第八話・準、図書室にて
一週間はあっという間だ。今日は金曜日、そして来週の月曜からテストだ。この間借りた本を持って、図書室へと向かっていた。返却日まではまだ日があったが、俺は今日図書館へ行かなければならなかった。それというのも……実は俺がそこへ行くのはもう一つの目的があったからだ。
(……どう言えばいいんだ?)
俺は扉の前でため息をついた。なんだか分からないが異様に緊張している。ただ本を返すときに、「名前読み間違えてて、ごめん」と言うだけでいいのに、なぜ俺は汗をかいているのだろうか。
俺のこと怒っているのだろう?
同じクラスの河本が、実は“河本”だと知ったのは3日前のことだった。それまで俺は、彼女の名前をずっと読み間違えていた。これが1度や2度なら知らないふりをするところだが、俺は少なくとも10回は間違えて名前を呼んでいる。その事実を知ったとき、俺はいつも河本が見せる不可解な表情の意味を知った。河本はおそらく、
「あたし、“かわもと”じゃなくて“こうもと”だよ」
と言いたかったのだろう。
……だったら言ってくれればいいのにとも思うが。
とにかく、こういうのは早めに謝った方がいいらしい。滝谷先生にメールの返事をするとき、何気なくこのことを相談したら「自分が間違っていたと思ったときは素直に謝った方がいい」と言っていたのだ。
そういえば、滝谷先生も名前を間違えて呼ばれることがあると言っていた。間違いだと思えば特に気にしないが、悪意があって間違った呼び方をしてるんだとすると腹が立つと。きっと本名は変わった名字なんだろう。
俺はもう一度ため息をついた。もう一つの問題を思い出してしまったのだ。
(小説も考えておかなきゃな……)
あの小説、長い間俺の番で止まっているのだ。今はテスト期間だからという理由で待ってもらっているのだが、本当は続きが書けなくて困っているのだ。スランプと呼ぶほどのものではないが、全く先が思い浮かばない。色々な展開をメモ帳に書き出してはいるが、どれもいまいちなのだ。あまり不自然にならず、かつ面白い展開とは……?
考えれば考えるほど、俺は追いつめられていった。
おそらくこういうのが、俺の悪いところなのだろう。一人で考え込んで、考えすぎて、自分を追いつめる。よく分かっているのだが、そう簡単に人間の性格は変えられない。
(とにかく、ここに立ってても時間の無駄だ)
俺は深呼吸をすると、意を決して扉に手をかけた。
図書室の中は今日も静まりかえっていた。まあ、どこの学校も図書室は静かだろうが、うちの場合は『不気味なくらい』という形容詞がつくほどいつも静かなのだ。
図書室には誰もいなかった。扉は開いているのに図書委員も、司書の先生もいない。俺は不審に思いカウンターに目を向けた。するとそこには大きな札が立てられていた。
『すぐに戻ります。少々お待ち下さい』
何か用事があって留守にしているようだ。俺はそれを見て、一気に体の力が抜けるのを感じた。さっきまであんなに緊張していたのが馬鹿みたいだ。
俺はとりあえず座って待っていようと思い近くの席に腰掛けた。何か借りる本を探してもいいが、来週からテストだから読む時間がない。
もう一度この『青すぎる孤独』を読み直してもいいだろう。そう思って俺が本を開いたときだった。ふいに誰かの視線を感じて、俺はゆっくりと顔を上げた。
「!?」
その瞬間。俺は驚いて飛び上がりそうになった。誰もいないと思っていたのに、いつのまにか俺がいる場所から少し離れた席に、一人の女子生徒が座っていたのだ。
(妖怪女……!)
それは俺が妖怪女と呼んでいる女生徒だった。彼女は、この図書館を利用している数少ない生徒の一人だ。名前は知らない。確か隣のクラスだったと思う。片目が前髪で隠れていて女版鬼太郎といった感じの暗そうな生徒だ。
妖怪女は俺をじっと見つめていた。いや、違う。彼女が見ていたのは俺ではなく、俺が持っている本だった。
「それ……」
妖怪女がか細い声で言った。彼女の声を俺は初めて聞く。なんだか想像通りの、不気味な声だ。
「それ、返すの?」
「え? ああ」
たったそれだけだった。俺が答えると、彼女は納得したらしく、俺から視線を外すと手に持った本を読み始めた。その本は俺も読んだことがある。推理小説の古典的名作、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』だ。
するとその時、立て付けの悪い扉が断末魔の叫びを上げながら開かれた。俺は反射的に扉の方を振り返った。見れば、たくさんの本を抱えた河本がふらふらとおぼつかない足取りで部屋に入って来るところだ。本を高く積んで持っているため足下がよく見えないのだろう。なんだか妙に危なっかしい。
「危ないぞ」
俺は河本に近寄ると、彼女から数冊本を奪い取った。すると、
「き、きき、木下君!」
河本はビックリしたのか、裏返った声で俺の名を叫ぶと本を落としてしまった。なんだか俺は余計なことをしてしまったようだ。
「大丈夫か?」
「え? 大丈夫。ごめんなさい。せっかく手伝ってくれたのに、その、あたし、驚いちゃって」
そういうと河本は真っ赤になって顔を伏せた。こんなことが前にもあったような気がする。河本はもしかして俺を怖がっているのだろうか? そういえば数日前、鈴木達に絡まれているのを助けたときも微妙な表情をしていた。
「いや、こっちこそ……わるい」
俺は本を拾うのを手伝うと、それをカウンターに運んだ。
「木下君、本借りるんじゃないの?」
「いや、返そうと思って」
俺はさっき座っていた席まで戻ると、本を持ってきて彼女に渡した。
「返すだけなら、置いててくれれば良かったのに」
確かにそうなのだが。俺は河本に用事があるんだ……
「あのさ」
俺があのことを言おうとした時だった。
「それ、私が借ります……」
いつのまにか俺の後ろに立っていた妖怪女が、『青すぎる孤独』を指さして言った。
「あ、はい。学生証はありますか?」
河本は急いでカウンターの反対側に回ると、図書委員の仕事をはじめた。パソコンに向かい、手早く貸し出し処理を行う。
「……」
なんだか俺はその場に居づらい気がした。大体、このまま妖怪女がいなくなるのを待つのも変だし、あのことを改まって言うのもおかしい気がする。滝谷先生は「言って置いた方が良い」と言っていたが、そんなこと男子生徒に言われたら、河本の場合かえって気を遣うのではないか? それにさっきの態度を見れば、俺が彼女に怖がられているのは明らかだ。そんなことわざわざ言ってこれ以上怖がられるのは嫌だ。
俺は何も言わずにその場を去ろうとした。すると、
「木下君、ちょっと待って!」
河本に呼び止められた。
そのせいで、俺は動けなくなった。ぴたりと止まったままの俺の横を、貸し出し処理が終わった妖怪女がすり抜けていく。
なぜだ? 河本に呼び止められる理由も分からないが、あの本が人気の理由も分からない。あの本は作者はマイナーだし、話の内容も暗い。同時収録の短編にはコメディーもあったが、友達に薦めるほど面白いというわけでもない……やはり人気の理由が分からない。
「木下君?」
河本に声をかけられて、俺は正気に戻った。ゆっくりと振り返り、不思議そうに俺を見つめている彼女を見つめ返した。
「何?」
ちょっときつい言い方になってしまった。すると河本はびくりと肩を振るわせると俺から視線をはずした。やはり俺は、彼女に怖がられているようだ。
「……」
「……」
二人とも無言だった。なんだかとても、気まずい。今こそあのことを謝るチャンスなのかもしれないのだが、沈黙が続くと言葉をかけるタイミングが難しい。
「あのさ」
俺が勇気を出してあのことを言おうとした時だった。
「この間は、ありがとう」
唐突に河本が言った。“この間”とは、おそらく鈴木達に絡まれていた時助けたことだろう。河本は結構、義理堅いようだ。
「あの時、言いそびれちゃったから、その……」
そういうと河本はぺこりと頭を下げた。
「あ、ああ」
俺もつられて頭を下げてしまった。なんだか調子が狂う。
俺は河本の事はあまり知らない。この間助けたのだって偶然で、別にあの時絡まれてたのが河本じゃなくても俺は助けていたと思う。だがそれは正義感からじゃない。俺の……自己満足のためだ。
鈴木はああいう事をして一番誰が傷つくのか、ちゃんと考えたことがあるのだろうか? 九条がすごく優しいやつで、告白してきた子を振るたびに傷ついていることを知っているのだろうか? 鈴木はファンクラブの会長をしているが、王子様じゃない“生身の人間”の九条をどこまで知っているんだろうか? きっと、全然知らないはずだ。
あの時、そんな鈴木に言いがかりをつけられる河本が、俺には哀れに見えた。それだけの事なんだ。
「あまり、九条にかまわないほうがいいよ」
思いがけない言葉が自分の口から飛び出して、俺は驚いた。なんで俺、河本の心配なんかしてやってるんだ? けどなんだかこの言い方だと、意地悪く聞こえてしまうんじゃないか?
俺は言い直そうと思い、河本の顔を見てぎょっとした。彼女は今にも泣きだしそうな顔をしていたのだ。
「え? あ、あの……」
俺は戸惑った。どうしたのか確かめようとすると、河本は顔を伏せてしまった。泣いてはいないようだが、様子がおかしい。
怒っている? なんだかよく分からないが、俺には河本が怒っているように見えた。
「いや、違う。九条にかまうと……鈴木達、ちょっとおかしいから」
言い直そうにも、しどろもどろになってしまう。大体こういう場合、どう言ったらいいのか俺にはよく分からなかった。それに、河本がどうして怒るのか……
どうして?
俺ははっとした。河本は怒ってるんじゃない。河本は……
「九条が好きなんだ……」
河本はぱっと顔を上げた。驚いた顔の彼女と目が合う。その瞬間、俺はしまったと思った。そうと分かっても知らない振りをしてやるんだった。こんなこと、言うべきじゃなかった。
「ごめん、河本」
俺が謝ると、河本はまた驚いた顔をした。たぶん、色々な意味で驚いているんだろう。
「ごめん」
俺はもう一度謝った。こんな時笑ってごまかせれば良いのだが、生憎と俺はそんな高等技術は持ち合わせていない。場の雰囲気を変えるために新しい話題持ち出すとか、そういう気が利いた事ができないのだ。だから俺はただ謝るしかなかった。河本の気持ちを知ってしまったことも、名前を間違っていたことも、謝って許しを請うしかできなかった。
すると河本は、
「九条君には、言わないで」
と言うと顔を伏せた。彼女の耳は真っ赤だ。顔は見えないからどんな表情をしているのかは分からない。
「分かった。言わない」
俺は河本を安心させるように言った。
河本に言われなくても俺は九条に言うつもりはなかった。そんなことを言えば九条がまた傷つくと分かっていた。河本が本気で九条を好きなら尚更、その気持ちに答えてやれない時……九条は傷つくのだ。
「名前……そんなに、気にしてないから」
「ああ、うん」
妙な雰囲気だった。お互い居心地が悪く、そわそわしている。
俺はちらりと河本の様子を伺った。俯いてはいたが、さっきより落ち着いているようだ。
(九条のこと、俺に知られたくなかっただろうな)
妙な罪悪感を覚えたが、こんな時どんな言葉をかければいいのか分からなかった。だから俺は「じゃあ」と言うと逃げ出すように図書室を出た。
廊下に出るとすぐ深呼吸をした。すると、緊張のせいで早まっていた脈がだんだんと緩やかになっていった。ふと気付けば、じっとりと手に汗をかいていた。そういえば、寿命も少し削られたような気がする。ほんの少しの間だったのに、俺は河本と話しただけで疲れてしまった。
そう、今回のことで一つ分かったことがある。
俺は、河本が苦手だ。