表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

ほたるの灯火

「なぜ人を殺してはいけない?」

 夕日に照らし出された教室は燃え上がる炎の様に一面の赤。机も、黒板も、それから立ち尽くす生徒たちも皆、例外なく赤々と萌えていた。赤一色に包まれた教室の中、俺は鴨川卓に馬乗りになり首を絞めていた。

「下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、寄り道せずに帰りましょう」

 妙に間延びした口調の下校放送が流れる。微かに放送に混じる笑い声が酷く場違いに思えた。時の流れは残酷だ。今、この教室をたゆたう時の運行は完全に凍結した。皆、石像のように硬直している。そこは何の音も無い渇き切った空間と化していた。そこには笑いなどは在り得ない。一触即発の緊張感。皆の視線が一斉に俺に集まる。銀行強盗の心境……体験したことは無いが、何故かそんな気がしていた。

「もう一度問う。なぜ人を殺してはいけない?」

俺は再び問い掛けた。松尾は酷く狼狽した素振りを見せながら、俺の目線と合せることを畏れているようにさえ思えた。だからこそ目は逸らさせない。逃がしはしない。納得できる返答を返して貰うまでは。

「は……離せよっ……い、息が……」

 必死でもがく卓の爪が、さながら巨岩を侵食する雨垂れの如く俺の腕にゆっくりと食い込む。皮膚が切り裂かれる微かな感覚。ゆっくりと、滲んだ血が流れ落ちるのが見えた。痛みは感じなかった。ただ俺の怒りの炎に油を投入しただけに終わった。苛立ちついでに俺はさらに力を篭め、その首を締め上げた。ゆっくりと卓の首に俺の指が食い込む。柔らかな感触。じっとりと滲む汗。頚動脈の脈拍が次第に緩慢になるのが伝わって来る。涙と涎、ついでに鼻血まで垂らしながら卓は嗚咽していた。汚らしい顔だ。さっさと死ね。

「こ、殺してしまったら、もう、嫌いだってことも伝えられなくなってしまうのよ?」

 震える手で眼鏡を押し上げる松尾。ついでに裏返った口調で何とか放った言葉。余程動揺しているのか、汗に濡れた額に汚らしく髪が張り付いていた。残念だ……お前の言葉は俺の心には微塵も届かない。

「……馬鹿か? お前は?」

 俺の返答に松尾は言葉を失う。酷く目が泳ぎ、明らかにうろたえている様子が見て取れる。情けない……所詮、教師なんて存在はその程度の物なのか? 生徒からの問い掛けに、まともに応えられないような出来損ないも死んでしまえ。

 六月。梅雨の終わりの蒸し暑い季節。だが、この教室は真冬の早朝を思わせる程に緊迫した空気に包まれている。生徒達一人一人の動揺し切った吐息も、震える膝の音も、張り裂けそうな胸の鼓動さえも聞こえる。教室は無慈悲な静寂に包まれていた。時折、校庭からは生徒達のじゃれあう楽しげな声が聞こえてくる。場違いな笑い声。それが不快で、酷く苛立たされた。永遠とも呼べる程の沈黙。それでも、俺は手を緩めるつもりは無かった。本気で殺すつもりだったから。それ以外のことは考えられなかったから。

 いよいよ、卓は体が小刻みに痙攣し始めていた。瞳孔が揺らぎ白目を剥き始める。俺の手に突き刺さる爪からもゆっくりと力が失われてゆく。それでもなお、卓は必死の抵抗を見せる。時折思い出したかのように力を篭めていた。生への執着か? そんなもの、お前には無用の長物だ。万物を繋げる摂理から断ち切ってくれよう。

「無駄な抵抗は止せ。俺はお前を殺す……もう、後戻りするつもりもない。悪いな」

 俺は力一杯、卓の目に拳を叩き付けた。親指を突き出し、眼球を狙い力一杯殴り付けた。コリっとした感触。眼球が歪む感触を拳に感じていた。拳に感じられる生温かい涙が不快で、酷く苛立った。

「うわあああーーっ! ああっ……痛ぇ、痛ぇよっ!」

 卓の悲鳴に皆が目を背ける。耳を塞いだまま座り込む女子生徒の姿も見られた。

「汚らわしい……まだ生に執着するのか? さっさと諦めろ。せいぜい懺悔しろ」

悲痛ぶった悲鳴に苛立った。だから股間にも肘鉄をめり込ませた。深く、深く。一瞬、体中に電気が駆け巡ったかのように激しく痙攣すると、卓は静かに崩れ落ちた。頬から大粒の涙が零れ落ち、空振ったような呼吸が笛の様な音を響かせた。ついでに広がる水溜り。どうやら失禁したらしい。

「あ……あぐっ……あ……ああ……」

「汗も臭ければ、小便まで垂れるとはな……実に惨めだな」

 夕日に照らし出された教室は、誰も彼も皆真っ赤に萌え上がっていた。何もかもが燃え盛る炎のように煌々と赤く染まっていた光景。言葉を失う級友達。立ち尽くす無能教師。口から涎を垂らしながら小さく痙攣する卓。汗と小便の不快な臭気。馬乗りになった俺。そして永遠とも思える程の沈黙。

あの日、あの時、あの瞬間……俺は笑っていたと思う。多分。鬼……そう。俺が鬼になった瞬間だった。

「ひ、人殺し……」

「……人殺しだと?」

 誰かが呟いた一言。人殺し……そうか。俺は人殺しになったのか。仕方が無かった。煮えたぎるような怒りを静める方法が見当たらなかったのだから。

キレやすい子供達。オトナ達は何時だってそうやって自分達の物差しで俺達を推し量ろうとする。規格に当て嵌まらない不良品は例外なく爪弾かれる。大して深く考えもせずにキレやすい子供達なんて言葉で一括りにしようとする。オトナはそういう言葉が好きなのだろう。ゴミの分別はできないクセに、子供の分別だけは得意そうなフリをする。残念だけど、ゴミの分別以上にヘタクソだ。

「……どうして、どうして……。どうしてこんなことに……?」

 唐突に松尾が崩れ落ちる。大きく肩を震わせながら、笛のような音で呼吸をしている。過呼吸か。相変わらず度胸の無い教師だ。無駄に小心者だ。事なかれ主義がモットー。絵に描いたような駄目教師だ。確か、お前のような役立たずは「税金泥棒」って言うんだったな。

「コタ……ごめんね、ごめんね! ぼくのために……ぼくの、ぼくのせいで!」

 悲痛な声を張り上げながら輝が泣き崩れるのが見えた。酷く乱れた髪。謝るのは良いから早くズボン履け。お前は見世物じゃないだろ? それに――「輝……お前は悪くない。だから、そんな顔をするな」。俺は目で語り掛けた。お前は「被害者」だ。一連の騒動は俺が、俺のために起こした行動だ。お前のためじゃない。卓がムカついた。だから殺した。それだけだ――ただ、それだけのことだ。



 それは「きっかけ」だった。全ての始まりとなった「きっかけ」だった。

 先に仕掛けたのは卓だった。手下達を使い輝の身動きを取れなくした。嫌がる輝のズボンに手を掛け脱がせた。

「嫌だよ、止めてよ! お願い……止めてよ! 嫌だよ!」

 放課後前の教室。帰り支度をする者達もいれば、これから教室の掃除に取り掛かろうとする者達もいる。変わることの無い日常の最中に起こった予期せぬ事件。唐突に響き渡る輝の悲鳴に、皆が一斉に振り返った。手下達数名掛かりで押さえ付け、嫌がる輝のズボンを今まさに下し終えた卓の姿が目に入った。俺は目を疑った。一体、何をしようとしているのか理解出来なかった。

「嫌だよ! 止めてよ! 止めてってばっ!」

さらには下着まで脱がせようとしていた。顔を真っ赤にし、目に一杯の涙を称える姿。輝の悲痛な叫び声だけが渇いた教室に響き渡った。そんなことに一体何の意味があるのか? 泣き叫ぶ輝を見据える卓は鼻息荒く、酷く興奮していた。

「この変態が……!」

気が付くと、俺は掃除箱からホウキを取り出すと、その柄に全体重を掛け、卓を殴っていた。

「い、痛ってぇ……」

 驚き振り向いたところに、俺は全体重を篭めて顔面に拳をぶちかました。

「え?」

柔らかな頬肉に容赦無くめり込む拳の感触に身震いしていた。気持ちの悪い感触だ。

突然の出来事に、鼻から血を流しながら、卓はただただ狼狽していた。もう一発殴った。今度は顔面に真正面から。鼻骨が軋む不快な感触に再び鳥肌が立った。卓は体勢を崩して膝から落ちた。だから俺は卓に馬乗りになった。迷いは無かった。殺そうと思った。明確な殺意を持っていた。だから迷いは無い。後悔もしていない。



迂闊だった。やはり、迷いを棄て、完全にトドメをさしておくべきであった……。事態は唐突に変わった。俺の手から逃れた卓からの報復。過呼吸の松尾になんか気を取られている場合では無かった。一瞬の隙を突かれ形勢が逆転する。いきなり殴り飛ばされ、自分の身に何が起きたのか理解出来なかった。遅れて伝わって来るじんわりとした痛み。奥歯に肉が減り込む感覚。痛みよりも、痺れに近い感覚だった。目の前がチカチカする。

「こ、この、人殺しがっ! はぁ……はぁ……小太郎! 絶対に許さねぇぞ! ぶっ殺してやるっ!」

 立ち上がった拍子に太ももを伝って行く流れが目に留まった。ようやく失禁したことに気付いたのか、一瞬動揺した素振りを見せたが、すぐに凄まじい眼光で皆を睨み付ける。

クラスの連中は卓に睨み付けられて互いに顔を見合う。その様子を眺めると、満足そうにほくそ笑みながら卓は机の上にのぼった。ナントカと煙は高い所が好きと聞くが、本当にその通りということか。それにしてもヒドい顔だ。涙に鼻血に涎。ついでに失禁とはな……選挙演説でもするなら、もう少しマシな振る舞いをした方が良い。

「てめぇらに聞く! 悪いのは俺か? それとも小太郎か?」

答は判っていた。金持ちで権力者の息子。それは生まれながらの特権。つまり俺は生まれながらに敗北していた訳だ。松尾はこれ以上関わりたくないのか、そそくさと職員室へと逃げていった。戦線離脱という訳か。さすがは公務員の鏡だ。

「……臭い」

「なっ!?」

「汗臭い上に、小便臭い……息が詰まるな。ああ、臭い。臭い」

「だ、黙れっ!」

「此処は豚小屋か? 酷い悪臭だ。鼻が可笑しくなりそうだ」

「ぐ……ぐぐっ、てめぇ……絶対に許さねぇからなっ!」

後の展開は早かった。目の前に立ちはだかる恐怖というものは、元来バラバラであった生徒達をいとも容易く一致団結させた。正義も悪も関係ない。皆、自分が可愛いもの。だから、目の前に迫る恐怖に容易く動かされる。

判りやすい話だな。俺は「仮想敵」に仕立て上げられた訳だ。共通の敵が出来た瞬間、それまでバラバラだった奴らが驚くほどに一致団結する。以前、輝に貸して貰った「魔女狩り」の物語と一緒だ。自分がやっていることは間違えている。そのことは誰もが理解している。でも、そこで意を唱えれば、今度は自分が魔女に……「仮想敵」に仕立て上げられる。だから目の前にいる魔女を一斉に攻撃する。自分は「魔女の敵」としての存在なのだと皆に知らしめる。判っていないな……目の前の魔女が死んだら、次は自分が「魔女の敵」としての存在になるかも知れないとは考えたことも無いのだろうか?

「人殺し」と罵倒されながら、俺は屋上へと追いやられ、飛び降りることを要求された。あくまでも「自分の意思」ということらしい。殺人未遂に責任を感じた俺は自らの行いを悔いながら自殺する。三流小説の様なシナリオだ。クラス中の全員が一瞬にして敵になった瞬間だった。判っているさ……自らが傷付かずに済むならば、誰かの死などは安いものなのだろう。それに……一致団結して悪を討ち取る「快感」は手放し難い程に甘いものなのだろう? 人の不幸は蜜の味とは良く言ったものだ。自分が傷付くのは嫌だ。でも、正義の名の下に悪を裁くというノリは快感でしか無い。それは、とても簡単なこと。誰かを鬼に仕立て上げれば良い。鬼退治することをためらう奴なんか誰も居ない。正義を行使する。皆との一体感を味わえる。俺は正義の味方だ。悪いことをした奴に正義の裁きを下す……快感だろう? さぞかし皆、気分は高揚していたことだろう。勧善懲悪の世界観。もっとも無知なる単純二元理論。善が悪を退治するという判りやすい御伽噺。頭の悪いお前達にはお似合いだ。もっとも……鬼が存在しないならば、お前達は無理矢理にでも作り上げたのだろう。互いに監視し合い、少しでも可笑しな行動を起こせば、そいつが鬼だ。永遠に終わりは来ない。最期の一人になるまで永遠に繰り返されるだけだ。本当に頭の悪い奴らだ。

 俺は屋上へと向かわされた。無言で従う俺を見つめながら輝は動揺するばかりだった。俺と目が合うと、慌てて目を逸らしていた。良いんだ、お前はそれで……。

「小太郎、お前は鳥になるんだ」

 汚らしく鼻を鳴らしながら卓が叫ぶ。少しは動揺した顔をすることでも期待しているのだろう。判っている。だから俺は見下すようにほくそ笑みながら返してやった。

「……相変わらずくだらない考えしか出てこないな。ま、お前の頭はポンコツだから仕方が無いか」

「うるせぇっ! 人殺しの分際で口ごたえする気か!?」

「飼育小屋で飼い慣らされている家畜顔の分際で口ごたえする気か? ブヒブヒ鼻を鳴らすな」

「うぐぐぐぐ……っ!」

「言い返すだけの言葉も知らないのか? お前、臭いから近寄るな。ああ、臭い、臭い」

 言葉では勝ち目は無いと判ったのか、いきなり俺は蹴り飛ばされた。体勢を崩した俺の襟を乱暴に掴みながら、卓は屋上の扉を開いた。不意に広がる情景。どこまでも続く夕焼け空。碁盤状に駆け抜ける細い路地を歩く買い物帰りの親子が見えた。赤々と照らし出される家々の屋根瓦。遠く目をやれば赤々と萌え上がる東寺の五重塔に、赤々と萌え上がる京都タワーも良く見える。綺麗な夕日だ。

 そのまま襟を引っ張られながら、俺は屋上の端、フェンスの前に突き飛ばされた。腕組みしながら見下ろす卓。それから級友達。汚い物を見るかのように俺を見下す沢山の目。溜め息しか出てこなかった。「早くしろよ」と言いながら、卓は俺の腹を蹴り上げた。吐きそうになったが必死で堪えた。いっそ、目の前の豚野郎に吐瀉物をぶちまけてやれば良かったか? 惜しいことをした。ま、今となってはどうでも良いことだがな……。もはや痛みなど感じなかったし、感情も残されていなかった。恐怖心すら消え失せていた。極限状態の怒りに達した時、人という生き物は人であることを捨て去るものらしい。新発見だな。

「良いだろう。期待通りに振舞ってやる」

 だから俺は皆の期待に応えるべくフェンスを乗り越えた。夕焼け空に照らされた京都の町は、赤々と美しく萌え上がっていた。ふと足元をみやれば校庭を歩む生徒達の姿が見えた。何時もと変わらぬ下校風景。この光景も悲鳴に包まれるだろう。屋上から俺が飛び降りる。飛び散る肉片に、広がる血の海。腕も足も別れ別れになってしまうのだろうか? 見慣れた景色ともこれでお別れか。感覚が麻痺していたのだろう。不思議と怖さは無かった。本当に鳥になれるとでも思っていたのかも知れない。俺も馬鹿の仲間入りをしてしまったのだろうか? 馬鹿馬鹿しくて笑いが毀れる。不意にどこからか微かに漂ってくる線香の香り。良い香りだ。何の線香だろうか? 妙に落ち着いている自分が可笑しかった。死ぬ前に線香を手向けてくれるなんて、どこの誰かは知らんが気が利くでは無いか? ゆっくりとフェンスを乗り越え、今度は降りてゆく。手が震える。思わず真下を見た瞬間、立ち眩みを覚え、そのまま足を踏み外しそうになった。動揺していたのだろう。そのまま転落しても良かったが、それでは意味が無い。不慮の事故になんかさせない。お前達は皆、共犯者だ。俺を殺した殺人犯になるんだ。一生消えない重荷を背負い、残りの人生を後悔し続けながら生きるが良い。ざまぁみろ!

 異常な光景だった。皆、俺が飛び降りる瞬間を待ち望んでいるように見えた。そうか。言うなれば、これは、ちょっとした見世物なのだろう。テレビの中では無く現実の世界で人が飛び降りる。どうなるかなんて、判り切っていることだろう? 熟し過ぎた柿が落ちた映像が見られるだけだ。カチ割られたスイカの真っ赤な飛沫が飛び散る映像が見られるだけだ。道路脇に横たわる、車に跳ねられ、色とりどりの内臓が飛び出した野良猫と同じ映像が見られるだけだ。ぐしゃ。落下の衝撃で骨は砕け、関節は在り得ない方向に曲がる。頭が割れれば脳味噌が飛び散るだろう。血の海と、汚物を撒き散らした最期。そんな物が見たいのか? どこまでも悪趣味な奴らだ。どちらが鬼だか判ったものではない。

「卓、人殺しはお前だ。俺はお前に殺される……お前が死ぬまで恨んでやる。憎んでやる。永遠に消えることのない呪いになってやる。後悔したって、もう遅い!」

 俺は声を張り上げて笑った。怯えて、許しを請う様でも見たかったのだろう? 望み通りの振る舞いなどするものか。一生消えない傷になってやる。何時までも、何時までも、腐食した傷口に痛み続けろ。ゆっくりと壊死してゆく四肢に恐怖しながら泣き叫べ。永遠に許しを請い続けろ。俺は笑いながらお前達の手を握ってやろう……「絶対に許さない」と声を張り上げ、嘲笑いながらな?

 先刻まで盛り上がっていた生徒達に動揺が見られる。ついでに卓も動揺していた。俺の覚悟が本気だということにようやく気付いたのだろう。途中で泣いて、詫びを入れるとでも思っていたのだろう。馬鹿か? お前の貧困な想像力では、こんな展開は予想もしなかったのだろう? もう、遅い。お前は罪人だ。永遠に罪を償い続けろ。

俺は卓の眼差しをじっと睨み付けたまま、口元を歪ませて笑ってみせた。ようやく自らが置かれている状況を理解したのか、慌てて卓が声を張り上げる。

「て、てめぇら、取り乱すんじゃねぇよ! 俺達がやった訳じゃない! コイツが勝手に飛び降りるんだ!」

 結局、お前は一人では何も出来ない意気地なしだ。そうやって取り巻き立ちの後ろ盾が無ければ何も出来ないのだな。惨めだな。憐れだな。滑稽で、可笑しくて……途方も無く可哀想だな。お前に従う奴なんか、誰も居ないではないか? だから俺はさらに追い討ちを掛けてやった。

「声、震えているぞ?」

「だ、黙れ! 黙れっ! 黙れっ!」

 目を見開き、酷く動揺した声が空しく響き渡った。一致団結して盛り上がった次は、我が身の保身か。人殺しに加担した――なんて騒がれたら、これからの輝かしい未来に傷が付くことになるだろうからな。本当に人は救いようの無い生き物だ。無能なクセに無駄な所だけは打算的だ。

「も、もう、止めようよ! こんなの……こんなの……ううっ、わああああっ!」

 不意に泣き出す女子生徒の姿が見えた。残念だったな。

「今更いい子ぶるなよ。お前ら皆、地獄に叩き落してやるよ。ここにいる連中は、皆同罪だ。罪名は――殺人罪だ!」

殺人罪……俺の言葉に、ようやく現実を理解したのか皆一斉に、今更ながらに青褪めていた。だが、もう遅い。お前達は全員「人殺し」になるんだ。被害者になんかさせない。全員、加害者にしてやる。連帯責任だ。ざまぁみろ。

「こ、小太郎! あ、謝れば、許してやらないことも無いんだぜ?」

 引きつった様な笑いを浮かべながら、大きく手を広げる卓の姿。夕日に照らされて赤々と燃え上がって見えた。

怒りという感情は限界を超えると、こんなにも穏やかな気分になれるものらしい。道化のような振る舞いで、今更機嫌を取ろうなど笑止千万。

「……どう足掻いても、お前は人殺しだ。それじゃあ、せいぜい達者で暮らせよ」

 追い討ちを掛けるつもりで、俺は口元を大きく歪ませながら笑ってやった。

「そうだ。いいことを思い付いた……俺が死んだ時間に、お前達を一人ずつ道連れにしてやろう。せいぜい恐怖に怯えながら自分の番を待て。じゃあな」

 あの時……俺は怒りに我を忘れ、恐怖すらも忘れ、本気で地面を蹴り上げた。確かに、屋上から舞い上がった。地上五階。落ちれば即死だろう。痛みを感じる前に死んでいただろう。ぐしゃっという音を立てて、恐らく、手足はあり得ない方向に曲がり、血を撒き散らした肉塊となっていたのだろう。

「うわあーーっ!」

「いやああーーっ!」

「コターーっ! 嫌だよ、ぼくを独りにしないでよーーっ!」

 皆の悲鳴が聞こえたような気がする。それから……輝の悲痛な叫び声も。

地面に向って急速に落下しながら、俺は妙な映像を見ていた気がする。

 何時も一緒に過ごした輝の笑顔。親父と一緒に足腰を鍛えるために毎朝走った清水寺への参道。お袋に手を引かれながら買い物に出掛けた錦市場……。ああ、短い人生だったな。もっと……生きたかったな……。馬鹿だな、俺……飛び降りてから後悔しても遅いと言うのに……。

だが、不意に何者かに持ち上げられる感覚を覚えた。落下しようとする直前に、誰かに手を強く引っ張られた。いや、引き上げられたと言った方が適切であろう。

次に気が付いた時に俺は屋上に座り込んでいた。突然の出来事に、蜘蛛の子を散らしたように、皆一斉に逃げ去ってゆくのが見えた。一瞬、腰を抜かしたかのようにへたりこんだ輝の頬を涙が伝った。結局のところ、俺は死ぬことができなかったのか……。



 翌日の朝、言葉に出来ない想いを抱いたまま学校に向かった。微かに落ちる雨粒。どんよりと濁った鈍色の空。すれ違う級友達は誰も声を掛けてくれない。皆、ヒソヒソ何かを囁き合いながら過ぎ去るばかりだった。静かな嫌がらせ。空虚な心で歩き続けた。

 不意に足が止まる。信号が青になったのにも関わらず、どうしても足が動かない。変わりに足元に落ちる雫。涙? 俺は泣いているのか?

(意気地無し……)

そう。ほんの少しだけ勇気が足りなかっただけだ。鬼として生きていくだけの覚悟が無かった。ただそれだけのことだった。情け無い話だ。必死の覚悟は、どういう訳か「無かったこと」にされていた。だからこそ学校には行きたくなかった。行けばどんな目に遭うかは容易に想像ができた。輝のことを考えれば心配で仕方が無かった。だけど俺は勇気を持てなかった。死に損ないが今更どの面引っさげて皆の前に顔を出せば良い? 死を覚悟していた。確信していた。だから、あれだけの「勇気」が持てた。在り得ないほどに強気になっていた。今の自分は臆病者だ。死のうと覚悟したクセに死ねなかった。生きていることの有りがたみを実感している。馬鹿は俺か……。でも、実際の所、俺は昨日死んだ。死んだ人が皆の前に姿を現してはいけない。怖がらせてしまうから。いや……全部嘘だな。もう、これ以上傷付くのは嫌だから。痛みを知ってしまった。もう、どんなに小さな傷でも、のたうち回らずには居られない程に痛むだろう。怖かった。傷付くことが。だから逃げ出した。この場にいることが居た堪れなくなった。恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。昨日の「勇気」を、少しでも持てていたならば良かったのに。そんなことを考えていた。

気が付くと俺は走っていた。前も見ずに、ただ、ひたすら走り続けていた。息が切れても、人にぶつかっても、それでも走り続けた。走って、走って、とにかく走り続けた。

不意に響き渡る急ブレーキの音。何が起きたのか慌てて周囲を見渡す。

(赤信号?)

「馬鹿野郎っ! 死にてぇのかっ!」

 柄の悪そうななトラックの運転手が窓から身を乗り出す。ついでに顔を真っ赤にしながら、俺に罵声を浴びせた。

「……フン。偉そうに。俺をひき殺せば、お前は問答無用に犯罪者だ。殺人者だ。ざまぁみろ」

 多分、無表情だったと思う。台詞を棒読みするみたいな口調だった気がする。トラックの運転手は何かを言うかのように口をパクパクさせると、幽霊でも見たような顔で、慌てて逃げていった。周囲の連中がヒソヒソ声で何かを言っている声が聞こえる。

「俺は見世物じゃ無い。文句があるなら面と向って言えよ。オトナのクセに意気地無し共め」

(意気地無しは俺か……)

 赤信号を俺は平気で横切った。慌てて急ブレーキを踏む音が響き渡る。ヘタクソ共め。うまく跳ね飛ばせよ。苦しまないで済むように殺せよ。どうせ……俺なんか、生きていたって……。

逃げたかった……。現実から。どうして、昨日、あんなことをしてしまったのか? 今更になって後悔していた。馬鹿は俺自身じゃないか……。四条通の賑わいの中を、俺は一人寂しく歩き続けていた。

(見捨てれば良かったんだ……)

 そうさ。あの時、泣き喚く輝を寒々しい目で見下していれば、こんな想いはしなかったのかも知れない。もしかすると、一緒になって、面白がって輝に悪戯をしていたのかも知れない。

(違う! そんなの……俺じゃない!)

 綺麗ごと言うなよ。結局、一人が寂しくて仕方が無いくせに。臆病なんだ。弱虫なんだ。本当は、物凄く泣き虫なクセに、必死で泣くものかと強がっているだけの嘘吐きなんだ。

「俺は……何て嫌な奴なのだろう」

 その時であった。一瞬、視界が回転するような不思議な感覚を覚えた。神社の鈴緒を馬鹿みたいに振り回したような酷い音が響き渡る。無数の鈴が一斉に鳴り響くような振動が体中に伝わり、骨が粉々に砕け散る様な衝撃を感じていた。

「止めろ! 止めてくれ……ああ、ああっ! 止めろっーー!」

凄まじい衝撃に体中が引き裂かれそうな痛みを感じていた。不意に魂が抜けるような、眩暈の様な感覚を覚え、体中の力が抜けてゆく。堪えられなくなった俺は膝から崩れ落ちた。

「え?」

 ふと、周囲を見渡せば一面木々に包まれた光景に変わっていた。どこかの森の中。新緑の青々とした木々の香り。風が吹き抜ける。木々の葉が擦れ合い、さざ波の様な音色が響き渡る。ピチャン。不意に何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が響き渡る。その音色を待ち侘びたかの様に周囲の光景は目まぐるしく移り変わる。木々は緩やかに黄色や赤に移り変わる。ピチャン。何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が再び響き渡る。まだまだ変化は続く。やがてハラハラと舞い落ちる落ち葉。何時しか雪が舞い始める。冷たい雪。白い雪。舞い散る雪。涙の様に舞い落ちる冷たい雪。空から静かに舞い落ちる、ほたるの様な淡い色合いの雪……辺り一面、銀世界に変わっていた。ピチャン。何処かで雫が水溜りに落ちるような涼やかな音色が再び響き渡る。

(い、一体どうなっている? 狐か狸に化かされているのか?)

気が付いた時には鞍馬の街並みを歩んでいた。雨。梅雨の季節特有のまとわり着く様な蒸し暑さ。緩やかな坂道。湿気を孕んだ土と石の香りが漂う坂道。人気の無い古びた民家が佇む街並み。サラサラと川の流れる音と、繰り返される蝉の鳴き声だけが響き渡る。振り返れば木々に包まれた山の新緑が目に入った。山はただ静かに、意気地無しの俺を嘲笑うかの様に雄大な姿を誇示していた。俺に比べたらお前はなんと小さいのか? そう揶揄されている様な気がした。

何で鞍馬にいるのだろう? 考えてみたが判る訳も無い。何故俺は此処にいるのだろうか? 考えた瞬間、辺りは唐突な静けさに包まれた。何の音も聞こえなくなった。

「そっか。俺、本当に独りぼっちになっちゃったのか。そっか……独り、なんだな……」

哀しかった。もう、誰からも相手にされなくなったことが。生きていても、死んでいるのと変わらない事実が耐えられなかった。感情を棄て気丈に振舞えれば良かった。死人らしく、体温も感情も言葉も、何もかも失ってしまえば良かった。でも……皆の前でうっかり涙を流したら、もう、止められなくなってしまっただろう。

『ごめんね、ごめんね、ぼくの……ぼくのせいで、コタは!』

 赤々と燃え盛る炎の様な夕日の中、涙でぐしゃぐしゃになった輝の顔が脳裏を過ぎる。輝は俺と共に歩んでくれると言ってくれた。決して一人にはさせないと言った。人の去った屋上で、俺に力一杯抱き付きながら、輝は激しく嗚咽していた。恐らく無表情のまま俺は輝のさわり心地の良い髪を撫でていた。自分のせいで、俺が独りぼっちになったと思ったのだろう。一連の出来事のキッカケとなった以上、責任を取ろうというつもりなのだろう。確かに俺は輝を守りたかったし、だからこそ卓のことが許せなかった。見殺しにした連中も、あの無能教師松尾も、皆、皆、許せなかった!

 本当に誰もいないのだろうか? 本当に俺は孤立無援になってしまったのだろうか? 俺は唇をかみ締めながら道を歩んだ。ちっぽけなポストは雨に濡れて哀しそうに佇んでいた。そっと手を触れれば、雨に濡れたポストは酷く冷たかった。

(まるで死体だな……お前も俺と同じ、独りぼっちなんだな……)

佇む電柱の灰色と駆け抜ける電線が妙に寂しく思えた。古びた木造の家々が立ち並ぶ細い街道。人通りは無かった。雨は音も立てずにシトシト降り続けていた。誰もいない静かな街並みは懐かしさと……それから、途方も無い「優しさ」に満ちていた。雨音に混じる香り。それは何処かで感じたことのある香りだった。青々と茂る木々が放つ柔らかな香り。それから、雨に濡れた道路から漂う湿った土と石の香り。優しい香り。懐かしい香り。もしかしたら……昨日に戻れる。そんな哀しい希望に満ちた香り。

「帰っておいで?」

 優しい声が聞こえた気がした。

(駄目だ……止めてくれ……今、誰かに、優しくなんかされたら、俺は……俺は!)

不意に涙が一粒、零れ落ちた。ピチャン。涙が水溜りに落ちる涼やかな音色が響き渡った。

「どうして……」

 不意に雨足が強まる。アスファルトの道路に叩き付けながら響き渡る雨音。そっと空を見上げれば大粒の雨が一斉に降り注いだ。不意に俺の頬に雨粒が落ちた。そのまま静かに頬を伝う。これなら涙か雨粒か判らない。ザラザラと木々の葉を叩き付ける豪快な音が響き渡る。カンカンカンカン。雨音がトタン屋根を叩き付ける無機質な音が響き渡る。

歯が割れる程に食いしばっていた。力の限り握り締めた指の中で、掌に爪が突き刺さる。恐らく、血が滲んでいただろう。酷く染みる。雨に濡れた掌から赤い雫が零れ落ちる。それでもなお、歯を食いしばった。割れても良い。それでも良い。必死で抵抗したさ。抑えようとしたさ。だけど、もう、駄目だ。抑え切れなかった……。そっと掌を開く。恐る恐る開く……掌に浮かんだ小さな三日月形。じわじわと血が滲んでいた。雨に濡れた瞬間、驚くほど鮮烈な痛みを感じ、体中の毛穴が開く感覚を覚えた。昨日、あの瞬間には感じることの無かった酷い痛みだった。

 ああ、そっか。俺、生きているんだ。俺は生きている……生きているのだ。生きているのに……それなのに……!

「どうして俺だけが悪者にされなければいけないんだよ! どうして! どうして!」

 決壊したダムのように、涙が止まらなかった。慰めてくれる優しい木々の香りに包まれて、どうしようもなく、感情を抑えられなくなった。涙は止まらない。止め処なく溢れてくる。

見下すように嘲笑う卓の顔。申し訳無さそうに俺を見上げた輝の顔。何か汚らしい物を見るかのように俺を見ていた松尾。ああ、そうさ。松尾、俺は忘れない……去り際にお前が放った暴言。「面倒なことするんじゃねぇよ、このクズが……」。教育委員会に密告してやる。そうだな。ありもしない罪もついでに、でっちあげてくれる。確か幼い子供が居た筈だったな。不倫疑惑でも垂れ流してくれようか? 楽しみだな、お前の末路が。評判の悪いお前の未来、確実に破滅に陥れてくれる。

皆の顔が浮かんでは消えていった。ただ、悔しくて、悔しくて、悔しくて、堪らなかった。

「悪いのは俺じゃない。卓なのに! ちくしょう! ちくしょう! どうして! どうしてこんなことになるんだよっ!? ううっ……ううっ……うわあああああっ!」

 気が付くと、俺は雨で濡れたアスファルトを何度も、何度も殴り続けていた。痛かった……段々とアスファルトに赤い物が混じり始めた。多分、指の皮は剥けていたのだと思う。鋭い痛みが駆け抜ける。それでも俺は殴り続けていた。このまま、ぐちゃぐちゃの肉片になってしまえばいい。そう自分を呪いながら。

「ううっ……痛いよ……痛いよ……」

 止せば良いのに、俺は自分の手を見てしまった。

「ひ、ひぃっ!」

 酷く傷だらけになっていた。ベロンと剥けた皮。抉れた肉の隙間から湧き水の様に滲む血。足元に赤い染みが広がる。死にたいと願っていたのに、こんなにも痛いとは思わなかった。ほんの少し、ほんの少しだけ、指先が抉れただけだと言うのに、皮がめくれただけだと言うのに。こんなちっぽけな傷なのに堪えられない程に痛んだ。一体、死ぬというのは、どれ程までに痛いことなのだろうか? そうさ……小さな、小さな、針の先程のささくれを剥き過ぎただけでも声が漏れる程の痛みを感じるというのに……渇いた唇の皮を、羽蟻の羽程の皮を剥き過ぎただけでも体中の毛穴が開く程に痛みを感じるというのに……死とは、どれ程の痛みなのだろうか? 血に塗れた拳。屋上から見渡した妙に眺めの良かった景色。勢いに身を任せて飛び降りたこと。一気に迫ってくる地面。死の恐怖。考えれば考えるほどに、恐ろしくて、恐ろしくて、恐怖に耐えられなくなっていた。

「う……ううっ……うわあああーーーっ!」

人は身勝手な生き物だ。皆、卓のことを憎んでいた。だが、自らが手を汚す立場には立とうとしない。自らに火の粉が降り掛かることは何としてでも避けようとする。そのくせ誰かが、その「調和」を乱そうとすると一斉に排斥行動に移る。米粒ほどの幸せのためならば、自分以外の誰かが死ぬことなどどうでも良くなる。それが人という生き物なのだと理解した。

「みんな、みんな卑怯だ! 自分を守るためならば、平気で人を見殺しに出来るのか!?」

もう、誰も俺の声に耳を貸そうとはしないだろう。今や、俺は卓以上に憎まれているのだから。

俺は愚かだった。皆から一斉に、憎しみの目を向けられることの辛さを知らなかった……。知っていたら、きっとためらっただろう。輝が陵辱されている光景と、自分自身の保身を天秤に掛けてしまっただろう。俺も卑怯者だ……どうしようも無い程に卑怯者だ。

『人殺しの小太郎は、死ね!』

『死ね! 死ね! 死ね!』

『みんな良く見ておけよ。小太郎が鳥になって、大空に羽ばたく瞬間を!』

『早く飛び降りろよ、この人殺しっ!』

『ははははは! おい、いいザマだな? 早く死ねよ。もう、お前の居る場所なんか無いんだからよ!』

『面倒なことするんじゃねぇよ、このクズが……』

『コターーっ! 嫌だよ、ぼくを独りにしないでよーーっ!』

 死を求めるシュプレヒコールを背に受けた夕焼け空。本気で死ぬつもりだったのに、生き延びてしまった事実が、途方も無く憐れに思えて、涙が止まらなかった。

判っていた。誰も泣いてくれないなら、せめて……俺だけでも、俺のために泣きたかった。悔しくて、悔しくて仕方が無かった。悔しさは、すぐに憎しみに変わった。殺意に変わった。殺したくて仕方が無かった。卓を、この手で殺さない限り、憎しみの炎が消えることは無いのだろう。

「ちくしょうーーっ! 卓、何時かお前を絶対に殺してやる! 殺す! 殺す! 殺す! 絶対に殺してやるーーっ!」

 不意にすぐ後ろから、カラスが鳴く声が聞こえた。

「ひっ!?」

一気に現実に引き戻された。静寂の最中に響き渡ったカラスの声は予想以上に大きく、思わず腰を抜かしそうになってしまった。慌てて振り返れば、ポストに佇む大きなカラスは鋭い眼差しでこちらを見つめている。あまりにも大きな声で叫んだから、驚かせてしまったのだろうか? カラスはただ静かに俺を見つめていた。深く、澄んだ瞳。全てを見透かされそうな瞳であった。

 ふと、鞍馬の地に伝わる伝承が頭を過ぎる。カラス天狗……鞍馬山に棲むとされている異形なる存在。大きな翼を背に生やし、数多の術を使いこなす者達。牛若丸に剣術を指南したとされる山に棲む者達。

ああ、天狗だろうが、物の怪だろうが、妖怪変化だろうが、化け物だろうが、この際誰でもいい! 人で無くても、異形なる存在でも、俺の傍にいてくれるならば、誰だっていいさ! もう、一人は耐えられない! 孤独は辛すぎる! 寂しいんだよ! 哀しいんだよ! 寒くて、悔しくて、痛くて、切なくて……耐えられないんだよ……。頼むよ、俺に一言、言ってくれよ。お前は生きていても良いんだよって!

 心の中で叫んだ。ありったけの力を篭めて叫んだ。

「ならば、共に歩むか?」

「え?」

それは突然の出来事であった。不意に周囲が一気に静まり返った。雨粒が木々の葉を揺らす音も、トタン屋根を叩く音も。雨の音も、風が木々の葉を揺らす音も、川が流れる音も、ありとあらゆる音が消え失せた。雨はなおも激しく降り続けている。音がしない訳が無い。それに今しがた耳元で聞こえた声は、一体誰の声なのだ?

唐突に現実に引き戻され、背筋に冷たい物が走る。見えない存在への恐怖。俺の恐怖心に呼応するかのように立ち込める霧。一体何が起きたのか理解出来なかった。見慣れた景色のはずなのに、まるで違う景色に思えた。霧は急速に深まる。もはや一寸先さえ見えない。白一色の世界となっていた。

何時の間にかカラスは姿を消していた。代わりに背後に人の気配を感じる。俺は恐ろしくて振り返ることが出来なかった。確かに何者かが後ろに佇んでいる。

「お主、独りぼっちなのか?」

 体中の毛穴が開いた気がした。頭から氷水を浴びせ掛けられたかのような感覚を覚えた。

「お主、名は何と申すか?」

 聞き慣れない古風な口調で喋る何者かが背後にいる。だが不思議と恐怖は無かった。得体の知れない何者かが俺に興味を示している様子が伝わって来る。可笑しな気分だった。恐怖心よりも、好奇心が勝ろうとしていた。

聞いたことがある。名前とは最も短き呪いの言葉と。相手を特定出来るもの。だから名を知ることが出来れば、あらゆる呪いは成り立つとさえ聞いたことがある。ならば答えてみようでは無いか。どうせ、一度は棄てた命。楽に死ねるならば、それも悪くない。

「お、俺の名は小太郎だ……お、お前は何者だ?」

「ふむ。お主の名は小太郎か。フフ、そう怖がるで無い。我はお主を食ったりはせぬ」

 可笑しそうにケラケラ笑う声に、何だか拍子抜けしていた。不思議と心が揺らぐ感覚を覚えていた。確かに得体の知れない相手に恐怖心を覚えてはいたが、それ以上に好奇心の方が勝っていた。この声の主は、恐らく……人ならざる存在なのだろう。それでも良かった。今はただ温もりが欲しかった。孤独には耐えられそうも無かったのだから。

 俺は振り返った。濃い霧に包まれて、はっきりと姿は確認できなかったが、確かに何者かの存在はあった。そいつは静かに手を差し出した。思わず反射的に俺は手を握り返した。とても温かな手だった。

「良しなに頼むぞ、小太郎よ」

「ああ。お前、名前は?」

「我か? 我の名は――だ。」

 不思議な存在だった。握り合った手の感触は確かに残っていた。だが、どうしても思い出すことの出来ない、その声、その姿。そして……その名も。どうしてなのだろうか?

「お主は自分の起こした行動を悔やんでおるのか?」

「そ……そうかも知れない」

「小太郎よ、お主は因果応報という言葉を知っておるか? 善き行いには善き結果が訪れる。だが、悪しき行いには悪しき結果しか訪れぬ。案ずるな。あの者には、ろくな顛末は訪れやせぬ」

 本当に不思議な少年だった。俺は心の中を見透かされて、少し恥ずかしい気持ちになった。何だか、この少年には全てを見透かされそうな気がした。でも、不思議と嫌な気分では無かった。人の心を見透かすなんて普通の人には真似のできない芸当の持ち主なのだから。

 戸惑う俺を見ながら、そいつは腕組みしながら微笑んでいた。

「小太郎よ。お主、大原の地は好きか? 我の遊び場所よ」

 大原……一面に広がる水田の光景。段々畑の様相を呈する水田の光景。古めかしい民家の立ち並ぶ、心安らぐ田舎の風景。ノスタルジックな大原小中学校を後にして歩んだ先に佇む寂光院。幼い頃に何度も両親に連れて行って貰った場所。川の流れる音。山に囲まれた水田。瑞々しい木々の香りが満ちる場所。風が吹けば稲の葉がサラサラと波の様な音色を奏でてくれる。懐かしい山里。心を落ち着かせてくれる場所……この少年とは気が合いそうだ。好きな場所が一致するというのは、何だか秘密を分かち合えたような感じで心地良く思えた。

不意に、少年が俺の腕を掴む。

「では、参ろうぞ」

「え? え? ちょ、ちょっと……」

「憎しみの心はお主の身を蝕むだけで、何の救いにもならぬ。案ずるな。心が荒れ狂うならば、沈めてやれば良い。共に行こうぞ、大原の地へ」

「ま、待てって……」

「不安に思うことなぞ何も無い。さぁ、我と共に木々に抱かれ、哀しみに満ちた心を癒してやるが良かろう」

 動揺する俺を後目に、少年は軽やかに地面を蹴ると一気に舞い上がった。

 衝撃的な光景だった。鳥という生き物は、日々こういう視点で街並みを見下ろしているのかと実感していた。遠ざかってゆく鞍馬の街並み。ゆっくりと体が浮かび上がってゆく感覚を覚えていた。

「そ、空を飛んでいる!?」

「ほれ、しっかりと掴まっておれ。この高さから落ちれば命は無いぞ?」

 本当に不思議な少年だった。そう、その姿も、声も、名も思い出せなかったが……少年からは木の香りがした。寺に漂う、厳かな線香のような香りだった。気高さと温かさを称えた良い香り……後に、この香りの正体を知ることになる。白檀の香り……俺と、この不思議な少年を繋ぎ止める香り。だから忘れないように必死に記憶に留めた。せめて匂いだけでも手掛かりにしたかったから……忘れないさ。出会いの地は鞍馬。共に歩んだのは大原の地。そして、三千院へと向かう途中の『展望台』と地元の人々が呼ぶ場所に佇み、遠くを見ていた時に投げ掛けてくれた言葉。サラサラと波の様な音色を奏でる稲の葉を見つめながら呟いた言葉。

『我とトモダチになってくれぬか?』

『俺と……トモダチになってくれるのか?』

 ああ、俺とお前はトモダチだ……ずっと、ずっと、トモダチでいてくれよな?



 何時の間に眠ってしまったのだろうか? 随分と遠い過去の情景を夢に見ていた気がする。寝汗が酷い。暑さで相当汗を掻いた様子だ。おかげで喉がカラカラだ。ついでに肌に張り付くシャツの感覚の不快さに身震いさせられる。

俺は起き上がり、枕元に置かれた時計を手に取った。もう夕方だ。随分と長い時間眠っていたらしい。窓に叩き付ける雨音が空虚な部屋に響き渡る。昼前にはシトシトと降っていた雨は、何時の間にか大荒れの様相を呈していた。風も出てきたのか、窓がガタガタと鳴る。梅雨の終わりを告げるかのような激しい大雨。土砂降り。京都市内全域に出された大雨洪水暴風雷警報。随分と豪勢な警報が出されたものだ。今頃は鴨川も相当に荒れている頃だろう。昼過ぎに俺達、全校生徒を帰宅させた学校の判断は中々に懸命であった。窓に叩き付ける雨音が激しく響き渡る。

「それにしても、酷い雨だな……」

 思わず窓から外を覗けば既に道路は水浸しで、川の流れを思わせる様相を呈していた。雨樋はどこかが壊れているらしく、毀れ落ちる雨音が屋根を打ち鳴らす規則正しい音色が響き渡る。強い風。叩き付ける雨。遠くの方で雷が唸る音まで聞こえてくる。やれやれ……梅雨の終わりにしては、随分と派手な宴だ。

 不意に首筋に妙な寒気を感じた。おかしな話だ。もうじき梅雨明けだというのに、真冬のような冷気を感じていた。

(隙間風? いや、仮に隙間風でも妙だ……)

 嫌な感覚だ。取り敢えず明かりをつけよう。薄暗い部屋だからこそ不気味さを感じるのかも知れない。俺は明かりの紐を引いた。だが、明かりはつかない。

(何だ? 電球が切れたのか?)

 何度引いても反応は無い。試しに廊下にある電灯のスイッチを押してみた。階段を照らす電灯もつかない。停電? それとも、ブレーカーが落ちているのか?

(これだけの荒れ模様ならば、停電が起きても不思議では無いな)

再び部屋に戻ろうとした俺の頬を、何かがふわりと掠めていった。ひんやりとした青白い光を放つ物。慌てて振り返れば、先ほどまでは居るはずの無かった青白いほたるが部屋を舞っている。

(こいつら、どこから入ったんだ!?)

 冷たい光を放ちながら舞うほたる……ほたる?

(違う!……ほたるは、こんな青白い光を放たない!)

では、一体、これは何なのか? ますます異様な冷気を感じる。得体の知れない存在への恐怖で鼓動が高鳴る。何故か首を絞められているかのような息苦しさを覚えていた。

 不意に何処からか奇妙な歌声が聞こえてくる。あまりにも微かな声で、何を言っているのか聞き取れなかったが、段々と近付いているように思えた。それに呼応するかのように声も大きくなり、何を言っているかが聞き取れるようになっていた。無数の男女の歌声。子供の声から、老人の声まで様々な声が混じっている。何とも言えない不気味な歌声であった。

『とおりゃんせ とおりゃんせ……ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ……』

 とおりゃんせ。聞こえてきた唄はとおりゃんせであった。気味の悪い旋律が響き渡る。

『ちっと通して 下しゃんせ……御用のないもの 通しゃせぬ……』

先刻まで灯ることの無かった部屋の電灯が静かに明滅する。やがて消え往く灯火のように静かに潰えた。夕暮れ時の薄暗い部屋。響き渡るとおりゃんせの歌声。何時の間にか俺の周囲にもひんやりとした光を放つ無数のほたるが舞っていた。まるで俺を取り囲むかのように。

(い、一体何が起きている!?)

『この子の七つの お祝いに……お札を納めに 参ります』

 地の底から響き渡るような歌声だった。抑揚の無い歌声ではあったが押し寄せる波の様な憎悪が感じられた。背筋に冷たい物が走る。歌声は確実にこちらに近付いている。

何かの気配を感じ、慌てて窓に駆け寄る。家を包み込むような異様な気配を感じていた。窓の外に俺は信じられない物を見た。次々と家に向かうように列を成して歩む者達……妙に古めかしい装いの者達がゆっくりと歩み寄ってくる。どう考えても今の時代の人々の服装では無かった。それに何故、彼らは裸足なのだ? 肌の色も可笑しい……青みを帯びた灰色の肌の人々。

(……生きている人では無い?)

皆口々にとおりゃんせを唄いながら近寄ってくる。あまりにも異様な光景に、俺は声を出すことも、逃げ出すことも出来なかった。普通では無い……この土砂降りの中、とおりゃんせを唄いながら裸足で歩む者達。部屋を舞う無数のほたる。一体何がどうなっているのか理解不能だった。不意に一際強い風が吹き、窓がカタカタと鳴った瞬間……奴等が一斉に顔を挙げた。

『行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ!』

「なっ!?」

 般若の能面であった。皆同じ顔をしていた。異様な光景であった。般若の能面をつけた者達。生きている人では無かった。青白い灰色の体……とても、生きている人には見えなかった。能面の者達は叩き付ける様な土砂降りの中で、とおりゃんせを唄っていた。地の底から響き渡るような、深く、暗く、冷たい憎悪に満ちた声で。

 あまりの恐怖で身動きも取れなかった。口の中が異様に渇く不快な感覚。心臓が痛くなる程に、脈拍が上がっている。異様な光景。雨足が一層強まる。現実の中に唐突に現れた非現実。般若の能面を被った者達は、微動だにせずに唄い続けている。相変わらず抑揚の無い声で。隙間風のような冷たい風がどこからか吹き込んでくる。窓は完全に閉まっているはずなのに。それに、窓に叩き付ける程に激しく降る雨の中、とおりゃんせの歌声だけが鮮明に聞こえる。在り得ない事だ。

 恐怖のあまりなのか、一瞬、視界が揺らぐ感覚を覚えた。不意に身を震わす程の振動を感じ取った。水気を孕んだ冷たい空気が頬を撫でる。

(雨音? いや……雨音は、こんな轟音では無い)

 滝であった。四方を滝に囲まれた見覚えの無い本堂。鮮やかな赤と金色に彩られた色彩鮮やかな寺院。細かな意匠の凝らされた天井には大きな曼荼羅が描かれていた。揺らめく蝋燭の灯火の中、荘厳なる黄金の大日如来像が静かに佇む。天井まで届かんばかりの大きな像であった。唐突に蝋燭の炎が激しく燃え上がり、大日如来像が煌々と浮かび上がる。静寂に包まれた寺院には滝が流れ落ちる轟音だけが響き渡る。水気を孕んだ涼やかな風が吹けば、周囲に飾り付けられた鈴が様々な音色を奏でる。一体、ここは何処なのか? 見知らぬ場所であった。いや、この世に存在している場所なのであろうか? あまりにも幻想的過ぎる情景に戸惑いを隠し切れなかった。再び風が吹けば、一斉に鈴が鳴り響く。

不意に耳元で人の息遣いが聞こえた気がした。いや、気のせいでは無かった。数え切れない程の殺気に満ちた視線を感じ、慌てて振り返った。気が付けば、既に能面の者達に囲まれていた。

「ひっ!」

驚きのあまり尻餅をついていた。目の前には無数の般若の面。青白い人々が一斉に俺の顔を覗き込んでいたのだから。吐く息も白くなる程の凍て付いた冷気を放つ者達。やがて、ゆっくりと彼らは離れると、入れ替わる様に青い僧衣に身を包んだ者が煙の様に浮かび上がった。唐突に現れた青い僧衣に身を包んだ者が静かに口を開く。不思議なことに顔は暗闇に包まれたように、何も見えなかった。虚空の闇。奈落の底。深い、深い深淵を見た気がした。知ろうなどと思ってはいけない。青い僧衣に身を包んだ者がほくそ笑むのが見えた気がしたから。

『……ようやく見つけたぞ、罪人よ』

 耳元で囁く声が聞こえる。見下す様な、嘲笑するかの様な、不愉快な含みを帯びた声。

『自らが犯した罪から目を背け、逃げ続けた者……だが、我が目に留まった以上は逃しやせぬ』

 声を押し殺すように笑っていた。表情が見えないのに、凍り付くような殺気を感じていた。一体、この青い僧衣に身を包んだ者は何者なのだろうか? 動揺する俺に構うこと無く、青い僧衣に身を包んだ者はゆらゆらと蜃気楼の様に佇んでいた。

『さぁ、忌まわしき過去との邂逅の時よ……』

 そっと伸ばされた大きな手。俺の頬を撫でる濡れた手は氷の様に冷たかった。

「あ……ああ……!」

 駄目だ……止めろ!

封印したはずの記憶が蘇る。

あれは梅雨の終わり。漆黒の闇夜のこと。叩き付ける様な雨の貴船神社は奥の院……酷く不細工な藁人形を片手に、ご神木に必死で釘を打ち込んだ記憶。死ね、死ね、死ね! 願いを篭めて釘を打ち込んだ記憶。非力な子供に過ぎなかった自分には、他に思い付く手段なんて無かった。ただ、恨みを晴らしたかった。自分の手で殺せないならば、誰かの力を借りてでも良かった。ただ、ただ、卓に復讐してやりたかった。その一心で俺は雨に濡れながら一心不乱に釘を打ち続けた。

「死ねっ……死ねっ! お前は……苦しんで、のた打ち回って、精一杯の後悔をしながら死ぬんだ! 泣いても、喚いても、絶対に許さないっ!」

 酷く降り頻る雨に髪も、服も、何もかもが濡れながら、俺は自分の惨めさを憎んでいた。いや、それもこれも、何もかもは卓のせいだ。こんなにも惨めで、辛く、苦しく、哀しい想いをさせられたのは、全部、全て、卓のせいだ。

「死ねっ……死ねっ!……死ねーーーっ!」

 判っていた。そんなことをしても、何の救いにもならないことも。後ろ向き過ぎる考えの果てに、希望の道が切り拓かれること等在り得ないこと位、馬鹿な俺でも十二分に理解はしていた。一体、俺は何をしているのだろうか? 惨めで、情けなくて、途方も無い絶望に包まれていた。

あいつのせいで俺は引き篭もりになった。家から出られなくなった……学校に行くことの恐怖心に襲われて、部屋から出ると真冬の様な冷気に体中を切り刻まれるような感覚を覚えずにいられなかった。どうにか足を踏み出そうとすると、突然、足元が消える。あの日、あの時、目の当たりにした光景……屋上から飛び降りる瞬間に見た光景が蘇る。転落する!

「うわあああーーっ! 嫌だっ! 俺は……俺は死にたく無いっ!」

馬鹿だと思う。一体どうやったら、家の廊下から奈落の底に転落することが出来るというのか? だが、頭では判っていても体が付いて来なかった。その度に、俺はひたすら取り乱し、時に発狂し、時に泣き喚きながら、頭を柱に叩き付け続けたこともあった。その結果、酷く割れた傷口から血が流れ出し、廊下が血の海に成り掛けたこともあった……。

「そっか。俺はポンコツになってしまったのか。じゃあ、仕方ないよな」

悔しくて、悔しくて仕方が無かった。我に返って俺は泣いた。声が枯れるまで泣いた。惨め過ぎる自分が哀しくて、ただ途方もなく哀しくて。

そんな俺を気遣い、輝は何時も俺の傍にいてくれた。人形の様に感情を失った俺を、輝は必死に元気付けようとしてくれた。輝は不器用なりに色々な本を読み漁り、あるいは様々なうわさ話をかき集めては、面白おかしく俺に聞かせてくれた。嬉しかった……同時に、途方も無く惨めな自分が許せなかった。

「全部、あいつのせいだ……何故、俺がこんな目に遭っているのにあいつは生きている? 不公平じゃないか……因果応報だろう? 罪は償わなければならないだろう?」

俺はありったけの憎悪を織り込むように、釘を打ち続けた。異様な姿だったと思う。一心に釘を打ち続けた姿は。思い出したくも無い光景だった。

「苦しめっ! 苦しめっ! 今際の瞬間まで、俺に謝りつづけろっ! あははははは! あーっはっはっはっはっは!」

だが卓は死ななかった。代わりに松尾が死んだ。学校の屋上から飛び降りて死んだ。ある雨の降る晩のこと。梅雨の終わりの妙に生暖かい夜のこと。それは酷く雨が降った夜。『私は鳥になる』と、意味不明な書き置きだけを残して、松尾が死んだ。

(お、俺は……)

『あなたが殺したのよ……ねぇ、判る? あたしは駄目な教師だったかも知れないけれど、これでも母親だったのよ? 幼い子供を残して逝くことの意味、あなたに判る? ねぇ、死ぬって……とても痛いのよ。とても、とても痛くて、痛くて、苦しくて、冷たくて……バラバラになっていく感じなのよ。ねぇ、判る? 想像もつかないでしょう?』

 耳元で聞こえる声には覚えがあった……松尾の声だった。間違える訳が無い。

 気が付けば俺は夕焼け空に萌え上がった小学校の校庭に佇んでいた。嫌だ、見たくない! 必死で目を閉じようとするが、俺の意思とは裏腹に目は閉じられなかった。ついでに首がゆっくりと足元へと向けられる。

「あ……ああっ!」

 俺の足元に横たわる松尾の死体。松尾は長い髪をだらしなく垂らしながら横たわっていた。あの日と同じ燃え上がるような夕焼け空の下。足元には血が付着し、割れた眼鏡。あざとく開かれた口元は不敵に歪みながら赤い血を垂れ流していた。血に塗れ汚らしく張り付いた髪。焦点の定まらぬ瞳はあらぬ虚空を射抜いている。割れた爪。飛び散った靴。あらぬ方向に曲がった四肢。じわじわと血溜りが広がる。空気が漏れるような音を発しながら松尾はほくそ笑んでいた。俺をじっと見上げながら不快な声で笑っていた。血の匂いに混じって酷い悪臭が漂う。潰れた臓器からあふれ出す汚物の異臭なのだろうか? 胃の中の物をぶちまけそうになる程に酷い匂いだった。夏の暑さの中で腐敗し切った生ゴミよりも遥かに酷い匂い。死臭というのはこういう物を示すのか? そこには生ある者が腐り往く匂いが立ち込めていた。

『ふふ……うふふふふ……ねぇ、良く見なさい? 死ぬってね……こういうことなの。良く見なさい? あなたがやったのよ? あなたが私を、こんなにしてしまったのよ? もう戻れないの。どうしてくれるのかしら? うふふふふ』

 無数のほたるたちがジリジリと迫ってくる。体の自由が奪われてゆく。痺れるような鋭い冷気に包まれ、ゆっくりと意識が遠退いてゆくのを感じていた。手足の指先がチリチリと痛みながら凍えてゆくのを感じていた。死ぬというのはこういう感覚なのだろうか? ゆっくりと意識が遠退く。その時だった。想像を絶する光景を目の当たりにした。松尾がゆっくりと立ち上がるのが見えた。あらぬ方向に曲がった足は酷く痙攣しながら、辛うじて支えているように見えた。不気味に笑いながら立ち上がると、突然俺の首を絞めた。細く、冷たい指が首に食い込む。

『お前は私のことを忘れたのか?』

(だ、誰だ、コイツは!?)

 松尾だと思っていたモノは、何時の間にか姿を変えていた。般若の面をつけし者。血の様に真っ赤な衣に身を包んだ姿。氷の様に冷たい指が俺の首に食い込む。

『私はお前の願いを叶えてやったのに……お前は私と同じ孤立無援の存在なのに……共に温め合えると思うておったのに、何故、お前は私のことを覚えてすらいない!?』

 真っ赤な衣に、美しい白い指。女だと思っていたが、その声は明らかに男の声であった。

(な、何を言っているのか、サッパリだ……)

『私はお前の願いを叶えてやったのに……同じ境遇に置かれ、同じように心を痛めた者……ずっと探し続けていた。私の心に共感してくれる存在を……さぁ、こちらに来るが良い。独りは寒かろう? お前も私と同じ、孤立無援の道を歩む者。寂しかろう? 寒かろう? さぁ、私と共に温め合おうでは無いか? どこまでも一緒に生きようでは無いか?』

 怒りに震えた声が聞こえた。俺の首に食い込む指に、さらに凄まじい力が篭められる。首を圧し折る程の力を感じていた。

(は、離せっ! この……化け物が!)

『化け物だと?……お前も私を化け物と呼ぶか!? ああ……お前も私を拒むのか……どうして? どうして私を拒む!? いや……そうか。お前は強がっているのだな? そうか。案ずるな……苦しむことなく、楽にしてやろう。少々痛むかも知れぬが、すぐに楽になる……さぁ、私と共に逝こう! 永遠に終わることの無い宵の極楽へ! お前も私と同じ、情鬼になるのだ!』

(い、息ができないっ!)

 般若の面をつけし者に首を締め付けられ、俺は声も出せなくなっていた。次第に手の指先が痺れ始めていた。苦しみは次第に快楽に変わり始めた。ああ……ようやく、楽になれるのだろうか? ふと空を見上げれば、神々しい彩雲が見えた。丁度、夕立の後に雲間から覗く光のように思えた。不意に般若の面をつけし者の背後に、青い僧衣に身を包んだ者が蜃気楼の如くゆらりと浮かび上がる。

『さぁ、憎悪の能面師よ……この者に宿る情鬼を呼び覚ませ! 我らが願いを成就するために!』

『そうはさせぬ!』

その時であった。確かに誰かの声が聞こえた。般若の面をつけた者とも、青い僧衣の者とも違う声だった。聞き覚えのある声……その声の主に救われたらしい。不意に、玄関の戸が開く音が聞こえたと思った瞬間、玄関先から間延びした声が聞こえてくる。唐突に糸が切れたかの様に、俺は床に崩れ落ちた。

「ああ、じゃじゃ降りやわ。あら? 小太郎、よう帰っとるん?」

 それは母の声だった。買い物から帰ってきたのだろうか? 一瞬途切れた緊迫感。慌てて窓の外に目をやれば、既に般若の能面を被った者達の姿は無かった。体の自由も戻っていた。見慣れた部屋の光景が広がる。

(い、今のは一体、何だったんだ!?)

一体何が起きたのか、全く理解できなかった。夢の続きとは、とても思えない光景であった。

 呼吸が苦しい。息をするという、当たり前の行為がこんなにも大変なのだろうか。鼓動が酷い。口がカラカラに渇いている。対照的に背中は嫌な汗でべっとりしていた。首に酷い痛みを感じ、鏡を覗き込んだ俺は息を呑んだ。

(ゆ、夢では無い!?)

 首にくっきりと刻まれた真っ赤な指の跡が残されていた。母が階段を上がってくる声が聞こえる。説明のつかない事態だ。俺は咄嗟にタオルを首に巻いた。

「いやいや、外はえらいこっちゃ。こない天気やさかい、学校もはよ終わったん?」

 母はいつもと変わらぬマイペースな振る舞いを見せる。タオルで髪を拭きながら微笑んだ。

わざとらしく、髪を拭く素振りを見せながら「ああ……」と応えた。

「どないしはったの? なんや、顔色悪いわ」

「な、何でも無い……」

「あら、そう? そうそう。出町ふたばの豆餅買うてきたから、良かったらおあがりやす」

 上機嫌に笑いながら母は階段を下りていった。俺は思わずベッドにへたり込んでいた。

 何が何だかサッパリ意味が判らなかった。さっき見た物は一体何だったのだろうか? 般若の面をつけた赤い着物の男に、青い僧衣の男……それから、確かに聞こえた、あの声の主。一体何者だったのだろうか? それにあの光景一体何だったのだ? 松尾の最期の光景? 理解不能だ。松尾の死体を見られる訳が無いのだ。飛び降り自殺したことを知ったのも、松尾の自殺から一ヶ月以上経ってからなのだから。

目に焼きついて離れない程に衝撃的な光景であった。飛び降り自殺の末路……あり得ない方向に曲がった四肢。あざとく開かれた口。虚空を射抜く瞳。ほくそ笑む声。つまりは――死体。血生臭さと、潰れた臓物が放つ悪臭を思い出すと、何かが込み上げてきた。

(もしも……あの日、あの時……屋上から転落していたら、死んだのは松尾ではなく、俺だったということか……それじゃあ、俺も……あんな最期を?)

 飛び降り自殺の末路……あり得ない方向に曲がった四肢。地面に横たわり、あざとく口を開き、虚空を射抜く瞳を称えた俺自身の姿を思い描いた瞬間、恐怖と絶望と、とにかく言葉に出来ない想いが一気に逆流してきて、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。吐いた。とにかく吐き続けた。胃の中の、ありったけの内容物を吐き続けた。

「はぁ……はぁ……お、俺は……死にたくない。嫌だ……死にたくない!」

言葉に出来ない不可解な体験。俺の死を思い起こさせる不吉過ぎる出来事。これが全ての始まりだった……。全ての始まりは、梅雨の終わりを告げる激しい雨。変わることの無い日常が死に絶え、変わりに非日常が、その禍々しい産声をあげようとしていたのだ。

結局、この日は食事もろくに喉を通らず、さっさと眠りについた。相変わらず雨は激しく降り続け、俺の耳からはとおりゃんせの歌声が離れることはなかった。実に不快な夜だった……。朝、目覚めた時には、部屋の中には無数のほたるの死骸が散らばっていた……。



 前夜の激しい雨が嘘であったかの如き晴れ渡る空。強い日差しに照らされた朝。気持ちも晴れやかになりそうな天気ではあったが、不思議と心は締め付けられるような感覚で満たされていた。昨日の不可解な出来事が、今朝の不可解な出来事が、俺の心に深い影を落としているように思えてならなかった。今朝も食事を取るどころか逃げるように家から飛び出したのだから……。カラカラになった無数のほたるの死骸は部屋中にバラ撒かれていた。素足でほたるの死骸を踏み付ける乾いた感触に、踏み付けた際に飛び出した体液の湿っぽい感触に、体中の毛が逆立つ気がした。吐かなかったことが奇跡だ……。いや、そもそも胃の中には水しか残っていなかっただろう。

(そもそも、あの「生き物」はほたるだったのだろうか? 見た目が大分違うような気がしたが……)

 とにかく忘れよう。理解出来ないが、理解したいとも思えない。一刻も早く忘れ去りたかった。

それにしても今日は暑い。じっとしていても汗が滲み出てくるような暑さだ。ジリジリと照り付ける日差しは容赦なく肌を焦がす。空を見上げれば強い日差しに目が眩む。噴出す額の汗を乱暴に腕で拭いながら信号を待っていた。学校へと向かう東大路通りは、今朝はやけに車の通りが多い。俺は排気ガスの香りを堪能させられていた。

それにしても堪らない暑さだ。俺は胸元を肌蹴させた。肌に当たる風が心地良い。だが、照り付ける太陽は相変わらず容赦無い。影を落とす出来事に心は寒々しい状態ではあったが、照り付ける日差しは強く、容赦なく体を焦がそうとする。焦がして、焦がして、ついでに忌まわしい記憶も焼き尽くしてしまいたかった。

 信号が青になる。あれこれ考えても判らないことだらけだ。もう忘れよう。いや、忘れたことにしよう。そう、自分に言い聞かせていた。七条交差点を曲がり、学校へと続く緩やかな坂道に一歩を踏み出す。俺は長い坂道を力無く歩んでいた。威勢の良い蝉の声だけが響き渡る。

不意にバタバタと重量感のある足音が迫り来る気配を感じていた。次の瞬間、がっしりと肩に圧し掛かる重圧感。力丸の太い腕の感触だった。

「オッス、コタ。今朝は遅刻じゃねぇみたいだな。わはは」

 満面の笑みを浮かべながら力丸が豪快に笑う。

「おはよう、力丸。朝一番の挨拶がそれか? まるで、遅刻するのがアタリマエみたいな言い方だ」

 実際、常習犯に近いじゃねぇかよ。力丸が再び声をあげて豪快に笑う。

「まったく、暑いのにくっつくな……」

 苦笑いしながら腕を押し退けようとすれば、力丸はにやにや笑いながら、さらに腕に力を篭めてみせた。

「わはは。そう邪険に扱うなって。オレとコタの仲じゃねぇかよぅ?」

 思わず溜め息が毀れる。誤解を招くようなことを言うな……そう、返そうかと思ったが、出掛かった言葉を飲み込んだ。力丸の肉厚な腕は随分と熱気を帯びていた。人の体温……確かな温もりと命の鼓動を感じ、俺は妙な安心感さえ覚えていた。だからだろうか? 何時ものように邪険に扱おうという気持ちが起こらなかった。

力丸は額の汗を腕で乱暴に拭いながら、思い出したように口を開いた。

「そういえばさ、昨日はすげぇ雨だったよな。コタのところは大丈夫だったか? こっちは街を流れる明神川があふれ出すんじゃねーかってな勢いでさ、どこまでが道路でどこからが川なのか見分けが付かなくなっていたぜ。風光明媚な社家の街並みも大荒れでな。あー、その水路に危うく転落し掛けたってぇのはナイショだぜ?」

 あの流れに転落したら今頃はニュースを騒がせちゃっていたよな。力丸は豪快に笑いながら、さらにでかい声で話を続ける。

「ありゃ、下手したら浸水しちまった家もあるんじゃねぇかな? ちなみに、ウチのボロい雨樋は完全に大破しちまったぜ。ま、老朽化進んでいたし、派手にぶっ壊れた方が諦めつくもんな。今頃ウチの親父が頑張って修理しているところだろうな。わはは」

「ぶっ壊れたって……」

 思わず吹き出してしまった。確かに力丸の家、京料理屋『比叡亭』の雨樋は老朽化が進んでいた。風が吹けばカラカラと情け無い音を出す始末であったのを考えれば、昨晩の大雨ならば完膚無きまでに大破してもおかしくは無い。

 強風に耐え切れずに大破した雨樋。街の中を明神川が流れる風光明媚な社家の街並みに、壊れた雨樋という組み合わせは実に滑稽であった。しかも、それを汗水垂らしながら修理する図体のでかい力丸の親父さんという登場人物が加わり、何とも奇妙奇天烈な構図に仕上がった物だ。あまりにも間抜けな構図に思わず吹き出さずにはいられなかった。

「な? すっげー面白ぇだろ?」

「ああ、思わず吹き出してしまった」

「へへ。鴨川も大変なことになっていたんじゃねーの?」

「……ああ。鴨川も相当増水していた様子だったな。とは言え、氾濫を起こす程では無かった」

 力丸は頭の後ろに腕を組みながら、俺の表情をしげしげと見つめていた。

「ふーん。なーんか随分と他人事な言い方だよなぁ」

 どこか心配そうな表情を浮かべると、次の瞬間思い切り顔を近付ける。俺は思わず目線を逸らした。その瞬間、再び力丸の腕が圧し掛かる。先程よりさらに力が篭められていた。太い腕。熱い感触。俺は生きている、ということを実感させられた気がした。

「ま、アレだ。なーんかさ、元気無さそうに見えたからさ、何かあったのかなって思ってな。余計なお世話だったよな、わはは」

予想外に鋭い力丸の言葉に思わず息を呑んだ。そんなにも顔に出ているのだろうか? 自分でも意識しないうちに、表情に現れてしまっているのか。注意しなくては。

夢か幻か何だか判らないが、とても不吉な気がしてならない。何か悪いことが起こりそうで不安で仕方が無かった。認めたくなかったし、受け入れたくも無かった。ただの悪い夢だった。そういうことにしてしまいたかった。だからこそ俺の中だけで片付けねば……。迂闊に口にすれば禍々しい悪夢が命を手にし、誕生してしまいそうな気がして恐ろしかった。考え込む俺を後目に、力丸は腕時計をチラリと確認した。ふと力丸の方を見れば、大きく息を吸い込んだり吐いたりしながら呼吸を整えていた。

「ん? 力丸、どうした?」

「おう。急がねぇと、そろそろチャイムが鳴る時間だぜ? まーた、あの変態クマ野郎、亀岡のベアハッグを喰らうのは御免だからな。コタ、急ごうぜ!」

「あ、ああ……」

 時の流れはいつだって残酷だ。もう少しだけ待って欲しい。そう願う時に限ってアクセル全快で俺を置き去りにして逃げ去ろうとする。考え込む時間は無いということなのだろうか。いずれにしても、急ぎ校門を抜けなければならない。

ふと我に返った俺の目には、薄情にも俺を置いて一人豪快に走り抜けてゆく力丸のでかい背中が見えた。俺も慌てて校門を駆け抜けた。追い付きたかったから。親しき友に。それ以上に追い付かれたくなかった。得体の知れない存在に――。



 息を切らしながら階段を駆け上がっていた。額から、首から、胸元から、容赦無く汗が噴出した。

 結局、時間切れになってしまった。あと少しで滑り込みセーフとなる予定だったが、想定外にチャイムがなるのが早かった。その結果、違った意味で思い出したくない光景を目の当たりにすることになってしまった……。蘇る情景。

「四条小太郎! アウトーっ!」

「くっ!」

 上下赤のジャージに、首からホイッスルをぶら下げた生活指導の体育教師亀岡。にやにや笑いながら、ついでにあご髭を撫でながら迫ってくる。まったく、このご時勢に使い古された竹刀を片手に校門前で構えるとは、一つ間違えれば暴力教師として訴えられるだろうに。何よりも、手にした竹刀は妙に使い古された感が漂っているのが何とも物騒に思えた。

「さて……四条よ、遅刻した以上は、どうなるかは判っておるな?」

 亀岡が落雷を思わせる無駄にでかい声で俺に問い掛ける。耳がジンジンする。

「あ、ああ……俺も男だ。覚悟は出来ている……」

「ほう? 遅刻したのは頂けないが、覚悟は出来ているということか」

 なおも不敵な笑みを浮かべながら、太い腕を組んでみせる。その威風堂々たる様は仁王門に佇む仁王様そのものだ。

「うむ。それでは、目をつぶり、歯を食いしばれ!」

 いつみても恐ろしい体付きだ。職業を間違えたのでは無いだろうか? 趣味は酒と食事と、それから肉体改造……彼女居ない暦数十年、花嫁絶賛募集中(無期限)というのも頷ける。誰もがツッコミたくなるような厳つい風貌の亀岡は、腕を回しながら準備運動をしていた。風を切り裂く唸りが響き渡り、微かに頬に風圧を感じる。無駄に気合いを入れなくても良いものを……。だが、もはや惹く訳にはいかない。ならば、せめて春の桜の如く潔く散ろうでは無いか。春爛漫、小太郎散る悲哀の朝。

「こ、来いっ!」

「必殺ーーっ!」

思い出すのおぞましい……。迫り来るクマ野郎の分厚い胸板。生活指導の亀岡秘伝の「ベアハッグ」。何度喰らっても抵抗力のつかない一撃だ。アレを喰らうのが嫌だから、遅刻しないように早起きしているのだが……。

(ううっ、何であの親父……あんなに石鹸の良い香りがするんだ? 汗臭い方が救われた……)

俺は階段を走り続けた。息が切れる。この息苦しさは嫌いじゃない。生きている……そう、実感できる瞬間でもあったから。教室に着くと、既に力丸は皆と語らっていた。

「お、コタの到着なのじゃ。今朝も遅刻だったようじゃの」

 俺の存在に気付いたのか、大きな団扇を扇ぎながら大地が歩み寄ってくる。背は低いが、ぎっしりと身の詰まった体型。今にもワイシャツのボタンが吹き飛びそうだ。

「おはよう、大地」

 ついつい感触の良い坊主頭に手を置いてしまう。

「おはようさんなのじゃ、コタ」

 頭を撫でられながらも、大地は満面の笑みで応える。

「ワシの頭はさわり心地が良いかの?」

ついつい手を置きたくなる心地良さだ、と答えながらも、俺の目線は手にした大きな団扇に引き寄せられていた。赤一色のど派手な色使いの団扇は、良く見れば『嵐山旅館』と大きな文字が描かれている。

「恐ろしく個性的な団扇だな……でも、学校で宣伝しても効果はあるのか?」

「おお、さすがはコタなのじゃ。相変わらず目の付け所が良いのう……という訳でプレゼントするのじゃ。ご家族、ご親戚、友人の皆々様から、通りすがりの人にまで、遠慮なく差し上げると良いのじゃ」

 大地は満面の笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに「嵐山旅館」の文字を強調して見せた。一杯あるから自由に持っていけと付け加えるのを忘れずに。なるほど。学校で宣伝しても効果は薄いのは想定済みで、友人一同を宣伝員に仕立てあげるという算段か。さすがは嵐山を生きる商人の息子。意外に有効な戦術かも知れない。

「原色の赤に、無駄にでかい文字……実にセンスが無いな」

 皮肉った冷笑を浮かべながら太助が歩み寄る。肌蹴た胸元に光る自慢の銀のアクセサリーが朝日を受けて殊更にキラキラと光を放っていた。華やかな香りを放つ扇子をはためかせる様に興味を惹かれた。細かな意匠を施した木の扇子。良い香りだ。仄かに漂う香りは、どこか懐かしさを覚える香りだった。

「む。扇子とセンスを掛けたわけじゃな? オッサンギャグなのじゃ」

「その扇子、良い香りだな。何の香りだ?」

 上機嫌に笑う大地を押し退けると、俺は太助に問い掛けていた。とても良い香りだったから。いや、それ以上に、この香りに古い記憶が結びついている感覚を拭えなかったから。不確かな記憶を手繰り寄せずにはいられなかった。気が付くと俺は食い入るように身を乗り出していた。妙に熱心な反応を見せる俺を見て、太助は可笑しそうに笑いながら扇子を手渡してくれた。

「白檀だな。良く線香なんかにも使われる香りだ。良い香りだろう?」

 得意気な表情での解説付きで。

「高校生らしからぬシブい趣味だけどよ、太助の場合、そういうの似合うよなー。あ、それってさ、イイ男の特権ってわけ?」

 太い腕を肩に回しながらにやにや笑う力丸に、太助は涼やかな笑みで応える。

「ま、そういうことにしておいてやろう」

「へへ。そのクールな笑顔で、何人の女を騙してきたんだよ?」

「生憎、俺は女には興味無いのでね」

「硬派だねぇ。それもまたいい男らしさだよなぁ」

 力丸が茶化せば、涼やかな振る舞いで交わす太助。嵐山旅館の団扇で扇ぎながら、大地がその様子を可笑しそうに眺めている。いつもと変わらぬ仲間達の姿がそこにあった。何だか安心した。今日という日はちゃんと訪れてくれたのだ、と。俺一人が置き去りにされて孤立無援な世界に連れ戻されたのでは無かったのだと、安心していた。何だか妙に落ち着いた気分になれた気がした。

ふと、何気なく時計を見た。何か違和感を覚えた。チャイムが鳴ってから相応に時間は経っている。担任の山科は無駄に几帳面な一面を持つ身だ。時間になれば寸分の狂い無く教室に現れる。それが、今朝は十分も過ぎているのに姿を現さない。嫌な予感に鼓動が高鳴る。やはり、あの異変は何かの始まりを示唆していたのであろうか? 一気に不安になった。

「ふむ。それにしても、今朝の山科は遅いのう?」

 これまた「嵐山旅館」の文字が刻まれた真っ赤な特注腕時計を眺めながら大地が呟く。「何だよ、その時計?」と力丸が笑えば、不意に席を立ち上がる輝の姿が見えた。どうやら何やら事情を知っているかの様子であった。含みのある笑みを浮かべながら俺達の方に近付いてきた。輝はさらさらの赤毛をかきあげながら、目を大きく見開きながら皆の表情を覗き込む。

「山科先生ならば、今日はお休みだよ? うーん、正確には……数日はお休みかな?」

 そのまま、流れるような口調でさらりと手持ちの情報を披露してみせた。

「ほう? 何か知っている様子だな?」

 呼び水に反応するかのような太助の問い掛けに「まぁね」と、輝が笑顔で返す。「それじゃあ、語っちゃおうかなー」早速仕入れた情報を語って聞かせようと、胸を張り、大きく息を吸い込んだ所で唐突に教室の扉が開かれる。

「残念。一時中断だな?」

 にやにや笑いながら太助が言う。

「もうっ、タイミング悪いなぁー」

 輝はブツブツ文句を言いながらも、自分の席へと戻っていった。

 だが、現れたのは山科では無かった。副担任の桃山であった。

どういうことだ? 何故、山科では無く桃山が来る? 嫌な流れに呑まれ始めた様な気がして落ち着かなかった。考えたくは無かったが、やはり昨夜の体験は何かを告げる物であったのだろうか?

桃山はどこか取り乱したような素振りを見せながらも教壇に立った。何時もはポニーテールに結い上げている長い髪も今朝は下していた。否、結い上げもしていなかったというのが正確なところだろう。酷く取り乱している様からも相当焦っているように見えた。何時もと変わらぬ白いブラウスの清楚な装い。急いで走って来たのだろうか、少々息切れしていた。額にも微かに汗が滲んでいた。ハンカチで汗を拭うことさえ忘れる程に動揺している様子に、只ならぬ状況を理解した。眼鏡を掛け直しながらも慌てた様子で皆を見回す。

「遅くなって御免なさいね。ええと、何から話せば良いのかしら」

 何時もだったら冗談交じりの小話から授業を始める桃山が、息を切らしながら動揺している。これは余程のことがあったのは間違いない。肝っ玉の据わった若き女性教師の動揺。その動揺は皆にも瞬く間に伝わった。じっとりと汗ばむ胸元は朝日を受けて煌いていた。気を抜くと目線がそちらに向いてしまう。俺は慌てて目を逸らした。訳知り顔の輝は、にやにや笑いながらこちらに目配せしている。思わず溜め息が出た。

(輝の奴、今度は一体どんなトラブルを巻き起こすつもりだ……)

 輝が上機嫌な時は、往々にして良からぬ事態が起こる。いや、良からぬ事態を起こすといった方が適切か? 予想通り、太助達も苦々しい表情を浮かべていた。

 自分自身を落ち着かせるかの如く大きく深呼吸をすると、桃山は皆を見渡した。一呼吸置いてから一気に力を篭めた。

「ええっと……率直に話します。山科先生は昨晩、交通事故に遭われてしまい、今は病院に入院中です」

 桃山の一言に教室がざわめく。「静かにしなさい」桃山が焦った口調で皆を静めようとするが、騒ぎは収まる気配を見せなかった。

俺は再び考え込んでいた。昨晩……前も見えない程の土砂降りの雨の中で起きた交通事故。山科は加害者か、被害者か、どちらの立場なのか? いずれにしても可笑しな話だ。可笑しな話が、出来事が幾つも重なる……そんな偶然ある訳が無い。俺の中で一気に不安が加速する。

「おいおい、マジかよ!? 怪我の具合とか、大丈夫なのかよ?」

 不意に力丸が勢い良く立ち上がった。そのまま驚いた様子で声を荒げた。とにかく落ち着きなさいと桃山が嗜めれば、力丸は静かに席に着いた。説明もせずに静止させるだけの反応に、随分と納得のいかない様子で力丸は乱暴に足を組んでいた。皆のざわめきが止まるの待つと再び深呼吸。一呼吸置き桃山は話を続けた。

「……ええ、怪我はそんなに酷い物では無いらしいので、心配しないでも大丈夫よ」

 明らかに違和感のある終わらせ方であった。まるで、これ以上余計な詮索をしてくれるな、と言わんばかりの振る舞いに見えた。ニュースなどで時々見掛ける光景だ。都合が悪くなった政治家達が、記者会見を強引に切り上げて逃げ出す様子と良く似ていた。何か知られたくない事実を隠しているのだろう。そのくらい頭の悪い俺にも容易に察しがついた。

俺は逃げるように教室を去って行く桃山の後姿を見つめていた。傍らでは、訳知り顔の輝が涼やかな笑みを浮かべながら赤い髪をいじるばかりだった。


 昼休み。窓から差し込む相変わらず日差しは強く、ジリジリと照り付ける様な暑さに皮膚が焦げるような感覚を覚えていた。俺は屋上を目指し階段をゆっくりと登っていた。

予想通りの輝からの招集。俺を含め仲間達も皆招集されているだろう。輝のことだ。桃山が詳しくは明かさなかった情報も既に入手しているのだろう。朝のホームルーム前に語ることができなった雪辱戦だろうか? その優れた情報収集能力を善行に活かしてくれれば良いのだがと、常々思う。

額に滲む汗を乱暴に拭う。やっとの思いで階段を登り終え、屋上へと続く扉を開く。扉を開いた瞬間、湿気を孕んだ熱風が吹き込む。蒸し暑さに思わず怯みそうになった。透き通る青空。遮るものなど何も無い、強い日差しに目が眩む。

日差しの眩しさに一瞬目を細めたが、目が慣れてくれば既に皆集まっているのが見えた。丁度俺が最後だったという訳か。苦々しい笑みで手を振る仲間達に俺も冷めた表情で手を振り返す。

「やぁ、コタ。やっと来てくれたんだね」

 周囲の反応など気にもしないのか、輝は満面の笑みでのお出迎えしてくれた。不意にどこかで蝉が鳴き始める。照り付ける日差しの暑さを肌で感じながら、軽く一呼吸。

「ああ、出来ることならば関わりたく無かったが、だからと言って放置して置けば、何をしでかすか不安で仕方が無い。そんな訳で、気は乗らなかったが来た次第だ。これでも一応、お前の兄貴分だからな」

 俺の言葉がおかしかったのか、皆失笑する。だが輝はまるで動じる様子も無く、不動の構えで腕を組んで見せる。これは相当深刻かつ厄介な話であろう。身構える俺を後目に輝は立ち上がり「まぁ、取りあえず座ってよ」と告げると、早速話し始めた。

「えっとね、みんなに集まって貰ったのは、山科先生の事故の真相について聞いて欲しくてね」

「おいおい。一体どこから、そんな情報仕入れたんだよ……」

 出だしから突っ込みを入れずには居られない。お前は何処の新聞社の記者かと。

「ほら、昨日は凄い雨だったでしょう? ああいう、大荒れの天気の翌日って、海だったら色々と面白い物が浜辺に打ち上げられるじゃない? あの考え方と同じでね。早めに学校に来たら、桃山先生が血相変えて走り回っていてね。ほら、早起きは三文の得って言うでしょ?」

(使い方、絶対に違うだろ!)

恐らく、皆が心の中でそう突っ込んだことだろう。皆の、声にならない吐息が聞こえた気がした。

段々と乗ってきたのか、輝は選挙の演説を思わせるかのように、身振り手振りを織り交ぜながら熱く語り始めた。

「それでねー、山科先生は、昨日の晩にバイクで事故を起こしたんだ」

 輝の一言に、驚いたような表情で力丸が立ち上がる。

「ちょっと待て。あの悪天候の中でバイク事故だって? どういうことだよ?」

「ううーん、リキってば良い反応だね。気合い入っちゃうなぁ」

 目を大きく見開き、満面の笑みを浮かべる輝。今度ははっきりと聞こえる皆の溜め息。

(燃え盛る炎に油を注ぐな)

皆が鋭い眼差しで力丸を睨み付ける。「スマン。軽率だった」と、力丸は苦笑いを浮かべる。対する輝の勢いは止まるところを知らない。水を得た魚の如くさらに熱い口調で語り続ける。

「しかもだよ? 場所は何と、比叡山ドライブウェイ夢見が丘付近なんだ」

 輝の放った言葉に、皆の間に戦慄が駆け巡る。

「本当なのか? そんなこと、在り得ない話だ……」

「でも、事実なんだよ?」

思わず驚きの言葉が飛び出してしまった。

比叡山ドライブウェイ――京都市内と比叡山延暦寺を結ぶ道であり、市外からも大分登った先の結構な山奥にある。例え天気が良くても京都市内からの距離は相当ある。その比叡山ドライブウェイにある夢見が丘。高台から見下ろす琵琶湖の景色が素晴らしい場所ではあるが、だからこそおかしな話だ。先も見えないような土砂降りの中で向かうような場所では無い。しかも、そんな場所で事故を起こした。一体、どういうことなのか皆目検討がつかなかった。意味が判らなかった。目に見えない恐怖が、ヒタヒタと迫ってくるような感覚を覚えていた。

「山科先生は、突然飛び出してきた女の人を避けようとして、バイクごと転倒したんだ」

 さらに訳が判らない状況になった。飛び出して来た女の人……つまりは、他にも人が居たということになる。一体何のために? 敢えて事故を起こさせるために? それも意味が判らない話だ。ましてや昨晩の土砂降りならばなおのことだ。不可解過ぎる……いや、あまりにも非現実的だ。普通じゃ無い。昨夜、俺が体験した不可解過ぎる出来事と繋げずにはいられなかった。  

いや……ちょっと待てよ。もっと、大事なことを忘れていないか? 人気の全く無い山中の道で、事故に遭った。そこから一体どうやって病院に向かった? 自らの足で向かったとでも? 足を負傷した人が? 出来る訳が無い。では、一体誰が?

「なぁ、輝、山科は一体どうやって病院に向かったんだ? 自力で向かったのか?」

「ううん、違うよ」

 にこやかに微笑みながら、輝は笑顔で髪をかきあげた。その涼やかな笑みに俺は背筋が凍り付く思いだった。纏わり付く様な湿気を孕んだ暑さとは裏腹に、どこからか冷気が漂い始めた。背中に嫌な汗が噴き出す感覚を覚えていた。

「救急車で運ばれたんだ。電話をしたのは女の人だったみたい。でね、この女の人も変だったらしくてね」

「ど、どう変だったんだ?」

 もう、これ以上聞くのは恐ろしくて堪らなかった。だけど、聞かない訳にはいかない。そんな矛盾の狭間で、俺は叫びたい位に恐怖で一杯だった。心臓が酷く鼓動を打ち鳴らしている。口の中がカラカラに渇く感覚。握り締めた掌の中にはジットリと汗が滲んでいた。不思議な感覚だった。暑くて、暑くて、汗が止まらないのに背筋は凍り付くように寒かった。

「山科先生、魘されるように繰り返していたらしくてね。その女の人ね、能面を被っていたらしいんだ。般若の面。ね? すごい話でしょ? 不可解なことだらけで、すごく不気味だよね。だから桃山先生も多くを話せなかったのかも。だってさ、あまりにも変じゃない?」

 繋がった!……昨日の出来事と山科の事故。どちらの異変にも能面をつけた人物が関わっている。普通じゃ無い。何か異様なものを感じずにはいられなかった。皆顔を見合わせて、言葉を失っていた。

「それでね、まだ、続きがあるんだ」

 輝はにこやかな笑みを絶やさない。愛嬌のある笑顔も、今の俺には恐怖の対象でしか無かった。皆も動揺を隠し切れない様子ではあったが、抑え切れない好奇心が共存しているのもまた事実であった。

「京都市左京区鞍馬本町……ここでも異変は起きているらしくてね。家の軒先に吊り下がる能面。道端に無造作に放置される能面。その上、響き渡る唄はとおりゃんせ」

とおりゃんせ!……鞍馬の異変も繋がったように思えた。偶然であるはずが無い。作為的に誰かが仕組まない限り、こんなにも幾つもの出来事が繋がる訳が無い。

「数日前から能面の目撃情報が相次いでいてね。しかも、とおりゃんせの歌声が聞こえてくるらしいんだよね。ね? 何か関係ありそうな気がしない?」

 足元を見据えながら小さく震える俺に気付いたのか、輝がそっと歩み寄る。

「コタ、大丈夫? 真っ青だよ?」

 心配そうに覗き込む輝に、俺は静かに向き合った。

「……俺も昨日、体験したんだ。般若の面を被った奴らに、とおりゃんせの唄をな」

 輝だけでは無かった。皆が思わず声を挙げていた。夢だったと、幻だったと、自分の中だけで片付けるつもりだった。だが一人では抱え切れなかった。あまりにも恐ろし過ぎて、怖くて、怖くて堪らなかった。巻き込みたくなかった……いや、口にしたくなかった。だけど、出来なかった……。情け無いと思った。弱虫だと思った。そんな自分が、悔しかった。

「ど、どういうことなのじゃ!?」

「お、おう……同じ体験したってことは、テルテルの話は作り話じゃねぇってことだよな」

 ただただ怖くて震えていた。皆を失うことが怖くて、また一人になってしまうことが怖くて、ただ無力に震えるしか出来なかった。輝は動揺していた。まさか俺がこんなにも過剰な反応を見せようとは予測していなかったのだろう。

不意に、太助が俺の肩に腕を回した。

「なぁ、小太郎。幽霊見たり枯れ尾花って諺を知っているか? 幽霊かと思った物は、実はただの枯れた木に過ぎなかったなんて話はざらにある。正体不明だから怖さもある。だったら、文字通り、化けの皮を剥がしてやればいい。放課後、鞍馬に向かうぞ。皆、異論は無いな?」

 太助の心遣いが嬉しかった。力強く微笑み掛けてくれたのが大きな支えになった。同時に自分自身の情けなさが不甲斐なかった。いつから俺はこんなにも弱くなってしまったのだろうか? 俯く俺を勇気付けるかのように、回された腕に力が篭められた。

「ま、時には誰かに守られるというのも悪くは無いだろ?」

 俺だけに聞こえるように小声で囁く。相変わらず涼やかな笑みを称えたまま。

「ど、どうせさ、誰かのつまんねぇ悪戯でしたってぇオチで終わるんだろ?」

「そ、そうなのじゃ。ワシらで怪現象の正体を暴いてやるのじゃ」

「おいおい、お前ら、怖いのか? 声が震えているぞ?」

 能面、とおりゃんせ……では、あのほたるはどう説明すれば良いのか? いや、今は止めておこう。判らないことを無理に追い詰めるのは意味が無い。少なくても判っていることから片付けてゆけば良い。何よりも心強かった。皆が一丸となって俺の恐怖と戦ってくれようとしている。嬉しかった。心強かった。皆の想いに応えなければ……答えは決まった。俺達は鞍馬に向かうことにした。

「べ、別に、こ、怖くなんか無いのじゃ」

「お、おうよ。面白そうだから、ワクワクしているくらいだぜ」

 不意に高らかにチャイムが鳴り響く。思わず飛び上がる二人を残し、俺達は教室へと急いだ。

心なしか輝が落ち込んでいるように見えた。俺を怖がらせてしまったことを悔やんでいるのかも知れない。いずれにしても真相は放課後に明らかにしよう。それまでに気持ちの整理を付けなければ。そう、自分を奮い立たせながら、俺は皆と共に教室へと向かう階段を力強く駆け下りた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ