第十三話・美幸と九条
透き通る様な青い空と輝く太陽が灰色の雲によって隠れていく。徐々に重苦しい空気に変わりだした。あたしは雲の動きをぼんやりと見ていた。何か嫌な天気だなぁ〜。
あたしはシャープペンをくるくると回しながら隣を見た。いつもなら机に突っ伏している久美は、今日は休み。先生いわく風邪らしい。なんか久美がいないと寂しいなぁ〜。
そんな事を考えていると、
「河本。話を聞いているのか?」
田島先生の声にあたしは過剰に反応した。
「あ、はい! き、聞いてませんでした」
あたしは訳もなく立ち上がり、そう言った。田島先生は溜め息をつき、周りからは笑い声が聞こえてきた。その中には九条君もいた。あたしは席につき、俯いた。やっちゃったなぁ〜。よりによって九条君の前で。
チャイムが学校中に鳴り響き、授業の終わりを告げた。
「きりーつ」
やる気のない掛け声で立ち上がる。
「れーい」
やる気のない掛け声で一斉に軽く頭を下げた。
「じゃ、気をつけて帰れよ」
いつも通り田島先生はそう言うと、足早に教室を出ていった。あたしは眼鏡を外し、ケースに入れた。
「美幸、先に帰るね」
えみかの声に振り返り、手を振って見送った。今日は沢村君と帰るらしい。あたしも図書室の当番だからどっちにしろ一緒に帰るのは出来なかったけど。
鞄の中に授業道具を入れながら、九条君を見た。九条君は加賀君たちと話をしていた。真っ白い歯を見せているという事はきっと面白い話をしているんだろうなぁ〜。
その時、異様な殺気を感じてちらりと見ると、文が今にも怒り出しそうな顔をしていた。どうやら九条君を見ていたのが気に入らなかった様だ。あたしは急いで授業道具を鞄に詰め込み、そのまま教室を出て図書室に向かった。
いつもの道順で図書室に着き、恐怖感をあおる様な音を出すドアを開けて中に入った。いつもの静けさの中に影倉さんが本を読んでいた。この図書室で数少ない常連さん。でもほぼ毎日来てるけど、読む本がなくならないのかな。
あたしは鞄を棚に置き、カウンターに向かった。椅子に座り、静かな図書室を見渡した。縦に伸びた長テーブルが二つあり、椅子がきちんと揃えられている。その横に本棚がある。あ〜、暇だなぁ〜。
すると、ドアが開いた。
「せんぱーい!」
現れたのは七海ちゃんだった。
「先輩! 聞いて下さいよー!」
あたしは人差し指を立てて、静かにする様にしようとしたけど七海ちゃんはカウンターに両手を置き、取り調べをする刑事の様な体制で話出した。
「彼が別れよって言い出したんですよー」
そう言って七海ちゃんは泣き出した。あたしはあまりに突然の出来事にどうしていいのか分からず、あたふたしていた。そんな時だった。
「……これ」
あたしは聞き慣れない声にびっくりしながら、声がした方を見た。影倉さんが無表情でハンカチを差し出していた。
「……使って」
「え、……いいの?」
そう言うと、影倉さんはゆっくりと頷いた。あたしは影倉さんのハンカチを受け取り、七海ちゃんに渡した。
「じゅいまじぇん」
きっと七海ちゃんは「すいません」って言おうとしたんだろうな。
「ありがとう」
あたしがお礼を言うと、影倉さんは薄らと微笑んだ。あたしは影倉さんの笑顔に一瞬ドキッとしてしまった。可愛い。女のあたしでもそう思った。いつもは無表情で、何を考えてるのか分からない影倉さん。そんな影倉さんが笑うとこんなに可愛い顔になるとは。
「洗って返じまず」
七海ちゃんが涙をハンカチで拭いながらそう言った。影倉さんはいつもの無表情で頷き、もといた所に戻りまた本を読み出した。やっぱりよく分からない人だな。
「先輩。あたしどうすればいいでしょう?」
七海ちゃんがすがりついてきた。
「そ、そんな事言われてもなぁ〜」
「あたしの何がダメなんでしょう?」
いやいや、彼氏がいないあたしに聞いても分からないよ。あたしはそう口に出そうとしたけど、言わない事にした。
「あら? 二人いるなんて珍しいわね」
突然後ろから宮下先生が出て来るなり、カウンターに真新しい本を数冊置いた。そういえば今日入荷日って言ってたっけ。
「せんせ〜。聞いて下さいよ〜」
七海ちゃんはまた涙を浮かべながら宮下先生にフラれた事を話した。相当ショックだったみたい。あたしは入荷した本を持って新刊コーナーに行った。
新刊コーナーで作者の名前順になる様に整頓しながら入れていく。たった五冊しかなかったのですぐに終わった。ふとカウンターを見ると、七海ちゃんは宮下先生に慰めてもらっていた。
あたしはカウンターに戻ろうとしたその時、
「……これ」
と影倉さんが『マリリン』という本を持ちながら立っていた。気配が全く感じられなかったあたしはびっくりして勢いよく後ろに下がった。すると、
「あだ!」
見事に後頭部を本棚の角にぶつけてしまった。あまりの痛さに頭を抱えて座り込んだ。あたしってホントにドジだなぁ〜。そんなあたしを気にもせず、影倉さんは本をあたしの目の前に突き出した。
「……借ります」
あたしは頭をさすりながら本を受け取り、カウンターに戻った。カウンターではまだ七海ちゃんは宮下先生に慰めてもらっていた。あたしはその横にあるパソコンに向かう。
「学生証はありますか?」
あたしがそう言うと影倉さんは無言で学生証を差し出した。それを受け取り、素早く番号を打ち込む。作業が終わり、あたしは本と学生証を差し出す。
「返却日は二週間後です」
影倉さんは本と学生証を受け取ると、そのまま図書室を出ていった。すると、何故か図書室がいつもより静かに感じた。あたしは図書室が暗いと思い、電気をつけた。
「う〜、眩しい〜」
七海ちゃんはそう言いながら、ゆっくりとした動作で顔を宮下先生の胸に埋めた。
「ほらほら、もう帰りなさい。美幸さんも今日はもういいわよ」
あたしはそれを聞いて鞄を取りにいった。
「あ、先輩。待って下さいよ〜」
七海ちゃんが笑顔で駆けてくる。さっきまで泣いていたとは思えないな。本当に泣いていたのだろうか。
「気をつけて帰るのよ」
「はぁ〜い」
七海ちゃんは手を上げながら言った。まるで小学生みたいだな。……何となく別れた理由が分かった様な気がする。
宮下先生に見送られながらあたしと七海ちゃんは薄暗い廊下を歩いた。
「そういえば先輩。今付き合ってる人います?」
ゆ、夢の中なら……とは言えないよなぁ〜。夢の中なら憧れの九条君とあんな事やこんな事やはたまたあんな事まで……。
「先輩? 聞いてます?」
「え? あ、ごめん。聞いてなかった」
七海ちゃんは腕を組み、唇を尖らせた。
「だから〜、先輩は今付き合ってる人はいるんですか?」
「……いない」
七海ちゃんはそれを聞いて目を丸くした。何か驚く様な事言ったのかな。
「絶対いると思ったんだけなぁ〜」
「あ、あたしなんか……」
言い終わる前に七海ちゃんに止められた。七海ちゃんはあたしの両肩に手を置き、見つめ合う形になった。傍から見たら変な関係に見えるかも。
「先輩。自信を持って下さいよ。先輩は可愛いですよ。特に眼鏡をかけた時なんか萌えーですよ」
なんか聞いてて恥ずかしいな。
「そうかな?」
「そうですよ。女の子なんだから自信を持っていきましょう」
自信……か。
そうこうしていると、いつの間にか玄関まで来ていた。あたしは下駄箱から靴を出し、履き換えた。そこに七海ちゃん駆けてきた。
「早く帰りましょうよ」
あたしは微笑みながら頷いた。あたしと七海ちゃんは玄関に出た。そこに九条君がいた。同時に眩しい光が一瞬だけ空を覆った。遅れて轟音が鳴り響く。
「ひゃー、雷だー」
七海ちゃんが悲鳴に似た声をあげた。あたしは雷なんか気にせず、九条君を見ていた。正確には後ろ姿を。どうやら携帯で誰かと話している様だ。携帯の先端部分のランプが赤く点滅している。誰と話してるんだろ。
「分かった。じゃ〜今からそっちに行くよ」
電話が終わったのか、携帯を閉じてポケットに押し込んだ。すると、九条君のつぶらな目と合った。
「河本じゃん」
心臓が今にも破裂しそうになってる。落ち着いて。落ち着くのよ。心臓の鼓動が九条君に聞こえちゃうよ。
すると、雨が降り出してきた。
「うわ。マジかよ」
九条君は空を見ながら言った。突然脇を突かれた。見ると七海ちゃんが微笑んでいた。まるで悪戯する子供の様な。
「先輩、あの人が好きなんでしょ?」
「そ、そんなんじゃ……」
「先輩嘘が下手ですね」
七海ちゃんは微笑みながらそう言うと、何かを握らされた。見るとビニール傘だった。
「先輩、ファイト!」
あたしにそう言って鞄を頭の上まで持ち上げ、七海ちゃんは雨が降る中を走っていった。あたしは七海ちゃんに「待って」と言おうとしたけど、その時には既に遠くまでいってしまっていた。
「無茶だよ〜」
九条君に聞こえない様に小声で言った。
「仕方ねぇか」
九条君は七海ちゃんと同じ様に鞄を持ち上げた。あたしはビニール傘を握りしめた。七海ちゃんがくれたチャンスを見逃す訳にはいかない。頑張るのよあたし。
「あ、あの……途中まで……い、一緒には、入ってく?」
九条君が振り返り、少し迷惑そうな顔をしていた。少なくともあたしにはそう見えた。
「あ、いや。迷惑だよね? ご、ごめんなさい」
「いいの?」
あたしは耳を疑った。これは夢? それとも現実? あたしは大きく息を吐き、落ち着かせた。
「め、迷惑じゃなかったら」
「何か悪いな」
あたしは首を横に振り、震える手で傘を開いた。夢なら覚めないで! そう願いながら、広げた傘の下にあたしと九条君と入る。あたしと九条君の距離はおよそ一センチ。
あたしと九条君は雨が降る中を歩いた。何か話したいと思うけど、隣に九条君がいるせいで頭の中が真っ白になってしまう。何か話題探さないと。
「河本ってさ、優しいよな」
唐突に九条君がぽつりと呟いた。
「え?」
「だってさ。俺が怪我した時だって心配してくれたし。今回だってさ」
もしあたしが優しくしてると言えば、それは九条君に為だよ。
「彼氏いるんだろ?」
九条君が顔を覗き込んでくる。あたしは瞬時に俯いた。顔が熱い。
「い、いないよ」
「マジ? てっきりいると思ったんだけどな」
こ、これはチャンス……なのかな? 怖い文もいないし。それに二人っきりだし。でも何て言えばいいんだろう。
「じゃ〜彼氏になってよ」とか?
「九条君が好きだから」とか?
どうしよ〜。考えれば考える程言えなくる。でもここで言わないとこんなチャンス二度とないと思う。勇気を出してあたし。はっきり言うのよ。
「あ、あの……」
「あ、俺ここでいいや」
あたしが言う前に九条君が言った。九条君が立ち止まったのであたしもすぐに止まった。
「ありがとな。じゃ、また明日」
九条君は鞄を持ち上げたて、雨の中を駆けていった。あたしはしばらく九条君の背中を見ていた。
「……あたしって馬鹿だよね」
あたしは自分を憎んだ。はっきり言えない自分を。臆病な自分を。あたしは溜め息をつき、家に帰る事にした。この日の雨はなんだか冷たい。