幕間(安明)
雨音に紛れる香と熱
五月の始まりとともに訪れた、冷たい雨が都を濡らす日のことだった。
初夏の午後だというのに、激しい五月雨に見舞われた外は薄暗く、ひんやりとした空気に包まれている。
安明が陰陽寮から持ち帰った古い書物の整理を広間で手伝っていた梨乃は、少し肌寒さに身を震わせる。
「……寒いか」
几帳に寄りかかり、別の巻物に目を落としたまま安明が呟いた。
「あ、いえ! 大大丈夫です、ちょっと雨の風が冷たいなって思っただけで――」
「強がるな。お前が体調を崩せば、また女房どもに私が『夜通し酷使した』などとあらぬ噂を立てられる。迷惑だ」
相変わらず口の悪い安明は、ふいと立ち上がると、部屋の隅にある小さな香炉に近づいた。彼が愛用している上品な香を焚き染め、部屋を暖めようとしたのだ。
香炉から、ゆらりと白い煙が立ち上る。
その瞬間、部屋いっぱいに広がったのは、どこか清涼感がありながらも、脳の奥を微かに痺れさせるような甘い香り――いつも安明の近くにいると漂ってくる、あの匂いだった。
「あ、安明さんの匂い!」
梨乃は凍えていたことも忘れ、パッと顔を輝かせて無邪気に口に出してしまった。
「私、この匂い、すっごく好きなんです。なんだか落ち着くというか、いい匂いですよねぇ」
ふふ、と無意識に嬉しそうに笑う梨乃。
現代人の感覚で、ただ純粋に「お気に入りのアロマ」を見つけたような無防備なトーンだった。
しかし、それを聞いた安明の動きが、ぴたりと止まる。
「……ほう?」
安明はゆっくりと振り返ると、その切れ上がった瞳を面白そうに、そして酷く底意地の悪い形に細めた。
「私の匂いが、好き、か……。お前は男に向かって、随分と大胆な物言いをするのだな」
「え? ……あ、いや、そういう意味じゃなくて……!」
慌てて弁明しようとした梨乃だったが、安明はすでに音もなく歩み寄り、一歩、また一歩と梨乃を几帳の隅へと追い詰めていく。逃げようにも、背中には几帳の木枠が当たって退けない。
安明は梨乃の目の前まで来ると、長い腕をすっと伸ばし、梨乃の頭の横の几帳にぽんと手を突いた。完全に退路を塞がれた形だ。
「安明、さん……っ、近いです……っ」
「いい匂いなのだろう? ならば、もっと近くで存分に嗅ぐが良い」
すっと顔を近づけてくる安明。
降る雨の薄暗さの中、至近距離で見つめてくる彼の漆黒の瞳が、悪戯っぽく怪しくきらめいている。安明の美しい鎖骨のあたりから、先ほど焚いたばかりの香の熱が、彼の体温と混ざり合って直接梨乃の肌を焦がすように伝わってきた。
「……これしきで、また赤くなる。本当にお転婆のくせに、からかい甲斐のない娘だ」
梨乃が恥ずかしさで爆発しそうになっているのを見て、安明は満足げにクスクスと喉を鳴らした。そして、梨乃の冷え切っていた手先を、自らの大きな手のひらでひょいと包み込む。
「顔ばかり熱くして、手は冷えたままでないか。……大人しくしていろ」
意地悪く翻弄しながらも、じんわりと温かい手のひらで梨乃の体温を戻してくれる安明。
外の激しい五月雨の音に隠されるようにして、二人の少し狂った鼓動と、混ざり合った香の熱だけが、静かに部屋を満たしていくのだった。
ほどかれた髪と枷
五月の始まりとともに訪れた、冷たい雨が都を濡らす日の夕暮れ時だった。
本格的な梅雨に先駆けて激しく降り注ぐそれは、まるで世界からこの邸だけを切り離すかのように、静かに、けれど容赦なく響いていた。
陰陽寮からの激務を終えて帰宅した安明は、珍しく酷く疲弊した様子で広間の几帳に身を預けていた。
「安明さん……? 大大丈夫ですか? 今日は一段と顔色が……」
心配になって近づく梨乃に、安明は薄く目を開け、気怠げにふっと息を漏らした。
「……大したことはない。ただ、内裏の結界の補強に少々、気を削がれただけだ。……おい、梨乃」
「は、はい!」
「これを、外せ。鬱陶しくて敵わん」
安明はそう言って、自身の頭を軽く傾けた。彼が指さしたのは、完璧な陰陽師の証であり、宮廷に出仕する大人の男性の嗜みでもある「烏帽子」と、それを固定する「冠の紐」だった。
いつも一点の隙もない安明が、他人に、それも梨乃に髪をほどけと頼むなど、普通では考えられないことだ。梨乃は緊張で指先を震わせながら、安明の顎の下で結ばれた紐をそっと解き、慎重に烏帽子を外した。
(さらり……)
烏帽子から解放された安明の、艶やかな漆黒の長い髪が、その美しい肩へと滑り落ちる。
いつも結い上げられている髪が下ろされただけで、安明の持つ妖艶な色気が何倍にも膨れ上がったように見え、梨乃は思わず息を呑んだ。
「……何だ。そんなに呆けた顔をして」
「あ、いや……安明さん、髪を下ろすと、なんだか雰囲気が違って見えて……」
「そうか? では、お前がその手で、癖がつかぬよう梳かしてみせろ」
安明は当然のように梨乃に櫛を差し出した。
梨乃は戸惑いながらも、彼の背後に回り、その見事な黒髪にそっと櫛を入れる。指先が安明の髪に触れるたび、以前に嗅いだあの心地よい香の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
「安明さんの髪、すごく綺麗です。女房さんたちが見たら、羨ましがると思います」
梨乃が緊張をほぐそうとそんな冗談を口にすると、安明は背を向けたまま、低く愉しげに鼻で笑った。
「朝廷の者どもが見れば腰を抜かすだろうな。私は誰にでもこのような姿を見せるわけではない。お前だからこうして預けているのだ」
「え……?」
「烏帽子を外した姿を晒すというのは、男にとって己の素を曝け出すも同然。いわば、無防備な隙を相手に与えるということだ」
安明はわずかに首を巡らせ、流れる黒髪の隙間から、悪戯っぽく、けれどどこか重い熱を孕んだ瞳で梨乃を見上げた。
「もし私を呪い殺したい者がいれば、今が絶好の機会だぞ。……だが、お前にはそんな度胸も、呪術の才もない。ならば、その頼りない手はただ私をもてなすためだけに使うといい」
後ろにいる梨乃の手首を、安明の長い指先がそっと捕らえる。あの日、彼女の魂を暴いたときと同じ、冷たくも確実な支配の手つき。
「え、それって............っ」
思わず言葉を詰まらせた梨乃を見て、安明はわずかに振り返り、満足げにその綺麗な唇を歪めた。
「何だ。その間抜けな顔は。……大人しく私の髪を梳かして、私を癒やしていろ。それが、この邸に転がり込んだお前の、今の『役目』だ」
あまりに理屈っぽくて、最高に強引な過保護。
からかわれているのか、それとも本気なのか。その境界線の見えない重い熱に。
捕らえられた手首からじんわりと伝わる安明の体温に、梨乃の心臓は、ただただ激しい音を立てていた。
ー
琥珀のジュレと、奪われた匙
台所を覗くと、葛粉に米飴、そして色鮮やかな木苺があった。
――これなら、ゼリーができるかもしれない。
爽やかに晴れ渡り、少し汗ばむような五月の昼下がり。冷蔵庫のないこの時代では、現代のようにカチカチには固まらないだろう。けれど、とろりと滑らかなジュレならきっと美味しくなる。
梨乃は夢中で葛粉をお湯で溶かし、米飴を加えてゆっくりと練り上げた。次第に透明度を増していく葛に、真っ赤な木苺をそっと埋め込む。さらに調理番から譲り受けた希少な蜂蜜を、仕上げにひと匙。
甘いものが恋しい。ただそれだけの動機だったけれど、出来上がったそれは、木漏れ日を閉じ込めたような美しい琥珀色をしていた。
「……上手くできてたら、安明さんにも持って行ってあげよう」
梨乃は期待に胸を膨らませ、小皿に盛ったジュレを匙ですくう。味見をして、合格なら一番に彼に食べさせよう。そう思って匙を口元へ運んだ、その時だった。
「……何を一人でコソコソしている」
「っ!?」
背後からの低い声に、肩が大きく跳ねた。
休日だというのに部屋で仕事をしていたはずの安明が、音もなく背後に立っている。
「コソコソなんてしてません! 現代のスイーツ……甘味を、ちょっと作ってみたんです」
「ほう。それを、この家の主を差し置いて一人で食すとは、食い意地が張っているな」
「違います! こっちの材料で上手くできているか不安で、味見を……。上手くできていたら、安明さんにもあげようと思ってたのに!」
梨乃がむっとして、再び匙を口へと運しようとした。しかし――。
「……確認してやる」
匙が梨乃の唇に触れる一瞬前、安明の細く冷たい指先が、梨乃の手首を鋭く掴んだ。
そのまま梨乃の腕をぐいと引き寄せ、逃げ場を封じるように自分の懐へと入り込ませる。
「……!」
梨乃が呆然とする間もなく、安明は梨乃の手首を支えたまま、彼女の手元にあった匙を自分の口へと運んだ。
滑らかなジュレが、安明の端正な口元へ消えていく。
「…………」
安明は目を閉じ、ゆっくりと味わうように喉を鳴らした。
「……ふむ。美味いではないか」
安明は満足げに目を開けると、残ったジュレを絡め取るようにして、自身の唇を舌先でペロリと舐め上げた。
その仕草があまりに妖艶で、梨乃は喉の奥が熱くなるのを感じて息を呑む。安明は、先ほどまで梨乃が口にしようとしていた匙を、そのまま何の迷いもなく自分のもののように扱っている。
「……お前、蜂蜜を足したか。甘味の奥に、少しだけ野趣が混じっている」
「……は、はい。調理番の方から貰って……」
「悪くない。お前の作った甘味は、私の口に合ったようだな」
安明は再び梨乃の手首を掴むと、今度は空になった匙を彼女の手から抜き取り、机に置いた。そして、ジュレの余韻が残る唇を梨乃の耳元へ近づけ、低く囁く。
「……味見などという回りくどい真似はせず、次からは直接私に献上しろ。お前の作ったものは、最初からすべて私の所有物だ」
自分から奪い取っておきながら、まるで当然の権利のように言い放つ傲慢さ。
けれどその瞳には、梨乃の味見という些細な行動さえも、自分以外の誰にも与えたくないという独占欲が、深い深い夜の色を帯びて揺らめいていた。
藤の雨、揺らぐ境界
それは、穏やかな半月の終わりを告げるような、酷く美しい五月の昼下がりのことだった。
安倍邸の庭の片隅には、見事な藤棚がある。初夏の暖かい風が吹き抜けるたび、盛りの終わりを迎えた淡い紫色の花びらが、まるで雨のように優しく舞い散っていた。
陰陽寮から戻った安明は、広間へ向かう回廊の途中で、偶然その名残の藤の下に佇む梨乃の姿を見かけた。
梨乃は一枚の絵画のように静かに、頭上に広がる紫の天井を見つめている。差し込む木漏れ日が、彼女の髪や、この世界のものではない白い肌を柔らかく透かしていた。
(さらり……)
一際強い風が吹き、大量の花びらが梨乃を包み込むように激しく舞い踊る。
その瞬間、安明の胸の奥を、正体不明の強烈な「焦燥」が突き抜けた。
(――消える)
あの不自然なほど清潔で乾いた気の持ち主が、このまま風に溶け、月の姫のように、自分がいくら手を伸ばしても届かない遥か彼方の世界へ帰ってしまうのではないか。そんな、およそ天才陰陽師らしからぬ、非科学的で、ひどく感傷的な恐れが脳裏を支配したのだ。
気がついたときには、安明の足は音もなく動いていた。
「……っ」
梨乃が風に目を細めた瞬間、背後から不意に、大きな, けれど驚くほど優しい温もりに全身を包み込まれた。
安明の広い胸板が梨乃の背中にぴったりと寄り添い、彼の長い腕が、梨乃の身体を後ろから強引に抱きしめる。ふわりと、彼の纏う上品な香の匂いが、藤の甘い香りと混ざり合って梨乃の五感を麻痺させた。
「え……っ、安明、さん……?」
梨乃の心臓が、耳の奥で爆発したかと思うほど激しく跳ね上がる。
抱きしめられている。それも、いつもの意地悪なからかいではなく、どこか必死さすら感じるような強さで。
梨乃が驚きで完全に硬直した、その時だった。
安明自身もまた、己の突き動かされた衝動に、誰よりも激しく目を見開いていた。
(……私は、今、何をしようとした?)
国を護るため、都の結界の引き金として管理する。それだけのはずの「居候」に対し、理屈を超えた動揺を抱き、あろうことか自ら腕を回して引き留めようとした。己の脳内を狂わせるこの「不確定要素」の大きさに、安明は冷や汗が流れるほどの衝撃を受けていた。
「安明さん……あの……」
梨乃が恐る恐る振り返ろうとした瞬間、安明の腕の力が、ふっと不自然に抜けた。
彼は抱きしめていた腕を滑らせるように上げ、梨乃の肩越しに、彼女の髪に引っかかっていた一本の藤の房へと、長い指先を伸ばした。
「……動くな。花びらが、見苦しく頭に乗っているぞ」
何事もなかったかのように、冷徹で飄々とした声。安明はまるで「最初から、梨乃の髪についた藤の花を払ってやるために近づいただけだ」とでも言うように、優雅にその花びらを指先でつまみ、ごまかしてみせた。
「あ、ありがとう、ございます……?」
梨乃がまだ真っ赤な顔で戸惑っていると、安明は一歩後ろへと下がり、いつものように意地悪く唇を吊り上げた。
「全く、少し風が吹いただけで今にも吹き飛ばされそうな風情だな。やはりお前のような脆い羽虫は、この邸の奥深く、私の目の届く場所に繋ぎ止めておかねば、どこで野垂れ死ぬか分かったものではない」
いつものように大義名分を口にする安明。しかし、その切れ上がった瞳の奥には、未だに自らの動揺を処理しきれていない、微かな揺らめきが残っていた。
髪に触れた安明の指先の温もりと、ほんの一瞬だけ、確かに背中に感じた彼の「本気の抱擁」の熱。
からかわれただけだと思おうとしても、梨乃の胸のドキドキは、舞い散る藤の花びらのように、いつまでも激しく揺れ続けているのだった。
狂った数理
陰陽師。それは自らの中にある五行や陰陽を形成して術や呪いを行う、持って生まれた才が左右する能力。
陰陽寮の陰陽頭たる安明は、かの稀代の陰陽師、晴明を生み出した家の出である。
陰陽寮とはすなわち朝廷に仕える国家機関。その頂点に君臨する安明は、能力だけでなく、頭脳も秀でていた。常に策略を巡らせ、最短で最善 of 策を導き出す。星の巡り、五行の流れ、陰陽の交わり。彼にとってこの世のすべては、緻密に組まれた数理と変わらなかった。
そんな安明にも理解し得ない、異質な不確定要素がある。
――梨乃。
あの夜、都の結界を揺るがすほどの異質な「気」を感知し、向かった竹林。そこで下人の衣を纏い、怯えたように蹲っていた奇妙な娘。半ば強引にこの邸へと連れ帰り、手元で管理しているものの、五月の爽やかな風に乗ってやってきた彼女の存在そのものが、安明の完璧な演算を狂わせ続けていた。
藤の花びらがすっかり落ち、初夏の匂いが濃くなった五月下旬の、穏やかな夜のことだった。
寝所の几帳の隙間から、優美な月光が畳を照らしている。安明は文机に向かい、大陸から渡ってきた難解な占術の書に目を落としていたが、ふっと、庭に面した格子から流れ込んでくる気配に視線を上げた。
広縁に、梨乃が座っている。
彼女は膝を抱え、ただじっと、夜空に浮かぶ月を見上げていた。
その姿は、この都の女房たちとは根本的に異なっていた。物忌みや方違えに怯えることもなく、闇に潜む物の怪を恐れる風でもない。ただ、夜の涼風を心地よさそうに受け止め、静かに佇んでいる。
「……梨乃」
安明が音もなく背後に立つと、梨乃は驚いたように肩を跳ねさせ、それからほっとしたように、この時代にはない屈託のない笑みを浮かべた。
「安明さん。起こしてしまいましたか?」
「いや。……何を呆けている。夜着のまま外気に当たれば、また身体を冷やすぞ」
「すみません。でも、今日の月、すごく綺麗で……。私のいた世界でも、月は同じように輝いていたな、って、少し思い出していたんです」
梨乃が何気なく呟いた言葉に、安明の切れ上がった瞳が微かに細められた。
彼女の流れる時間は、この都 of 因果とは明らかに違う。千年の時を隔てた、ここではないどこか。衣服を改め、言葉を崩しても、彼女の根底にある「世界」の気配までは消せない。
今、隣で同じ月を見上げていながらも、彼女の心の一部は、自分の決して手が届かない遥か彼方の「未来」という名の異界に繋がっているのだ。
「……阿呆め。過ぎ去った過去を追うのも、未だ来ぬ未来を望むのも、等しく無意味だ」
安明は吐き捨てるように言い、梨乃の隣に腰を下ろした。
「そんなに帰りたいか」
「……前は、寂しかったです。でも、今は……」
梨乃は小さく首を振ると、いたずらっぽく安明を見上げた。
「安明さんがこうして、いつもお小言を言って、でもちゃんと傍にいてくれるから。この世界も、そんなに悪くないなって思えるようになりました」
雲から出た月光が、梨乃の横顔を真っ白に照らし出す。
その瞳に向けられた、一点の濁りもない、穏やかで絶対的な信頼の光。
(――弦鳴)
安明の胸の奥で、張り詰めていた理性の糸が、高く美しい音を立てて弾け飛んだ。
どくり、と心臓が熱く脈打つ。
いつもの皮肉も、冷徹な大義名分も、その純粋な温もりの前に霧散していく。ただ、彼女の髪を揺らす五月の夜風すら羨むような、酷く穏やかで、けれど抗いがたい感情が、安明の全身の血の巡りを支配していくのを感じていた。
部屋に戻り、一人になった安明は、自身の乱れた呼吸を整えるように深く息を吐き出した。
策略を練るのは、自分の才だ。
国家の行く末も、怨霊の呪詛も、数ある道筋からすべて最善の答えを導き出して見せてきた。
だが、今、己の胸中にあるこの混沌とした熱の正体を、どう解き明かせばいい。
知略を駆使し、幾重もの道筋を辿り、たどり着いた答えは――。
「まさか、この私が――」
それは、不確定な感情。
無論、知識としてはある。古今和歌集に並ぶ、男女の恋情という名の熱病。
しかし、これはただの『呪』の一種に過ぎない。あのような特異な気を放つ異界の者を、己の霊力と結界の内に繋ぎ止めるため、陰陽の均衡が一時的に傾き、私自身の精神に「不可抗力の愛着」を錯覚させているだけだ。そう、すべては都を護るための、術理的な副作用……。
安明は脳内で、必死にもっともらしい理論を組み立て、自嘲気味に唇を歪めた。
天才陰陽師ともあろう者が、このような滑稽な言い訳を並べ立てねばならぬほど、その感情は深く、根深く、彼の心を侵食している。
(自覚したとて、本人に伝えることはないだろう。今は……)
あの無防備に笑う娘に、いかなる策略を巡らせても制御しきれぬ、この難解な熱を明かせば、今度こそ怯えて逃げ出してしまうかもしれない。
それに、主導権を握るべきこの私が、形無しの恋に落ちたなど、傲慢なプライドが許さなかった。
「……お前を連れ帰ったのは、私だ。ならば、最後まで狂わされてやるのも一興か」
闇の奥、安明の瞳に宿る不敵な熱は、静かに、けれど確実に深まっていくのだった。




