第二十話・準、思うこと考えること
どうしてそうなったのかはわからない。
ただ、自分がいけなかったんだと思う。
ちゃんと受け止められなかったのは自分で、うまく転ぶこともできなかった。
だからこれは罰で、当然の報い。
河本が怪我をしなくて良かった。
……今はそれだけを思う。
*
目を開けると、真っ白な天井が映った。消毒薬の臭いが風に運ばれて鼻孔をくすぐる。ぼんやりした頭のまま目だけ泳がせると、視界の隅に開け放された窓が映った。若草色のカーテンが風で揺れている。
そうか、ここは病院かと状況と思考が一致したところで、俺は右手にかかる不自然な重みに気がついた。
誰かが俺の右手を握っている。そっと首を傾けると、きれいに渦を巻いた後頭部が見えた。俺の手をしっかりと握り眠っている少女。
瞬間ぎょっとして、俺はそのまま固まってしまった。自分が動けば彼女が起きてしまう。身動きがとれない。それに俺の右手を拘束した人物の無防備な寝顔――その頬に涙の跡を見つけてしまったから、どう対処すればいいのか分からなくなってしまった。
「……ごめん」
掠れた声で呟く。何を謝りたいのか自分でもよく分からなかった。なのに、ただ頭に浮かんできた言葉を口にしただけだったのに……なぜか泣きたくなった。
右手のぬくもりを確かめる。そこからじんわりと彼女の熱が伝わってくる。心地の良い温かさが。誰かの手が、存在が、これほどうれしいと思ったことは今まであっただろうか?
俺は彼女を起こさないように静かに体の角度を変えると、左手で彼女の顔にかかっていた髪を払いあげた。その時ほんの一瞬、密やかな寝息が指先にかかって、そこからビリビリと体が痺れるのを感じた。同時に身体の内側から何か熱くて荒々しい感情が押し寄せてくる。
破壊的で、ともすれば破壊行為そのもののように思えるそれは、なぜか魅惑的で何よりも美しいもののように思えた。そしてそれは二面性を持った美というのだろうか。淡い光をたたえる朝露のような儚さを感じるのに、よく研磨されたダイヤモンドのように何よりも硬く揺ぎ無いもののように思える。
俺は呼吸を整えると視線を彼女に向けた。わずかに震える睫毛、その奥に隠された瞳、その眼差しを思い起こす。思い出の中に映る全てが眩しい。目を開けていられないくらい、そばに居るのが、息をするのが苦しくなるくらいに。
――だから。
「……っ」
左手で顔を覆う。たぶん、今の俺は相当変な顔をしているだろう。今までで一番の情けない顔を。
その時やっと自覚した。最近のイライラと、彼女に会うたびに感じる変なざわめきの正体が何か、俺は遂に認めた。
*
「なんか、文章がくどいな」
俺はノートに書き連ねた小説をもう一度読み直すと、気に食わない所に赤ペンでバツを付けた。最近ではパソコンに直に文字を打っていたから、こうしてノートに文章を書くのは久しぶりだ。そのせいで……どうにも調子が出ない。
まあしかし、理由はそれだけじゃないか。今書いている部分が自分の苦手な恋愛小説、それも男主人公がヒロインへの気持ちに気がつくという場面だからだろう。
(しかし、自分で書いておきながらなんだが……現実はこんなに甘くないよなぁ)
俺は自分に起きた出来事を思い出し、ため息をついた。ノートを閉じると横になる。病院のベッドは固く体が沈まない。ぐっすり眠れないから、余計な事を考えてばかりいる。
今俺は市立病院に検査入院中だ。二人三脚の練習中転倒し、頭を強く打って救急車で運ばれたのだ。検査入院は1週間の予定だから授業に支障はないが、右足を捻挫したので体育祭には出られない。クラスのみんなには迷惑をかけてしまった。
(河本には……)
あの時の事を思い出すと頭の中がもやもやする。思えば、あの時の俺はかなりおかしかった。妙に苛々して、負けたくないと思って――負けたくない? 誰に? 何に?
とにかく速く走りたかった。
一緒に走るとか、河本に合わせるとかは考えなかった。それが結局いけなかったんだと今なら分かる。二人三脚は二人一緒に走る競技じゃない。二人で力を合わせて走る競技なんだ。そう、俺のやったことは……
走っている時の河本の顔を思い出す。いつもおどおどして顔を背ける彼女が、真っ直ぐに俺を見て風を受けて走るのは気持ちいいと言った。九条とじゃなく俺とペアになって良かったと言っていた。にっこりほほ笑んで、とても楽しそうに。
だけど俺は全然嬉しくなくて、むしろ苛々して、俺はその苛立ちから逃げるようにただ、何も考えずに走った。がむしゃらに走って『何か』を忘れようとした。
走って、走って……こけた。
二人一緒に転びそうになって、とっさに河本を庇おうとしたが失敗した。何か意地悪い気持ちが一瞬心をよぎって反応が遅れたのだ。そしてそれが全てだった。
俺は頭を地面に勢いよく打って意識を失った。目を覚ますと病院のベッドの上で、右足にはしっかりと湿布が貼られていた。怖い顔をした姉貴に「大バカ者!」と罵られ、頭を殴るのは良くないからと言って腹を思いっきり殴られた。
どうやら救急車で運ばれたと聞いて、姉貴は相当心配したようだった。一緒に付き添ってくれた石塚さんが、姉貴のいない時にこっそりと教えてくれた。
『優ちゃん、いきなり電話してきて車出せ、病院に行くって言ってそりゃあ大変でね。状況を聞こうにも会話が成り立たないから困ってしまって。意識が戻らないって聞いてからはずっと廊下を行ったり来たりしてて。あんまり落ち着かないんで看護師さんや他の患者さんに心配されてしまって。お母さんは優ちゃんとは正反対でのほほんとして、優ちゃんが歩き回るのを面白そうに見てるし。準君のお父さんってすごいね。お母さんを窘めて、取り乱した優ちゃんを落ち着かせて。僕にはとてもできないよ』
家族だけでなく石塚さんにも迷惑をかけてしまった。それは本当に、反省しなければならないことだった。
『そういえばクラスメイトだっていう子がお見舞いにきたよ。今は家族以外は面会できないって言ったらしょんぼりして帰っちゃったけど。河本さんって女の子……』
河本には本当に迷惑をかけた。あいつ結構義理堅いから心配……してくれてるのだろうか? 見舞いに来てくれたのは嬉しかったが、会えなくて少しホッとしていた。今の俺はどんな顔をしてあいつに会えばいいのか分からない。大体女を庇おうとして怪我をするなんて、男として格好悪すぎる。
俺は布団をかぶると目を閉じた。消灯時間にはまだ早いがもう眠ろう。色々余計な事をごちゃごちゃ考えていたら頭の中がおかしくなりそうだ。小説の続きも、少し落ち着いてから書いた方がいいだろう。それに明日、九条達が見舞いに来ると言っていた。
その日は病院の固いベッドでもゆっくり眠ることができた。深い眠りの底から浮上する一瞬、何か夢を見たが、目が覚めた時に忘れてしまった。とても楽しい夢だったようなのに、どんなに思いだそうとしても夢の欠片ひとつ見つけることはできなかった。
ただまどろみの中で何かを自分は見つけたような気がした。どんなに悩んで頭で考えても導き出せなかった『答え』を与えられた。そんな気がした。
「準く〜ん、救急車で運ばれたんだって? 相変わらず面白いねぇ」
次の日一番に見舞いにきた友人を見て、俺は顔を顰めた。人の不幸を笑うとは不逞なやつだが、切っても切れない腐れ縁。幼馴染だからと諦めて、こちらも笑うしかなかった。
「シバケンも相変わらずだな」
通称シバケンこと柴田健介は、俺が笑うのを見ると人懐っこそうな目を細めた。高校が別々になってから会うことも少なくなったから、メールで話はしていてもこうして会うのは久しぶりだった。なんだかそれが互いに嬉しく、また気恥かった。
会わないうちにまたシバケンは背が伸びたようだった。中学の頃「動物園の熊みたい」だと言われた男は、「野生の熊」のような容貌に変わっていた。雰囲気も大分変ったようだ。なんというか、強くなった気がする。高校で何かあったのかもしれない。シバケンを成長させるような何かが……
「準君、何か雰囲気変わったね。前よりずっと良くなった」
思ってもいないことを言われて驚いた。それはこっちが言いたい台詞だというと、シバケンは笑って首を振った。
「なんて言うのかな。空気がね、柔らかくなったよ。きっといい友達がいっぱいできたんだね。それに、恋してるでしょう?」
にやにや笑うシバケンに、俺は否定も肯定もしなかった。
昨日ケータイを開いた時、友達からたくさんメールが来ていた。1年の時同じクラスで今はあまり交友のないやつからもメールが来ていた。馬鹿な加賀なんかは「木下、死ぬな〜」と失礼極まりないメールまで寄こした。みんな心配している、それが嬉しかった。
「準君が好きなのってどんな子?」
興味津津に聞いてくるシバケンを見て苦笑した。恋をしていると言っても聞いて面白いものじゃない。なんたって失恋街道まっただ中の恋なんだから……
「綺麗なひとだよ」
俺は春崎先輩を思い浮かべながら呟いた。瞼の裏に焼きつくくらい見つめ続けた人。その仕草一つ、言葉一つに翻弄され、胸を焦がした。他の誰かを想っていると知ってからはなんとか忘れようとした。けれど、どうやったってその姿を消しさることは出来なくて、彼女の前から逃げることもできなかった。そしてずるずると、俺は今もまだその想いを引きずっている。
「ふーん。綺麗なひとなんだ……」
なぜかシバケンは不思議そうな顔をしていた。俺の女の好みは熟知しているはずなのに、『綺麗なひと』と言ったのが納得できないようだった。
俺がそのことを問おうとすると、
「木下〜! 死んでないか〜?」
その場の空気をぶち壊す間抜けな声が聞こえてきた。
「加賀、おまえ……」
見ると、加賀、九条、ひらりの3人が病室に入ってくるところだった。加賀は手ぶらだが、九条は手にケーキの箱、ひらりはフルーツ籠を持っていた。
「あれ? 準の友達? はじめまして」
加賀はにこにこしながらシバケンに近づいて行った。背の低い加賀がシバケンの前に立つとその身長差が目立つ。こうして見ると熊と子猿みたいだ。
二人はしばらくお互いを観察していたが、動物属性の者同士通じるものがあったのか、数秒後にはがっちりと握手をして自己紹介しあっていた。
「救急車で運ばれた時はびっくりしたけど、元気そうで良かったよ。あ、これ、彼女から準君にって預かってきたんだ。お守りだって」
ひらりに手渡された包みの中には藍色の小さな巾着袋が入っていた。不思議な模様が刺しゅうされた手作りのお守り袋だ。袋の中には文字の書かれた小さな木の板と人の形をした紙切れが入っていた。この中身も手作りだとしたら、ひらりの彼女……実はやばい子なんじゃないだろうか?
いや、それより『彼女』? ついにひらりめ、例のマネージャーと付き合い始めたのか。ひらりだと思って油断していたがなかなか行動力があるじゃないか。
「準、これケーキと、授業のノート」
九条がにっこりとほほ笑むと、廊下から悲鳴が聞こえた。見ればいつの間にか廊下には若い女性看護師さんやら女医さんやら、入院中のおばあさんやらで即席の追っかけ集団が群れをなしているではないか! ……九条スマイル恐るべし。
「そうだ」
何を思ったのか九条は、おっかけ集団の方を向くと手招きをした。一番手前にいた看護師さんが、ふらふらと誘われるように部屋に入って来た。一体何で看護師さんを呼んだのだろうと不思議に思っていると、
「おいでよ。準のお見舞いに来たんだろう?」
九条は看護師さんではなく、その後ろで固まっていた少女に向けて声をかけた。
「え、あの……」
俯いたままゆっくりと部屋に入ってくる人物を見て、今度は俺が固まってしまった。聞きなれた声。こんな風におどおどして、困って、自信なげなそぶりをする彼女を何度見てきたことだろう。顔を見なくても、つむじを見れば誰だか分かった。
「――河本?」
俺が彼女の名前を呟いた瞬間、視界の端に映ったシバケンが微かに笑ったように見えた。