七、玄斎師匠の警告、古の知識の重み
絡繰 螺子は、屋敷の奥で得た新たな情報を携え、帝都の片隅にある師匠、玄斎の工房を訪れた。
彼の工房は、螺子のそれよりもさらに煤けており、壁には使い古された工具が所狭しと吊るされ、床には修理途中の絡繰りの部品や、埃を被った古い文献が山と積まれている。
油と木の匂い、そして微かな金属の軋みが混じり合った、螺子にとって最も落ち着く場所だった。
玄斎は、炉端で茶を啜っていた。螺子の来訪に一瞬、その皺深い顔に驚きの色が浮かんだが、すぐにいつもの頑固な表情に戻った。
「馬鹿な真似はよせと、あれほど言ったはずだ、らし。
お前は、いつもそうじゃ。見るべきでないものにばかり目を向ける」
玄斎はそう言いながらも、螺子が懐から取り出した漆黒のネジの破片を、その掌に乗せてじっと見つめた。
ネジは、屋敷の茶室のからくりの奥で見つかったものだった。
螺子の家族を襲った時と同じ、おぞましい「真っ黒な意思」が、この小さな破片からも脈打っているのを感じる。
玄斎の目は、その黒い螺旋に固定され、やがてその表情に深い苦悩と、隠しきれない恐怖の色が浮かんだ。彼の指先が、僅かに震えている。
「これか……。まさか、まだ存在したとは……」
玄斎の声は、普段の厳しさとは異なり、どこか遠い過去を懐かしむような、あるいは忌まわしい記憶を呼び覚まされたかのような響きを持っていた。
螺子は、師匠がこのネジについて何かを知っていると確信した。
「師匠、これは一体……。あの屋敷の至るところから、これと同じ『真っ黒な意思』が聞こえてくるんです」
螺子が問いかけると、玄斎は茶碗を卓に置き、ゆっくりと立ち上がった。
彼の背中が、普段よりも小さく、そして重く見えた。
玄斎は、埃を被った棚の奥から、さらに古びた木箱を取り出した。
中には、黄ばんだ紙に墨で書かれた、古い文献が数冊収められている。
「これは、古くから我ら絡繰師の間で、口伝で伝えられてきた記録の一部じゃ。
表には決して出してはならぬと、厳しく戒められてきたものだ」
玄斎は、その中の一冊を螺子に手渡した。紙は薄く、文字は擦れて読みにくい。
そこには、「禍つ釘」と呼ばれる禁忌のからくり部品について、詳細に記されていた。
螺子は、その記述を読み進めるにつれて、自身の抱えていた疑問が、次々と解けていくのを感じた。
「禍つ釘は、ただの金属ではない。特定の霊木と鉱石を混ぜ合わせ、呪術的な工程を経て精製される。
これには、からくりの『意思』を歪め、持ち主に不運をもたらす力が宿る……」
螺子の心臓が激しく脈打った。
まさに、家族を襲ったあのからくりのことだ。
そして、今、この屋敷で感じている現象のことだ。
「この釘は、からくりに憎悪を植え付け、操ることで、人を傷つける道具として使われてきた。
特に、怨嗟や憎悪といった負の感情が強い場所で精製されたものは、その力を増幅させると記されておる」
玄斎の言葉は重く、螺子の心に深く突き刺さった。
家族は、からくりに殺されたのではない。
漆黒のネジによって「意思」を捻じ曲げられたからくりが、何者かの悪意によって操られ、悲劇を引き起こしたのだ。
憎むべきはからくりそのものではなく、このネジを精製し、利用した「誰か」だ。
「なぜ、こんなものが作られたのですか?」
螺子は、喉の奥から絞り出すように尋ねた。
玄斎は、窓の外の薄暗い空を見上げた。
「それは……人の欲ゆえだ。
あるいは、憎しみ。あるいは、失われた何かを取り戻そうとする、歪んだ執着心……。
この屋敷の持ち主だった一族も、昔から因習深く、奇妙なものを信じていた。
特に、先代当主は、この禍つ釘に異常な興味を抱いていたと聞く」
玄斎は、文献を閉じ、再び茶を啜った。
彼の言葉は、旧貴族の歴史の裏に、この漆黒のネジが深く関わっていることを示唆していた。
そして、彼らがこの禍つ釘を用いて、何か恐ろしい実験を行っていた可能性も。
「らし、お前は、あれに関わるべきではない。
あの釘は、魂を喰らう。長く使えば、からくりだけでなく、それを扱った者自身の『意思』までも捻じ曲げる……。
お前の能力は、それを直接感じ取ってしまう。お前自身が、あのネジに囚われるかもしれん」
玄斎の警告は、螺子の安全を心から案じる師匠の言葉だった。
彼は、螺子が過去の事件から受けた心の傷を誰よりも理解しており、螺子が再びその深淵に足を踏み入れることを心から案じていた。
「あの屋敷には、ルシアン・ヴァンスという男がいます。
彼は、私の能力を、漆黒のネジの力を……利用しようとしているように見えます」
螺子は、ルシアンの存在と、彼の持つ底知れぬ思惑について、師匠に打ち明けた。
玄斎の眉間の皺が、さらに深くなる。
「ルシアン・ヴァンス……。あの新興の実業家か。
ああいう光を放つ者は、同時に深い闇も抱えておるものだ。
奴はお前を利用しようとしているだけかもしれん。
お前が持つ『からくりの声を聞く』という才覚は、世の中では理解されぬ特別なものだ。
それを悪用しようとする輩も、必ず現れる。警戒を怠るな」
玄斎は、螺子が持っていた漆黒のネジの破片を、再び手に取り、じっと見つめた。
「あの貴族の屋敷には、この禍つ釘の、さらに大規模な、そして最も古いものが隠されているかもしれん。
もしそうなら……それは、お前の家族を殺したあのからくりと、同じ『根』から生まれたものだ」
その言葉は、螺子の心に重くのしかかった。
家族の死の根源が、今、目の前にある屋敷と繋がっている。
それは、螺子の個人的な探求が、単なる過去の清算だけでなく、この禍つ釘という禁忌の存在そのものと対峙することを意味していた。
玄斎の持つ、古きからくりの知識と、漆黒のネジに関する伝承。
そして、螺子の過去への深い理解。
これらは、螺子の探求に大きな手がかりとなる一方で、彼が背負う宿命の重さを改めて感じさせるものだった。
螺子は、師匠の警告を胸に刻みながらも、漆黒のネジの正体と、その背後に隠された「真のからくり師」の存在に、一歩ずつ近づいていく決意を新たにした。
彼の旅は、危険と隣り合わせの、孤独なものとなるだろう。




