第十話・準、進めない理由
九条から呼び出しメールが来るなんて珍しいと俺は思った。
九条とはいつも学校で会うし、俺も九条もメールを打つのが苦手で、用件はいつも電話で済ませていた。それが今日はメールで、日本史のノートを見せて欲しいと言ってきたのだ。
俺は九条らしくないなと思いながらも、「分かった」とだけメールして出かける準備をした。
履いていたジーパンはそのままで、上着だけジャージから黒のカットソーとストライプのシャツに着替える。髪は寝癖がついていないのを確認すると、適当に整えた。
必要な物を素早く鞄に詰め込む。中身は日本史のノートと図書館から借りていた本、筆記用具や財布などだ。それに小説用のメモノートも入れた。
わざわざ図書館に行くのだから、小説の資料集めもしようと俺は思った。
*
図書館に入ると、古書の臭いが鼻腔をくすぐった。埃っぽくて、たばこ臭いあの独特の臭い。いろんな人が手にとって読んだからこそ染みついてしまった臭いが、この図書館の古めかしさをより幻想的に演出していた。
終戦間近に建てられたというこのヨーロッパ様式の図書館は、館内を何度も改築されてはいるものの、外見は古めかしく、たまに観光客が劇場か何かと間違えて入ってくる事もある。うちの学校の図書館ほど不気味ではないが、新しくできたばかりの隣の市の図書館に比べると中も暗いし蔵書も古い本ばかりなので、その利用者は少ない。だからここを利用するのは、静かな場所を求める受験生か、古書を探しに来る学校関係者くらいのものだ。
だが今日はテストの前日ということもあって、いつもよりたくさんの人がいた。大体今の時期、どこの学校でもテストが行われる。だから皆その勉強をしているのだろう。机の上には図書館の本ではなく、筆記用具と教科書などが並んでいた。
ざっと見回すと九条はまだ来ていないようだった。俺は適当に空いた席に腰をかけると、鞄から小説用のメモノートを取り出した。
(つづき、かあ……)
ちょうどその時、俺のシルバーの携帯に着信が入った。画面には「自宅」と表示されている。
俺は急いで図書館を出ると、玄関前の庭先で受話ボタンを押した。
電話は母親からで、その内容は「帰りに伊蒲駅前のスーパーで卵を買ってきて」というものだった。買い物に行って卵だけ買い忘れたのだとか。うっかり者の母親らしい話だが、家から反対方向のスーパーに寄ってから帰れとはどういうことだ。姉貴といい、母親といい、俺を使い走りくらいにしか思っていないのじゃないだろうか?
俺は電話を切ると盛大なため息をついた。そして中へ戻ろう振り返った時、正門前の庭に見慣れた人物がいることに気がつき足をとめた。
「春崎先輩……」
先輩は俺の声に気がつくと振り返った。そして小さく微笑み、
「木下くん」
俺の名を呼んだ。
(や、やばい……)
春崎先輩の声を聞いた途端、俺の心臓が暴れ出した。自分の身体なのに全く制御ができない。体中を流れる血が熱く、俺は一瞬でのぼせてしまった。おそらく耳まで真っ赤になっているだろう。ちょうど玄関の屋根が俺に影を作っていなければ、春崎先輩にこの姿が見られている所だった。
危ない。不意打ちでこんな、私服姿の春崎先輩に会うなんて……体に悪い。
春崎先輩は、いつも下ろしている長い髪を後ろに束ねて、淡い桃色のワンピースを着ていた。上に白いカーディガンを羽織っているとはいえ、タイトなデザインのワンピースは制服の時より身体のラインがよく分かる。それに丸首の襟からは先輩の白い鎖骨がのぞいていた。
「せ、せ、先輩。そんな所でな、何していたんですか?」
動揺のあまり俺はどもってしまった。すると、先輩はくすりと笑って携帯電話を取りだした。
「この図書館の外観、今度の作品のモチーフに使わせて貰おうと思って。用事でこっちに来たついでに写真を撮ってたの」
「へ、へぇ……そうなんですか」
「木下くんは、テスト勉強しにきたの? 確かにここ、静かで落ち着くわよね」
ころころと笑う先輩を、俺はぼんやりと見つめていた。中世ヨーロッパ風の庭に、先輩は溶け込んでいて全く違和感がない。
色鮮やかな草花と、石畳に照り返す太陽の光。その中にあって先輩が一番まぶしいと思うのは、俺が先輩を好きだからだろうか? それともこの人がこんなに近くにいても、俺には遠く手に入らない存在だと分かってしまったからだろうか?
「所で木下くんも地区展用の作品決まった? 前にも言ったけど、2年生は地区展に出展する決まりになってるから。この間京野さんにも言ったら、いい素材が見つかったので作品出すって言ってたわ」
「京野が?」
俺は驚いた。京野――京野理香は俺と同じ2年生の美術部員で隣のクラスだ。そして俺とさっちゃんが通称OTと読んでいる『おたく部員』のリーダー。京野はコミケとかイベントの前になると、他の一年生OTと一緒に部室に来ることはあるが、ほとんど部室に姿を見せない。いわゆる帰宅部員というやつだ。
「いつも部活には来ないけれど、ちゃんと創作活動してるみたいで良かったわ」
「……そうですか」
嬉しそうに微笑む先輩を、俺はただ見つめることしかできなかった。
どうしてなのか、先輩の前に出るといつも言葉が出てこない。先輩の絵を見て、姿を思い描いて、俺の胸の中にはたくさんの言葉が溢れてくるのに、いざそれを口から出そうとすると、途端に消えて無くなってしまうのだ。
たしかにそこに存在する偽りのない気持ちと、それを表現するための言葉達。でもそれを、俺は紡ぐことができない。
それは俺が臆病だから。
気持ちを伝えて拒絶されるのが怖いから。
今まで築いてきた関係を壊すのが嫌だから。
そして自分が、傷つくのが嫌だから。
俺は先輩から視線を外すと、自分が情けなくなって俯いた。どうしようもなく惨めな自分が許せない。
(いつまで、このままでいるつもりだ?)
先輩への気持ちは、俺が小説を書けないでいる理由の一つになっていた。
男女の成長ストーリーのはずなのに、俺自身が停滞していたのでは話は進められない。
滝谷先生の作ったヒロインは病弱なのにあんなに生き生きしていて、あの人が楽しんで書いているのがよく伝わってきた。なのに俺は、だんだんとパソコンの前に向かうたびに重苦しい気持ちになって、書けなくなってしまった。
“恋”を書こうとすると思い浮かんでしまうその姿。
作者が宙ぶらりんな気持ちのままでは、中途半端な言葉しか生まれてこない。
俺は思いきって顔を上げると、
「先輩、あの」
裏返った声で言った。
先輩が誰を好きで、俺が先輩にとって『ただの後輩』としか思われていないことも分かっている。振られることも承知している。それでも……
伝えなければ『俺の気持ち』は、この胸の中にある『言葉達』は、なかったことになってしまう。
――そして俺の気持ちは完結しない。いつまでもぼやけたままだ。
俺は決意を固めるとじっと先輩を見つめた。
先輩はきょとんとした顔で二度瞬きすると、俺を見つめ返した。
「何? 木下くん」
「先輩、俺……」
その時だった。
ブーン ブーン
俺の携帯電話に再び着信が入った。
「あ、あの」
なんというタイミングだ!?
邪魔したのは誰かと思って画面を見ると「自宅」と表示されていた。
母親だ。こんなミラクルを起こすのは、いつだってそう……うちの母親なのだ。
「電話出ないの?」
「あ、はい」
先輩に言われて、俺はしぶしぶ電話に出た。先輩に背を向けると、受話ボタンを押す。すると聞こえてきたのは案の定母親の声で、
『準? 卵と一緒に、パン粉買ってきて。広告の品って書いてあるやつよ! 高いの買って来ちゃだめだからね。じゃ!』
と言うとすぐに切れてしまった。
(何だよ、それ)
俺は一気に力が抜けてしまった。俺の勇気を踏みにじった上にパン粉を買ってこいとは、どういうことだ? 俺の母親は息子に恨みでもあるのだろうか?
「所で木下くん、さっきの話は?」
先輩に尋ねられて、俺は慌てて振り返った。
出鼻をくじかれた。俺は改まった状態で何を言えばいいのか分からなくなって、黙り込んでしまった。
「………」
先輩はこんな風に黙り込む俺を見慣れているから、それ以上は何も聞かずに小さく笑った。
「じゃあ、その話は今度聞かせてね。私、用事があるから行かなきゃ。木下くん、勉強頑張ってね」
先輩は「じゃあ」と手を振ると、正門を出て行った。
(なんで俺……)
図書館の玄関前に取り残される俺。
俺はこのまま帰って眠りたいと思った。でないとまだウジウジと嫌なことばかりを考えてしまう。
だが、すぐに九条との約束を思い出して、俺は重い足を図書館の中へと進めた。
それから十分後。
「ああ、準!」
九条がやって来た。やつはVネックのグレーのカットソーに、春物のベージュのジャケットをはおっていた。本当に九条は何を着ても似合う。
「遅れてごめんな」
九条が囁く。俺は「ああ」とだけ答えると、鞄から日本史のノートを取り出して九条に渡した。
「ああ! サンキュ。助かったよ。じゃあ、これお礼にやる」
九条はそういうと、ジャケットのポケットから二枚のチケットを取りだした。それには『ミスター畠のマジカルイリュージョンショー』と書かれていた。“ミスター畠”という名前は聞いたことがないが、それが手品ショーの券だというのは分かった。
「ちょっと、都合つかなくて行けなくなったからさ」
九条は残念そうに微笑んだ。
「九条、手品とか興味あったのか?」
俺は意外な気がした。九条はバスケ以外にはほとんど興味がないような男だ。
九条は苦笑いして、
「あ? ああ。結構好きなんだよ」
と答えた。
「へぇ。じゃあ、一応貰っておく」
俺はチケットをシャツの胸ポケットに突っ込んだ。俺は手品には興味はないが、姉貴にやれば「種を見破るわよ!」と言って喜ぶに違いない。
俺って姉思いのなんて良い弟だ。
「それとさ、準……」
九条が何か言おうとした時、やつの携帯に着信が入った。九条の黒い携帯が赤いランプを点滅させながら震えていた。
「あ、悪い。ちょっと行ってくる」
九条は携帯の画面を確認すると、図書館を出ていった。俺はその後ろ姿を見送ると、小説の資料用に持ってきた本を持って立ち上がった。
俺が調べていたのは病院の資料だった。ヒロインが入院しているのは総合病院という設定だったから、大まかな病院の仕組みを知りたかったのだ。けれど図書館の本は古く、小難しい言葉ばかり書かれていてよく分からなかった。
俺は本を元の場所に戻すと、すぐに踵を返した。ぼんやりと考え事をしながら席へと戻る。すると俺の足下に誰かの教科書が滑り落ちて来た。俺が条件反射でそれを拾い上げると、
「あ、すみません」
「こ、こうまと」
なんとその教科書を落としたのは、俺の苦手な河本だった。
動揺して名前をまた間違えてしまったのだが、本人は気がついていないようだった。
しかしなぜこう何度も河本と会うのか。それに河本はいつも本を落としている。俺はたび重なる偶然に驚いた。
それともうひとつ驚いたことがある。それは河本が私服姿だったことだ。日曜日なんだからそれは当たり前なんだが、俺の中で河本は制服姿で俯いているイメージしかなかったから新鮮だったのだ。
青いカーディガンがよく似合っている。
「き、木下君」
どうやら河本も驚いているようだった。昼間に幽霊にあったかのような反応だ。
俺が教科書を渡すと、河本はいつものように俯いた。やっぱり俺が怖いのか。それとも、この間のことがあるから気まずいのか。もしかしたらどちらも、なのかもしれない。
「ねぇ、美幸。知り合い?」
河本の後ろから見知らぬショートカットの女子が現れた。河本の友達だろうか?
「……クラスメイトの木下君」
と河本は俺を彼女に紹介した。
「はじめまして、あたしは加奈子。よろしくー」
彼女は俺のことを値踏みするようにジロジロと見た。そして河本の肩を掴み二人で俺に背を向けると、何やら二人でひそひそと話しだした。女子の好きな内緒話だろうか?
だがその内容……俺には丸聞こえだった。
(俺と河本が? あり得ないな)
俺は苦笑すると、そのままそこを離れようとした。
その時、
「違うってば!」
河本が急に大きな声で叫んだ。そのせいで図書館内の視線がいっきにこちらに集まった。
俺がビックリして河本を見ると、彼女はゆでだこみたいな真っ赤な顔をしていた。
そして河本はものすごい早さで自分の荷物をまとめると、逃げるようにその場から走り去っていった。その後ろを加奈子とかいう友達が追いかける。
(何だよ、あれ……)
俺は周りの人達が非難するような目で俺を見ているのを感じながら、席に戻った。椅子に座りため息をつくと、タイミング良く九条が戻ってきた。
「さっき慌てて走って行ったのって、河本じゃないか?」
事情を知らない九条が尋ねる。俺は、
「さあ?」
と言ってごまかした。
(河本の九条への気持ちも、今日の失態も黙っててやる俺って、どれだけいいやつなんだ?)
俺はこんな自分を馬鹿らしく思った。
だがふと河本の赤くなった顔を思い出し、
(河本って、変なやつ)
なぜか、自然と顔を綻ばせていた。