8
目を瞬いたザンはその次の瞬間に更に驚愕する事になる。
「あれ」
何時の間にか少女の姿はなく。
周囲を見渡しても影も形もなく。
ザンは背筋の悪寒に容赦無く襲われた。
坂道を上り切って帰って来たライヤは、ベッドに座って視線を落としているアシュに歩み寄りその隣に腰を降ろす。最近新しくされたベッドは柔らかくその振動がアシュにも伝わる。
ライヤの顔を見るのも精神的負担になってしまったアシュは何かされない限り特に反応しない。
その態度に――満足そうに笑む。
アシュの生意気な態度はライヤを苛つかせていた。
大人しくなったのは良いがなり過ぎだ。
普通に喋ったり動けば良い、と言っても反応はない。
「あいつお前の事すきなんだな、好きってどういう気分なんだろうな俺にはわからねぇ」
アシュの肩を掴んで引き寄せる。
「恋だの愛だの」
わかんねぇと呟くと唇を噛む。
――ライヤは愛を知らない。
アシュはそう思う。
恋、愛、好意。そんな感情だけが欠けてしまっている人。
どんな生き方をしてきたのかは知らないが、おそらくそれを知らないまま――理解させてくれる人間が傍にいないまま生きてきたのだろう。
そういう感情は生まれつき理解できる人はいるのでは、とも思う。
少なくとも自分は恋や愛がどういったものかは理解出来る。どんな感情なのかは。
胸が締めつけられる想い。
それが何時の間にかアシュの中に生まれていた。
できればライヤにもそんな感情がある事を知って欲しい。
でも。
――俺にはできない。
汚れ切った自分。
さんざん自分へ向けられる人の想いを振り回してきた。
悪気がなくとも事実だ。
そんな自分がいくらライヤを愛したって何も伝わらない。
自虐的な思いがアシュの思考を黒く染める。
「何か言えよアシュ」
アシュは俯いたまま顔を横に振る。
頬を伝う雫にライヤは繭を顰めた。
「悔しいか? おまえ、過去に相当遊んでたんだろ、ざまあねぇな」
こうして監禁された当初に、無理矢理過去を暴かれた。
酷い一日だった。
勘が良いライヤはごまかしが聞かず、アシュの嘘も見抜きさんざん犯されて体力が衰えた頃に正直に告白をしてしまった。
それでますます行為に遠慮がなくなった。
男が好きでない筈のライヤが何故自分を組み敷くのか。
いくら生理的処理だとしても気持ち悪くは無いのかという疑問さえも真意を計れない。
ただ、自分がライヤの役に立つのであれば今はそれでいいと思っていた。
ライヤからしつこく話しくらいしろと言われ続け、少しずつ声を出す様にした。
最中は叫び声に似た喘ぎ声を上げていたが、こうして普通の声を発するのは久しぶりだ。
大分掠れてはいたが自分の声だ。
「またあいつ来るんだろ?」
「知って、るんだ」
「なんか欲しいのがあるんなら言えよ。それともヤってんのか」
自分が買った覚えが無い代物がベッドの下から出て来たのを眺めてつまらなそうに呟く。
「してないよ、部屋の中にも入れてない」
「ふうんそっか。じゃあもうあいつに来ねェように云っとくわ」
ライヤは髪の毛をひとまとめにしながらそんな言葉をアシュにかけた。
出掛ける準備をしているらしい。
ザンに会いに行くのだろうか。
彼に悪いなと罪悪感に苛まれる。
「あの、殴ったり、しないでね」
小さな声で言うとライヤは反応を示さずジャケットを着ると出て行った。
一人になって静かな部屋にアシュの呼吸音だけが響く。
ベッドからそっと降りると窓へと歩み寄る。
そろそろ肌寒くなる時間だ。
日中は穏やかな日差しが降り注ぐが夕方には気温が下がってしまう。
――逃げちゃおうかなあ。
けれどまだライヤから離れたくは無いと思っている。
自分の心がおかしい。
そろそろ精神的にも肉体的にも限界がきているようだ。
何せ、たえず身体は震えて何もしなくても涙が溢れてしまう。
いつ壊れてしまうのかそれが怖い。
――そんな姿を観察している存在にアシュは気付かない。
確かに窓の外に小さな影が”浮いている”のだがアシュは枕に顔を押し付けて視界に入らなかった。
やがてその影は消えてしまった。
深夜を迎え人の出入りが寂しくなった市場。
その中心から数メートル先の路地に、二人の男の影が対峙している。
一人はくすんだ金髪を後ろに縛っている男、もう片方はスーツに身を包みサングラスをかけている。
壁に備え付けられた淡い蛍光灯が二人を照らす。
スーツの男が話しかけており何やら相手を説得をしている様子だった。
「今戻っていただければまだ間に合います」
「しつこい」
「ライヤさんが後継者なんですよ」
金髪の男――ライヤはスーツの男に捕まりこうして数時間は説教を受けていた。