第二十一話・美幸の決心
木下君が入院している病院までは学校から歩いて15分の場所にある。あたしは木下君を怪我させてしまった。入院は1週間と聞いているが、どうしても会いたくて、こうして病院に向かってる。
病院につくまであたしはなにも考えないようにした。昨日は面会を断られ、今日も断られたらと考えたらどうしても足が重くなってしまう。それに……木下君があたしを見てどういう反応をするか不安でしょうがない。
なにも考えずに歩いていると、いつの間にか病院についた。5階建てのここの病院は産婦人科や眼科、外科などがあり、この辺りでは1番大きな病院だ。
昨日のように入口を通り、受付に向かう。白衣を着た看護師さんたちがカルテやなにかの用紙を持っていたり、電話で誰かと話していたり、みな忙しいそうに働いていた。
「あの……すみませ〜ん」
そう言っても誰も来る気配はなかった。それともあたしの声が小さくて聞こえなかったのだろうか。すると、近くにいた黒い縁の眼鏡をかけた女の看護師さんが受話器を戻した。
「あの、すみません」
「すみません。もうしばらくお待ち下さい」
そう言って、さっさと奥の方に行ってしまった。あたしは少し辺りを見渡しながら待ったがなかなか来てくれなかった。あたしは木下君に会って謝りたいだけなのに。「ごめんなさい」と。たった6文字を言いたいだけなのに会えない。それが言えなくて、あたしは泣きそうになった。すると、
「あれ? あそこにいるの河本さんじゃない?」
聞いた事がある声に振り返る。そこには九条君、ひらり君、加賀君の3人が制服姿で立っていた。九条君は手にケーキの箱を、ひらり君はフルーツの籠を持っていた。加賀君はないのが当たり前のように立っていた。そういうあたしも手ぶらだから人のこと言えないけど。
「準の見舞いに来たの?」
九条君がそう言うと、あたしは小さく頷いた。
「でもなんか忙しいみたいで……」
「なんだよ。つまんねぇの」
加賀君は来て損したって顔をしながら椅子に座った。九条君は受付に向かい、近くにいた女の看護師さんに声をかけた。すると、あれほど忙しそうにしてたはずなのに受付に看護師さんが飛んできた。
「木下準に会いたいんですけど」
「木下準さんですね。……3階の308号室です」
看護師さんの目にはピンク色のハートがいくつも浮かんでいた。確かに九条君はカッコイイけど、あたしと話す時と全然違う対応に少し腹を立てた。
「ありがとうございます」
九条君はそう言って、看護師さんから離れた。ひらり君と加賀君が九条君のあとに続き、あたしもどさくさに紛れてついて行った。エレベーターで3階に上がると、看護師さんやら女の患者さんが一斉に九条君に視線が移った。
「おい、俺の事見てるぞ。あっ、1番左の子見ろよ。めっちゃかわいい!」
この場にいる加賀君以外の全員が思った事はきっとこうだと思う。
あんたじゃないよって。
あたしたちは木下君がいる308号室に向かう。九条君ばかり見ている看護師さんや患者さんを避けながら。
308号室につくと、すでに誰かが木下君と話していた。背が高く、体格が凄くよくて熊みたいな人だ。他校のようだ。
「木下〜! 死んでないか〜?」
加賀君がそう言って病室に入っていった。そのあとを九条君とひらり君がついていく。あたしも入ろうとしたけど、看護師さんや患者さんで入れなくなった。まるで有名人でも来たかのような騒ぎになってる。「あの人、カッコイイよね!」や「めっちゃタイプなんだけど!」などの声が聞こえてきた。
あたしは病室の中に入ろうと身をよじったりジャンプしたりしたが、あっという間にできてしまった九条君ファン――即席だけど――の人たちに阻まれて、なかなか進むことができなかった。
まるで満員電車の中にいるみたい。あたしは人波で窒息しないように隙間から無理矢理首を伸ばして、なんとか病室の中を覗いた。すると九条君が微笑むと、
「キャー!」
と歓喜の声が四方八方から聞こえてきた。
「もう……九条君はジャニーズの人じゃないの」
あたしが呆れた声で呟くと、急に視界が開いた。見ると看護師さんが何かに吸い寄せられるように、一人ふらふらと病室の中に入っていく。魂が抜けてしまったように見えるのだけど、大丈夫なんだろうか?
するとさっきまで全然見えなかった病室の中がよく見えるようになった。九条君の隣りに加賀君とひらり君がいて、あの熊みたいな人と話をしている。そして……ベッドには木下君がいた。
「おいでよ。準のお見舞いに来たんだろう?」
九条君があたしに言ってるって事はすぐに分かった。でもここまで来て、あたしは怖じ気づいてしまった。病室の中に入る勇気がない。足もすっかり重くなってしまった。もしかしたら木下君はあたしの顔も見たくないのかもしれない。頭の中でそんな事を考え始めた。
あたしは小さく頭を振った。ダメダメ! そんなの今さらだ。それにちゃんと謝らないと。そのためにここに来たんじゃない。
心を決め、病室に一歩足を踏み入れた。だけど意気地なしのあたしは、木下君の顔を真っ直ぐ見ることはできない。俯いたままのあたしに、みんなの視線が突き刺さった。若干殺意のようなものも後ろから感じながら。
「え、あの……」
横にいる看護師さんがきょとんとしながら何か言ってるが無視した。
「――河本?」
木下君に名前を呼ばれて小さく頷くと、誰かが笑った。しかも忍び笑い。あたしはそっと顔を上げると、犯人はあの熊みたいな人だった。何故かあたしと木下君を交互に見ながら、口に手を抑えていた。
「僕ら邪魔なようだね」
と熊みたいな人が言うと続くように九条君が、
「そうだな」
と口角を上げて言った。
「ほら、お前ら出るぞ」
「お、おい。なんで出るんだよ?」
木下君が慌ててそう言うと、熊みたいな人がなにやら耳打ちした。その間に九条君たちは即席で出来た九条君ファンの人たちをかきわけながら病室を出ていった。
「またな準君。話は今度たっぷり聞かせてもらうよ」
木下君にそう言って、満面の笑みで熊みたいな人も出ていった。ドアも閉められ、病室の中にはあたしと木下君だけになった。即席の九条君ファンの人たちもいなくなり、すっかり静かになった。
あたしは思いきって、言う事にした。言いたかった事を。
「あの……」、「あの……」
お互い同じタイミングで言ってしまった。あたしは俯いたまま、
「さ、先に……どうぞ」
と言ったが、
「そ、そっちから」
返されてしまった。あたしは少し戸惑いながらも先に言う事にした。
「……ごめんなさい」
「え?」
「あたしが……木下君の事考えずに走ったせいで……木下君に……怪我させちゃった」
そう言った途端、涙が出そうになった。堪えようとしたけど、止まらなかった。溢れ出る涙が頬をつたっているが分かる。
「ごめんなさい」
震える声で言った。自分でも分かってる、泣いても仕方ない事は。でも涙が勝手に出てしまう。病室にしばらくあたしの泣く声だけが響き、気まずい空気になったと思うと、木下君がゆっくりと口を動かした。
「あっ、いや……こっちこそ……ごめん」
「……ふぇ?」
「俺が……走るスピードを上げたから」
木下君を見ると、俯いていた。
「そ、それとさ……何回か……来たんだって?」
木下君はそう言うと、頭をかいた。あたしは小さく頷き、涙を拭った。
「これ……使うか?」
木下君がティッシュの箱を差し出してきた。あたしは遠慮なく受け取り、鼻をかんだ。ようやく涙も収まり、落ち着いてきた。
「その、なんて言っていいか分かんないけど……ありがとな」
あたしは何故か不思議な気持ちになった。これは多分……男の人にあまりお礼を言われてないからだと思う。とにかく不思議な気持ち。でも嫌ではない。
いやいや、そんな事よりなんであたしがお礼を言われるのだろう。木下君に怪我をさせちゃったのに。普通、怒ったりするのに。
「あたし……お礼言われるような事……してないよ。木下君を……怪我させた」
「いや……悪いのは俺だよ。……スピード上げたりなんかして」
……そういえばそんな感じも。ってそうじゃなくて! あれはあたしが悪いよ。木下君の事も考えずに走ったりしたから。
「俺が……言えるような立場じゃないけど…………捻挫だけで済んだから、俺は大丈夫だよ」
木下君は頭をかきながらそう言うと、続けて……
「体育祭……頑張ってな」
と言った。その時あたしは自分に誓った。木下君の分まで頑張って、1位になるって。それがあたしに出来るせめてもの償いだと思う。自分がしてしまった事は仕方ない。そう割り切った。
「うん。……あたし……木下君の分まで頑張る!」
そう言うと木下君は微かに微笑んだ。木下君の不器用だけど優しい笑みに、つられて笑った。
「応援してるよ」
木下君はそう言うと、恥ずかしかったのか少し顔を赤くして黙りこんでしまった。あたしはその仕草が可笑しくて、つい吹き出してしまった。すると、木下君も突然声を出して笑い出した。あたしたちは少しの間、ここが病院だってことも忘れて大きな声で笑っていた。
しばらく笑っていると、胸がすっきりした。不安とか罪悪感とかが全部なかったような感じ。ふと、あたしは木下君の隣にある1冊のノートに目が止まった。それは長く使っているせいか所々汚れており、とても学校で使ってるようなノートには見えなかった。すると木下君もあたしの視線に気づいた。
「あれはなに?」
「別になんでもないよ」
あたしはノートに手を伸ばすと、木下君が素早くノートを取ってしまった。
「べ、別にいいだろ」
あたしは木下君の慌てようが気になり、ノートを取ろうとした。当然死守しようとする木下君。すると木下君が腕をあげて、ノートをあたしから遠ざける。あたしも負けじと腕を伸ばした。
その時だった。
「キャッ!」
足が滑った。気づくと木下君の顔がすぐ目の前にあった。端から見たらあたしが木下君を押し倒してるような体制に見えるだろう。お互い動こうとせず――動けなかったと言った方がいいかも――に木下君の息が顔に当たる度に、心臓が爆発しそうになった。頭が真っ白になり、なにも考えられなかった。
すると、病室のドアが開いた。
「いや〜、鞄忘れちゃったぁ」
入って来たのは、あの熊みたいな人だった。笑顔で入ってきたけど、あたしたちを見て体が止まった。まるで凍ってしまったかのように、鞄に手を伸ばした格好で。しばらく誰も動かず時間だけが流れた。すると最初にそれを破ったのは熊みたいな人だ。
「お、お邪魔だったね」
「し、シバケン。ご、誤解だ……」
「いいんだ。邪魔したな」
木下君が何か言う前に熊みたいな人――シバケンって名前だっけ――が、ニヤニヤしながら出ていった。しばらく沈黙が流れ、
「……もういいかな?」
木下君にそう言われて、あたしは慌てて離れた。木下君は若干汗をかいていた。あたしも心臓がドキドキしていて落ち着かない。
「ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
木下君はそう言うとノートを足元に置き、ひらり君が持っていたフルーツの籠からバナナを取った。よく考えれば木下君とこんなに話したのは初めてかもしれない。いつもならどっちかが先に逃げるように行っちゃうから。そう考えただけでますますドキドキしてきた。ホント、全然慣れないなぁ。
するとまたドアが開いた。現れたのは同じ学校の女の人だった。
「は、春崎先輩」
「怪我の具合は大丈夫? 木下くん」
「だ、大丈夫っす」
木下君はどもりながら言った。俯きかげんで、けして女の人とは目を合わそうとはしなかった。見ただけで緊張してるのが分かる。木下君の口調から推理すると、どうやらこの人は美術部の人のようだ。
「そう、元気そうで良かったわ」
上品な微笑みを浮かべた美人がそう言った。誰が見たってこの人は美人だ。例えるなら本当にお人形のよう。
「わ、わざわざ来て下さって……ありがとうございます」
そんな木下君を見てると、なんだか居心地が悪くなってきた。それに……なんだか変な気分になってきた。さっきの不思議な感じとはまた違うものだ。
「じゃあ……あたし帰ります」
「え?」
あたしがそう言って部屋を出ようとしたら、木下君が不思議そうな顔であたしの事を見ていた。ついでにあの美人の人も。あたしは「用事があるんで」と言うと逃げるように病室を出た。どこかで見た事ある中年の男の人とぶつかりそうになったけど、構わず病院の入口に向かって走った。
病院を出てから自分が何をやってるのか分からなくなった。この胸のもやもやは何だろう?
「……なにやってるんだろ」
自分の行動もこの変な気持ちも分からない。ただ、こんな気分になるのが初めてだって言うのは分かる。今まで感じたことがないこの気持ち……。一体なんだろう。
あたしは頭を振って考えるのをやめた。今のあたしには考えたって分からないことだろう。そう決めつけて病院を見て、改めて決心した。
「……絶対1位になる」
あたしが木下君の分まで頑張らないと。だから……なにがなんでも1位になる。そして、木下君を喜ばせたい。これが今のあたしに出来る精一杯の償い。
木下君の笑顔を思い出しながら病院を背にして、あたしは駅に向かって歩いた。