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2 最後にやってきたトラブル

 トラブルは立て続けに起こるものだ。

 通常業務の他に割り振られた仕事をこなしていくうちに書類に不備が見つかった。社印はあっても社長印がないものがあったのだ。見つけた女性は気の毒そうに指摘してくれたが、自分のミスなのでどうしようもない。むしろ仕舞い込まれる前に気付いてくれたことがありがたかった。

 慌てて取引先に連絡して判をもらいに行ったはいいが、決裁者が外出中で社長印を押してもらうことが出来ない。手ぶらで帰る訳にも行かずに待たせてもらい、ようやく職場に戻ってみれば、書類がアルプス山系のように積み上げられていた。聞けば、鬼海のサポートをしてくれている女性が早退してしまったというのだ。さすがにお子さんがプールで溺れたとあっては引き止める訳にもいかないだろう。幸い大事には至らなかったそうなので安心したが、あまりのことに返す言葉も見つからない。

 怒涛のように書類の山を片付けて、後輩の相談に乗り、見かねた次長からの差し入れで昼飯とも夕飯とも言えない時間にコンビニのサンドイッチを食べ、再び書類の山に立ち向かう。頭の中が高速回転を続けているせいか、時間の感覚がどこかへ飛んでいってしまっているようだ。

 疲れを感じて顔を上げると、いつの間にかフロアには人の気配がなくなっていた。代理も席から消えていたが、机の上が散らかっているところを見ると先に帰った訳でもなさそうだ。法人融資課以外の島は照明も落ちてしまっている。防犯のためか、フロアには窓の類がほとんどない。陽光で時間をはかることが出来ないから、体内時計はどんどん狂ってきてしまう。

「鬼海、休憩するのも仕事のうちだぞ。あれから何も食ってないんだろう?」

 声をかけられて、鬼海は目をしばたたかせた。代理は廊下側から事務所を覗き、コンビニの袋を見せびらかしている。

 手招きを一つして、代理はさっさと歩き出した。どうやら食堂に来いということらしい。事務所の扉を封鎖して、鬼海は小走りに後を追いかけた。

 誰もいないのだからどこに座っても良さそうなものだが、代理はいつもの場所に陣取った。向かい側に座ると、コンビニの袋の中から取り出した弁当を渡される。ハンバーグ弁当だ。すでに電子レンジで温めてあるようでまだ熱かった。温かい緑茶のボトルも二本、テーブルの上に並べられる。

 代金を支払おうとしたら、いいからおごられとけと言われてしまった。固辞するのも失礼にあたるだろうから、ありがたく頂いておくことにする。

「それにしても……課長っていつまで休まれることになるんでしょうね」

 肉の塊を頬張りながら尋ねてみると、代理は一瞬、箸を止めた。

「二、三日で治る人もいるって聞くけど、一ヶ月くらいみておいたほうがいいのかもしれないな。まあ、決算月じゃなくて良かったって思おうや。この状況をどうやって切り抜けられるかが、残されたオレらの腕の見せ所ってヤツだな」

 言いながら、にやりと口の端を上げる。その軽口に追従するような笑みを浮かべながら、鬼海は曖昧に首を傾げた。

「だけど、こんな風に休まざるを得ない状況って辛いでしょうね……。オレなら仕事で忙しいほうがまだマシだって思ってしまうかもしれない……」

 身体は子どもに戻っても、精神は大人のままであるらしい。もし自分が同じ立場になったらと思うとぞっとする。無意識に身震いをして顔を上げると、代理は肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

「確かに課長もお前もそういうタイプだもんな。オレだったら絶対に全力で遊び倒してやるんだけどなあ」

 事務所に戻って書類を片付けて、ようやく一仕事終えることが出来た。時計を見るとまだ終電に間に合う時間だ。代理はまだパソコンに向かっていたが、鬼海は一声かけて職場を後にすることにした。

 電車に揺られて二十分、駅から十五分ほどの距離にあるワンルームマンションに鬼海は住んでいる。三階なのでエレベータを待つのも面倒だ。いつものように階段を登っていくと、自室の前に何か大きな荷物が置いてあるように見えた。

 警戒しながら近付いていくと、荷物ではなく人間であるということが分かった。男はコンクリート張りの廊下に座り込んで、膝を抱えるようにして眠りこけている。流線型のヘルメットをかぶったまま、ピクリとも動かない。

 鬼海は思わず溜息をついた。顔を見なくても分かった。実家にいるはずの弟・直也だった。隣には折りたたんで袋詰めにした自転車と、登山者のような巨大なリュックが置いてある。驚くべきことに、どうやら九州から自転車でやってきたようだ。

「……おい。起きろよ」

 革靴の爪先で脛をつつくと、直也はびくっと顔を上げた。眩しそうに目をしばたたかせて、子どものようにへらりとした笑顔を向けてくる。生えっぱなしの無精髭がとことん似合わない。

「あれえ。マコッちゃん、おかえり~。遅かったんだねえ」

「いいから早くそこ退けよ。鍵が開けらんねーじゃねーか」

「あ、ごめんごめん」

 鬼海は苛々と鍵をドアノブに差し込んだ。疲れているからシャワーだけ済ませてさっさと寝ようと思っていたのに、本日残り五分というところで最大のトラブルが転がり込んできてしまった。直也はまるで忠犬のように、扉を開けてもらえるのを待っている。

 鬼海は諦めて扉を開けた。電気のスイッチを入れると、極端に物の少ない部屋があらわになる。ガスレンジと洗濯機は備え付けだが、家具と呼べるものは電子レンジと冷蔵庫、ベッドとパソコンラックくらいしかない。クローゼットは二つ分あるが、日常使っているのは片方だけだ。

「おじゃましまーす……」

 冷房のリモコンを操作していると、直也は態度だけは遠慮がちに入ってきた。右肩にはリュックを、左腕には自転車の包みを抱えて、どこに置いたものか思案しているようだ。

「ちょっと待て。まさかそれも部屋に入れるのか?」

「玄関先でいいから置いてよー。オレの全財産なんだよー」

「ていうかお前、いま気が付いたけど物凄くくさいぞ!?」

「えー。おととい水浴びしたんだけどなあ」

 直也は自転車を手放して、腕の匂いをくんくん嗅いでいる。水浴びって何だ。それもおとといって。鬼海は目眩を起こしそうになった。

「──風呂に入れ! 今すぐに! ついでに髭も剃ってこい!!」

「実は髭剃り持ってきてないんだけど……」

「それくらい貸してやるよ!!」

 弟を風呂に押し込んで、鬼海は頭をかきむしった。下着以外はろくな着替えも持っていなかったから、Tシャツとスウェットのハーフパンツを貸してやる。荷物の中から出させた汚れ物と、脱いだばかりのサイクリングスーツを渡してもらって、まとめて洗濯機の中にぶち込んだ。ユニットバスは占拠されているから、台所の流しで念入りに手を洗う。

 ようやくネクタイをゆるめて、鬼海は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。酒でも飲まなければやってられない。汚れ物は片付けたが、まだヘルメットとリュックから匂いがするようだ。触りたくないので遠巻きのまま、スプレータイプの消臭剤を何度も何度も吹きかけてやる。

 缶ビールを半分ほど飲んだあたりで、弟の分の寝具がないことに気が付いてしまった。何でオレがこんなことをと思いながら、クローゼットの中から毛布を出して、予備のベッドシーツをかぶせてやる。夏場だから掛布団などなくても大きめのバスタオルで充分だろう。

 そうこうしている間に直也が風呂から上がったようだ。扉からひょいと顔を出して、洗面台のところに置きっぱなしにしてあった電気シェーバーを振っている。

「ねーねーマコッちゃん髭剃りってこれー?」

「見れば分かることをいちいち聞くな!」

「もー。そんな怒んないでよー。ていうかどうせ寝てる間に伸びるんだから明日の朝でもいいんじゃないのー?」

「いいから剃れ! 見苦しい!!」

 ぴしゃりと言うと、直也は不満そうな声を上げた。それでも一応はユニットバスの中から電気シェーバーを起動させる音が聞こえてくる。

 やがて顎を撫でながら、直也は姿を現した。肩からスポーツタオルを提げてはいるが、髪から雫がぽたぽたと落ちかかってきている。

「あー、さっぱりしたー。風呂の湯、抜いてきちゃったよ。ユニットバスって使い方がよく分かんないね」

「──で? お前いきなり何しにきたの」

 二本目のビールを片手に尋ねると、直也はぷうっと頬をふくらませた。身長は鬼海と変わらないが、ころころと変わる表情は子どもの頃のままだ。先月二十一歳になったばかりのはずだが、いまだに高校生にしか見えない。大学三年生の夏休みといえば心置きなく遊べる最後の時期だ。こんなところに来たりなんかしないで、もっと有意義に使えばいいものを。

「何しにって何だよー、会いに来ちゃ悪い?」

「悪かないけどやり方が悪い。事前に連絡くらいよこせよ」

「へへへ。びっくりさせようと思ってさ~」

「──まさかそれだけのために来たんじゃないよな!?」

「そうだけど……何かまずかった?」

 タオルで髪を掻き混ぜながら、直也はきょとんと首をかしげている。お前は体当たり芸人か。鬼海は頭を抱えたくなった。

「自転車買ったら遠出してみたくなって、それならマコッちゃんとこ行けばいいじゃんって家中で盛り上がっちゃったんだよねえ。はいこれお土産。母ちゃんがいろいろ持ってけって、結構重たかったんだからね~」

 直也はひょいっと敷布団代わりの毛布を跳び越えると、玄関先に放ってあったリュックから缶詰を取り出した。地元産の鰤のあら炊きだ。それはいい。だが、手渡されたものは八十グラムの小さな缶が一つだけしかない。

「これだけ?」

「ごめん。実は道中でいっぱい食べちゃってさ」

 直也はリュックから出したらしいミネラルウォーターのキャップを開けて、照れくさそうに頭をかいた。鬼海は思わず目をむいてしまう。

 母親が用意してくれたということは、この缶詰が弟を世話する手間賃とみて間違いないだろう。それを、自分で食べた、だと!? わざとやっているのなら首を絞めてやるところだが──いやいや、こいつは何も考えていないだけだ。怒るだけ無駄だ。そう言い聞かせてみても、ふつふつと沸き上がる感情は自分の意思ではどうにも出来ない。

 鬼海は一気にビールをあおると、資源ゴミのペールの中に空き缶を押し込んだ。無言のままハンガーにスーツ一式を掛け、消臭スプレーを吹きかける。

「マコッちゃん?」

「──風呂に行ってくる。お前はいいから先に寝てろ」

 頭を冷やすためにシャワーを浴びて、着替えて戻ると洗濯機が止まっていた。直也は言われた通り、ベッドの下に敷いた毛布の上で気持ち良さそうに眠っている。身体を横にして、膝を抱えるように丸くなっている姿は、さながら大型犬の寝姿のようだった。

 舌打ちしたい気持ちを抑えこんで、仕方なく鬼海は脱水まで済んだものをハンガーに掛けた。寝ている弟を踏まないように気をつけながら、バルコニーの干し場に吊るしていく。確かに寝てろと言いはしたが、どうしてこいつが先に寝ていて、自分は洗濯物を干さなければならないのだろう。どう考えたって兄なんて損だ。

 時計を見るともう一時半だ。冷房をスリープモードに切り替えると、倒れこむようにベッドにうつ伏せた。顔も上げずにリモコンで明かりを消す。

 そのまま、気を失うように眠ってしまった。


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