03:過剰サービス
ダニエルが海外出張に出かけるなどというのはめずらしい話でもなんでもないのだが、いかんせん以前その役割が回って来た時とは根本的に状況が異なってしまっている。つまりカタリナの存在だ。一人暮らしの女性、それもダニエルがそれなりに親しく付き合っているヘルガにお鉢が回ってきたのは、ある意味当然の結果と言えた。
「一週間でいい、家に置いてやってくれないか」
両手を合わせて懇願されて、なお承知しないほどにヘルガは冷酷ではない。こういう状況考えてなかったの、と少々手厳しい嫌味を放ちながらも、その夜ダニエルとともにやってきたカタリナを出迎えた。
カタリナは少し緊張したおももちで、何回も練習したのだろう、なんとかつっかえずに、それでもぎこちのない英語であいさつをした。
「こんばんは、ミス・クレメット。私はカタリナ・ファーリャと言います。よろしくお願いします」
そのきちょうめんな様子には逆にクレアの方が慌ててしまって、わずかばかり習い覚えていたスペイン語であなたに会えてうれしいわ、とカタリナの英語よりもひどい有様ながらなんとか伝えた。それでもカタリナは、それを聞いてちょっとだけ笑ってくれたけれども。
「ねぇダン、私のことはヘルガって呼ぶように言ってくれる? 仕事以外でクレメットなんて他人行儀だし、しばらく一緒に生活するんだし」
「俺のこともまだダニエルなんて呼んでるんだぞ、期待しない方がいいと思うぞ」
肩をすくめながらもダニエルはヘルガの要望をスペイン語に翻訳し、カタリナに伝えた。彼女は理解できたのかできていないのか、首をかしげて養父の言葉を耳をすませていた。
その様子はまるで小鳥のようで、ヘルガはなんとはなしにカタリナを好ましく思い始めていた。何より、真剣にこちらの言うことを聞いてくれるその熱心な姿勢が良い。例え他愛のない独り言であっても話す価値があると思わせるまっすぐな目は、大人になってしまった自分には到底持ち得ないものだ。だからダニエルもカタリナを傍に置いているのかもしれないとふと思う。
「じゃあな、ニーニャ――カタリナ。あんまりヘルガにわがまま言うなよ」
物思いから我に返ると、アディオスと片手を上げてダニエルはセダンに乗り込むところだった。カタリナが一生懸命に手を振っているのが、なんだかいじらしかった。
以前のダニエルと同じく、というよりも大抵の情報部員と同じく、ヘルガの日常もかなり不規則で不健康的なものである。夜は深夜を過ぎるまで帰宅できないことの方が多いし、明け方にもつれこむこともしばしば。健康と美容を考えると恐ろしいのだが、食事のバランスも取れているとは言いがたい。
それでもここ数日はカタリナがいるからと努めて早く帰宅するようにしたのだが、その日はたまたまスカンジナビア半島でちょっとした事件があって、ヘルガは一日中借り出され、あちこちを走り回っていた。結局シボレーを車庫に入れた時には夜中の二時過ぎ、疲れきってメイク落としもままならないような状態だった。家の中はしんとして、当然カタリナは寝ているらしい。ずるずると引きずるような足取りでなんとかベッドにもぐりこむのが関の山で、そうした瞬間、ヘルガはもう意識を失っていた。
「――て、朝。ヘルガ」
たどたどしい英語とともに、肩を揺すられている。
うん、とうっとおしげな呻きをこぼして、ヘルガは大きく寝返りを打った。うるさい、昨日は遅かったんだからもうちょっと寝かせてよ――ねぼけた脳味噌でそんなことを考える。
それでも無意識とは恐ろしいもので、手は勝手にベッドサイドに置いてあるはずの目覚まし時計をたぐり寄せていた。精神力だけでなんとか目を開くと、肩に置かれた細い腕が目に入って途端に目が覚めた。――カタリナだ。
「七時半。ダニエル、いつも起きる時間」
なるほど確かに時計は七時半をしめしていた。出勤まではあと一時間ほど。
慌ててベッドから跳ね起きて、
「ごめんね、ちょっと待ってて何か作るから――ああでもその前にシャワー浴びさせてっ!」
ばたばたとバスルームに走る。
超特急でシャワーを浴びて、クレンジングで昨日のメイクを落として新しくまたメイクを済ませると、ヘルガはキッチンに突撃した。おととい買ったミルクと食パンと、どこかにあったような気がするベーコンと、この際適当でもかまわないから何か作ってカタリナに食べさせてやらないと。
ところが冷蔵庫を覗いていると、カタリナが後ろからくいくいとヘルガの袖を引いた。
「作った」
気恥ずかしそうにそれだけぽつりとつぶやいて、カタリナはうつむいた。黒い髪からちらりとのぞく耳たぶが赤く染まっている。一瞬言葉の意味をつかみ損ねたヘルガは、けれどもそのカタリナの様子でぴんと来た。
「作った、って……あなたが? ええと、」
少し考えて、スペイン語で言い直した。
「あなたが、作ったの?」
するとカタリナはこくんとうなずいて、ヘルガにこっち、とうながした。誘われてダイニングに足を踏み入れると、テーブルの上には見事としか言い様がない二人分の朝食が鎮座していた。湯気を立てるコーヒー、その隣のオレンジジュース、かりかりのベーコンにメープルシロップ、それにそえられたトマトとレタス、そしてキツネ色のトースト。まるでかいがいしくてかわいらしい新妻がいるみたいじゃない、と思わず目を見開く。
――いや、そうではない。うっかりと妙な現実逃避をしかけた頭をこちらに引き戻し、ヘルガはカタリナを振り返った。彼女はもじもじとその場に立ち尽くし、この趣向は気に入ってもらえただろうかとこちらをそっとうかがっていた。
文句などあるはずもない。ダニエルなどが見れば思わず赤面しそうなほどの完璧な、満面の笑みを浮かべて、ヘルガはやさしくカタリナの手を取った。
「グラシャス、ありがとう」
その瞬間、ぱっと顔を上げたカタリナの頬は赤く染まっていた。口の中でもごもごとつぶやいたのはどういたしましてとかそんな言葉だろうか。子どもめいてしっとりと汗ばんだ手のひらさえ、緊張していたのかと思うと微笑ましかった。
何にせよ、料理は冷めない内が一番だ。二人は優雅な朝のひとときを、トーストにバターを塗ることから始めた。
一週間後の夜中近く、目の下にクマを作ってほとんどよろめきながら帰ってきたダニエルに、カタリナの三食上げ膳据え膳プラスモーニングコールサービスを受け続けたヘルガは言ったものである。
「意識してないんだとしたら言っておくけど」
ダニエルを待った挙げ句にカウチで寝こんでしまったけなげな少女を、ちらりと見やる。
「ずいぶんいいご身分ね、ダン」
「なんだよそれ、わけのわからないこと言わないでくれ、疲れてるんだよ」
「サービスがよすぎってことよ。……あなたにはもったいない子じゃない?」
こんな薄情な青年のところに住まわせておくよりは自分が手元でいつくしんでやりたいと思う心の裏側にカタリナの献身をうらやむ本音がないとは言い切れなかったが、それでもヘルガは明日から逆戻りする予定の不健康な生活に鼻を鳴らして不満を表明した。多忙な自分たちにはあのくらいの過剰サービスでちょうどいいのに、と思いながら。