五、朽ちた庭園の影、八重の証言
屋敷の北側に広がる庭園は、人の手が入らなくなって久しく、今は人の背丈を超える雑草と、枝葉が不気味に絡み合った樹木が鬱蒼と茂っていた。
かつては手入れの行き届いた日本庭園だったのだろう。
飛び石の道は苔むし、池の水は淀み、朽ちた橋が寂しく架かっている。
螺子は、その荒れ果てた光景の中に、屋敷の機能の一部として組み込まれていたであろう、いくつかのからくり仕掛けの残骸を見つけた。
水路を巡らせて池に滝を再現する装置、あるいは庭園の特定の場所で音を奏でる風雅な細工。
それらは皆、今は沈黙し、自然の猛威に身を任せていた。
螺子は、庭園の奥、特に陽の当たらない場所にひっそりと佇む苔むした茶室のからくりを調べていた。
茶室の引き戸は歪み、隙間風が不ろと吹き込む。
螺子がその歪んだ戸に指を触れた瞬間、彼の耳には、けたたましいほどの過去の喧騒が響いた。
それは、賑やかな宴の声、笑い声、そして茶器が触れ合う音。
しかし、その陽気な音は突如として途切れ、やがて何か硬いものが「壊れる」ような、そして誰かの悲鳴にも似た「声」へと変わっていく。
茶室のからくりは、その場所で起こった悲劇的な出来事の記憶を、まるで古い蓄音機のように留めていたのだ。
螺子が、その過去の「声」に耳を傾けながら、戸の歪みを修正しようと工具を構えた時だった。
背後から、わずかな足音が聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは、細身の和装を纏った老婆、元侍女の八重だった。
彼女の瞳は、庭園の古木のように深く、しかし螺子に向けられたその眼差しは鋭く、新参者への強い警戒心と、屋敷への深い忠誠心が宿っている。
「どなたです。この屋敷は、もう貴方のような者たちが勝手に入る場所ではありません」
八重の声は、その細い体躯からは想像できないほど毅然としていた。
彼女の表情は、長年仕えた旧貴族の威厳を纏っているかのようだ。
螺子は、己の素性を簡潔に告げ、ルシアン・ヴァンスから屋敷の修繕を任されていることを伝えた。
しかし、八重の警戒心は解けない。
「ルシアン・ヴァンス様……ですか。ええ、存じております。
この屋敷を買い取られた、異国の新興成金でいらっしゃるのでしょう」
八重の口調には、新参者であるルシアンへの明確な軽蔑と、没落したとはいえ旧家への誇りが滲み出ていた。
彼女は、螺子のような職人が、この由緒ある屋敷のからくりに触れること自体が、屋敷の品位を貶める行為だとでも言いたげな態度だった。
「絡繰など、ただの遊びに過ぎないものを、今更弄り回して、何になるというのですか。
この屋敷の品格を解さぬ者に、一体何が分かりましょう」
八重はそう吐き捨てたが、螺子が茶室のからくりの様子を指し示しながら、先程耳にした「声」の断片について尋ねると、彼女の表情に微かな動揺が走った。
八重の視線は、茶室の戸の向こう、過去の喧騒が起こったであろう空間へと向けられた。
「あそこは……先代様が、秘められた研究のために使われていた場所……。
表向きは茶会を行うとされておりましたが、実際は……」
彼女は言葉を濁し、再び警戒の表情を見せた。
しかし、螺子が茶室のからくりから聞こえた悲鳴のような「声」について深く問うと、八重の顔色はさらに悪くなった。
「あのからくりが……全てを狂わせたのだ……」
その言葉の裏には、からくりがもたらした具体的な悲劇の影が見え隠れしていた。
八重は、からくりを「遊び」と蔑みながらも、その言葉の端々には、屋敷の絡繰がもたらした忌まわしい出来事への恐れと、何かを隠そうとするかのような躊躇が見え隠れしていた。
螺子は、八重が持つ屋敷の過去の断片が、漆黒のネジの謎を解き明かす重要な鍵となると直感した。
八重は、螺子が茶室のからくりから手を離し、庭園の奥に目を向けたのを見て、さらに口を開いた。
「この庭園も、かつてはそれは見事でございました……。
しかし、あの方々が、あの『奇妙な細工』を持ち込まれてからは……全てが変わってしまいました」
「奇妙な細工」という言葉に、螺子の胸がざわつく。
それは、漆黒のネジに繋がる何かだろうか。
八重は、視線を庭園の隅、朽ちた鳥居が立つ祠の方へと向けた。
「あの祠には、代々伝わる『厄除けのからくり』が奉られておりました。
しかし、先代様が、あの……『新しい技術』を持ち込まれて以来、祠は荒れ果て、厄除けのからくりも動かなくなってしまいました。そして……」
八重はそこで言葉を切った。
彼女の顔には、口にしてはならない秘密を語ろうとしているかのような、深い苦悩と恐怖の色が浮かんでいた。
螺子は、八重が語る言葉の断片から、旧貴族が何か「新しい技術」、おそらくは漆黒のネジに関連するものを屋敷に導入した結果、悲劇が起こり、一族が没落していったことを推測した。
八重自身も、その悲劇の目撃者であり、そして、ある種の共犯意識すら抱いているのかもしれない。
螺子は、八重が持つ屋敷の過去の断片が、漆黒のネジの謎を解き明かす重要な鍵となると確信し、彼女との接触を続けることを決意する。
八重は、ルシアン・ヴァンスのような新興の実業家には決して心を開かないだろう。
だが、からくりの「声」を聞き、彼らの苦悩を理解する螺子にならば、いつか真実を語ってくれるかもしれない。
荒れ果てた庭園の静寂の中で、螺子と八重の間に、屋敷の過去を巡る、かすかな繋がりが生まれ始めたのだった。
漆黒のネジの禍々しい「意思」が屋敷全体に広がっているのを感じながらも、螺子は八重の持つ情報が、その闇を打ち破る光となる可能性を信じていた。