四、影の視線、冷徹な観察
絡繰 螺子の作業は、常に一対の冷徹な目に監視されていた。
ルシアン・ヴァンスの秘書、クレアだ。彼女は、螺子が屋敷のどこで何に触れ、どんな反応を示すのかを、精密な時計のような正確さで記録し続けていた。
螺子がからくりの「声」に耳を傾けるように部品を撫でれば、クレアのペンが滑る音が聞こえる。
漆黒のネジに触れ、全身の血が凍るような感覚に襲われ、わずかに表情が歪めば、彼女の視線が螺子の顔に張り付くのを感じた。
クレアは、屋敷の引き渡しが済んだ後も、ルシアンの命を受けて常駐していた。
彼女の服装は常に完璧で、乱れた髪一本たりともない。
螺子が埃まみれになって床下を這いずり回ろうと、古びた油の匂いを漂わせようと、彼女の表情は一切変わらない。
まるで、彼女自身も精巧なからくり人形であるかのように。その無表情さが、螺子には何よりも不気味だった。
螺子は、東の塔の最上階にある巨大な振り子時計の修繕に取り掛かっていた。
屋敷の心臓部の一つであるこの時計は、本来ならば時を刻むだけでなく、屋敷全体の防衛機構や、秘密の通路の開閉を司る重要な絡繰りだったはずだ。
しかし、今はその振り子も止まり、時計の内部からは不気味な軋みと、断続的な「殺せ、殺せ」という漆黒のネジの囁きが響いてくる。
螺子が、懐から取り出した精密な工具で、時計の複雑な歯車機構を調べ始めた時だった。
背後から、クレアの感情のない声が聞こえた。
「絡繰殿。先程、東の塔の最上階で、奇妙な振動が確認されました。貴方の能力で、何か感じ取れましたか?」
螺子は、手元を止めずに答えた。
「ただの、からくりの誤作動でしょう。長年放置されていたのですから」
漆黒のネジから発せられる「真っ黒な意思」については、決して口にしない。
それを安易に明かせば、ルシアンの思惑に利用されるだけだと、螺子は直感していた。
「左様ですか」クレアは一瞬の沈黙の後、言葉を続けた。
「しかし、ルシアン様は、この屋敷の『真実』を求めていらっしゃる。貴方の『特別な才覚』が、その一助となることを期待しています」
クレアの言葉には、螺子の能力への高い期待と、それを最大限に利用しようとするルシアンの思惑が透けて見えた。
螺子は、彼女の背後にルシアンの影を感じ、無意識のうちに拳を握りしめた。
彼らは、螺子を単なる修理屋としてではなく、屋敷の謎を解き明かすための「道具」として見ている。
そのことが、螺子にとって何よりも不快だった。
数日後、螺子が広間の天井に隠された、巨大なからくり仕掛けのシャンデリアを修理していると、クレアが再び静かに近づいてきた。
シャンデリアは、本来ならば複雑な歯車の連動によって、部屋全体に光の模様を映し出すはずだが、今は鎖が絡みつき、一部の電球が不自然に点滅を繰り返すばかりだった。
「絡繰殿。このシャンデリアは、どのように光を操作していたのですか? その機構の詳しい設計図は、どこにも見当たりません」
クレアは、螺子が埃まみれになりながら天井裏で作業しているにもかかわらず、その声には一切の労いや感情がなかった。
ただ、求める情報だけがそこにある。
「設計図は……からくりそのものが、覚えているものです」螺子は、半ば自嘲気味に答えた。
彼の能力は、図面や設計書といった形ある情報に頼るものではない。
からくりの「声」に耳を傾け、その記憶を読み取ることで、失われた機能を再構築するのだ。
クレアは、その言葉に微塵も動揺することなく、手元の帳面に何かを書き記した。
「なるほど。極めて主観的な、経験則に基づいた推測ということですね。再現性には乏しい」
その言葉は、螺子の能力を、科学的ではない、曖めて不確かなものと断じるものだった。
螺子は、からくりに宿る「意思」を信じていた。
それは、単なる機械的な現象ではない、人々の想いや記憶が宿る、魂に近いものだと。
だが、クレアの冷徹な分析は、その信念を揺るがすかのように螺子の心に突き刺さった。
夜、螺子が仮の宿とした離れで、彼は玄斎師匠から借りた古いからくりの文献を広げていた。
屋敷で感じた漆黒のネジの感触と、それから聞こえた「真っ黒な意思」が脳裏から離れない。
文献には、ごく稀に、特定の素材で作られた「禍つ釘」と呼ばれるものが存在し、それがからくりの「意思」を歪め、持ち主に不幸をもたらすという記述があった。
その記述は、螺子の家族を襲った悲劇と完全に一致していた。
翌日、螺子が屋敷の修繕作業を再開すると、ルシアンは、さらなる調査の専門家として、ドクター・ワイズマンを招聘したことを告げた。
ワイズマンは、丸眼鏡をかけた小柄な学者で、その瞳の奥には異常なまでの知的好奇心が宿っていた。
「絡繰殿の特殊な才能については、かねてより学会でも噂になっておりました。からくりの『声』を聞く、と。これは脳科学的にも、物理学的にも極めて興味深い現象です。ぜひ、貴方を検体……いや、被験者として、詳細な調査を行わせていただきたい」
ワイズマンはそう言って、螺子に向かって手を差し伸べた。
その手には、奇妙な形の測定器が握られている。
螺子は、彼の言葉と、まるで螺子を解剖しようとするかのような視線に強い嫌悪感を抱いた。
からくりの「声」は、単なる脳の反応などではない。
それは、長年寄り添った「物」に宿る、魂のようなものだと、螺子は信じていた。
「私の能力は、科学で解明できるようなものではありません」
螺子が冷たく答えると、ワイズマンは鼻で笑った。
「科学で解明できないものは、存在しないに等しい。あるいは、まだ解明されていないに過ぎない。この屋敷の絡繰も然り。古い迷信やオカルトで片付けてしまっては、真実にはたどり着けませんよ」
ワイズマンは、漆黒のネジが使われている場所にも強い関心を示した。
彼はそのネジの材質や構造を分析しようと、強引にからくりからネジを引き抜こうとさえした。
その際、漆黒のネジから螺子の脳裏に響く「真っ黒な意思」は、ワイズマンの無謀な試みに対し、「コワセ……コワセ……」と、より一層おぞましく吠え立てた。
ワイズマンはネジの異常な硬度と、そこに宿る不気味な力に驚愕しつつも、その興味をさらに深めていく。
彼の探求は、螺子の信じるからくりの「魂」を冒涜するかのようだった。
ルシアンは、螺子とワイズマンの衝突を静かに傍観していた。
彼の顔には常に穏やかな微笑みが浮かんでいるが、その碧い瞳の奥では、全ての状況が計算され尽くしているかのように見えた。
彼にとってワイズマンは、屋敷の謎、特に漆黒のネジの秘密を科学的に解き明かすための「道具」であり、螺子の特殊能力を客観的に分析するための存在に過ぎなかった。
その日の夜、ルシアンは螺子を自室に呼び出した。
部屋には、西洋の豪華な調度品が並び、螺子の工房とは対照的な、完璧に整えられた空気が流れている。
ルシアンは、最高級のブランデーを螺子のグラスに注ぎながら、静かに語り始めた。
「絡繰殿。貴方の能力は、この屋敷の謎を解く上で、極めて重要です。
この屋敷は、ただの絡繰りではありません。かつての当主が、秘めた知識や記憶を封じ込めるために築いた、巨大な記憶装置のようなものだと、私は考えています」
ルシアンの言葉は、螺子の核心に迫るものだった。
からくりの「声」が、過去の記憶や感情を宿していることは、螺子自身が知っていることだ。
だが、ルシアンはそれを単なる憶測として語るのではなく、まるで確信しているかのように話す。
「そして、もし貴方の家族の悲劇が、その『漆黒のネジ』と呼ばれるものによるものだとしたら……それは、この屋敷の『真実』と深く結びついている可能性が高い。
貴方は、自身の過去を解き明かす鍵を、この屋敷で掴むことになるでしょう」
ルシアンはそう言って、螺子のグラスにブランデーを追加した。
その甘い香りは、しかし螺子にはどこか毒のように感じられた。
ルシアンの言葉は、螺子の個人的な探求心を刺激し、屋敷の謎と家族の死の関連性を確信させるものだった。
しかし、同時に螺子は、ルシアンが単に「真実」を求めているだけでなく、漆黒のネジが持つ「意思」を捻じ曲げる力、あるいは屋敷に隠された禁断の知識そのものに、隠された別の目的があることを強く感じ取っていた。
ルシアンの微笑みの裏に潜む、冷徹な計算と、自身の目的達成のためには他者を道具と見なす非情な一面。
螺子の探求は、家族の死の呪縛を解き放つ旅であると同時に、美しき実業家ルシアン・ヴァンスという巨大な存在との、静かな心理戦の始まりでもあった。
螺子は、この絡繰屋敷の謎が解き明かされる先に、一体何が待ち受けているのか、深い警戒心を抱きながらも、その複雑な絡繰りの構造へと、さらに深く踏み込んでいくのだった。