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1 奇病の噂と多忙の兆し

 八月も半ばを過ぎた。そろそろ月末の締めに向けて準備をしておかなければならない。

 その日のうちにやるべき仕事を頭の中で組み立てながら、鬼海は網棚に手を掛けて満員電車のブレーキに耐えた。酸欠の金魚のように上を向いて息を吐き出す。

 周囲と比べて、鬼海は頭一つ分ほど背が高い。特にスポーツをしていた訳ではないが、実家が農家だったお陰でそれなりに筋肉の厚みもある。だが、身体が大きいからといって圧し掛かられて辛くない訳がない。仕方なく我慢をしているだけだ。自分が耐えなければ周りにもっと被害が出るだろうことは重々承知している。

 気の抜けたような音を立てて扉が開いた。流れに身を任せるように扉を降り、そのままホームから階段へ向かう。

 今日も暑くなりそうだ。眩しさに目を細めながら新宿駅を出て職場に向かう。鬼海の足なら五分の距離だ。ビルの窓に映る空はどこか作り物めいて見える。振り仰げば青い空が眼に入るが、ビルの谷間に切り取られた空は頭上を覆う蓋のようでしかない。

 世間はUターンラッシュやら帰国ラッシュやらで賑わっているようだが、銀行業務に盆休みはない。鬼海の所属する法人融資課は三階だ。始業三十分前にパソコンを立ち上げ、仕事の出来る状態にしておくのが日課だった。フロアにはすでに半数以上の同僚たちが席についている。

 いつもなら課長も代理も出勤している時間帯のはずだが、机の上には何一つ置かれていなかった。不思議に思ったが、とにかくまずは自分のことだ。鍵のかかった引き出しからパソコンを取り出し、電話の横にペン立てとメモを用意する。

「鬼海さん鬼海さん。話もう聞きましたか?」

「何が」

 パソコンの電源を入れていると、後輩がコーヒー飲料を片手に近付いてきた。出社時間はいつも早いが、始業前に女子行員と無駄口を叩くのが趣味なので、彼の机もまだまっさらなままだった。引き出しからコースターを出して飲みかけのペットボトルを置き、キャスター付きの椅子を転がして声をひそめる。

「課長、アレですって。時代の最先端の! どーするんですかねえ、課長の抱えてる案件って」

「何だよあれって。課長に何かあったのか?」

 ただならぬ物言いに眉間に皺が寄る。墨をよく含んだ太筆でためらいなく跳ね上げたような眉だ。身体も大きいが、鬼海は顔のパーツの一つ一つも標準より大きい。はっきりとした二重瞼で、鼻は高く、彫りも深い。イケメンでもハンサムでもなく、銀幕のスターと陰で呼ばれていることを鬼海自身も承知している。そのことに対しての感想は特に持ち合わせていない。

「ええとなんて言うんでしたっけ、突発性──?」

「まさか、突発性身体退行障害?」

 鬼海は本格的に眉をひそめた。それですそれですと後輩は妙に嬉しそうに笑っている。

 突発性身体退行障害。

 数年前から国内で流行しだした奇病だ。これに発病すると身体が十歳前後に戻ってしまう。ウィルス性の病気で、インフルエンザのように飛沫感染する、というところまでは分かっている。しばらく休むと元の姿に戻れるので、流行しだした当初は発病した者が周りからやっかまれたり羨ましがられたりすることが多かったが、昨年の冬に胎児にまで退行して死亡してしまった人が現れて、改めて危険な病気なのだと認識されるようになった。

 もちろん、感染したからと言って必ずしも発病するとは限らない。発病する人間がたまたま日本人に多く見られただけで、調べてみたら地球上のほとんどの人間がウィルス保持者であるということも分かっている。その程度の発症率だから、身近で発病したという話を聞くのはこれが初めてだった。

「何か課長、朝起きたら子どもに戻っちゃってたみたいでー。奥さんから次長の方に連絡があって、どうも休職の手続きをしなきゃいけないとかなんとかって話らしいですよう」

 後輩の楽しげな様子を見かねて、鬼海は溜息をつくように声を落とした。

「お前な。そんな重大な話をぺらぺら喋ってていいと思ってるのか?」

「え。でも、みんなもう知っていることですし。すぐに朝礼で話題になるから別に構わないんじゃないんですか?」

 きょとんとする後輩に、鬼海は人差し指を突きつける。

「お前がもしその病気にかかったとして、面白おかしく話題にされて嬉しいと思うか? そういうのをプライバシーの侵害って言うんだ。そんな様子じゃ、顧客の守秘義務も守れているのか不安になってくるよ」

「……すみません」

 後輩はさっと顔色を失くしてうつむいた。反省しているのか、それとも何か反論したいところを堪えているのか、能面のような表情を見ただけでは判断がつかない。普段が気安いだけに、こうなってしまうとどう話を着地させたらいいのか分からなくなって困る。

 鬼海は小さく息を吐き出した。

「女性陣とコミュニケーションを図ることをとやかく言うつもりはないけれど、そういう噂みたいなのはな。聞いても自分の胸に留めておくだけにした方がいいぞ。少なくとも、オレはそう思う」

 出来るだけ優しく聞こえるように声をかけてはみたものの、はい、と返事をする後輩の声はかぼそい。鬼海は溜息をついて立ち上がった。居たたまれない。始業前に行く宛てなどある訳もないので、小銭入れを持って食堂に向かうことにする。

 振り返ると、後輩は机からパソコンを取り出しているところだった。本当に分かってもらえたのかどうか、手ごたえが感じられない分、何だか後味が悪い。

(叱るより、叱られている方が気楽で良かったよな……)

 胸の内で呟いて、とぼとぼと歩いていく。食堂の壁際には各種メーカーの自動販売機が揃っており、始業前にここで飲み物を調達する者も少なくない。鬼海はコーヒーを多く取り扱っているメーカーの自動販売機の前でそっと溜息をついた。自動販売機の中に硬貨を滑り込ませる。同時に頭の中を仕事モードに切り替えた。

 課長が不在ということは、代理が課長の仕事を引き受けることになるのだろう。それはすなわち、代理が受け持つ分量が二倍に(実質的にはそれ以上に)なるということだ。一人では回しきれなくなるだろうことは目に見えている。代理からもらえる仕事はもらって、早急にスケジュールを立て直さなければ。

 自動販売機のボタンがグリーンに光り、鬼海は少し迷ってカフェオレを選んだ。今日は忙しくなるだろう。カロリーは取れるときに取っておいた方が良さそうだ。

 賑やかな音が鳴り響いて、鬼海はハーフサイズのペットボトルを無造作に拾い上げた。

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