第十八話・準、不可解な感情
白い大きな紙をテーブルの上に置き刷毛で水を塗る。水たまりが出来ないように丁寧に刷毛を滑らせると、紙は波打ち水を吸って真っ白から薄いグレーへと変わっていく。
俺は木製パネルを手に持つと、空気が入らないようにそっと紙の上に置いた。パネルと紙の端を押さえて一気にひっくり返し、紙の表面を柔らかいタオルでなでて完全に紙とパネルとの間から空気を押し出す。紙の端を折り曲げ、4辺の中央をホチキスで留めた。
一度深呼吸をしてから、俺は紙が乾かないように素早くパネルの側面をホチキスでとめていった。長辺からとめ、紙に汚れが付かないように注意しながら、最後に内側に折り畳んだ角の紙をホチキスでとめる。全部をしっかりとめると、俺は切って置いた水貼り用のテープを使ってパネルの端をしっかりと貼り付けた。
水貼り(※1)の完成。乾くまでちゃんと出来ているのか分からないが、この分ならうまく貼ることが出来ただろう。うん、我ながら上出来だ。
俺が満足げに頷くと、
「あれー? 先輩水貼りしてたんですか?」
イーゼルの向こうからさっちゃんがひょっこりと顔を出した。
「ああ。今終わったところ」
俺がパネルを指さすと、さっちゃんは「へえ、流石先輩上手ですねえ」と良いながらパネルを眺めた。
「水貼りしたってことは、水彩画にしたんですか?」
水彩画といえばさっちゃんの専売特許だ。俺は小さく頷くと答えた。
「ガッシュ(※2)使ってデザインアートにすることにしたんだ。今からじゃ……油絵は乾かす時間がないし、立体も苦手だからさ」
と言ったものの、実は俺は油絵も得意じゃない。どうにもせっかちな俺には、絵の具が乾くまで重ね塗りできないのが我慢ならないのだ。
「あと3週間ですからね。もし締め切りに間に合いそうになかったらお手伝いします! 私、塗るの得意ですから!」
にっこりと癒し系の笑みを浮かべるさっちゃん。俺は小さく微笑むと、ちらりと窓際に立っている人物を盗み見た。
キャンバスに向かって一心に筆を走らせる春崎先輩。窓から入る木漏れ日が先輩の白い肌に光彩を添え、後ろで一本に縛った髪の毛を風が優しく攫う。
今日も先輩は眩しくて、俺はすぐに目をそらした。
「そういえば先輩、体育祭の種目何に出るんですか?」
さっちゃんに話しかけられ、俺は先輩を見ていたことがばれたらいけないと慌てて答えた。
「リレーと、二人三脚」
「えー! 私もリレー出ます!」
さっちゃんはそう言うとVサインをした。さっちゃんは中学の時はソフトボールをやっていたらしい。ひらりの妹ということもありソフトではそこそこ有名な選手だったのだが、肩を壊してソフトボールを辞めたと前に言っていた。
「へぇ。そういや、竹内先輩は?」
俺は気になっていることを尋ねた。
いつも部室を占領している先輩がいないのは珍しい。この前風海堂で会った時は制作をしているようだったのに、部室にいないのはどうしてなのか。
「ああ、師匠なら帰りましたよ。なんか家で制作しているらしいです。完成するまでどんなものが出来るか秘密だって言ってました」
「へぇ、そうなんだ」
竹内先輩の家は学校のすぐ近くらしいから、部室で作るよりも自分の家で作った方が集中できるのかもしれない。前に車庫をアトリエ代わりにしてるって言っていたから、作業スペースも有るのだろう。
「じゃあ、俺これから体育祭の練習あるからさ、誰か来たらパネル動かさないように言って置いて」
俺は道具を片づけながらさっちゃんに言った。
水貼りしたパネルは1日平らな所に置いて乾燥させなければいけない。ということは、今日は制作ができないのだ。
「お疲れさま」
俺はさっちゃんに軽く手を振ると、春崎先輩に挨拶をして部室を出た。
扉を閉める瞬間、視界に再びキャンバスに向かう先輩の後ろ姿が映った。外の世界を遮断して黙々と制作をする先輩。真っ直ぐにキャンバスに向かう背中を、俺はどれだけ見つめ続けてきたか知れない。
俺は先輩から逃げるように視線をそらすと、扉を閉めた。
いつまで俺はこの感情から逃げるつもりなのか。この間やっと小説のことは吹っ切った。だがまだ先輩への気持ちは、整理できないでいた。
*
古びれた廊下を歩く。その俺の足取りは重い。それというのも体育祭の練習……あまり気が進まないのだ。
なぜかというと、俺が風邪で早引きした日に参加種目を勝手に決められてしまったからだった。その上足が速いからとかいう理由で、リレーと二人三脚の二種目に出なければならない。九条や松本も二種目出るようだから俺ばっかりが損なわけじゃない。だが二人は運動部で俺は文化部だ。納得できないと思っても仕方ないだろう。
大体こういうイベントは加賀みたいな体力バカが活躍できるチャンスだというのに、やつめリレーにしかでないとはどういうつもりだ。
そして一番俺を悩ませている問題……
(二人三脚のパートナー、誰になるんだ?)
俺は女子と接するのが苦手だ。さっちゃんみたいなタイプなら妹みたいで話しやすいからいいが、小田とか鈴木みたいに始終ぎゃいぎゃい騒いでいる女は見ているだけで具合が悪くなる。もし鈴木とペアになったりしたらそれこそ災難だ……
(だが、河本でも困るよな……)
別に俺は、河本が嫌いな分けじゃない。だがどうにも苦手だ。それに最近あいつを見ると胸の中がムカムカする。そして知らぬ間に変な行動をしているのだ。
(あいつ何か変な電波でも出してるんだろうか? じゃなきゃ、俺がおかしいのか?)
理由の分からないものほどたちの悪いものはない。何が原因か分からなければ、対処のしようがないではないか。
(まあ、河本と関わる事なんてそうそうないから気にしなければいいのだが……)
なんてことを考えていたら、噂をすれば影だ。
ちょうど河本が図書室の前に立っていた。
それもまた前と同じように、前方が見えないくらいに本を高く積んで、ふらふらとした足取りで運んでいるではないか。教訓を生かさないというか、考えなしというか。せめて2回に分けて運べばいいものを……
そう思って俺が河本の所へ行こうとすると、俺とは反対側の廊下から誰かが現れた。
「河本? そんなに一回に持ったら危ないって。半分持つよ」
ひょいと河本の手から本を奪う男。
その顔を見た途端、河本は持っていたもう半分の本をバサバサと床に落としてしまった。動揺のためか、河本の顔はゆでだこみたいに真っ赤だ。
「く、九条君……」
絞り出すような声でうめく河本。
見たこともないような表情で、切なげな眼差しで九条を見つめる河本。
(え……?)
――知らない。
俺の知らない河本がそこにいた。
瞬間、ドンと心臓が大きく跳ねた。
俺はとっさに柱の影に身を隠していた。なんだか、見てはいけないものを見てしまった気がする。俺は一度大きく深呼吸をして自分の心臓を落ち着かせようとした。
だが、頭の中には望みもしないのに次々と思考が流れ込んできた。
もしかして二人はいい感じなのかもしれない。
そう言えばこの間九条が誰か女子生徒と廊下を走っていたとかいう噂を聞いた。
河本が二人三脚に参加したのは九条と走りたいからか?
九条が誰ともつき合わないのは誰か好きな相手がいて……それはもしかしたら河本?
そういえば、河本と話している時の九条は他の女子と話している時と様子が違う気がする……
なぜそんなに二人のことを気にするのか。俺はおかしくなった自分を心の中で叱りとばした。
(落ち着け……河本と九条が両思いなら、俺は二人を祝ってやるべきだろう? そんな自分が片思いしているからって僻むことはない)
もう一度深呼吸をして心を静める。
俺が柱の影に隠れているなど知らない二人は楽しそうに笑っていた。
なぜかその時の俺には、その声が妙に耳障りだった。
「河本って案外どじなんだな。でも、ごめん。驚かせちゃったか?」
身をかがめ、床に落ちた本を拾う九条。その仕草は自然で、いつものヤツと変わらない。
「ううん、あたしが……その、勝手に驚いちゃっただけだから」
一方河本の方は、カクカクとしてロボットみたいな動きで本を拾っている。とても不自然だ。
緊張しているのか、顔はまだ真っ赤で……なんか、さっきより悪化してるんじゃないか? ゆでだこじゃなくてあれは、たこちょうちんだ。
「練習始めるのに来ないからさ、呼びに来た所だったんだ。河本に会えてちょうど良かった」
九条はにっこりと笑うと、落とした本の最後の一冊を河本に手渡した。
「えっと、呼びにって……あたしを?」
河本の声は裏返っていた。なんだかその声、無性に腹が立つ。
「え? 準だよ。部活寄るって言ってたからさ」
九条がそういうと、河本はものすごくガッカリした顔で「そうかあ」と呟いた。真っ赤だった顔も、だんだんと元に戻っていく。
河本とは反対に俺は九条の言葉を聞いてホッとしていた。そして河本の様子が俺の知らない彼女から、俺の知っているクラスメイトの姿に戻っていくのを見て安堵した。
「九条君って、木下君と仲良いよね」
唐突に河本が言った。なんだかその声、怒っているように聞こえるのは気のせいだろうか?
「ああ。準はいいヤツだよ。一緒にいて疲れないしさ、たぶん俺が知ってる誰より真面目で優しい」
「そうなんだ……」
寂しそうな顔で呟く河本。
それより九条が俺のことをそんな風に思っていたとは以外だ。一緒にいて疲れないっていうのはあれだな。加賀が疲れさせるからな、毎回毎回。
俺がそんなことを考えていると、九条がぽつりと言った。
「河本って、準と少しだけど似てるよな」
予想外の言葉に、俺はビックリしてしまった。
見ると河本も驚いているようだ。信じられない、どこが似てるんだという顔で九条を見つめている。
「見た目が似てるわけじゃなくて、雰囲気がさ。なんていうのかな、準と同じで親しみやすい空気をまとってるんだよな」
九条はそういうと白い歯を見せて爽やかに笑った。ヤツの必殺王子スマイルというやつだ。
それを見た河本の顔が再びたこちょうちんになる。元に戻ったと思えばすぐこれだ。一体河本の顔はどういう構造をしているんだろう?
「だから話やすいのかもしれないな」
九条はそういうと、図書室の扉を開けた。ギギギと奇妙な音を立てる扉。
「この扉、いっつも思うけど悲鳴みたいに聞こえない?」
九条がふざけた口調で言うと、
「うん、聞こえる」
河本はくすりと笑って頷いた。
その顔はまだ真っ赤だが、さっきよりは幾分落ち着いていた。表情も明るく、さっきより華やいで見える。
「ここ、おばけは出ないよな? 俺、苦手なんだけど」
九条は河本の背中を押して、先にはいるように促した。河本は九条の手が触れた瞬間びくりと肩をふるわせたがすぐに軟らかい表情で、
「だ、大丈夫だよ。誰も、見た人いないから」
というと図書室へ入っていった。
九条が微笑み、それに続く。
再び悲鳴を上げながら扉が閉まると、廊下には俺だけが取り残された。
柱の影でこそこそと二人の様子を見ていた、ネズミみたいな俺だけが。
なんだか無性にイライラとしている俺だけが……
◆注釈◆
※1【水貼り】→水彩画を描く場合は、用紙が反ってしまわないように木製のパネルに張り付ける処理をする必要があります。その作業を水貼りと言います。
※2【ガッシュ】→アクリル絵の具の中でも「不透明タイプ」のことを言います。メーカーによって表示は違いますが、マットで平面的な塗り方をする時にはこちらを使います。