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ドッグローズ

作者: 今西薫
掲載日:2026/08/30

ちょっと実験的な…

 少女は庭を見ていた。

 バラを中心に色とりどりの花が咲く美しい庭には雨が降っている。静かに静かに降っている。

 波打つ金色の髪は少し濡れていて、ドレスも濡れていて、それが痛ましい。けれど、少女は背筋を伸ばして椅子に座り、まっすぐな姿勢で庭を見ていた。

 みのりは、暖かいミルクティとシナモンの入ったくるみのクッキーをそっと出した。お待たせしました、とだけ告げて、その場を去り、衝立のところに立つ。

 どれくらいの時間が経っただろうか。少女は庭からふと視線を移し、テーブルの上のお茶に気づいたようだった。戸惑ったようにしばらくカップを見つめ、手に取ると口もとにはこぶ。すっかり冷めてしまったであろう紅茶を一口ふくむと、わずかに表情を緩めたように見えた。それから小皿に入ったクッキーを齧る。バターを使っていないクッキーだがシナモンの風味がする。とても寒そうな少女が少しでも暖かくなればと、フィナンシェではなくこちらを選んだのだ。

 少女は、それからまた窓の外に視線を移し、少しだけ体の力を抜いたように見えた。

 少しは、暖まっただろうか。

 みのりはお代わりを出したほうが良いだろうかと迷い、背後に視線を向けた。そして、視線を戻した時には、少女の姿はそこにはなく、小さなテーブルにはカップと小皿だけが残されていた。

 少しでも、彼女の気持ちを軽くすることができただろうか。

 いつの間にか暗くなっている窓を見ながら、みのりはため息を飲み込むのだった。


  ***


 みのりの朝は五時から始まる。たいていはスマホのアラームで目を覚ますのだが、腕にのしかかる愛犬の重みで目が覚めることもある。なんか重いなと思って目を向けると左腕に顎を載せた上目遣いの犬がいるのだ。それだけですっきり目が覚める。

 起きだして、着替えて、歯磨き洗顔を済ませ、日焼け止めを塗って、甘いカフェオレを飲んで水分とエネルギーをちょっとだけ補給してから、晴れていたら庭に出る。愛犬ポチ丸の散歩の為だ。

 いつもは美しい花々を眺めながらの楽しい散歩なのに、今週は気分がなかなか晴れない。先日のことがみのりの頭に残っていて、それが重石みたいに心にのしかかって歩みも遅くなってしまう。ランドリールームでお茶を出しはじめてから、こんなことは初めてだった。

 いつの頃からか、訪れる人たちは何かの思いを抱えているのだろうと気づいてはいた。だが、こんなにも気にかかることはなかった。同じ人は訪れないし、皆、みのりが出すお茶とお菓子で気持ちをほぐしたように感じられる一瞬があったからだ。先日の少女も一瞬表情を緩めたように見えた。けれど。じっと庭をみつめたまま動かない背中が、みのりの脳裏から離れないのだった。



 みのりはランドリールームの窓とバラや色とりどりの花の花壇を振り返りながら、愛犬を呼ぶ。敷地内であることを良いことに、リードはつけていない。前になったり、後ろになったりしながらゆったりと歩いていると、大家である薔子しょうこの姿が見えた。

「みのりちゃん、おはよう」

「おはようございます」

 薔子は七十過ぎだという。もんぺに綿のシャツブラウス、ツバの広い帽子をかぶって農作業用の手袋もしている。けれど農家のおばあさんというよりは、こぎれいな老婦人に見えるから不思議だ。

「ポチ丸くんもおはよう」

 声をかけられたみのりの愛犬はしっぽを振って薔子に近寄って挨拶をする。わしわしと頭を撫でられてご機嫌に頭を押し付けるようにしている。

「今日も早いですね」

 みのりは薔子の家の敷地内にある別宅を借りて暮らしている。庭の管理は基本的には薔子が行うのだが、みのりも朝の散歩時に小さな草を抜いたりはみ出た枝があったら切ったりする。鳥の落とし物から勝手に生えたものを抜いたりも。あくまでも、みのりが分かる範囲だが。

「そろそろ暑くなってきたからね、涼しいうちにね」

 薔子はにこにこと庭を見る。

 いろんな色や大きさのバラと一緒に、背の高い木や草花も植わっている。みのりにはラベンダーとかカーネーションとかポピーとかしか分からないが、多分凄い庭なんだろうなと思っている。本当に夢のような美しさの花壇なのだ。

 ふと気付くと、薔子が小首を傾げてみのりの顔をじっと見ていた。

「みのりちゃん、元気?」

 みのりは少しだけドキリとする。薔子に言っても良いのかを迷う。最初にランドリールームに人が現れた時に言えなかったので、今さら言っても良いものかと思ってしまうのだ。

「少し、気になることがあって。……でも、大丈夫です」

 事情は告げずに今の気持ちだけを告げると、薔子は表情をやわらげた。

「ならいいの。もし困ったことがあったらいつでも言ってね?」

 薔子は手を振って体の向きを変え、その直後、いたたたた、と言った。

「薔子さん?!」

 みのりは慌てて声をかけた。

「あ、大丈夫よ。ただの筋肉痛」

 言いながら薔子は胃のあたりを触っている。

「筋肉痛、ですか?」

 薔子とは似つかわしくない単語にみのりは首をかしげる。

「実はね……この間、ぎっくり腰になってしまって」

 薔子は声を低くして至極真面目な表情になった。

「ぎっくり腰、ですか」

 ぎっくり腰と言うと、痛みで歩くのも大変だと聞いているが、薔子の姿は毎日見ていたのに、とみのりは不思議に思う。

「そう。それで数日とても辛い目にあってしまって。あ、多分軽いほうだったのよ? お薬貰って湿布してたら痛みもだんだんと引いて行って」

「え、でも、毎日、お庭に出てましたよね?」

「そうなのよ。なんか最近は動いたほうが良いって言われてるのですって。お薬もらって説明をされたんだけど、安静にとか大人しく寝て過ごせとか言われなかったから、先生に訊いたのよ。そうしたら、無理しない程度に普通に生活してください、って言われて」

 だから、あんまり立ったりしゃがんだりしない作業や重い物は持たない作業でなるべく普通に動いていたのだ、と言う。

「動かさないと関節や筋肉が固まって動きにくくなるんですって」

「痛いのに、大変ですね……」

「まあ、この年で安静にしてたら、簡単に寝たきりになっちゃうから」

 薔子はカラカラと笑うが、こういうジョークに笑ってよいものかどうか、みのりには判断できず、曖昧にほほ笑むにとどめた。

 だが、筋肉痛の謎はまだ解かれていない。

「あ、それでね。痛みが取れてきたあたりでたまたまテレビでやってるのを見たの。内側の筋肉を使うようにするといいって」

 薔子が言うには、その内側の筋肉を使うようにすると、その筋肉が背骨を支えて、腰痛が起きにくくなったりぎっくり腰になっても軽く済んだり早く良くなったりするのだとか。そして、こういうふうにするといいらしいのよーとひとしきりレクチャーを受け、その筋肉痛なのよ、笑う。

「じゃあねー。ポチ丸くんもまたねー」

 薔子は説明を終えると手を振って去って行った。本当に大丈夫そうだと判断して、みのりも小さく頭を下げてから歩きだした。

 先に立って歩きながらたまに振り返るポチ丸に、あっちとかこっちとか指示をしながら、オオゴトでなくて良かったと心から思う。薔子にはよくしてもらっているので、不調だと言われると心から心配になる。それだけでなく、まだ越してきて三か月ほどなので追い出されては困るという切実な問題もある。

「ちょっと安心、かな…」

 呟くと、ポチ丸が振り返った。

「なんでもないよ。そこ曲ろうか」

 分かれ道の右側を指してみせると、ポチ丸は、わん、と一声吠えた。


  ***


「川辺さん、何かいいことがあった?」

 数日後のこと、会社の昼休憩にロッカールームで声をかけられた。同僚の朝比奈だ。

「いいこと……は特にないけど、なんで?」

 ちょっと考えて訊き返してみた。

「なんか機嫌が良さそう? ……あ、姿勢がいいからか」

「姿勢…あ、それねー」

 思い当たるフシがあって、みのりは思わず笑った。

「何々?」

「うちの大家さんが、ぎっくり腰だって言って」

 先日の薔子との話をする。それから、今日は金曜日だからあれからもうすぐ一週間になるのかと、ふと思う。

「内側の筋肉って、インナーマッスルか」

「うん、そうだと思う」

「え、それで試してみてるの?」

 朝比奈は少し呆れたように言う。

「うん。それがね」

 みのりも試す予定はなかったのだ。まだ腰が痛くなるようなことはないし、実感として必要性を感じていなかったので。だが、昨日の夜、ふとポチ丸を持ち上げた時に、持ち上げられる大きさで良かった、と思ったのだ。ポチ丸は十五キログラムほど。重いのは重いが、持てない大きさではない。仮に歩けなくなったとしても、充分世話が出来る。そう思ってから、ふと、ぎっくり腰になったら持ち上げられなくなるなあ、と気づいたのだった。もちろん、腰が痛い間のみの話だが、しばらくは大変なのは間違いないだろう。そう思ったら、自分も薔子と同じ運動をしたほうが良いのかもしれない、と考えてしまったのだ。

「ああ、あの拾ったっていう」

「うん。動物病院に連れていくにも、家の中で介護するにも、体力勝負だからさ」

「なるほどねー。それで、どうやるの?」

 朝比奈は気を使ってか方法を聞いてくれるのだが、みのりは苦笑した。

「実はよく分らなくて」

 薔子の言っていたことを思い出しながら動かしてみるが、動いているかが分からない。正直にそのことを告げると、どうやって動かすのか、聞いた方法を教えて欲しいと言う。

「ええと、まずお尻の穴を締めるようにぎゅっと力を入れる」

「……うん」

「そのままの状態で、お腹に力を入れて、内側を上に引っ張り上げるように……」

 言われたように説明をするが、自分でも理解できていないのであやふやな言い方になってしまう。

「……よく分らないんだけど」

「うん、私もよく分らない」

「……ダメじゃん」

「……うん」

 まるで漫才のようなやり取りをするのだった。

「でも、なんか元気そうでよかった」

 朝比奈の言い方に、思い当たるフシのありまくりのみのりは思わず苦笑した。

「もしかして、暗かった?」

「暗かった。なんかあったのかなーとは思ったんだけど、妙に訊けない感じの暗さでさ」

「……ええと、ごめん?」

「うん、まあ? クッキーで赦してあげよう」

 うん、と一つ頷いて朝比奈は重々しく言った。

「分かった。最近はバター使わないタイプを作ってるんだけど、それでいいよね?」

 みのりも、反省してます、という感じで頷いて、真面目に返答する。

「やった! ありがとう、待ってる!」

 素直に喜んでくれたので、みのりも笑顔で、待ってて、と言ったのだった。 


  ***


 土曜日の午後はお菓子を作る。

 お菓子といっても、みのりはそんなに凝ったものは作れない。クッキーやパウンドケーキのような焼くだけのものがほとんどだ。あとは、ゼリーとか、叔母に教わったカスタードプリン。和菓子ならあんこは買ってきて、どら焼とか水羊羹程度。何か一週間分のおやつが欲しくて作ることにしている。

 今日は、オレンジマーマレードを使ったクッキーと、チョコレートブラウニーの予定だ。

 クッキーは、バターではなくオイルを使うタイプ。砂糖も使わずにマーマレードを水で少しゆるめて糖分と水分として使う。薄力粉には全粒粉も混ぜる。塩も一つまみ。ぐるっと混ぜて、オイルを加える。オイルで粉の一粒一粒をコーティングするようなイメージで手早く混ぜていく。そうしたら、包丁で細かく微塵切りにしたマーマレードを水でゆるめたものを加える。手の指を泡立て器のようにして急いで混ぜてまとまってきたら、刻んだくるみとチョコも加えて一つにまとめる。型抜きかドロップか少し迷って、ドロップに。一口サイズより大きめになるように手のひらで軽く潰しながら、天板の上に並べていく。一七〇度で二十分焼いたところで一旦様子を見ようとキッチンタイマーをセット。みのりのオーブンはダイヤルで焼き時間を決めるアナログタイプなのだが、目盛りがアバウトなので、キッチンタイマーを愛用しているのだ。

 ガラスの蓋から中を覗いて、今度はブラウニーの準備をしていく。

 ふと、ランドリールームの方を見る。キッチンからはまったく見えないが、今夜はまた誰かが訪れる日だ。

 みのりの頭には、先週の少女の姿がまだ残っている。もっと何か出来たのではないかと、どうしても考えてしまう。みのりにはお茶を出す以上のことはできないのは分かっているのに。

 考えても仕方の無いことだと、頭を一つ振って気持ちを切り替える。

 今週はずっとそんな感じだった。

 辛そうな様子の客は彼女が初めてではないのに、何故か頭から離れないのだった。



 カラン、と音がした。

 夜、みのりは、ランドリールームで本を読んでいた。ページに栞を挟み、電気ケトルにスイッチを入れる。それから、窓の方を見た。

 南に面したガラス窓からは、庭が見える。その窓の傍の椅子に、艶やかなプラチナブロンドの髪の少女が座っていた。彼女は窓の外の庭を見ていた。明るい庭には、昼間に見たときと同じように色とりどりの花が咲いていた。明るい午後の日差しの庭だった、

「いらっしゃいませ」

 水の入ったグラスとおしぼりをテーブルに置く。少女はちらとみのりを見て「紅茶を」と言った。

「かしこまりました」

 小さく礼をしてその場を去る。

 みのりが用意している茶葉は、アッサムとニルギリとアールグレイの三種だ。その中からニルギリを選ぶ。菓子は、少し迷ってマーマレードのクッキーにした。甘さが足りない気がしてチョコレートを刻んで入れてある。それを二つ小皿に載せて、トレイの上に置く。ミルクティーにはしない。。

 茶葉は少しだけ多く入れた。ほんの気持ち、少しだけ濃くなるように。バターの入ってないクッキーだが、その方が合う気がした。蒸らし時間は渋みが出ない程度。それが、今日の少女が望んでいるものに感じた。

「お待たせしました」

 テーブルの上に置き、いつものように衝立のところまで下がろうとしたとき、少女が「伝えたいことがあります」と声をかけてきた。みのりは少女を見つめた。

「何でございましょうか」

 薄いブルーグレーの瞳がまっすぐにみのりにむけられた。

「去年の今頃のことよ。友人がこちらでお茶をいただいたと言っていたの」

「去年、でございますか」

「ええ、イヌバラがキレイだったと言っていたわ。今年も咲いているのね」

 少女が視線を向けた先には、薄いピンクのバラが咲いていた。一重咲きのニ~三センチほどの大きさで、みのりも可愛いと思ったバラだ。

「彼女は、とても辛いことがあったの。雨に降られて、侍女も護衛もいなくて困っている時に見つけたこのお店に入ったのですって」

 雨に降られて、という言葉で、みのりは先週の少女を思い出した。もしかしたら、と思いながら。

「何も考えられなくて窓の外を見たらとても美しい庭で。その中にイヌバラがあってとても驚いたのですって。野の花でもこのように手入れされれば美しく咲くのだと。…彼女、婚約を解消されたの。お相手の次の婚約者となったのは、平民出身の聖女で、陛下から謝られ、仕方の無いことなのだと言われたそうよ」

 そこで少女は言葉を切り、紅茶に手を伸ばした。いい香り、と呟いて、一口飲む。

「殿下も、彼女も納得はしていなかった。けれど、イヌバラを見たとき、自分が納得できないのは、自分より身分の低い女性に婚約者を取られたことだったのだと気付いたのですって」

 今度はクッキーを一口。上品に齧り、咀嚼して味わい飲み込んでから紅茶を一口。

「自分の心の醜さに絶望した時に、紅茶が出されていたことに気づいたそうよ。ミルクティーと、シナモンの香りのするクッキーで、ほんのり甘くて、心も暖かくなったと言っていたわ。そして、気付いたら、窓の外は見慣れた街の通りで馬車が通っていたそうよ。イヌバラもその他の花もみんな見えなくなっていたらしいわ」

 そこで少女は、ふふっと笑う。

「わたくし、最初にこの話を聞いたとき、彼女はあまりにも辛い目にあって夢でも見たのではないかと思ってたの。……でも、本当だったのね」

 みのりは、にこりと微笑んだ。

「ありがとうと、彼女は言っていたわ。もしわたくしがここに来ることができたら伝えて欲しい、と」

「いいえ。…お手伝いができたのなら光栄です」

「わたくしからも、ありがとう。今なら、彼女の気持ちが少しだけ分かる。…この、オレンジの香りのクッキー、とても美味しかったわ。紅茶ととても合っていた」

 クッキーをもう一つ食べて、少女は視線を窓の外に戻した。

 みのりもつられて視線を向けて、ふと気付くと少女の姿はなくなっていた。窓の外も暗くてよく見えない。衝立の向こうのテーブルスタンドの光だけが明るい。

 暗闇の中に取り残されたみのりは、けれどどこかすっきりした気持ちになっていた。

 あの少女には、辛い想いを告げる相手がいたことに安堵していた。


  ***


 みのりは、ランドリールームから見える花壇の、少女がイヌバラと呼んだバラを見ていた。一メートルほどの高さの支柱を支えにニメートルほどの幅で枝を繁らせ華やかに咲き誇っている。三センチほどの花がいくつかずつまとまって咲いているが、華やかなのにどこか素朴な印象だ。

「あら、みのりちゃん、おはよう! ポチ丸くんもおはよう」

 薔子の声にみのりは振り返った。今日ももんぺにシャツブラウス姿で手には籠を持っている。よく見ると手は革製の手袋だ。ポチ丸は嬉しそうに近寄って行って撫でてもらおうとしている。

「おはようございます。今日はこちらのお手入れですか?」

「ううん、ノイバラを少し切って飾ろうと思って」

「……ノイバラ、ですか?」

 みのりの知っているノイバラは、白い花だが、そんな花はこの近くにはなかった気がする。

「そう。そこのピンクの」

 そう薔子が指したのは、先ほどみのりが見ていたバラだ。

「え、これ、イヌバラ、というのでは?」

 思わず口に出してから、ノイバラのことをイヌバラとも呼ぶのかも、と頭の隅で思って、さらに慌てた。だが、薔子はそんなみのりの様子には気づかず、ピンクのバラを見つめた。

「ああ、似てるものね」

 薔子は腰の道具入れからスマートフォンを取り出してちゃちゃっと操作した。

「これがイヌバラ」

 画面に写っているのは、一重咲きのピンクのバラだ。花の中心が白くて、花びらの先にいくほどピンクになる。花壇で咲いているのとそっくりで、みのりにはどこが違うのか分からない。

「細かいところは私もよく分かってないんだけど、最大の違いは、花の大きさなの。イヌバラは、四センチから六センチ」

「え、大きい」

 みのりはノイバラの方を見た。今は五十センチほどの至近距離で見ているから花の大きさも分かるが、ランドリールームからは判別は難しいかもしれない、とも思う。

「まあ、ヨーロッパのほうの野バラの一種だから、大雑把に言えば同じ野バラなんだけど」

 野バラ、とみのりは繰り返した。

「イヌバラって名前の由来はハッキリしていないの。園芸品種に比べて劣るからっていうのが有力らしいのだけど、失礼しちゃうわよね」

 ね、とポチ丸に同意を促すが、当の本犬は首を少し傾けてしっぽをゆらゆらしているのみだ。

「学名がロサ・カニーナ、英名がドッグローズ。中国名では狗薔薇…獣へんのほうね。狂犬病の治療に根を使っていたことが由来という説もあるけど、どう使っていたかまでは調べてないから分からないのよね」

「カニーナって、犬の学名からですよね。カニス・ファミリアス」

「そうみたいなのよね。…私も、最初は分からなくて、葉の形とか、花が咲いてからは花の色や形からいろいろ調べたの。その時にドッグローズを知って。でも、これ、鳥の落とし物、なのよ」

 薔子は、ふふっと笑う。

「……、あ」

「そう」

 鳥が食べたバラの実の種がフンに入っていて、芽が出たということだ。

「こんなにバラが植わっているのに初めて見つけたの。だから残しておいたんだけど、花が咲くまでは楽しくて。咲いたら咲いたで可愛らしいピンク色で、捨てられなくなって」

「はい、とてもステキです」

「でしょう? 多分、ノイバラと別のバラとの交配種だとは思うのよ。野生の、というかそこらへんに勝手に生えているノイバラにも同じような色合いのものがあるみたいだし。でも、その種が落ちたというより、普通の白い花のノイバラと園芸品種の交配種と考えたほうが良さそうなのよね」

 薔子は生真面目な様子で言うと、それからね、と続ける。

「もう一つ違うところがあって。ローズヒップってできるじゃない? バラの実。ドッグローズのローズヒップって、日本のノイバラと比べて大きいの。ノイバラは五ミリ程度の球体で、このバラも同じくらいなんだけど、ドッグローズのローズヒップは、直径が十五~二十ミリの長丸。花の大きさだけじゃなくて、実までもこんなに違うのね」

 みのりは自分の手のひらを見ながら大きさを想像してみた。確かに大きさも形も違う。

「それでね、ローズヒップってもともとはドッグローズの実のことを指していたらしいの。今は、バラの実全般を指しているのだけど。つまりね、それくらい身近なバラだったってこと」

「身近な、」

「ええ、身近な。そこらへんにある、と言ってしまえば、価値のないもののように感じるけれど、身近なと思えば、とても親近感が湧くと思わない?」

 みのりは、思います、と頷いた。

 今度、ローズヒップティーも用意しよう、と思いながら。



 休みの日の昼食は、スパゲッティが多い。だいたいそこにある野菜とベーコンでちゃちゃっと作る。かなり適当だ。今日は小松菜とベーコンだ。みのりの中では定番メニューだ。小松菜以外では、チンゲン菜、ズッキーニ、キュウリで作る。ホウレン草の時はジャコを使ってカルシウムを補う。なんとなくの結石予防だったりする。

 冷蔵庫から小松菜とベーコンとニンニクを取り出す。ニンニクは皮を剥いた状態で冷凍庫に常備してある。

 昨日の夜に軽くなった心は、朝の薔子の言葉でさらに軽くなって、みのりは踊るような足取りで……実際テキトーなステップを踏みながら台所内を移動する。もちろん鼻歌付きだ。

 みじん切りしたニンニクをフライパンに入れオリーブオイルを注いで火を点ける。ここからは少し落ち着こうと、心に言い聞かせながら、香りがしてきたらざくざくと五センチほどの長さに切った小松菜を入れて炒める。しんなりしてきたところで塩コショウで味付け。味見をして、少し物足りないので醤油を足す。それからスパゲッティの茹で汁をシャクシで一杯入れて、強火で油と乳化させ、茹で上がった麺を投入。火は消してさっと和えて、麺の味見をしてから皿に移す。フライパンと鍋は後で洗えばいい。

 皿に盛ったスパゲッティに黒コショウを掛ける。ちょっと塩分が足りない気もするがコショウでごまかそう作戦だ。

 冷蔵庫からサラダセットを取り出して並べる。ドレッシングは胡麻で。

 さて食べるかと椅子に座って手を合わせると、ポチ丸がやって来て傍に座った。人間の食べ物をみのりは与えたことはない。おそらく、前の飼い主との習慣だろうと思われる。

「まっててねー」

 きちんとオスワリしているポチ丸に言って、みのりは食べ始める。スパゲッティだからと言ってフォークなどではなく、ちゃんと箸を使う。箸は便利だ。チョップスティックなどという呼び名が許せないくらいには、みのりは箸を愛している。単にフォークを取り出すのが面倒なだけともいうが。

 食べたら一週間分の食料を買いにいかねばならない。予定を立てながらスパゲッティを食べ始める。その頃には鼻歌は復活していた。

 そして、食べ終わって片付けるために立ち上がろうとした時。そういえばと頭の片隅で思い出した内側の筋肉を動かして。

「いたたた」

 胃の辺り……正確には胃の辺りの筋肉に痛みが走った。

 そっとそのあたりを手で触れて、小さく笑ったのだった。


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