらず人々は抑揚の無い声でとおりゃんせを唄い続ける。異常過ぎる光景であった。轟く雷鳴、駆け巡る稲光、それから叩き付ける様な雨。まるで太鼓の音色だ。様々な種類の太鼓を一斉に打ち鳴らすかのような豪快な音色だった。
俺達はただ必死に走り続けた。駅に逃げ込めば助かる。何の根拠も無いのに、一体どこからそんな自信が湧き上がってくるのか疑問であったが、縋るべき何かが無ければ足が止まってしまいそうな気がしていた。皆を繋ぎとめられるのであれば、どんなに適当な理由でも良かった。今の俺達にとって重要なのは、この局面を逃げ切ること。それだけだ。
視界が遮られるほどの雨。服も、靴もずぶ濡れになっていた。それでも走り続けた。じわじわと靴下が濡れる不快な感覚に鳥肌が立つ。
人々はゆっくりとではあったが、確実に俺達を包囲しようとしていた。もう、何が何だか判らなくなっていた。ただ、逃げなくてはいけない。その事実だけは理解していた。
「い、一体、どうなっているの!?」
「うわさ話には、能面被った連中に追い回されるという話は無かったのか?」
「そんな話、一言も聞いてないって!」
「無駄口叩いている暇なんかねぇって。捕まったら、どうなっちまうかわかんねぇぜ?」
「力丸の言う通りだ。余計な詮索は後回しだ。とにかく逃げるぞ!」
どれだけ走ったのだろうか。土産物屋の看板が見えてきた。もうじき駅だ。雨足は強まる一方であった。人々の群れはなおも執拗に、ゆっくりと近付いてくる。獲物を追い込むつもりなのだろう。鞍馬駅に近付くにつれ、言葉に出来ない違和感に気付き始めた。
駅の明かりは消えていた。微かな明かり……それは提灯の明かりであった。手に提灯を持つ駅員もまた能面を被っていた。不気味にゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「えぇっ!? うそでしょう!?」
「くそったれ! 絶体絶命かよっ!?」
何か退路はある筈だ……。こんな時だからこそ冷静さを失ってはいけない。だが平常心を保とうとすればするほどに心は乱れる。どんどん近付いてくるとおりゃんせの歌声に完全に心をかき乱されていた。
(もはや打つ手はなしか……ああ、誰でも良い。俺達を助けてくれ! どうか、頼むっ!)
叩き付けるような雨。轟く雷鳴。駆け抜ける稲光。もう、何も考える余裕は無かった。早鐘の様に心臓が高鳴る。恐怖の余り、手が、指が痙攣するかのように震える。口がカラカラだ。飲み込もうにも唾さえ出て来ない。額に滲むのは、汗なのか、雨なのか、もはや訳が判らなくなっていた。
絶体絶命の状況に焦りが頂点に達した時であった。背後から力丸の悲鳴が響き渡った。
「うぉっ!? て、てめぇら、何しやがる! 離せっ! 離しやがれっ!」
「え!? ちょ、ちょっと、何するの!? 止めてよ!」
輝もまた彼らに捕らえられていた。
不意に誰かが俺の手を掴む。慌てて振り返れば大地が俺の手をしっかりと握り締めていた。だが、明らかに様子がおかしい。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……」
「だ、大地、しっかりしろ!」
とても正気を保てる状況では無かった。いつの間にか太助も能面をつけられていた。仲間達がとおりゃんせを口ずさみながら迫ってくる。
俺は本気で死を覚悟していた……もっとも縁遠いと思っていた瞬間と再び直面していた。その瞬間というものは唐突に、何の前触れもなく現れる。随分と残酷なものだ。
後悔というものは、前には立たない物なのだな。そんなことを真面目に考えている自分が滑稽だった。一体、どうして、こんなにも冷静でいられるのだろうか? そうさ……嫌な予感は判り切っていたはずなのだ。昨日の出来事は確実に凶事を告げていたのだ。なぜ、あの時、鞍馬に向かおうという話を阻止しなかったのか!? 鞍馬を散策する前に、無理矢理にでも輝を阻止することだってできたはずだ! 俺が余計な話をしなければ鞍馬に来ることも無かったかも知れない! こんな事態に陥ることも無かったのかも知れない。皆を生命の危機に遭わせないで済んだのかも知れない。やらなかったことを後から悔やむのはただの時間の無駄でしか無い。そんなことは判っている! だが、目の前にいる仲間達……能面を被らされ、抑揚の無い声でとおりゃんせを唄い続ける仲間達。こんな異様な光景を目の当たりにして、何も出来ない自分自身の非力さが悔しかった。
(皆……ごめん。俺が余計なことを口にしたばかりに、危険に巻き込んでしまって!)
不意に、誰かに突き飛ばされ俺は転倒した。次の瞬間、誰かの手が俺の顔に能面を被せようとしているのが見えた。雨でずぶ濡れになったその手は凍り付く程に冷たかった。
(ああ、これで俺の人生もお終いか……)
もはや、誰の手なのかも判別は出来ないほどに、人々が折り重なっていた。死を覚悟していた俺は静かに目を伏せた。
唐突に風を切るような音が聞こえた。続いて風が頬を撫でる感触。鋭い動きで何かが目の前を横切った感覚だった。
「か、カラス?」
それは大柄なカラスであった。夕方、鞍馬の駅で見掛けたカラス……何の根拠も無いがそんな気がしていた。唐突に飛び掛られて誰かが転倒した。チャンスだった。今なら逃げ切れるかも知れない。もはや何も考えることは出来なかった。唐突に飛び出して来たカラスのことも、能面をつけさせられた仲間達のことも。ただ、この場から逃げ出したいという衝動だけしか無かった。俺は慌てて立ち上がると、仁王門を目指してひたすら走り続けた。赤い灯籠が放つ微かな光りだけを頼りに、力の限り走り込んだ。能面の人々が執拗に立ち塞がったが構ってなどいられない。
「うおぉっ! 退けっ! 退けーっ!」
次々と殴り飛ばしながら俺は必死で逃げ続けた。
在り得ない話なのは判っていた。鞍馬寺から本殿金堂、木の根道と抜け、魔王殿を経由して貴船へ逃げる。出来る訳が無いのは判っていた。こんな暗闇の中を駆け抜けられる訳が無かったのに。不可能なことは理解していながらも、俺は仁王門へと駆け抜けた。
俺は最低な奴だ……大切な仲間達を見捨ててまで「生」に縋る。皆を助け出すためなんて都合の良い言い訳だ。都合の良い言い訳どころでは無い。自らの罪を覆い隠すための「偽りの大義名分」だ。臆病者以上に性質が悪い。ああ、そうだ! 俺は逃げ出したかっただけだ! ただ、俺自身の身を守りたかっただけだ! 結局、自分しか愛せない、薄情者で、卑怯者だ! 何が友情だ! 何が命より大切な友だ! 所詮口先だけの奴なのだ! 結局俺はあの時から何一つ変われていない。嘘吐きと罵られ、人殺しと叫ばれた、あの時から! 涙があふれてきた。不甲斐なさと、情けなさと、どうすることも出来なかった無力感に俺は打ちのめされていた。
「俺は……俺は、どこまで最低な奴なんだ! そんなに死ぬのが怖いのか!?」
(ああ、そうさ。死ぬことは怖いさ……)
仲間達を見捨ててでも、自分だけでも生き永らえようとする。どこまでも人らしい生き方を選ぶ自分の見苦しさが哀しくて、哀しくて、途方も無く可笑しかった。
あれからどれ位走ったのだろうか? 雨足は相変わらず強く、木々の葉を叩き付ける雨粒の音が響き渡る。光の無い鞍馬山の参道。恐らく、このまま道なりに走り続ければ本殿金堂に辿り付けるだろう。少なくても開けた場所に出れば時間稼ぎも出来る。朝日が昇れば逃げ切ることも出来るかも知れない。だが、そんな俺の浅はかな想いはすぐに打ち砕かれた。
「とおりゃんせ、とおりゃんせ……ここはどこの細道じゃ……」
追っ手は執拗に追い掛けてくる。逃げるしかない。もはや、息もすっかり上がり、足も酷く痛んだ。大雨のためか、石段は滑り易くなっており、何度も足を取られて転倒しそうになった。
今の俺を動かしているものはただ一つ。「生きたい」という気持ち。ただそれだけ。生への執着というものは、これ程までに人を醜くするものなのかと実感しながら走り続けた。呼吸が苦しい。肺がひどく痛む。逃げる途中に足を挫いたのか、踏み出す度に左足に刺激的な痛みが走る。
「天神様の細道じゃ……ちっと通してくだしゃんせ……」
予想以上に能面を被った者達の足は早い。確実に距離を縮められている。それを判っているのか、奴らは焦らすようにじわじわと迫ってくる。もう、逃げられないのかも知れない……。微かな希望は、確かな絶望へと変貌しようとしていた。どこまでも惨めな最期だ。仲間を見捨てて自分だけ助かろうと逃げ延びた。だが追っ手に捕まり、結局助からない。醜い俺には相応しい最期なのかも知れない。だからといって素直に受け入れるつもりは無い。逃げ切ることが出来たならば、皆を助け出す手段を見つけることも出来るかも知れないのだから。絶対に掴まる訳にはいかない。とにかく逃げ延びるしかない。
「はぁっ、はぁっ……絶対に……絶対に逃げ延びる!」
周囲は完全なる漆黒の世界。辛うじて道があることは判るが、それが正しい道であるかどうかは確かめられない。それに足場が悪い上に、降り注ぐ冷たい雨にゆっくりと体力を奪われ続けている。長くはもちそうに無い……。不意に前方からぼんやりと明かりが見える。
(まさか、先回りされたのか!? 一本道で前後から挟み撃ちでは、逃げようが無い!)
ゆっくりと近付いてくる人々。とおりゃんせの歌声も次第に大きく聞こえ始めた。もはや逃げ道は他には無い。俺は考えることを止めると、道無き斜面へと向かい走り出した。人が通れるような場所では無い。そんなことは判り切っていた。生い茂る木々の枝に体がぶつかり、酷く痛んだが、それでも駆け登るしか無かった。死にたく無い! 生きたいんだ! 生きて、生きて、何が何でも生き延びるんだ! それだけしか考えられなかった。必死だった。足元を取られ転倒した。それでも必死で逃げ続けた。泥まみれになり、傷だらけになり、さぞかし見苦しい姿になっていたことだろう。
(来るな、来るな! 俺は死にたくない……嫌だ、死にたくない……生きたい、生きたい、生きたいんだ!)
その時であった。
「え?」
何者かに足を掴まれた。凄まじい力だ。骨が軋む程に指が食い込んでくる。
「あああっ!」
凄まじい力で引き摺り下された。驚き、俺は慌てて顔をあげた。
「ひ、輝!?」
見間違える筈がない。能面を被っているが、そいつは間違いなく輝だった。いや、輝だけじゃない。大地が、力丸が、太助が、すぐそこに佇んでいた。皆一様に俺を見下ろしていた。能面に包まれ、表情を伺うことは出来ないが、判ってしまった。凍えそうな程に冷ややかな眼差しで俺を蔑んでいることが。怒りの感情が。憎悪の感情が!
「違う……違うんだ……決して、見捨てた訳じゃ無くて!」
滑稽だった……恥の上にさらに恥を塗り重ねる。どこまで俺は見苦しいのだろうか。自分の弱さが本当に情けなくなる。
「……」
輝は何も言わずに、俺の首に手を掛けた。
「え? ひ、輝、何をするんだ?」
「……」
ゆっくりと俺の首を絞める冷たい手。再び強まり出した雨粒が木々をかき鳴らす。木々の隙間から零れ落ちる雨粒が容赦なく顔に当たる。
「うぐっ!……く、苦しいっ! 息がっ……! よ、止せ、輝っ……!」
ギリギリと力を篭めて締め付ける冷たい手。必死の抵抗も、まるで意味を為さない。
薄れ往く意識の中で、俺はゆっくりと堕ちてゆく感覚を覚えていた。苦しみから解き放たれ、ゆっくりと浮上するような感覚。霧が掛かった様に目の前が段々と白く染まってゆく。
(ああ……これが死ぬという感覚なのか……因果応報だろうな……皆を見捨てた報いか……)
恐怖からか俺は力強く目を閉じていた。どれ位の時間が過ぎたのだろうか? 不意に、背後から風を感じる。俺は確かに地面に押さえ付けられていたはずだ。背後から風を感じる訳が無い。恐る恐る目を開く。
(こ、ここは……屋上!?)
一体、どうなっているのか判らないが、この光景には確かに見覚えがある。忌まわしい出来事の最終章……。屋上。フェンスの向こう側。何事も無かったかの様に校庭を歩む生徒達を見下ろしていた光景。二度と思い出したく無かった光景であった。
「早く飛び降りろよ! この人殺しが!」
俺に罵声を浴びせ掛ける卓。思い出したくも無い、あの場面が克明に蘇る。そっと下を覗き込む。一気に強い風が吹き上げた。五階建ての校舎。何時の間にか校庭には人だかりが出来ていた。当然だろう。人が飛び降りようとしているのだ。気にならない訳が無い。
「鳥になるんだろう? 早く成って見せろよ。それともお前は嘘吐きなのかよ?」
出来る訳が無い! 今の俺は惨めなまでに、必死に生に執着している。あの時のように頭に血が上った考えに至ることなど出来る訳が無い!
あの時とは何もかもが違い過ぎているのだ。死というものが、どれ程恐ろしい物かも理解している。だからこそ出来る訳が無いのだ。それに……恐らく、ここから飛び降りれば、地面に酷く叩き付けられ間違いなく即死するだろう。骨が砕け、臓器が破裂し、見苦しく血と体液を撒き散らしながら死んでゆくことになるのだろう。嫌だ! そんなのは絶対に嫌だ!
不意に冷たい風が吹きぬける。何時の間にか周囲には青白いほたるが舞っていた。
(この青白い光……また、あの時の!?)
慌てて振り返れば卓は般若の面をつけていた。級友達も皆、般若の面をつけていた。
「小太郎……お前は俺の首を絞めて殺そうとした。判っているのか? お前は人殺しなんだ。罪人なんだ。罪は償われなければならない……。受け入れよ、情鬼になる道を!」
卓が、級友達が、じわじわと近付いてくる。何時の間にか皆手に長い棒を持っている。それが何を意味しているのか、理解できてしまったからこそ恐怖は一気に最高潮に達する。再び死と隣り合わせになった瞬間であった。
「お前はここで死ね!」
「そうだ、死ね!」
「死ね! 死ね!」
嘲笑いながら皆が棒で突く。
「や、止めろ! 危ないだろ!?」
「……馬鹿か? お前はここから飛び降りて死ぬんだよ?」
「よ、止せ、止めろ! 頼む、止めてくれ!」
惨めだ……心の底から殺してやろうと思っていた、あの卓に、命乞いをしている自分がいる。ありったけの憎悪を篭めて、本気で殺そうと首を絞めた卓に詫びを入れ、許しを請うている。そこまでして生に執着する必要があるのか? 誇りよりも、生きることを重んじてしまった自分の弱さが途方も無く情けなく、憐れ過ぎて、自分で自分が嫌になる。
「せーの!」
「!!」
一斉に皆が棒を突き出した。一瞬、足元がふわりと軽くなる感触。浮かぶような感覚。次の瞬間、俺は一気に頭から落下していくのを感じていた。校庭の方から女子生徒の悲鳴が聞こえた気がする。もうじき地面だ……。
一瞬感じた凄まじい衝撃。落下の衝撃で軽くバウンドしたのかも知れない。だが痛みは無かった。変わりに手も足も動かせない。妙な感覚だった。被害者が加害者に転じた瞬間、罪も摩り替わるのだろうか? 罪を負うべきは俺では無い……ああ、段々、世界が白くなってゆく。嫌だ……駄目だ……死にたくない……死にたくないっ!
薄れ往く意識の中で、駆け寄ってくる輝の姿が見えた。
「どうして! どうして、こんなことに! コタ、駄目だよ、死なないで! ぼくを置いていかないで! 一人にしないでよっ!」
輝の頬を大粒の涙が伝い、俺の頬に落ちる。そこには確かな命の温もりがあった。「俺は大丈夫だ」。その一言さえも発することが出来なかった。手を伸ばそうにも、まるで動く気配が無い。動揺。焦り。死を実感する瞬間。
(嫌だ! 死にたくない! 俺はまだ、やりたいことが沢山あるんだ! 頼む、輝、救急車を呼んでくれ!)
「ううっ、コタ、コタ! 死んじゃ駄目だよっ! お願いだから、死なないで!」
(ああ、輝! そうじゃない。そうじゃないんだ! 救急車を……救急車を呼んでくれ!)
だが、想いは形にすらならない。伝えたい想いも、言葉も、何一つ発することが出来ない。不思議なものだ。何時も一緒に歩んで来た輝に対して、最期の瞬間だというのに言葉が見付からない。感謝の気持ちを伝えたい……いや、違う! 諦めては駄目だ! 俺はまだ死ねない! だが、無常にも視界がどんどん白く霞んでゆく。ゆっくりと、ゆっくりと、地面に沈んでゆくような感覚。死にたく無い! お願いだ、誰か、助けてくれっ!
もう助からないのだろうか……希望はすぐに絶望へと変容した。本気で死を確信した瞬間であった。だが、そんな俺の覚悟をも打ち破る事態が起こる。唐突に響き渡る法螺貝の音色。ざわめく能面をつけた人々。否、むしろ動揺していると言ってもいい程にうろたえていた。
(何だ? この法螺貝の音色が、一体何だというのか?)
一際強く大空を雷鳴が駆け抜けた瞬間、木々の隙間をすり抜けながら何かが一斉に降り立った。空から次々と舞い降りて来る者達の姿。暗闇の中では彼らの姿ははっきりとは判らない。ただ、少なくても敵では無いことだけは判った。
「一人とて逃すで無いぞ。必ずや皆、仕留めよ!」
次々と舞い降りる人影の中でも一際大柄な人影が声を張り上げる。法螺貝を手にしている所を見ると、先刻法螺貝を吹き鳴らしたのはこの人物なのかも知れない。妙に冷静な判断をしている俺自身が滑稽に思えた。しかし口にした言葉は良く考えれば相当に物騒な内容である。仕留める……つまりは「殺せ」という意味である。正体不明の存在たちではあるが、物騒な言葉が気に掛かった。
人は本当に身勝手なものだ。生きるためならば何だってすると思っていたクセに、いざ身の安全が確保されれば掌を返したかの様に偽善を口にする。数分前までは皆殺しにしてでも生き延びると思っていた自分は一体何だったのか? 人という生き物が傲慢だという事実を理解させられていた。だからこそ俺は罪人なのかも知れない。そんなことを考えていた。
「そうだ……輝!? 輝、何処へ行った!?」
突然の騒動で輝の姿を見失った。何時の間に逃げ去ったのだろうか?
木々の間から次々と舞い降りてきた彼らは白い装束に身を包んでいた。まるで昔の山伏の様な風変わりな服装であった。流れるような動きで、手にした六角柱の棒を振り回しながら次々と能面を被った人々を鎮圧してゆく。良く見れば、狙っているのは人では無く、あの不気味な能面であった。手にした六角柱の棒で器用に能面だけを打ち砕いている。能面を砕かれた人々は次々と意識を失ったかのように崩れ落ちる。呆気に取られていたが、不意に法螺貝を手にした人影が近付いてくるのが見えた。思わず身構える俺にそっと大きな手を差し出した。敵意が無いことを示したいのだろうか?
「その願い、確かに受け取った。これにて『契約』は成立する。永き時を経て……今、邂逅の時」
刹那、駆け抜ける稲光が彼の姿を照らし出した。大柄な体付き。その人物の背中からはカラスの様な漆黒の、雄大な翼が生えていた。稲光に照らし出されたその顔はまさしくカラスそのものであった。俺は轟く雷鳴の中で意識が遠退くのを感じていた……目の前に佇む者。手を差し伸べた者。そいつの姿は、まさしく伝承の中で目にしたカラス天狗の姿その物であった。
「小太郎よ、済まぬが正式なる邂逅の時は今暫く後になろうぞ。辛い想いをさせることになるが、悪く思うで無いぞ」
(辛い思い? 一体どういうことだ? ああ……駄目だ、意識が遠退く……)
「必ずや我がお主を守る。……あの時に交わした『約束』、次に会う時に確かめさせて貰おうぞ。では、しばしの別れよ……」
(あの時に交わした『約束』だと? 何を言っているのか意味不明だ……それよりも、輝達は一体どこに!? ううっ……駄目だ、意識が遠退く……)
ゆっくりと地面に沈んでゆく。そんな不可思議な感覚を覚えていた。意識が遠退く……手も、足も、ぴくりとも動かせない。生きているのか、死んでいるのかそれさえも判らない不可解な感覚を覚えながらも、どうやら俺は眠りに就いたようだ。とても深い……深い眠りに。
どれ位の時間眠っていたのだろうか。遠くを流れる微かな川の流れが聞こえる。頬を撫でる水気を孕んだ風を感じていた。ヒンヤリと冷たい石段。俺はそこに横たわっていた。視界に入るのは瑞々しい木々の緑と隙間から覗く青空。良い天気だ。既に雨は止んだのだろう。木々の隙間から朝日が見えた。そっと地面に触れてみれば、昨晩の雨の名残か、地面は水気を孕んでいるように思えた。
(ここは……貴船神社?)
ようやく意識が鮮明になってきた。俺は起き上がり周囲を見渡した。眼下に広がるのは長い石段と赤い灯籠。見覚えのある景色から、俺は自分がいる場所が貴船神社であることに気付いた。小鳥達のさえずりが聞こえてくる。穏やかな朝の光景。だが、だからこそ理解不能なことだらけであった。一体何故、自分は貴船神社にいるのか? 能面を被った連中はどうなったのか? そして、『約束』と口にした得体の知れぬ存在。理解出来ないことだらけだった。昨晩の出来事を思い出し、服に目線を送る。泥塗れになったはずなのに、まるで汚れていなかった。まさか、あれは……夢だったのか? 考えを整理しようと、立ち上がった瞬間、左足に鋭い痛みが走った。
「!?」
左足にくっきりと刻まれた指の跡。
(やはり、あれは悪い夢なんかじゃ無かったんだ。だとしたら、皆はどうなった!?)
考えたくなかった。恐らく、行方知れずになっているだろう。静まり返る景色から察するに、少なくても自分の知っている範囲内には存在してはいないのだろう。
「俺は……これから、どうすれば良いのだろうか? 皆を見失ってしまった……いや、見捨てた、というべきなのか?」
ようやく現実を理解出来てしまった。皆を探そうにも何の手掛かりも残されていない。皆を見捨てて逃げ出した事実が重く圧し掛かる。
(いや、そうじゃない……皆と共に巻き込まれていたら、俺は皆を救い出すことは出来ない。少なくても、俺は此処にいる。言い換えれば、皆を救い出すことが可能な訳で……)
「つくづく嫌になる……よくも、そんなことを軽々しく言えるものだ。前向きな発想を口にしているように見せ掛けて、本当のところは『都合の良い言い訳を思い付いた』だけに過ぎないのに……」
一体どうすれば良い? 皆を見付け出さないと……。いや、今の自分に一体何が出来る? あの能面をつけた連中を相手に、為す術も無く逃げ回っただけでは無いか。俺の手に負える様な代物では無いのは間違いない。いずれにしても一度家に戻ろう。ここにいても何も始まらない。
俺はゆっくりと石段を降り始めた。木々に抱かれた貴船神社は荘厳な雰囲気が漂う場所で、本当に心が落ち着く場所。だけど今の自分に取っては哀しみしか無かった。後悔と言えば良いのか? 足は鉛の様に重たかった。痛むのもあったが、それ以上にじっとりと水気を孕んだかの様に重みを感じていた。
雨上がりの石段から漂う石の匂い。しっとりとした湿気を孕んだ木々の香り。誰もいない貴船神社はあまりにも静か過ぎた。大きく手を広げるかのような雄大なるご神木の桂。朝日を浴びて一層雄大な姿を描いていた。その光景に俺は確かな『生』を感じていた。瑞々しい苔の香りは目を背けたい現実をありありと浮き立たせる。清々しい木々の香りは言葉にできない哀しみに鮮明な色合いを灯す。一つだけ……一つだけ確かなこと。もう、みんな戻ってこないし、もう、二度と会えないということ。それは確信。そして後悔。だからこその懺悔……。
不意に何かを踏んだ感触。渇いた「何か」を踏んだ感触。蝉の抜け殻のような感触だった。慌てて足を退ければそこには無残な姿になったほたるの姿が残されていた。渇いた亡骸は踏み付けられて見る影も無く砕け散っていた。
(そうか……『死』とはこういう物なのか。もっと生々しい物なのかと思ったけれど、こんなにも渇いた物なのか。皆が戻って来ない事実も……こんな風に、渇いた現実なのかも知れない)
「帰ろう……」
誰に対して放った言葉なのか自分でも判らない。自分自身に呼び掛けたのかも知れない。此処にいても何一つ事態は変わることは無い。だったら此処にいる理由は無い。
皆が行方不明になり俺だけが逃げ延びた。だからこそ役目を果たさねばならない。皆を救出出来なければ俺は本当の意味で「鬼」になってしまうだろう。そんな気がしてならなかった。取り敢えず貴船口を目指そう。家に戻らないことには何も始まらないのだから。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日と、涼やかな風。それから心地良い川の流れる涼やかな音色を感じながら、俺は貴船川に沿って歩き始めた。
早朝の叡電は人気が少なく、空虚さで満たされていた。誰も乗り合わせる乗客もいない列車。ガタンガタン。列車の走る音だけが響き渡る。本当だったら皆と一緒に帰るはずだった帰り道。どうして自分一人なのか未だに理解できずにいた。何時ものように俺の反応を期待しているだけならば少々悪戯が過ぎる。だが、これは悪戯などでは無い。現実に起こってしまった出来事なのだから。避けようが無い真実。受け入れるしか無い現実。
「……静か過ぎるな」
清々しい朝日を浴びながら叡電は走り続ける。出町柳を目指して、ただまっすぐに。
木々に包まれた景色からは涼やかな香りが感じられた。流れる川の涼やかな音色。夏の朝。本当に長閑な情景だった。だからこそ余計に胸が締め付けられた。川の流れる音、列車が走る音、木々の葉が風に揺れる音、それから小鳥の声以外は聞こえなかった。
「あの時、逃げ出さなければ……」
後悔。決して先には立たない物。だからと言って過去の一時点に戻れる訳じゃない。選ばなかった選択肢を悔やんでみても、何も事態は変わりやしない。そんなことは判っている! それでも抑えようの苛立ちを抱え切れずにいた。誰でも良かった。喧嘩でも売ってくれれば、殺すまで殴り続けただろう。あの日、あの時、卓を殺そうとした、鬼としての自分ともう一度向き合えるだろう。
「判っている……そんなことをしても哀しみは消えやしない。余計に傷口が傷むだけだ……」
窓の外を見上げれば窓から差し込む強い朝日に目が眩む。苛立ちついでに座席を思い切り殴ってみた。軽く拳がめり込んだだけだった。痛みも何も無い、無意味な感覚だった。
「違うな。傷口を痛ませることで、皆を見捨てた痛みを誤魔化そうとしているだけだ。リストカットするのと何ら変わりは無い。そんなの……自己満足の偽善に過ぎない」
俺は此処で何をしているのだろうか? 時の流れは何時だって残酷だ。どんなに願っても、どんなに祈っても、前に進むことしか許してはくれない。決して後戻りすることは出来ない。だから本当に残酷だ。川の流れが逆流することが無いのと同じなのだろう。判っている。だけど割り切れなかった。頭で判るのと心で判るのとでは全然違う。間にある大きな障壁が行く手を阻む。何よりも、ただ悲観的になり、沈み込むだけの自分が本当に許せなかった。悔しかった。
空虚な気分の中でも列車は走り続ける。駅から駅へと走り続ける。昨日訪れた道を逆再生するかのような光景が酷く哀しかった。だったら皆も戻してくれよ!……そう、叫びたかった。やはり時の流れは残酷で、決して後戻りはしてくれなかった。
どうすることも出来ない無力な俺は誰も居ない列車の中で大きく足を投げ出し、ただ呆然と流れ行く景色だけを見つめていた。駅から駅へと繋ぐ線路。変わり往く窓からの車窓をじっと見つめたまま、ただ時の流れに身を委ねていた。どれ程の時間が過ぎたのだろうか? 何時の間にか日は随分と高い所へと昇っていた。
「……もうじき、出町柳か」
すっかり景色は街並みの景色に戻っていた。時の流れは全ての存在に等しく与えられるもの。スーツ姿のサラリーマンが、子供を後ろに乗せた自転車の若い母親が何時もと変わらぬ様子で踏み切りを待つ。カンカンカンカン。踏み切りの音が通り過ぎる。やがてゆっくりとブレーキが掛かり、金属が擦れ合う悲鳴が響き渡る。有機的な世界観に染み入る無機的な音が確かな「現実」を告げていた。
「何て説明すれば良いのだろうか……」
考えれば考えるほどに頭が痛かった。だけど、前に進むしかない。立ち止まろうとしても、時の流れは残酷だ。強引に走らせようとするだろう。
(時の流れを止める手段はたった一つだけ……時の流れから外れれば良い。簡単なことだ。命を棄てれば良い。命無き者には、恐らくは永遠の時が約束されるのだろう……)
「冗談じゃない。そんなことのために死ぬつもりは毛頭無い!」
やがて扉が開く。誰もいない孤立無援な列車を後にして俺は祇園四条を目指した。
(結局どんな言い訳をしても逃げたという「真実」、それから……皆が居ないという「現実」は逃がしてはくれない。罪を償え、か……。ああ、償うさ。どんなことをしてでも、絶対に皆を救い出すだけだ)
雲一つ無い空。どこまでも澄み渡る青空。強い日差しに照らされて目が眩む。濁り、澱み切った俺の心とは正反対の空模様が酷く皮肉に思えて仕方が無かった。嘲笑うような空模様を睨み付けながら俺は地下へと続く階段を歩んでいた。日の当たる地上よりも、湿気のある暗い地下の方がよほど俺の性に合っている。そんなことを考えていた気がする。
出町柳から先、俺はどうやって家まで帰り着いたのだろうか? 殆ど覚えていなかった。極限状態の中で酷く体力を消耗したのだろうか。自室に帰り着いた俺は、恐らくそのままベッドに倒れ込んだのだろう。どれだけの時間が過ぎたのだろうか? 次に気が付いた時にはジリジリと照り付ける強い日差しを感じていた。もう昼頃だろうか? 酷い暑さで、喉がカラカラになり目覚めた気がする。
(そうか……俺は寝てしまったのか)
ふと、玄関の方から人の話し声が聞こえてくる。声の感じから察するに、誰かを責め立てているように聞こえる。聞き覚えのある声……俺の嫌いな奴の声だった。
(原因は間違いなく俺だろうな。仕方が無い。出迎えてくれるか……)
階段を降り関先へと向かう。そこには予想通り、輝の母親の姿があった。俺と目が合うなり早くも噛み付いてきた。
「あなた! うちの輝が昨日から帰っていないの! 何か知っているのでしょう!?」
唐突な断定。いきなり人を犯人扱いするとは理解不能だ。輝を見捨て一人逃げたこと。それは曲げようの無い真実ではあった。だが、そこまでの経緯を説明して理解して貰えるとは到底思えなかった。あれは「人」の手に負えるような領分では無い。それは間違いない。それに……この人は俺の話に耳を傾けやしないだろう。固定観念と先入観だけで物事を考える視野狭窄なオトナ。実に可哀想な人だ。
「残念だな。昨日学校で見掛けたきりだ。それに……」
冷ややかな目で睨み付けながら、見下す様にほくそ笑みながら俺は続けた。
「あんたに嫌気がさして家出したとか考えられないのか?」
「な、なんですって!?」
それで良い。怒りの矛先は俺に向ければ良い。罪は俺が全て背負う。輝の母はみるみるうちに顔を紅潮させていた。
それにしても……この人も教師なのを考えると、実に教師という生き物は俺の理解の範疇を超える存在だと思わされる。自らの物差しをせっせと宛がっては、規格内だ、規格外だと喧しく騒ぎ立てる。杓子定規に則った物の考え方しか出来ない頭の固さに嫌気がさす。
「小太郎、何てこと言いはるん? 輝君のお母さんに謝り」
「俺は何も悪いことは言ったつもりは無い。『現実』から目を逸らすだけのあんたに、『現実』を伝えてやっただけのことだ」
(現実から目を背けているのは俺も同じか)
「も、もういいわ! あなたと関わっていると輝がどんどん駄目な子になっていく一方だわ! あの時の出来事だって……!」
「俺のせいだとでも言うのか!? 自分のことは棚に挙げて!?」
思わず声を荒げてしまった。許せなかった。今回の一件に関しては罪を背負うつもりだった。だが、あの出来事は……輝の自殺未遂に終わったあの出来事は俺のせいじゃない。間逆だ! あんたのせいで輝は追い込まれ、死を選ぼうとしたのだ。それを反省するどころか俺のせいにするだと!? 馬鹿な! 英雄面するつもりは無いが、誰が輝を死の淵から呼び戻したと思っているのだ!? 感謝こそされど恨み言を言われる筋合いは無い!
「うちの子はおたくのドラ息子とは訳が違うの。おかしな道にそそのかすのは辞めてちょうだい!」
「随分な言い分だな。だが、忘れるな! 輝が殺意を持っていたのは事実だ。本気であんたを殺すつもりだったということを忘れるな!」
輝の母は凄まじい顔で俺を睨み付けた。何か言いたそうではあったが、それ以上は何も言わなかった。
「反論しないということは、認めるということだな!? 自分の罪を!」
輝の母は乱暴にドアを閉めると帰っていった。
やれやれ……また勢いに任せてやってしまった。結局、被害を受けるのは俺では無い。母だ。その位判っていたのに俺は駄目な奴だ。だが、どうしても納得出来なかったのだ。険しい顔をして目を落とす俺を見ながら、母は静かに微笑んでくれた。
「まるで嵐の訪れやったなぁ。昨日の大雨とええ勝負やったわ」
乱暴に閉められたため、反動で微かに開いてしまったドアを閉めながら
「それにしても、小太郎。ほんまに輝君がどこに行ってしもたか知らへんの?」
心配そうな表情で母が問い掛ける。真実は知っている……だけど、それを話して理解して貰えるとは思えなかった。
「ああ……」
思わず目が泳ぐ。
「まぁ、ええわ。ささ、お腹空いてはるやろ? ご飯、温めるわ」
気付いていたのだろう……俺の目が泳いでいたことくらい。だが、母は何事も無かったかのように笑顔で台所に向かった。母は何時だってこんな調子だ。何も考えていない訳では無い。色々と考えてはいるが腹の内に仕舞い込み、表には出さない。それが芸妓のあり方だと良く口にしていた。俺が卓の首を絞めた、あの『事件』を起こした時も何一つ叱りも、咎めもせずに涼やかな笑顔で「なんや、お腹空いたなぁ。おいしい物食べて帰ろ」と受け流してくれた。母は何時だって大きく、そして誰よりも優しかった。それに引き換え……俺は本当にちっぽけな奴だ。
(こうやって、自らの行動を後悔することだけが取り得なのか……)
「違うさ……そんな自分はもう、嫌だ。俺は変わる……変わらなければ駄目なんだ」
結局食事を済ませた後、俺は再び深い眠りに就いた。自分でも驚く位に良く眠れたと思う。どこかで吹っ切れていたのかも知れない。輝達を見捨てた自分の罪を本気で受け入れようと思っていたのは事実だ。いい加減な振る舞いが招いた結果なのは事実だ。輝を力づくでも阻止しなかったことも罪だと考えていたし、皆を見捨てたのも罪だ。相当の重罪だ。命懸けで償わなければならない。それに考えても無駄なことを必死で考え込んでも答は出ない。生憎そこまでオツムの出来は良くない。
何時の間にか俺は眠ってしまったらしい。気が付けば翌朝になっていた。どれだけの時間眠り続けたのだろうか? 視界が揺らぐ感覚に包まれていた。取り敢えず学校に行こう。もしかしたら、皆、普通に学校に来ているかも知れない。そんな僅かな希望に夢を託そうとする、頭の悪い前向きさが堪らなく可笑しかった。
翌朝の学校は、いつもと何も変わった様子は無かった。今日は曇り。じっとりと蒸し暑い朝だった。何もしなくても汗が滲む。そんな気候だった。天気予報は梅雨明け宣言を渋っている様子だが、もう明けたのだろうか? そんなことを考えながら流れ落ちる汗を感じていた。
教室は何時ものように賑わっている。皆の楽しそうな話し声が聞こえてくる。輝の席は空っぽだった。力丸の席も、大地の席も、太助の席も、皆空っぽだった。逃げ出したくなる……。
(何が「変わる」だ。何一つ変われていない。逃げることだけ。自分の身を守ることだけ。傷付くことを遠ざけることだけ。それしか考えられない卑怯者だ……)
自分が嫌になる。口先だけなら幾らでも強がることはできる。だが、現実はどうだ? こうして誰もいない現実を直視することから目を背けるだけだ。悔しい……弱い自分が惨めで、見苦しくて、どうしようもなく悔しかった。
唐突に教室の扉が開かれる。昨日と同じく桃山が入ってくる。ただし、昨日とは違い何時もと変わらぬ落ち着きを見せていた。今日はしっかりと髪を結い上げ何時ものポニーテール姿であった。教室を見渡しながら、早くも異変に気付いた様子だった。
「あら? うーん、予想通りかぁ……」
小さく溜め息をつく。落ち着いていた訳では無かったのかも知れない。異変を改めて確認した。そんな振る舞いにさえ思えた。
「やっぱり輝君達は欠席なのね……。はい、はい、みんな、静かにして。詳しいことは判っていませんが、昨日の夜から輝君達が家に帰っていないとの連絡がありました。まだ警察には連絡していませんが、捜索は続けられています」
妙に事務的な口調だった。いや、違うな……生徒達に混乱を広げないよう、精一杯平静を保っているように見せ掛けていたのだろう。桃山は何度も俺に目線を送っていた。「何か知っているのだろう?」と。問い掛けるような眼差しだった。目を背けることしか出来なかった。手を貸してくれようとしている桃山のことさえも俺は信用していないのかも知れない。
桃山は松尾や輝の母親のようなステレオタイプな教師では無かった。年もそれなりに俺達に近いということもあってか、考え方も柔軟だった。教師というよりも皆の姉貴分。そういう立ち位置を取ることを好んでいるように思えた。
ホームルームは何時もと変わらず、相変わらず事務的な連絡事項だけ伝えて終わった。ただ一つ違ったことと言えば「後で職員室に来い」と言われたことだけだった。目的は判っている。だから俺は黙って言う通りにしようと思った。
それからの時間は殆ど記憶に残っていなかった。心此処に在らずという奴だろうか。皆のことだけを考えて、ただただ茫然自失とするばかりだった。そして訪れた放課後。俺は職員室へ向かう廊下を歩いていた。夕方前の一際強い日差しが酷く眩しかった。
「小太郎君に聞きたいことがあるの」
職員室の空気は好きになれない。此処は教師達の聖域。生徒達が此処を訪れるのは何か悪いことをやらかした時と決まっている。言うなれば此処は裁判所の様な場所。もっとも俺達には弁護士は付けられない。絶対的権力を持つ検察官に一方的に咎められる場所だ。
相変わらず桃山は直球で挑んでくる。その男らしい振る舞いは嫌いでは無い。
「輝達のこと……だろう?」
「ええ。今朝も、輝君のお母さんから物凄い剣幕で怒鳴り散らされたわ」
アレが巷を賑わす『モンスターペアレント』というヤツね。眼鏡を掛け直しながら桃山は可笑しそうに笑っていた。だが、すぐに真顔に戻る。
「……場所を変えましょうか? ここでは話しづらいでしょうから」
桃山は小声で付いて来いと短く告げた。屋上へ向かう、と。他の教師達の好奇に満ちた眼差しに酷く苛立ちを覚えたが、桃山は全く気にする様子もなく淡々と振舞っていた。
廊下を歩く桃山は背筋を伸ばし、ただ前だけを見つめていた。頑なな表情を崩さなかった俺を横目で見ながら可笑しそうに笑っていた。
「まぁ、若い男の子に興味が無いと言えば嘘になるけど……」
思わず吐息が漏れる。
「そんな怖い顔しないで。冗談よ」
違う。怒っている訳では無い。ただ……その冷静な振る舞いに安心感を覚えていただけだ。
幼い頃から武術に精通していたという桃山は、普段の振る舞いにも隙が無い。その隙の無さに安心感を覚えた。こんなこと言ったら怒るかも知れないが、俺に取っての桃山は……頼りになる「姉貴」の様な存在であったのだから。
長い階段を上り切れば屋上へと続く扉が見えてくる。夕焼け空に照らされて真っ赤に萌え上がっているのだろう。夕焼け空の屋上……嫌な思い出しか残っていない。重たい扉を開ければ、不意に流れ込んでくる風の流れ。強い日差しを受けた風は熱気を孕んでいた。
夕焼け空の向こう側に東寺の五重塔が、京都タワーが見えた。赤々と燃え上がる様な色を称えた姿は、かつての忌まわしい情景と重なり、心の中に棘が刺さったような痛みを覚えていた。だが、此処はあの時見た場所とは異なる場所。俺は痛みを振り払うように大きく息を吸い込んだ。
「夕方になっても暑いわね。もう、梅雨は明けたと思って間違いなさそうな空模様かな?」
「……そうかもな」
短く返した後、俺は黙ったまま遠くの景色に目線を送っていた。頬を撫でる風が心地良い。くるりと振り返ると桃山はじっと俺の目を見据えた。鋭い眼差しで見つめられ一瞬動揺しそうになった。
「それで、輝君達がどこにいるのか教えて貰おうかしら?」
「……知らないと言ったら?」
「いいえ、あなたは知っているわ。断言しても良いのよ?」
冗談には聞こえなかった。今まで見たことも無いような鋭い眼差しだった。静かに俺を見つめる桃山は、目線を逸らすことなくさらに力を篭める。しばしの沈黙だけが佇む空間……もとより抗うつもりは無かった。ただ、あのような現実離れした出来事を果たして信じて貰えるだろうか? 俺は乾いたくちびるを舌で潤し、少し息を吸い込み話始めた。
「多分、話をしても理解できないと思うけど……」
「鞍馬、でしょう?」
何の迷いも無い返答。だからこそ驚かされた。危うく悲鳴を挙げるところだった。小さく溜め息を就きながら桃山は話を続ける。
「昨日、輝君が話を聞きに来ていたから、こちらからも幾つか質問を投げ掛けたわ。鞍馬で起こっている異変。そのうわさ話なら、あたしも知っていたから」
夕日に照らし出されて俺も桃山も萌える様な色に染め上げられていた。そう。丁度昨日の鞍馬での俺達と同じように。
「うわさ話じゃ無かった。襲われたんだ。能面を被った奴らに。追われて、逃げ続けて、結果的に……俺一人だけが逃げ延びることができた」
卑怯な言い方だ。逃げ延びることができた……違うな。皆を見捨てて、我が身可愛さの余り、俺は死の恐怖から、たった一人で逃げ延びたんだ。皆を見捨てたんだ。俺はずるい奴だ。こうやって逃げて、逃げて、逃げ延びることしか出来ないんだ。酷く胸が、心が鈍く痛んだ。桃山は腕組みしたまま静かに俺の話に耳を傾けていた。
「輝君達は鞍馬にいるかも知れないということね? それにしても、一体どういうことなのかしら? 誘拐? だとしたら、何らかの動きがありそうなものだけど?」
桃山は何か勘違いしているのだろう。能面をつけた謎の集団に捕らえられた。それは間違いでは無い。だが、あの集団は本当に人だったのだろうか? もっと、何か異質な存在のように思えたのだが……それに窮地に陥った俺を助けてくれた存在がいた。あの異形の存在の説明もつかない。何から何まで意味不明な出来事に巻き込まれたのだ。そして、俺だけが逃げ延びた……それは、曲げようの無い事実なのだから。
「いずれにしても、何か妙な事件に巻き込まれているのは事実ね。でも、どうしたものかしら……こんな話、警察にしても理解して貰えそうな気がしないのよね。うわさ話が現実となり生徒達が神隠しにあった。こんなトンデモ話しても信じて貰えるのかしら?」
雲一つ無い透き通るような夕焼け空を見上げながら、溜め息混じりに桃山が呟く。
確かにそうだろうな。多感な年頃の青年達の短絡的な家出、として片付けられるだろう。そんなことに何の意味も価値も無い。それではどうすれば良いのだろうか?
「小太郎君、お話ありがとう。とても参考になったわ。皆のことはあたしに任せて今日は大人しく帰りなさい」
俺を不安にさせまいとの心遣いなのだろうか? 桃山は何時もと変わらぬ気丈な笑顔を見せていた。無理だ……あれは人の手でどうこう出来る様な奴らでは無い。そう、主張したところで桃山は聞き入れてはくれないだろう。それに、何かが引っ掛かるのだ。何が引っ掛かるのかと問われても、上手く表現できない何か……としか表現できなかった。
「ああ、判った……後のことは、皆のことを頼む」
(嘘をついてしまった……桃山、済まない)
だが、気掛かりなモノの正体を掴まねばならないのも事実だった。皆を救い出すための糸口になるのかも知れない。だとしたら、行動を起こす他無いのだから。
不意に空が唸りをあげる。みるみるうちにどんよりとした暗い雲に覆われてゆく。夕焼け空を呑み込むかのような不穏な黒い雲。誘われているような気がしてならなかった。遠くで雷が唸っている。夕立の訪れを告げているかのように思えた。
(そうさ……簡単なことだ)
逃げ延びた俺を奴等がみすみす見逃す訳が無いだろう。だとしたら誘われるままに罠に嵌ってやれば良い。危険を伴うが、このまま逃げ延びて生きるくらいならば傷付いても良い。いや、もしかしたら命を失うかも知れない。それでも納得いく結末を迎えたかった。
(思い出す……あの時、屋上から飛び降りた時の感覚と良く似ている)
俺は桃山に背を向けるとゆっくりと階段を降り始めた。だが、唐突に頭を締め付けるような痛みに襲われた。
「ぐっ……な、何だ……!」
キリキリと締め付ける様な鋭い痛み。激しい痛みに視界が揺らぐ。不意に金属音の様な甲高い耳鳴りが響き渡る。割れるような痛みが駆け巡る。揺らいだ視界の中に浮かび上がる情景……東福寺駅。見届けると同時に、痛みは速やかに消えていった。東福寺駅……そこに行けば何かが判るのかも知れない。自分の感覚に身を委ねるかのように俺は階段を降り続けた。階段を降り、外に出る頃には雨が降り始めていた。雷鳴が轟く。予感が現実の物になろうとしていた。『邂逅』……何故か思い浮かんだ言葉を胸に、俺は歩き続けた。熱く乾いたアスファルトには往来する車の音と周囲の景色に染み渡る蝉の声、それから俺が歩く足音だけが染み渡っていた。俺が生きた軌跡を刻み込んでいる。何故か、そんなことを考えていた。