第二話・準
渡り廊下を抜けて図書室へ向かう途中、窓の向こうに見知った後ろ姿を見付けて、俺は立ち止まった。風になびく黒いストレートの髪がまぶしい。春崎先輩が校庭の端っこで、運動部の練習風景を見ながらクロッキーをしていた。
その姿につい見とれてしまう。遠すぎて先輩がどんな絵を描いているのかは分からない。けれど、先輩がどこを見ているのかは分かっている……。
俺は大きなため息をひとつつくと、歩き始めた。今日は図書室に新刊が入る日。俺が先月リクエストした本が来ているはずだ。
この学校は特殊な造りをしていて、図書室に行くにはこの渡り廊下を抜けるしかない。何でも現在図書室のある棟は、前は合宿所として使っていたらしい。だが校舎のすぐ脇にある崖のせいで日が入らず昼間でも暗くお化け屋敷のようで、生徒達だけでなく教師もそこに泊まるのを嫌がったそうだ。それこそ幽霊が出るとか、自殺者がいたとか、当時はいろんな噂が行き交っていた。
施設自体随分古くなっていたから、新しく合宿所を建てた時にこの棟を取り壊しても良かったのだが、空いた場所の使い道もない。そこでこの棟は少し手直しされ図書室と、そしてもう一つの教室として使われることになったのだ。
ギギギと立て付けの悪い図書室の扉を開けると、丁度誰かが外に出るところに出くわした。危うく外に出ようとしていた女子生徒にぶつかりそうになる。俺は持ち前の反射神経の良さでそれをかわすと、さっと道を譲った。こういう場合、出る方が優先だろう。
するとその生徒は、俺に軽くお辞儀をすると、ものすごい勢いで走っていった。何か急いでいるのかもしれない。周りの連中に真面目すぎると言われている俺でも、廊下を走るなとまでは言わない。走って転ぶのも、生徒指導の先生に説教くらうのも個人の自由だ。
俺は図書室に入ると、すぐに新刊コーナーに向かった。そして目当ての本を探す。『青すぎる孤独』というタイトルの本で、青い空の写真が表紙になっているから見付けやすいはずだ。最近好きになった小説家の本で、ずっと読みたかったのだ。小遣いの少ない学生には高価な新書本を入れてくれるこの図書室のシステムは、実にありがたい。それに古くさくて暗い図書室を使いたがらない生徒が多いことも、俺にとっては嬉しいことだ。利用者が少ないということは、リクエストが通りやすいということだ。
(あれ……?)
おかしい。どこを探してもそれらしき本が見あたらない。もしかして入荷日を間違えたか? それともマニアックな本だから入荷が遅れているのだろうか?
俺は仕方なく、図書委員に本のことを尋ねた。
「それなら、借りられてますね」
借りられてる……?
そこで俺ははっとした。さっきの女子生徒、手に青い表紙の本を持っていた。たぶんそれだ。ほんのちょっとの差で、あの女子生徒に先を越されてしまったのだ。
楽しみにしてたのに、一体だれだよ……
俺はかわりに他の本を借りる気もおきなくて、借りていた本だけ返すと図書室を出た。何だか最近ついてない気がする。
俺は肩を落とすと、同じ棟にある部室へと向かった。
『美術室』という札のついた部屋の扉を開くと、つーんと油絵の具の臭いがした。美術室がこの棟にあるのは、どれだけ汚してもかまわないという理由からだ。だが「どれだけ」と言っても限度があるだろう。俺はこんな汚い美術室はおそらく日本中のどこを探してもないと思っている。
「あ、先輩。おはようございまーす」
俺に気がついた後輩のさっちゃんが明るい声で挨拶した。さっちゃんの本名は平井聡美という。素朴な顔立ちで決して美人とは言えないが、笑顔がかわいい。癒し系というやつだ。それに侮る無かれ、さっちゃんの高いソプラノの声にはヒーリング効果があるのだ。ほら。さっちゃんの気持ちいい挨拶を聞いたら、なんだかさっきがっかりした気持ちが楽になったようだ。
「おはよう」
俺も挨拶を返した。午後なのに「おはよう」というこのシステムが2年になった今でも理解できない。美術部の伝統ということなのだが、この学校の美術部なんて大した賞も取っていないはずだ。……ここ1,2年を除いては。
「おう。木下。遅かったじゃねーか。ちょっと肩凝ってんだよ、もんでくんねー?」
俺の名前は木下準という。何の芸もない平凡な名前だ。ちなみにこのガラの悪い人は3年の竹内先輩だ。小太りで、少々親父臭い。受験のために3年生のほとんどが退部したのに、辞めずに残ったうちの一人だ。といっても、先輩は部室にいても作品を作ることはほとんどない。いつもお菓子を食べながら漫画本を読んでいるか、美術資料室に置いてある裸婦画を見ているのだ。部活動をしにきていると言うよりは、ほとんど遊びに来ていると言っていい。今日もやっぱり、竹内先輩は裸婦画を見ていた。
「竹内先輩、作品作らないんすか?」
俺が先輩の肩をもみながら尋ねると、
「作品? あー。今んとこ、ないみたいだなー」
と先輩はまるで他人事のように言った。
先輩が作品を作るのを望んでいる人間はたくさんいる。美術部顧問の羽本先生に、校長、それに部長の春崎先輩もだ。なぜかというと、このただの暇人にしか見えない竹内先輩こそ、うちの美術部に数々の賞をもたらした天才なのだ。油絵、水彩、彫刻。竹内先輩は作品の表現方法を選ばない。先輩曰く、「最もそれを表現するのにふさわしい形で作るだけだ」という。さすが、天才は言うことが違う。凡人の俺なんかは作品の表現方法を考える以前に、どういうものを作ればいいのかすら思いつかない。
「先輩だめですよー。師匠は『作って』っていうと作れなくなるんですから。あれです。果報は寝て待てっていうじゃないですか」
さっちゃんはにこにこしながら竹内先輩にお茶を差し出した。彼女は竹内先輩の大ファンだ。だからどんなにこき使われても苦にならない、らしい。今日もお茶くみをして……さっちゃんは水彩画を描いていたはずだが、完成したのだろうか?
「なあ、ここのとこのラインがいいよな?」
竹内先輩が裸婦画を指さしながら尋ねた。
「え、ええ」
本当にこの先輩は……竹内先輩はいつも俺のことを「真面目すぎる」というが、先輩はもう少しまじめでもいいと思う。
その日は早めに部室を出た。ずいぶん明るかったので、自転車のライトもつけなくていい。俺はシルバーの自転車に跨ると、風を切るように走った。
俺がこんなに急いで帰るのは、家でやらなければならない用事があったからだった。が、本当はそれだけではないかもしれない。本当は……俺は、春崎先輩が部室に戻ってくる前に逃げ出したかったのかもしれない。
高校に入学して……出会ってからずっと、俺は春崎先輩が好きだった。
一番はじめ、新入生歓迎用に描いたという先輩の絵の、その繊細な美しさに惹き付けられた。それはB2版の水彩画で、真っ白な鳥が朝靄の空を飛んでいく絵だった。その空の色と、細かく描かれた鳥の描写。明け切らぬ空を飛んでいく鳥に、新入生の新しい始まりを祝う気持ちが込められているのが伝わってきた。絵に心を動かされるのはそれが初めてだった。俺はこんな絵を描くのはどんな人なんだろうと興味を持った。それで柄にもなく、『新入部員募集!!』というポスターの貼られた美術部のドアをノックしたのだ。
そして、俺は春崎かなえという人物に一目惚れしてしまったのだった。天使のほほえみというのはきっと、先輩の笑顔を言うに違いない。大きく真っ黒な目も、透き通る肌に咲いたバラ色の唇も、シルクのような光沢のある黒い髪の毛も、俺に美と言うものは何なのか知らしめるに十分な破壊力を持っていた。
俺は単純だ。好きな女に会いたいからと、絵と言えば『へのへのもへじ』くらいしか描けないのに美術部に入部した。もっと先輩に近づきたい、そんな不純な動機から芸術という高尚な世界に俺は飛び込んだ。……ものすごい、馬鹿だ。
実際は何のアプローチもできず、俺はただ春崎先輩の姿を目で追うしかできなかった。1年も一緒にいたのに「好きだ」とも「つきあって欲しい」とも言えなかった。俺は臆病者だ。いや、愚かなのかもしれない。
何もできずまごついているうちに、自分が惚れた相手が誰に恋しているか知ってしまうなんて、愚か者以外の何でもないだろう。
「本当に馬鹿だ」
口の中で呟く。俺は自転車を止めると、目の前の急な坂道を見上げた。
この坂の上に俺と家族の住むマンションはある。学校から家まで自転車で約15分。行きは下りだから10分くらいで行けるが、帰りはこの急な坂を上らなければならないために時間がかかる。冬場道路が凍りつきでもしたら、自転車では行けないから歩きで学校まで通わなければならない。この坂がなかったらどんなにいいか。きっとここら辺の住人は皆同じようなことを思っているだろう。
俺は自転車を手で引きながら坂道を上っていった。
体を動かしていれば何も考えなくていいと言ったのは誰だったろう? 悩む必要もないと言ったのは。九条だったか? 残念だが俺の悩みは、体を動かしていれば無くなるようなものでは無いらしい。必死になって自転車を引いている今も、俺は色々なことを考えている。それこそ考えたくないことだって、考えてしまっている。
ようやく坂を上りきると、俺はマンションの駐輪場に自転車を止めた。
マンションの入り口まで重い足を引きずっていくと、4桁の暗証番号を入力して玄関ドアを開ける。いつものように守衛さんに挨拶し、俺はエレベーターで3階に上がった。
エレベーターを下りて五歩。俺は、302号室の呼び鈴を鳴らした。
「かあさん、俺ー。開けてー」
最近のインターホンは画像が表示されるものもあるらしいが、うちのは旧式で声だけしか聞こえない。面倒だが、ちゃんと名乗らないと扉を開けて貰えないのでその通りにする。
暫くすると母が駆けてくる足音が聞こえ、扉の鍵が開いた。
「おかえりー。早かったね」
母の笑顔が、俺を出迎える。
「うん。ただいま」
「今日、とうさん遅くなるっていうから、カレーでいいかな?」
母が俺に意見を求めてきた。だが、それは決定事項ではないのか? まな板の上にジャガイモとにんじんが切られてあるのが見えた。それにカレールーもご丁寧にその隣りに置いてあるではないか。全く……夕飯のメニューを尋ねるなら、料理を始める前に聞いて欲しいものだ。
「うん、いいよ」
俺は投げやりに返事をすると、廊下の突き当たりの自分の部屋に向かった。俺の部屋は狭い。ウォークインクローゼットは便利だが、ベッドと机を置いたらもう他に何も置けないのはきつい。
俺はベッドの上に鞄を放り投げると、机の上で幅をきかせているパソコンの電源をいれた。姉貴のお下がりの古いパソコンだ。ディスプレイもブラウン管でやたらでかい上に、容量が小さい。XPを入れているがぎりぎりで稼働させているために、時々動きがおかしくなる。父は俺が大学生になったら新しいパソコンを買ってくれると言っているが、おそらくそうはならないだろう。大学生で一人暮らしをしている姉貴が、最近母と電話で話すたびにノートパソコンが欲しい言っているらしいのだ。
姉貴に新しいパソコンを買って、古いのを俺によこすという図式が容易に想像できる。通信販売の会社に勤めている父は、とにかく娘である姉・優に弱い。昔から姉貴がねだれば何でも買ってやっていた。俺がどんなに欲しいと言っても買ってくれなかったゲーム機も、姉貴がねだったら次の日には家にあった。
「今日こそ書かないと……」
パソコンが立ち上がるまでの間に素早く制服から家着に着替える。シンプルなグレーのパーカーとジーパンは、紺色のブレザーよりずっと楽だし俺に似合ってる。
脱いだ制服をクローゼットに仕舞い終わったころ、丁度パソコンが立ち上がった。俺はインターネットに繋ぐと“小説家になってまえ!”というサイトにアクセスした。最近利用者数が増えている、素人作家が小説を投稿し作品の評価をするというサイトだ。ここでは文章が書け、パソコンかメールができれば小学生でも小説家になってしまうのだ。実は俺もこのサイトに登録していて、小説も何編か書いている。
李というPNで。
……女みたいな名前だったと、今では少し後悔している。ただ単に駄菓子やなんかで売っているスモモの漬け物が好きだからつけた名前だったのだが、男の俺にはかわいらしすぎた。だから俺が小説を書いていることを知っている幼なじみのシバケン(本名・柴田健介というが誰もその名で呼ばない)なんかは、いつもその名前のことで俺をからかう。
「げ! メール来てる……」
作家ログイン画面を見たら、3件もメッセージが入っていた。それも皆同じ名前で。
滝谷知花、俺と同じ“小説家になってまえ!”に登録している作家だ。実は今度、彼女と一緒に小説を書くことになったのだが……
『こんにちは。第一話、書けましたか? 二人で書くのは初めてなのでとてもわくわくしています(^_^)』
『こんにちは。お疲れさまです♪ 大変なことに気がつきました!! 小説のタイトル、決めてませんでしたよね? どうしましょう( ̄Д ̄;; 何か考えておきます』
『あああ、さっき言い忘れてました(汗 これからもよろしくお願いしますm(._.)m』
女というのはなぜ、短いメールをいくつもよこすのか。それになぜ顔文字をやたら使うのか。大体最後のメールは無くてもいいんじゃないか? 分からない。この作家がいまいちよく分からない。
この作家の作品は短編だけだが読んだことがある。(連載中の長編ラブストーリーは少女趣味すぎて受け付けなかった)読みやすい文章を書く人で、さらっと読めてしまうのが魅力だ。
彼女から一緒に小説を書かないかとメールが来たときは正直驚いた。一瞬、新手の迷惑メールかと疑ってしまったほどだ。何故俺に声をかけたのか? 又三郎さんの『プレゼント企画』に参加表明している作家に声をかけようと思ったにしても、たくさんいる作家の中から何故俺を選んだのか? とにかく不思議でならなかった。
一緒に書くことに決めたのは、タイミングが良かったからかもしれない。丁度そのメールを貰ったとき、俺は何か今までとは違う作品を書きたいと思っていたところだったのだ。だが、新しいことといってもこれといって良いアイデアが浮かぶでもなく、俺はどうすればいいのか悩んでいた。企画小説もどういうものを書けばいいのか思い浮かばず、制作に詰まっていた。
そこへあのメールが来た。
二人で一つの小説を書く。そのアイデアはよくあるが面白いと思った。自分になぜそんな誘いが来たのか不思議だったが、是非やってみたいと思った。
これは後で知ったことだが彼女は俺の李というPNから、俺のことを女だと思っていたようだ。何だかそれが可愛いらしくて、うっかり者の彼女に少し親近感を持った。気難しい人ではないから、うまくやって行けそうだ。そう思った。
だが。
だんだん滝谷知花のことを知っていくうちに、俺は後悔することになった。この滝谷という作家はとにかく、要望が多い。こういうことをやりたいとか、あれはどうしようとか、毎日のようにメールが来る。その上、俺が思い浮かばないようなアイデアをどんどん出してくるのだ。毎日メールを見るたび、俺はどういう返事をすればいいのか悩んだ。
大体、この滝谷という作家はアイデア勝負で小説を書いているきらいがある。アイデアは面白いのだがそれを全部消化しようとしたら、かなりの長編にしないと無理だろう。企画小説には規定があるのだから、要点だけをまとめて中編程度に仕上げなければならない。規定に則っていないのでは企画参加はできない。彼女が半分迷惑メールと呼べるものを送ってくるたび、俺はそれをどうまとめればいいのだと悩まされた。
だが、一番あきれたのは1話目を俺から書くように言ってきたときだ。普通、提案者が先に書いてストーリーの道を標すべきだろう。
「どうすりゃいいんだ……」
俺はスタートラインから躓いていた。
「まず、主人公の性格だよな」
かなり大まかなストーリーしか決まっていないから、主人公像が浮かんでこない。男女の成長ストーリーと言うことだが、「成長する」と言うことは、「はじめのうちはどこか欠点があってそれが良くなる」と言うことだろうか? 欠点……
ケンカばかりに明け暮れている男が……だめだ。それではアクションものになってしまう。ネガティブ男がある日……だめだ。たしかそういう作品を書いていた作家がいた。それにネガティブというのは、どこか俺自身のようで嫌だ。
「俺自身……?」
その時、ふっとひらめいた。
臆病で、真面目すぎるとからかわれ、いつも消極的な自分。それとは全く違う性格の主人公にしたら……
「彼は何に対しても情熱をもてない。学校の成績も素行も最低。いつもピリピリとした空気を身にまとい、何よりも『愛』というものを軽蔑していた……」
すらすらと言葉が浮かんできた。キーボードを叩く指を軽いと思ったのは初めてかもしれない。
「このキラーパス、華麗に受け止めてみせますよ。滝谷先生」
こんな大口、メールには書けないな。