六、廃墟を彷徨う影、馨の面影
屋敷の裏庭は、表の庭園よりもさらに荒れ果てていた。
かつては子供たちの笑い声が響いたであろう広場も、今は背の高い雑草と、鋭い小枝を伸ばした茨に覆い尽くされている。
螺子は、屋敷の裏口近くに立つ、傾きかけた小さな蔵の絡繰り錠を調べていた。
錠は複雑な歯車式で、通常は特定の紋様を合わせることで開くようになっているはずだが、今は完全に固着し、内部からは微かな「壊された……」という悲痛な「声」が聞こえてくる。
螺子が、蔵の錠に油を差し、固着した歯車を慎重に叩き起こしていると、彼の視界の端に、かすかな人影が揺れた。
崩れかけた石垣の陰に、怯えたように身を隠す若者がいたのだ。その若者は、屋敷の朽ちた壁と同じようにくすんだ色の着物を纏い、まるで陽の光を嫌うかのように、常に陰を選んで移動している。
螺子が作業の手を止め、静かに目を向けると、若者はさらに体を縮こまらせた。
その顔には、幼い頃の面影が残るが、彼の瞳の奥には、屋敷の没落が彼の心にも深い傷を残しているのが見て取れた。
それが、旧貴族の末裔、馨であることを、螺子は直感的に理解した。
「……何か、お探しですか?」
螺子が静かに声をかけると、馨はびくりと肩を震わせ、初めて螺子の顔を見た。
その瞳は、まるで森の奥に住む小動物のように純粋で、同時に深い怯えを宿している。
「あ……あの……」
馨の声はか細く、言葉を紡ぐのに苦労しているようだった。
「ここは、僕の……僕の家でした……。でも、もう……」
彼の言葉は途切れ途切れで、屋敷がもう自分のものではないという現実が、彼を苦しめているのが伝わってきた。
螺子は、作業中の工具をそっと置き、馨に警戒心を抱かせないよう、ゆっくりと歩み寄った。
そして、自分がこの屋敷の絡繰りを修繕するために来ていることを、簡潔に告げた。
「からくり……を、直すのですか?」
馨の瞳に、わずかな光が宿った。
彼は、螺子の言葉が信じられないといった様子で、蔵の錠へと視線を向けた。
「僕が、小さかった頃は……屋敷のどこかから、いつも優しい音が聞こえていたのに……。からくりが動くと、とても綺麗な音が出て……。
僕の部屋の壁の絵も、からくりで動いていたんだ。鳥が羽ばたいたり、花が咲いたり……」
馨は、幼い頃の屋敷の思い出を語り始めた。
その言葉の節々から、彼がいかにからくりに親しみ、屋敷の持つ生命力に心を寄せていたかが伝わってくる。
彼の瞳は、屋敷の壮麗な過去を懐かしむように輝き、同時に、失われた栄光と、からくりの沈黙への悲しみを宿していた。
螺子は、からくりの「声」を聞く自分だからこそ理解できる、馨の純粋な思いに触れ、彼に対して保護したいという気持ちが芽生えた。
馨は、彼がこれまでに見てきた人間たちとは異なる、無垢で繊細な存在だった。
馨は、蔵の錠に目を向けたまま、突然、小さな声で呟いた。
「確か、地下の……誰も入ってはいけない部屋で……。
父上が、よくそこに籠っていたんだ。そして、そこには……光るネジが、クルクルと回っていて……。
それが動くと、父上はとても苦しそうだった……」
「光るネジ」という言葉に、螺子の胸が強くざわめいた。
それは、漆黒のネジと関連する何かだろうか?
螺子自身が地下で遭遇した、巨大な自動人形の心臓部に埋め込まれていたあのネジと、馨の語る「光るネジ」が重なり合う。
馨は無邪気に語るが、その言葉の裏には、彼自身も気づかない、屋敷に秘められた恐ろしい真実が隠されているようだった。
螺子は、馨が持つ断片的な記憶が、漆黒のネジの起源や、その真の目的へと繋がる重要な手がかりとなる可能性を強く感じた。
その時、庭の奥から、冷たい視線が螺子と馨に注がれているのを感じた。
振り返ると、そこには秘書クレアが立っていた。
彼女は、螺子の工房での様子を記録していた時と同じく、無表情で、その手には小さな記録帳を携えている。
彼女の瞳は、馨の無垢な表情を、そして馨が螺子に語りかける様子を、まるで標本を観察するように冷徹に見つめていた。
クレアは、螺子と馨の会話をどこまで聞いていたのか。
螺子は、馨が持つ情報が、ルシアンの隠された目的と深く関わっていることを確信した。
ルシアンは、屋敷に隠された真実を解き明かすために螺子を利用するだけでなく、馨の記憶や、あるいは彼自身の血筋が持つ屋敷との繋がりにも価値を見出しているのかもしれない。
クレアは、ゆっくりと螺子と馨に近づいてきた。
「馨様。ルシアン様がお探しでした。屋敷の内へとどうぞ。外はもう、日が落ちてまいります」
クレアの声は丁寧だったが、その背後には、ルシアンの支配的な意思が見え隠れしていた。
馨は、クレアの言葉に怯えたように体を震わせた。
彼は、ルシアンという存在に対して、抗うことのできない威圧感を感じているようだった。
「あ……はい……」
馨は、螺子に小さく会釈すると、クレアに促されるまま屋敷の奥へと消えていった。
螺子は、馨の後ろ姿を見送りながら、彼をルシアンの思惑から遠ざけなければならない、と強く思った。
この純粋な貴族の末裔が、ルシアンの探求の道具として利用されることを、螺子は許容できなかった。
屋敷の裏庭には、再び静寂が戻った。
しかし、螺子の心の中には、馨が語った「光るネジ」の言葉と、漆黒のネジから響く「殺せ」という声が、絡み合うように響き渡っていた。
家族の死の根源と、屋敷の悲劇。そして、ルシアンの真の目的。
全ての線が、馨が語った「光るネジ」の存在へと収斂していくかのように思えた。
螺子は、蔵の錠の修理を終え、その奥に隠されたであろう、屋敷のさらなる秘密へと足を踏み入れる覚悟を決めた。