第二十二話・準のとまどい
不運続きで怪我までしてしまった俺だが、そうそう悪いことばかりが続くわけではないようだ。病院に担ぎ込まれるまではついてないことばかりだったけれど、最近は良いことばかりが続いているような気がする。
検査の結果異状なしと診断された俺は、予定より早く退院することができた。松葉杖生活は大変だが、家族やクラスの皆が親切にしてくれるので助かっている。特に石塚さんには感謝してもしきれない。学校の登下校を「バイトのついでだから」と言って送り迎えをしてくれているのだが……これが本当は親切な嘘であることはすぐに分かった。裏でこっそり姉貴に頼まれたことも、俺が気を使わないように嘘をついてくれたことも。その優しさが嬉しいので、素直に甘えることにした。たまには甘やかされるのも悪くない。
地区展用の制作も進んでいる。小説の方もそれなりに。今回の入院体験は小説を書く上でとても参考になった。怪我の功名とは……少し意味が違う気がするが、まあ、今までと見る角度が違くなったことで、少しだけ物事を楽天的に見られるようになったのかもしれない。開き直ったと言ってしまえばそれまでなんだが。
「木下君、大丈夫?」
ぼんやり考え事をしながら歩いていると、ふいに声をかけられた。おどおどしたこの声には聞き覚えがある。振り返れば予想通り、いつものつむじが見えた。
「ああ、河本。そんなに気を使わなくたって大丈夫だって。今から練習だろ?」
体操着姿の河本は俯いたまま頭を小さく縦に振った。
「うん。そうなんだけど、あのね……」
河本はふいに顔を上げて俺の顔を見ると、すぐにまた顔を伏せた。そして何か言いにいことでもあるのか、しばらく黙ったまま石のように固まって動かなくなってしまった。
こういう場合、俺の方から何か声をかけるべきなんだろうが……あいにくと、俺はこういう場面でかける言葉というのが分からない。だが、こうして二人黙ったまま廊下に立ちつくしているわけにもいかない……
「練習どう? 新しいペアでうまくやってる?」
俺が適当に声をかけると、河本は突然水でもひっかけられたような顔をして俺を見返してきた。なんだかよく分からないが、困っているようだ。少し涙目で、顔はプチトマトみたいに真っ赤だ。
なんてことだ。適当に言ったことが的を射てしまったようだ。河本の新しいペアと言えば……うちのクラスの問題猿こと加賀じゃないか。あいつ、何か河本を困らせるようなことをしたな……
「実はその……木下君、加賀君と仲いいでしょ? それでその、あの、ちょっとだけ相談に乗ってほしいんだけど! 立ったままも大変だから、あの、そこで」
河本は一気に言うと、家庭科室を指差した。
*
家庭科室の中はほんのり甘い匂いがした。1年生が今日家庭科の実習でマフィンを作ったからだ。昼休みにさっちゃんからおすそわけを貰ったが、とても美味しかった。
俺と河本は向い合せに座った。俺が松葉づえを横に置くのを見た河本が申し訳なさそうな顔をしたが、俺はそのことには気がつかないふりをした。またゴメンナサイを言われるのは嫌だったし、これ以上俺の怪我が河本の心の負担になるのはもっと嫌だった。
「あいつが、何か迷惑かけてるならちゃんと言った方が良いと思うよ。大体この組み合わせ、実行委員が決めたんだろ? 確かに加賀は足は速いけど、二人で走るとなるとまた違ってくると思うし……」
俺がそういうと河本はぶんぶんと頭を振った。まだ顔は真っ赤だ。
「違うの。その、実行委員が悪いんじゃなくてあたしの問題なんだけど、でも、その、やっぱり困ってて……」
「河本?」
「加賀君に告白されたの!」
「は?」
一瞬、河本が何を言ったのか分からなくて固まってしまった。加賀が河本に告白? 告白というのは、いわゆる男女の愛の告白というやつだろうか?
「え? 冗談だよな?」
加賀は惚れっぽいが、まさか河本を好きになるなんて考えれない。あいつはどっちかって言うともっと派手目の女子が好きなんだ。もちろん河本が地味とかそう言うんじゃなくて、十分かわいいけど……って、何を考えてるんだ俺は!
「冗談だったら、困らないよ。本当に、嘘だったらいいのに」
項垂れた河本を見たら、気の毒になってきた。
(そうだ。河本は九条を好きだから……)
……なんだ? なんだか胸の中がもやもやしてきた。なんだろう、これは?
「木下君?」
「あ、ごめん。いや、その……河本は九条が好きなんだもんな。それを加賀に言えばいいんじゃないかな。そんなに気使わなくていいと思うよ。あいつ振られ慣れてるからさ。馬鹿だけど、ちゃんと言えば分かると思うし」
適切なアドバイス。そう思うのに、心の中で何かが引っ掛かっている。自分の言葉なのに何かしっくりこない。河本を見ると、どこか不満そうな顔をしていた。そんな簡単に済むなら相談しないわよ! そんな心の声が聞こえてきそうだ。
「加賀君にそう言ったら、九条君にしゃべっちゃうんじゃないかと思って」
確かにそれはある。言わないでも態度に出るだろう。
「木下君は、信用できる……から」
“信用できる”という言葉がずしりと心に乗っかってきた。言うなと脅されるより、こんな風に無防備に信用される方が恐ろしい。もし何か間違いがあって秘密をこぼしてしまったなら、今まで築いてきた信頼が全て無くなってしまうだろう。もしそうなったら二度と口をきいてくれない。それは嫌だな。
(ん? なんだ? あれ? 俺、今何か変な事を考えてなかったか?)
「木下君、聞いてるの?」
「え、ああ、聞いてる。ごめん」
河本の声で正気に戻った。今日の俺は変だ。これはあれだ、疲れているからだ。
「あの、もしかして足痛むの?」
「あ、うん」
反射的に答えて、しまったと思った。ここは違うと言う所だ!
「ゴメン……」
「いや、違う。大丈夫だから。本当に全然……」
“気にしなくていい”と続けようとして、足音に気がついた。特徴的な走り方だから誰だかすぐに分かる。河本もその足音が誰なのか気がついたらしく、突然立ち上がった。
「どうしよう! 木下君、あたし隠れるから、加賀君が来ても知らないって言ってね!」
そういうと河本は素早く調理台の下に身を隠した。するとそれと同時くらいに扉が乱暴に開かれた。見れば例の人物が息を切らしながら立っているではないか。廊下を走るなという校則はヤツには通用しないらしい。全力疾走してきたみたいだ。
「あれ? なんでお前がいるんだ?」
それはこっちが聞きたい。噂をすれば影と言うが、タイミングが良すぎるだろう。
「加賀こそ、何してんだ? 体育祭の練習は?」
「うん、だからぁ、美幸ちゃんを探してんの」
「み!?」
何か変な言葉が口から出てきそうで、俺はとっさに口を押さえた。この前まで『河本さん』と呼んでいたのに、いつから『美幸ちゃん』に変わったんだ!?
どうやら加賀が河本に告白したというのは本当らしいが、いや、でも、急すぎるだろう。
「なんかこっちの方が臭うと思って来たんだけど、見なかった?」
お前は犬か! と叫びそうになるのをぐっとこらえた。そんな漫才をやってる暇はない。
「う〜ん、やっぱり臭うな。美幸ちゃんの甘い香りがする気がする……」
そういうと加賀は河本が隠れている調理台に近付いて行った。ヤバイと思った俺はとっさにヤツの腕を掴んだ。
「それはマフィンの匂いだ。一年が実習やったから……お前も昼に食べただろ?」
「ああ。ひらりの妹ちゃんの? あれ、美味しかったよな。でもそれとは違う匂いが混じってるような……」
加賀はくんくんと鼻を鳴らした。本物の犬みたいだ。
「で、木下……どうして俺の腕掴んでんの?」
言われて自分が加賀の腕を掴んだままだということに気がついた。だが、手を離したらヤツの自慢の嗅覚で河本を見つけてしまうだろう。
俺はとっさに嘘をついた。
「その、思い出してさ。俺、頼まれてたんだ。伝言を」
「伝言って、美幸ちゃんから?」
加賀がこちらを振り向いた。どうやら作戦成功のようだ。
「……ああ、委員会があるから少し遅れるって言っといてくれって……」
我ながらうまい嘘だ。単純猿なら簡単に騙されるだろう……と思ったのだが、
「えー? さっき図書室にも行って来たんだけど、いなかったぞ?」
失敗だった。
「……お前、何か隠してないか?」
加賀は訝しげな表情で俺の顔を覗きこんできた。猿め。野生の勘か?
「いいや。大体、何を隠すって言うんだ」
「だって……」
加賀の眉根に皺が寄った。
「木下って、美幸ちゃんと仲良かっただろ? 一緒に走りたかったのかと思って」
「は!?」
変な声がでた。思いもよらないことだった。
「クラスで噂になってるしさ。怪我してまで美幸ちゃんを守ったのは好きだからに違いないって。木下は覚えてないだろうけど、こけた時のあの格好見りゃ誰だってそう思うよ」
一体どんな格好だったんだ。頭を打って気を失ってしまったことが悔やまれる。
「で、本当はどうなんだ? 俺、美幸ちゃん好きになっちゃったからさ。そこんところ気になるんだ」
そういうと加賀はまっすぐに俺を見つめてきた。猿、猿と馬鹿にしてきたが、こういう所は男らしくていいと思う。俺だったらライバルを前に、こんな風にはっきり『好き』という言葉を口に出せない。その言葉の重みにひるんで、何も言えないまま逃げるだろう。
俺は加賀を見返すと、ゆっくりと息を吐いた。変な噂が広まったら河本が迷惑だ。それに俺だって困る。
「違うよ。そんなんじゃない」
俺はそういうと加賀の額にデコピンをした。するとみるみるうちに眉間の皺はほどけ、敵を威嚇するゴリラみたいだった加賀の顔はバナナを貰った動物園の猿の顔になった。
「あれはとっさにしたことだし、俺、河本のことなんとも思ってないから」
嘘はついていない。はずだった。なのにどうしてだろう? 自分の言葉に違和感を感じていた。
(まただ……今日の俺、やっぱりどうかしてる)
「そっかあ。じゃあ、協力してくれるな? 俺と美幸ちゃんがうまくいくようにさ!」
加賀はそういうと、俺の手をがっしり握った。
「へ?!」
「ああ。よかった。俺、木下とライバルになるのは嫌だったからさ! 俺たちの友情は永遠だよな? あ、そうだ。数学の宿題明日見せてくれよな。ああ、よかった!」
自分が誤った選択をしたことに気がついたが、もう後の祭りだった。目の前の年中お祭り男は小躍りをはじめ、もう俺の言葉など聞いてはくれなかった。