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05:オークション

 ディナーの食器を片付けるのはダニエルの役目になっている。それはたとえ来客があったとしても、あるいはそのディナーがクリスマスのものであっても同じことだ。

 クリスマス・デイには三日ほど早いが、当日には用事があるというヘルガのために、彼女を招待してのクリスマス・パーティが今日はヒロイ宅で開かれていた。

 ホストの片割れであるダニエルに片付けを任せて、女二人はリビングでテレビを見ている。時々かしましくも楽しげな声がキッチンまで届き、年の離れた彼女らが意気投合しているらしい様子にふ、とダニエルは笑った。

「で、何見てるんだって?」

 まくり上げた袖を下ろしながらリビングに顔を出すと、パンプスを脱いでカウチでクッションを抱えたヘルガが首をこちらにめぐらせた。今日の彼女はどう見ても普段着には見えないドレスシャツに長い足をことさら強調するような細身の黒いパンツ姿で、ボブカットの金髪もかすかなフローラルの香りがするスプレーでこぎれいにまとめていたが、そのやや子どもじみたしぐさは自宅でくつろいでいる時と変わらないように思えた。

「ベートーベン直筆の楽譜ってあったでしょ、サザビーズでオークションされたっていう」

「今月の頭だっけか? ロンドンだったよな、確か」

 結構な話題になって、新聞にも載っていたニュースだった。たまたまダニエルは出張でイギリスに行っていて、そのたいそうな騒ぎをタイムズで読んだのだが、まあ黄ばんだ紙きれ数枚によくもあんなに金を出すもんだ、と半ば呆れた記憶がある。

「すごいわね、一八〇万ポンドなんてちょっと想像もつかないわよ」

 あるところにはお金ってのはあるのねえ、と物憂げにため息をついて、ヘルガは再び視線をテレビに戻した。

「ヨーロッパは金持ちが多いって言うじゃないか。あ、カタリナ、片付け終わったぞ」

 言葉はわからないなりに画面に見入っていたカタリナは、声をかけられてぱっと立ち上がった。コーヒーを煎れにいそいそとキッチンに向かう後ろ姿は、心なしか浮かれているようだった――クリスマスプレゼントをもらった直後では、それも当たり前のことだろう。

 彼女と入れ違いにカウチにすべりこんだダニエルは、かたわらに転がっていたテレビガイドを手に取ってめくった。もっと興味を引くプログラムを探したが、あいにくと季節柄、めぼしいチャンネルではあまりいいものを放送していない。テレビ局の職員もクリスマス休暇中というわけだ。

「ケーキはどうしたの。どこかで買ってるふうでもなかったけど」

 ただよい始めたコーヒーの香りに鼻をひくつかせながら、ヘルガは目に見えてそわそわしていた。彼女は甘党で、ことにケーキやパイの味にはうるさい。そもそも日ごろはその腕前を披露することもないが、料理は得意な方だと聞いている。

 ガイドに頼るのはやめにしてチャンネルをがちゃがちゃと切りかえながら、ダニエルは頭の中に、数分後にテーブルに出てくるはずのケーキを思い浮かべた。チョコレートでかわいらしくコーティングされ、ごていねいにパウダーシュガーとアラザンで雪まで表現された、手間のかかりそうなブッシュ・ド・ノエル。

「カタリナが作った。インターネットのレシピをわざわざスペイン語に翻訳するはめになったよ」

 おまけに昨日は、家中にあまったるい香りがただよっていた。男の嗅覚には、あれはいささか辛いものがあったとダニエルは苦々しく頭を振る。

 だがげんなりした顔でそう言うと、ヘルガは心外だというふうに鼻を鳴らした。あいかわらずいいサービスじゃないのと皮肉る口調には、うらやましいという妬みも多少はまじっているようだった。

「ベートーベンの楽譜じゃないけど、一八〇万ポンドでも私が競り落としたいくらいよ」

 へえ、と片眉を跳ね上げたダニエルの顔に含み笑いを見つけたらしいヘルガは、冗談で言ってるんじゃないわよ、と半ば目を細めて言ったものだ。どうやら本気でカタリナの保護者に立候補したいらしい。

 その時ひょいとカタリナがキッチンから顔を出し、二人のかけ合いなどまるで気にも留めずにダニエル、と養父を呼んだ。トレイに載せた三つのカップを示して、言う。

「はこんで。私、ケーキ食べてくる」

「haveじゃない、そういう時はtakeだ」

 苦笑しながらあどけない英語の間違いを直してやり、ちょっとカタリナの頭をなでてから、ダニエルは彼女の手からトレイを取り上げた。ケーキのお出ましだとあごをしゃくって、ヘルガにテーブルにつくよううながす。Yes, sirと少々おどけた様子で言いながらテレビを消して、彼女は立ち上がった。

 肝心のケーキはと言えば、カタリナが腕によりをかけたブッシュ・ド・ノエルはロウソクを立て火を点けると、電気を消した部屋の中でずいぶんと幻想的に見えた。ヘルガにできばえをほめられて、カタリナはほとんど有頂天になっていた。そうして三人は、カタリナはバスク語で、ヘルガはフィンランド語で、そしてダニエルは英語で『もろびとこぞりて』を歌ってから、そのブッシュ・ド・ノエルを美味しくいただいた――それはまさしくクリスマスだった。



 帰り際、楽しかったわありがとう、と言ってシボレーに乗りこむヘルガが、ふと思いついたように問うた。

「さっきのオークションだけど、ダンならいくら出すの?」

 まだあんなジョークをおぼえていたのかと、ダニエルは驚きに小さく目を見開いて、それからしれっとした顔で言った。

「It's priceless for me, isn't it?」

 そのitの示すものがヘルガにはきちんとわかったのだろう、彼女はごちそうさま、と苦笑いの形に唇をゆがめ、エンジンをかけた。ぶるりと身震いした赤い車から一歩ダニエルは離れ、じゃあまた、と手を上げる。

 そう言えばハッピー・クリスマスを言い損ねたとダニエルが気づいたのは、シボレーが見えなくなってからのことだった。

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