01:留守番電話
ダンことダニエル・ヒロイの自宅に、ごく最近留守番電話というものがついた。理由は至って簡単で、同居人ができたからである。普通同居人ができたなら留守番電話などむしろいらないはずなのだが、ヒロイ宅の場合は逆だった――何しろ彼女は英語をひとつも解さないので。
ニーニャことカタリナ。英語を話さないスペイン人の、そのくせスペイン語も達者とは言えないバスク語モノリンガルの少女が、ダニエルの同居人なのだった。
英語がわからないから、カタリナが受話器をとることは間違ってもない。それは自発的に電話をかけるという意味でもそうだったし、またかかってきた電話をとる時でも同じだった。
カタリナは今のところ学校には行っていない。もちろん故郷ではちゃんと中学校に通っていたし、勉強は嫌いな方ではなかったけれど、何せ言葉が理解できないのだから意味がない。というわけで半年ばかり就学を延ばすことになったのだった。
それは別にどうということはないのだが、ダニエルのいない日中は暇をもてあます。
どうしようかな、と考えたカタリナの暇のつぶし方が、キッチンにこもることだった。数ヶ月前に死んだばかり――それを思い出すと少し哀しいのだけれど――の母親に教えてもらった料理の腕はなかなかのものだったし、何よりダニエルがそれを食べて少しだけ笑ってくれることが、カタリナにとっては重要なのだ。
その日は自由に使っていいと言われたキッチンで、ちょうど砕いたアーモンドと粉砂糖を混ぜ、マジパンの生地を練っている最中だった。シンクの片隅に置いてあるコードレスフォンが軽快な音で着信を知らせた。
カタリナはちらりと鳴り響くコードレスフォンに視線をくれたが、通話ボタンを押そうとは思わなかった。どうせ出てみたところで、知らない誰かが知らない言葉で喚き散らすだけなのだし。
いつものようにしばらくコールが続いた後、留守番電話に切りかわった。無機質な女の声が家主の不在を告げる――ヒロイです、ただいま留守にしております。ご用の方は発信音の後に、お名前とご用件をどうぞ。そしてピーッという音がして、普段は電話は切れてしまう。その大抵が、くだらない何かの勧誘だからだ。
だが、今日は違った。コードレスフォンはさらに音を発したのだ。
『ニーニャ、いるか?』
カタリナは目を見開いて、粉だらけの手であたふたとコードレスフォンを取り上げた。ダニエルだ――彼女をニーニャなんてふざけた、けれども温かな感情のこめられたスペイン語で呼ぶ人間は、ダニエルしかいない。そもそもスペイン語で電話をかけてくる人間も、このアメリカではそうそういないだろうけれど。
あわてて通話ボタンを押そうとしたが、普段使い慣れていないせいかうまくいかなかった。焦れば焦るほど、黒いシンプルなボディが小麦粉と砂糖で真っ白に染まってゆく。まったく後でダニエルに怒鳴られそうな始末だったが、カタリナはかまわなかった。
こちらの悪戦苦闘も知らず、ダニエルの声は続けた。
『どうせその辺りで聞いてるんだろ。今日の夕食は外で食うから、六時ごろになったらコート着て待ってろ。いいか、六時になったら、コートを着て、待ってろ』
それから三度、しつこくダニエルは応えのない留守番電話に繰り返した。
カタリナはもはや電話を何とかしようという気をなくしていたが、コードレスフォンを手放してはいなかった。何か大切なもののようにその小さな機械を抱きしめて、じっとダニエルの声を聞いていた。スペイン語はよくわからなかったけれど、アメリカに来てから彼が教えてくれて、日常会話くらいは困らなくなっていた。
留守番電話を再生してみる。六時に、コートを着て、待ってろ。
反射的に時計を見上げると、四時だった。作りかけのマジパンをオーブンに入れて、焼いている時間くらいはある。
よし、とひとつうなずいて、コードレスフォンをシンクに置き直そうとした――が、ふと思い直して、もう一度留守番電話を再生した。少し乱暴な口調の、男の声――ぶっきらぼうなスペイン語は、それでも聞いているとなんとなくうれしくなれた。
六時になったら、コートを着て、待ってろ。その言葉を、何度も何度も再生させた。
「――俺、コートを着て待ってろって言わなかったか?」
うめいて、カウチで寝こけている少女――カタリナだ、もちろん――を見下ろした。
時刻は六時半を少し回っている。遅くなったと大慌てで購入三年目のセダンを転がし、息せききって家に飛びこんでみればこのざまだ。カタリナはカウチで眠り、コートも着ていない。部屋は焼き菓子のいい香りでいっぱいだったが、ひょいとキッチンを覗くと粉だらけだった。掃除は誰がするんだ、と泣きたくなってくる。
そして一番やりきれないことと言えば、
「クソ、真っ白じゃないか……」
小麦粉と砂糖にまみれて真っ白になって、どういうわけかカタリナが抱えて眠っているコードレスフォンだった。
まったく何が彼女をそんなに拘泥させるのかと不審に思いながら、ダニエルはそっとそれを拾い上げた。メッセージが入っていたので、何気なく再生ボタンを押してみる。
『ニーニャ、いるか? どうせその辺りで聞いてるんだろ。今日の夕食は外で食うから、六時ご』
そこまで聞いた段階で、ダニエルは顔をひきつらせながら消去ボタンを押した。留守番電話に入った自分の声など、恥ずかしいやら気まずいやらで聞きたくもない。
けれどもおかげでカタリナが電話を抱きしめていた理由もわかったような気がする。しつこいくらいにダニエルが繰り返したスペイン語の簡単なセンテンスも、彼女にとっては聞き取りが容易でなかったのだろう。何度再生したのかと、切ないほどに一生懸命なカタリナの様子が頭に浮かぶ。
「――まあ、仕方ないか」
苦笑いとともにため息をついて、上着ををカタリナの細い身体にかけてやった。季節はそろそろ初冬を迎えて、夜は冷えこむ。風邪を引いてはかわいそうだ。
そのまま適当な夕食の準備をしようとキッチンに向かいかけたが、ふと思いついて、ポケットから携帯電話を取り出した。コードレスフォンの呼び出しを消音に設定して、コールする。
応えを返した留守番電話に向けて、ダニエルは一言メッセージを吹き込んだ――今度は時間どおりに帰ってくるから。新着メッセージの表示を出したコードレスフォンを、あどけなく眠るカタリナの枕元に置いてやる。
外食の計画はおじゃんになったが、たまにはこういうのも悪くはないなとダニエルは小さく笑った。