02:オレンジジュース
ベーグル、ピクルス、スクランブルエッグ、そしてオレンジジュース。世間に名だたるニューヨーカーの朝食と言えば、これが定番である。ダニエルひとりのころはコーヒーだけで済ませることが多かったのだが、カタリナと暮らし出してからは意外にも料理の上手い彼女の世話になっているというのが実情だ。
その日シャワーを浴びて、新聞をポストから取ってダイニングに向かうと、すでにテーブルの上には朝食が並んでいた。カタリナはまだキッチンで何かやっているようだったので手伝おうかと一瞬迷ったものの、以前にも手伝いを申し出てジャガイモの皮むきをしたは良いが、もっと薄くむいてとカタリナに言われたことを思い出したので――つまりダニエルの料理に関する才能は、一般の水準をやや下回っている――、おとなしくイスに腰を下ろして新聞を読むことにする。
一面を読み終え、株価をながめることしばしして、オレンジの香りがぷんと部屋に満ちた。カタリナが、昨日買ってきたオレンジを丸ごとしぼっているのだ。コーヒー豆ではない香りが家の中にあることに、ダニエルはそろそろ慣れ始めていた。
カタリナが危なっかしい手つきでグラスをふたつ運んでくると、自然とそれが朝食のスタートになる。彼女はグラスをテーブルに置くと、スペイン語でいただきますとつぶやいてベーグルに手を伸ばした。ダニエルなどには信じがたいことなのだが、この少女は朝から食欲旺盛だ。
「毎朝毎朝、お前もよくやるよ。オレンジジュースなんかその辺の店で買ってくればいいのに」
耳慣れない英語のひとりごとに、カタリナは首をかしげて困ったような顔をした。ダニエルは片手をひらひらと振って、別にわからなくてもいいと肩をすくめた。元より返事は期待していない。
カタリナにはどうもよくつかめないところがある。どこで知ったのか、ある日突然ニューヨーク・スタイルの朝食を並べ始めたことしかり、オレンジジュースと言ってオレンジを丸ごとしぼることしかり。
別にスーパーマーケットでボトル入りのオレンジジュースを買ってきたって大して変わらないじゃないか、などとダニエルは思うのだが、カタリナは妙にこだわるのだ。絶対にそんなのはおいしくないと言い張って。
それでもダニエルはこのささやかな変化に眉をひそめるつもりはなかった。不健康だった自分の生活は圧倒的に改善されているし、定時に家に戻ることが多いから時間にゆとりもできた。それに家に人のいるあたたかさというものも、カタリナと暮らすようになって初めて知ることができたのだ。
やっぱり彼女には感謝すべきなのだろうなと思いながら、ダニエルはグラスの中のオレンジジュースをぐっと飲み干した。少しきつすぎるくらいの酸味が、甘いものの苦手な舌にはちょうど良い。
「そろそろ出かける」
カタリナが背後で、アディオスと笑って言った。
「ハーイ、ダン。ブランチにしない?」
声をかけられて振り返ると、同僚のヘルガ・クレメットだった。金髪色白、ノルウェー移民の彼女は人生のほとんどをアメリカで暮らしているのに、いまだちっともなまりが取れない。その代わりスカンジナビア半島三国の言語をしゃべらせれば、情報部の中でもずば抜けている。
美人に誘われて悪い気はしない。折り良くデスクワークがひと区切りついたこともあり、ダニエルはもちろん、とうなずいた。デスクに『外出中』のメモを残し、立ち上がる。
「めずらしいな、午前中の内に君が自由時間にありつけるなんて」
「最近、半島は平和だもの。フィンランドの失業率なんて、ポーランドに比べればかわいいもんよ」
違いないと笑いながら、二人は連れ立って外に出た。今日のニューヨークは一日晴れとニュースが自信たっぷりに告げたとおり、いい天気だった。
お決まりのベーグルとコーヒーを目当てにして、少し離れたところにあるスターバックスへ足を伸ばすことにした。テイクアウトしてどこかのベンチに陣取ってもいいが、あいにくその暇はない。イート・インにして、ヘルガはシナモン・ベーグルとコーヒーを注文した。ダニエルはと言えば、サーモンとハム、それにレタスとトマトをたっぷりはさんだプレーン・ベーグルを頼む。
「ドリンクは?」
「ああ、えーと……オレンジジュース」
カウンターでコーヒーを受け取っていたヘルガは、思わずぷっと吹き出した。
そろそろ二十五歳を迎えようという、それも学生時代はバスケットボールで活躍していた、おまけにどこの国の言語でも彼に話せないものはないと情報部でさえ一目置かれて噂されるような男がオレンジジュースとは、コメディにもほどがある。
「ちょっとダン、どういうジョーク? ニッポン流なの、それ」
ヘルガが笑い混じりにからかうと、ダニエルは片眉を不機嫌そうに跳ね上げた。基本的には心の広い彼も、レイシャルをネタにしたジョークには少々神経質に反応するくせがある。
「それこそジョークか? ……毎朝出されるから、どうもこう、くせになったというか」
そこでヘルガはようやくダニエルが引き取ったスペイン娘、つまりカタリナのことを思い出したらしい。もっともらしくふうん、とうなずいた彼女はそれでもいまひとつ納得していないようだったが、ダニエルの知ったことではなかった。オレンジジュースを受け取って、店の外、日当たりのいいテーブルにつく。
コーヒーにミルクを入れてかきまぜながら、ヘルガは思い出したようにカタリナの話を始めた。
「年頃の女の子でしょ。やっぱりちょっとまずいんじゃないの、そういうのって」
ああまたか、と内心ダニエルは頭をかかえたくなった。『年頃の女の子』だとか『男と一緒はまずい』だとか、そんなことはカタリナを引きとると決めた時からこっち、耳が痛くなるほどあちこちから言われていることだった。もちろんヘルガはいわゆる世間体のことを言っているのだろうが、ダニエルにしてみればそんなに人をロリコンにしたいかとわめきたい気分だった。
小さくため息をついて、オレンジジュースの紙コップを手に取った。こういう話には適当にうなずいておくのが良いと知っている。下手をすると市の福祉課に目をつけられるとかどうとか、ヘルガがぶつぶつこぼしているのを右から左へと素通りさせながら、もはやすっかり慣れ親しんだオレンジジュースを一口。
「……なんだ、これ」
すさまじく顔をしかめて、ダニエルは紙コップから口を離した。どうしたの、とヘルガは話をストップして紙コップを覗き込む。
「なんか――まずい。おかしくないか、これ」
飲んでみてくれとヘルガに紙コップを手渡して、ダニエルはいらいらと立ち上がりかけた。店長にどういうことだと文句を言って、せめて代金――どうせ一ドルもしないのだが――くらいは返してもらわなければ。
「別に変じゃないわよ。普通のオレンジジュースでしょ」
ところがダニエルの背中に、ヘルガはそんなことを言った。どう贔屓目に見たところで、こんな水っぽいオレンジジュースをオレンジジュースと呼ぶわけにいかないのにだ。
「普通なわけないじゃないか。メチャメチャに甘いし、水っぽいよ」
「普通よ。私も時々朝に飲むけど、こんなもんよ」
それでもそんなに気になるならと、ヘルガはアルバイトではなくて正社員の方の店員を呼んでくれた。そこでダニエルは早速口を開きかけたが、ヘルガはそれを制し、このオレンジジュースはどういうものなのかとまずは穏便に問いかけた。
「はぁ、カリフォルニアから工場に直送したオレンジを、濃縮還元した百パーセントジュースですが」
何か問題でも、と困惑する店員ににっこり笑ってありがとう、と言うと、ほらねとヘルガが当たり前とでも言いたげな目配せをよこすものだから、ダニエルはもう何も言えなくなってしまった。しぶしぶながらうなずいて、オレンジジュースをぐいっと飲み干す。
「……どうも、カタリナに毒されてるな」
紙コップを握りつぶしながらぼやくと、ヘルガが明るい笑い声を上げた。