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3 突発性身体退行障害

 どこかで携帯電話のアラームが鳴っている。

 まだ全然眠り足りないというのに朝が来てしまったようだ。鬼海は眉間にしわを寄せた。枕元を手探りしてみたが、照明と空調のリモコンしか見あたらない。

 ──そうだ、昨夜はスーツのポケットに入れたままだったんだ。

 弟がやってきてバタバタしていたことを思い出し、鬼海は頭をかきながら身体を起こした。視線を落とすと、足元の床には大の字になった直也が転がっている。残念ながら、昨夜の出来事は夢ではなかったらしい。

 唐突にアラームが切れた。放っておけばまた五分後に鳴りだしてしまうだろうが、時間が分かって丁度いい。

 足を下ろしてベッドの端に座り、鬼海は少しの間ぼんやりとしていた。直也は腹にバスタオルを巻いて、笑っているような寝顔をさらしている。腹を踏んでやろうかと意地悪く考えて、鬼海はふと、妙な違和感に気が付いてしまった。

 自分の身体が、変だ。

 スウェットのハーフパンツからのぞく足が小さい。ハーフパンツなのにくるぶしまで布地が覆っている。そういえば、Tシャツの襟ぐりもやけに広くなってしまっているような気がする。

「なんだ、これ……?」

 呟いて目を見開いた。自分の口から、舌足らずな、少しかすれた甲高い声がする。思わず喉をおさえて「あー」と発声してみた。変だ。確かに喉は震えてはいるが、内耳から聞こえる柔らかな声が自分の声だとは思えない。

 耳だけではなく、喉もおかしいのかもしれなかった。何だか妙に頼りない感触がした。それとも、手のひらの感覚の方がおかしくなってしまったのだろうか。

 開いた両手を目の前に並べる。柔らかそうな小さな手だった。どう考えても自分のものではありえない。指を折り込むと、丸みを帯びた爪が手のひらに食い込んだ。信じられないことに、それは鬼海の意思で動かしているとしか思えないような動きをしていた。

「───……」

 突発性身体退行障害。

 病名が脳裏に浮かんでぞっとする。

 ゆっくりと顔に手を当てた。頬が無駄に柔らかい。髭の感触もない。丸くて妙にすべすべしている。

 ──まさか、そんな。

 自分の身に起こったことが信じられなくて、鬼海はベッドから跳び下りた。驚くほど視線が低い。直也をまたごうとして足を引っ掛けながら、ユニットバスへとよろよろと進んでいく。あそこになら、鏡がある。きっと何かの間違いだろう。

 そして鬼海は絶望した。

 鏡の中には、小学生の頃の自分が映っていた。恐らく低学年の頃の姿だ。線が細い。眉も薄い。目だけがきょときょとと大きくて女の子みたいだ。

 再び鳴りはじめたアラームが、中途半端なところで止まった。

「マコッちゃーん? 目覚まし、勝手に止めちゃったよー?」

 びくりとして視線を上げる。うっかりしていた。バスルームの扉は開けっ放しだ。鏡の中を確認すると、小学生の鬼海の頭上から、二十一歳のままの直也が目をまんまるにして覗き込んでいるのが見えた。

「嘘。マコッちゃん? 何でこんな……マジかよ」

 振り返ると、直也はしゃがんで視線を合わてきせた。心配そうな瞳がごく近い距離にある。顔に向かって大きな手のひらが伸びてきて、思わず鬼海は身体をひかせてしまった。

 一瞬の間が開いて、直也は突然、すくっと立ち上がった。

「──って、驚いてる場合じゃなかった。まずは病院に行かないと! じゃなくて会社!? 仕事休みますって連絡しなくちゃ!」

 言いながら、熊のようにうろうろと歩き出している。お陰で、かえって気持ちが落ち着いてきてしまった。

「お前が慌ててもどうしようもないだろう。連絡も自分で出来るから、とりあえず落ち着けって」

 やはり声が高い。自分の口から発せられているのは間違いないのだが、どうも慣れない。

 直也はくるりとターンを決めると、妙に不満そうな顔をこちらに向けた。

「それはそうかもしれないけどさあ……。こんなときくらい頼りにしてよ。オレに出来ることなら何でもするよ?」

「分かった分かった。気持ちだけ受け取っとくから、とりあえず何か食おう。食おうって言ってもシリアルかラーメンくらいしか置いてないけどな」

 敷布団代わりにしていた毛布を苦労しながらたたもうとしたら、直也が奪うようにたたんでくれた。何だか腹を立てているようだが、怒る理由がよく分からない。

「直也?」

「トイレ! ついでに顔洗ってくる」

 大きな音を立てて扉が閉まった。仕方なく、鬼海は一人でクローゼットの中から折りたたみ式のテーブルを引っ張り出す。

 テーブルを組み立てて、鬼海はその上に乗ってハンガーに掛けておいたスーツを下ろした。ポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認する。

 時刻は六時十七分だ。普通の病欠なら始業前に事務所へ連絡するのが常だが、今回のこれが普通とは言いがたい。報告するなら少しでも早いほうがいいだろう。けれど、こんな時間から電話を掛けて迷惑になったりしないだろうか。代理はもう起きだしているだろうか。

 鬼海は迷いながらも履歴を呼び出した。どんなに言いにくくても、病欠連絡するのも仕事のうちだ。迷っていても仕方がない。

 電話は、すぐにつながった。最初はいたずら電話と間違えられそうになってしまったが、仕事の話を切り出すとすぐに本人だと理解してもらえた。

『……まあ、病気になっちまったもんは仕方がない。仕事のことは心配すんな。残されたメンツで何とかすっから』

 代理はひとしきり驚いた後に、長い長い溜息を吐いた。病欠でも長く休む場合には手続きが必要になる。そのための準備が出来たら連絡すると告げられ、通話を終了した。緊張していたせいか、話が終わった途端に大きな欠伸が出てしまう。

「電話、終わったの?」

 頃合を見計らっていたのか、バスルームから直也がひょいと顔を出した。機嫌はもう直ったらしく、いつも通りの表情だ。鬼海はぼんやりとする頭を振って、欠伸を噛み殺した。

「──やっぱオレもうちょっと寝ておくわ。九時過ぎに電話があると思うから、もし気付かないようだったら叩き起こしてくれ」

「飯はどうする?」

「後で食べる。あるもの勝手に食べてて構わないからな」

 入れ違いにトイレに行き、戻ってきたらカーテンが開けられていた。眩しさに目をしばたたかせながら様子を窺がうと、バルコニーに直也の姿が見える。どうやら、昨夜干した洗濯物は全て乾いているようだ。

 鬼海は日差しから逃れるように、タオルケットを巻き込みながらごろりとベッドに横たわった。



 ところが、次に鬼海が目を覚ましたのは十一時半だった。壁にかかった時計を見上げて、鬼海は呆然と呟いてしまう。

「──直也、オレお前に起こしてくれって頼んだよな……」

「何度も起こしたのに起きなかったんだよ。電話には出ておいたから、それでいいだろ?」

 直也は伝言を控えたメモを渡してくれた。それによると、指定された心療内科のクリニックに行って、診断書を書いてもらわないといけないらしい。鬼海は小さく溜息をついた。起こせというのは電話には出なくてもいいという意味だったのだが、直也には通用しなかったようだ。

「ところで今からラーメン作ろうと思うんだけど、マコッちゃんも食べる?」

「……ああ、うん」

 言いたいことはいろいろあったが、何も分かっていない直也を見ていたら腹を立てているのが馬鹿らしくなってきてしまった。渡されたメモをたたんで、溜息をつく。

 いつの間にか買い物にも行っていたようで、ラーメンの具にはネギとハムと卵まで入っていた。ちまちまと麺をすすっていると、直哉は自分の分を持ってきて目の前に座った。ラーメン丼は一つしかなかったはずなのに、どうして増えているのだろうか。

「ん? これ? 百均で買ってきたの。スーパーの二階って色んなお店が入ってるんだね。服とか靴とか下着とか、全部売ってたから買っておいたよ。そのままじゃ病院にも行けないでしょう?」

「そりゃまあそうだけど……。お前の持ち合わせは大丈夫なのか? いくらかかった?」

「んー……ざっと二万かな、着替えも買ったし。レシート見せようか?」

「いいよ、そこまで」

「靴って案外高いんだねー。合わなかったら返品してくるから、後で全部試してみてよ」

 ラーメンを食べ終え、直也が食器を片付けている間に着替えてみると、どれもこれもぴったりだった。膝が見える丈のハーフパンツにTシャツ、靴下、スニーカー。その辺にいる子どもみたいな格好だ。返品する必要はなさそうだから、着ているものをいちいち脱いで、値札などのタグを片っ端から切っていく。

「良かった、ちゃんと合ってたみたいだね」

 洗い物を終えた直也は、機嫌良さそうな笑顔をみせた。鬼海はタグを外した服を着直して、何とも言えない表情をする。

「合ってたけど……なんか気持ち悪いな。どうしてこんなにサイズぴったりなんだよ」

「へへへ。それはですねえ、工学部ご愛用の品、金尺サマのお陰なのでございます」

 直也はポケットから巻尺を取り出して、自慢するようにジャッと伸ばした。金属製なので手を離しても真っ直ぐ伸びたままだ。手元のボタンを操作すると、同じような音を立てて引っ込んでいく。

「──お前、いつもそんなもの持ち歩いてんの!?」

「そうだよー。お陰で役に立ったでしょー」

 直也は嬉しそうに胸をそらしている。鬼海は思わず溜息をついた。通勤用の鞄から長財布を取り出し、二万円を手渡す。残金が心許なくなってしまったが、初診料くらいは何とかなるだろう。

 鬼海は鞄を持って立ち上がった。こんな小さな手のひらでは、革の鞄が恐ろしいほど似合わない。アンバランスだという自覚はあったが、他によさそうな鞄など持っていない。

「じゃあ、オレはちょっと病院に行ってくるから。仕事場の近くにあるみたいなんで、多分、二、三時間はかかると思う」

「え? なんで留守番? オレも行くよ?」

 直也は心外だと言わんばかりに目を見開いた。

「いいよ別に。ついてこなくても」

「いくらマコッちゃんが大丈夫だって言ったっても、見た目は小学生なんだもん心配だよ。東京は変な事件多いって言うし、さらわれちゃったらどうするつもり?」

「分かった、分かったから! ──その代わりおとなしくしてるんだぞ」

「はあーい」

 子どものような返事をして、直也は嬉しそうに立ち上がった。手荷物を持ってくれたはいいが、やはり直也にもあの鞄は似合っていない。

 鬼海は溜息をついて玄関を出た。服を用意してくれたことで少しは頼りになるかと見直したのに、何だか果てしなく不安だった。

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