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8 兄の特権

 翌朝、鬼海は目覚ましよりも早く目が覚めた。熟睡したのだろう、驚くほど頭がすっきりしている。

 寝転がったまま伸びをしようとして、違和感に気が付いた。

 ベッドが狭い。

 いや、身体が大きく戻っている。

 丸まっている直也をひょいとまたいで、鬼海はバスルームヘ鏡を見に行った。

「──戻ってる……!」

 顎に手を滑らすと、ちくちくと伸びかけた髭が当たる。

 鬼海はバスルームを飛び出すと、直也の背中をばしばしと叩いた。

「直也、直也、起きろって!」

「んー……何? マコッちゃん、朝からテンション高いよ」

「寝ぼけてないで目を開けろ! 戻った、戻ったんだよ!!」

「へ? マジで!? うわ、本当だ!」

 直也は起き上がると同時にのけぞるように身体をひかせた。

「……あれ? でも、何かちょっと顔、変わった?」

「そうかな」

 首を傾げると、直也はまじまじと見つめながら近付いてくる。

「ああ。多分、顔そのものっつーか、表情のせいだね」

「変?」

「んにゃ。オレはいいと思うよ」

 直也はにかっと歯を見せて笑った。

 それから身支度を整えて朝飯を食べた。いつものようにラーメン丼にシリアルを山盛りだ。自分で買い物に出かけなかったせいで、とうとう牛乳のストックが切れてしまった。今日中にどこかで買っておかなければいけない。

「動物園、行く必要なくなっちゃったね」

 食事中、ぽつりと直也が言った。

「え、行くだろ? 病院のあとになっちゃうけど」

 驚いて手を止めると、直也の方が驚いたような顔をしていた。どうやら一人前に遠慮をしていたようだ。

 鬼海は意地悪くにやりと笑った。

「もしかしてお前、行かないつもりだった?」

「行くよ。行きます。お供します」

 直也は顔を隠すように丼を持った。早口でまくし立てた後、勢いよくシリアルをかきこんで、げほげほとむせた。



 早めに出発したせいか、病院で待たされることはほとんどなかった。

 名前を呼ばれて診察室に入ると、女医は驚いたように目を見開いた。

「案外、早かったですね」

 触診などの診察が一通り終わると、女医はカルテに書きつけながら質問をしてきた。

「それで、身体が元に戻るきっかけが何だったのか自覚はありますか?」

 鬼海はぼんやりと首を傾けた。

 直也と話して目が覚めたような気持ちになったことは確かだが、どの会話がきっかけになったのかと聞かれると、正直に言ってよく分からない。

「これかな、という要素はいくつかありますけれど……決定打となるとよく分かりません」

「では質問を変えましょうか」

 ボールペンを机に置いて、女医はくるりとこちらに向き直る。

「──発症前と回復後で、意識が変わったことは何かありますか?」



「それで、何て答えたの?」

 ソフトクリームを舐めながら、直也が尋ねた。

 鬼海は約束通り直也と一緒に動物園に来た。今は、診察の様子はどうだったと聞かれたので、返事をしている最中だ。

「んー……しいて言うなら、批判的なことばかり考えていたのが、ありのままでいいのか、と思えるようになったってことかなあ。内側に向かっていた何かが解放されて、今は意識が外に向かっているような気がする」

「ふうん? 何だかよく分かんないなあ」

 落ち着きなくうろうろと歩き回るヒグマを追いかけて、直也はこちらを振り返りもせずに声を上げる。

 平日ということもあって、客足はまばらだ。さすがにパンダ舎の前は人だかりが出来ていたが、そこから一歩離れてしまえばほとんど貸切状態だった。

 鬼海は直也から一歩離れた場所に立ってソフトクリームのコーンをかじった。もちろん、伝わらないように言ったのだから、分かってもらっては困るのだ。

 元に戻った原因は分かっている。

 直也に対する態度を変えたら、ドミノ倒しのように世界が変わった。

 自分の行動が変われば相手の反応も変わるし、相手の反応が変わればその後の対応も変わってくる。直也は頑張っていると言ってくれたが、もしかすると今までは頑張る方向が間違っていたのかもしれない。

 ──敵わないな、と今は素直にそう思う。

 シロクマ舎に進みながら、鬼海は食べ終わったソフトクリームの紙をくしゃりとまるめた。

「直也」

 呼びかけると、直也はこちらを向いて首を傾げた。コーンを口の中に押し込むのに夢中で、返事をすることは出来ないようだ。

 鬼海は軽く笑って、肩をすくめた。向こうが言い出しにくいのならば、そろそろこちらから切り出してやるのが親切というものかもしれない。

「お前さ、本当はただ会いたくて来たわけじゃないだろ」

 真っ直ぐに目を見て言い切ると、直也は肩をすくめてふふっと笑った。

「──やっぱりマコッちゃんに隠し事は出来ないねえ」

「進路のことか」

「うん……」

 まだ言いにくそうにしているので、鬼海ははっぱをかけるように丸まった背中を叩いてやった。

「院に進みたいなら頑張れよ。オレも仕送り、増やすからさ」

 直也は咳き込みながら、目を白黒させている。

「何でマコッちゃんそんな分かるの? エスパー?」

「うちの家計の事情は分かってるし、お前いま三年だろ? 時期を考えればおおよその見当はつくよ」

「すごいね」

「もっと褒めてもいいぞ」

「……やっぱちょっとマコッちゃん変わった?」

 変なものを見るような目で見てくるので拳を上げると、直也は小さな子どものように嬉しそうに逃げ回った。

「でも母ちゃんからのメッセージは分かんなかったでしょー」

 遠く距離を置きながら、そんなことを叫んでくる。鬼海は思わず眉をひそめた。

「あら煮の缶詰め? それが何だって言うんだよ」

「実はね、マコッちゃんには一個しか渡さなくていいって言われてたんだー」

「は?」

「母ちゃんのあら煮が食べたかったら、とっとと帰って来い、だってさ」

 そうだったのか。大人げなく腹を立ててしまったことが急に恥ずかしくなってしまった。直也は頭の後ろで腕組みをして、へらへらと笑いながら近付いてくる。

「マコッちゃん仕事始めてから、ほとんどこっちに帰ってきてないじゃん。もしかして彼女がいるから帰ってこないのかなーなんて言ってたんだけど、あの部屋の様子じゃそんな感じもしなかったし。別の意味で心配になっちゃったよ?」

「よーし分かった。今すぐ帰るか?」

 握った拳を振り回すと、直也はひょいとかわして肩をすくめた。

「うん。もう帰るよ。後期の授業、始まるし。荷物まとめたら、新幹線で」

「いつ?」

「部屋に帰ったらすぐ」

「──って、今晩!?」

 さっき言ったのは冗談だぞ、と念を押すと、分かっているよと直也は笑った。

 来たのも急なら、帰るのも急な奴だ。

 鬼海は神妙な顔をして、直也に一歩、近付いていった。

「その……色々、ありがとな」

「礼なんていいよ。打算でやったことかもしれないんだし」

「お前にはそんな腹芸できないだろ」

 くしゃっと頭を掻き混ぜてやると、直也はびっくりしたように目を見開いた。

 口元が緩み、何かを言いかけたが、笑顔のままで固まっている。まばたきを一つしただけで、大粒の水滴が零れて落ちた。

 直也はくるりと背中を向けた。

「……ひどいよ、マコッちゃん。オレずっとマコッちゃんには嫌われてるんだと思ってたのに」

「弟をいじめるのは兄ちゃんの特権だ」

 鬼海は偉そうに宣言して、泣きながら笑う直也の頭を軽く小突いた。 


                 (終)

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