十三、記憶の彼方へ、ルシアンの選択
漆黒のネジの禍々しい光が消え、地下研究室に安堵の静寂が訪れた。
絡繰 螺子の必死の作業によって、巨大な装置に組み込まれた漆黒のネジは、その「真っ黒な意思」を失い、もはや人の精神を歪める力を失っていた。
解放されたネジからは、かつて吸い上げられた無数のからくりの「声」が、喜びにも似た微かな響きとなって螺子の脳内に届く。
螺子は疲弊しきっていたが、その心には確かに勝利の喜びが満ちていた。
しかし、その喜びは一瞬にして、目の前の光景によって掻き消される。
ルシアン・ヴァンスは、螺子が漆黒のネジに触れた瞬間から、苦悶の表情でうずくまっていた。
彼の脳内では、失われた記憶が断片的に蘇りつつも、漆黒のネジによって歪められた「意思」が崩壊していく過程で、激しい混乱が起こっているのだ。
ネジの力が中和されていくにつれて、彼の顔から狂気が消え、代わりに深い苦痛と混乱、そして戸惑いの表情が浮かび上がった。
彼は、螺子が漆黒のネジの呪縛を解いたことで、望んでいた記憶を取り戻したが、それは彼自身がこれまで目を背けてきた、残酷な真実でもあったのだ。
「ああ……これ……は……」
ルシアンは膝から崩れ落ち、頭を抱える。
彼の記憶は、漆黒のネジから解き放たれ、奔流となって押し寄せた。
それは、彼が幼い頃に経験したある出来事――両親の死の記憶だ。
その記憶は、彼の無意識の内に深く刻み込まれ、自らを完全な存在と錯覚させることで、その痛みから逃れようとしてきた。
しかし、漆黒のネジの呪縛が解かれた今、その偽りの仮面は剥がれ落ち、真実の痛みが彼を襲う。
それは、彼が何よりも恐れていた「欠損」と「弱さ」を突きつけるものだった。
ルシアンの体からは、これまで彼を包んでいた完璧なまでのオーラが失われ、一人の、傷ついた人間の姿がそこにあった。
■◆■◆ クレアの介入、ワイズマンの退場 ■◆■◆
その瞬間、狂乱したドクター・ワイズマンが螺子に襲いかかった。
「何をする! 私の研究を邪魔するな! この禁断の技術こそ、人類の未来だというのに!」
ワイズマンは、漆黒のネジが力を失ったことに激昂し、螺子を排除しようと狂気に満ちた眼差しで迫る。
彼の顔は紅潮し、泡を吹いているかのようだ。
だが、そのワイズマンの前に、静かに、しかし素早い動きで割って入った者がいた。
ルシアンの秘書、クレアだ。
彼女は、これまで常にルシアンの影として存在し、一切の感情を表に出さなかったが、その眼差しは鋭く、ワイズマンに向けられた腕は、寸分の狂いもなく彼の暴走を止める。
「ドクター・ワイズマン。ルシアン様の精神状態は不安定です。
これ以上の実験は危険と判断いたします。直ちに、研究室からご退去ください」
クレアの声は冷徹で、一切の感情を排していた。
彼女は、ルシアンの忠実な秘書として、彼の身の安全を最優先していたのだ。
ワイズマンは、クレアの言葉に愕然とする。
「な、何を言う! 今ここでこの奇跡を解明せねば、永遠に失われるのだぞ!
クレア! お前まで邪魔をするのか!」
ワイズマンは憤慨し、クレアを睨みつけるが、彼女の命令には逆らえない。
クレアの背後には、ルシアンがうずくまっている。
ルシアンの記憶が戻ったことで、クレアの忠誠心も、彼個人の安全へと強く傾いたのだろう。
ワイズマンは、自身の歪んだ野望が潰えたことに絶望し、研究資料を掻き集めると、苦々しい表情で研究室を後にした。
その背中は、もはや科学者の誇りではなく、ただの敗北者のそれだった。
研究室には、螺子と、地面にうずくまるルシアン、そして漆黒のネジの禍々しい輝きが消え、穏やかな光を放ち始めた装置だけが残された。
漆黒の螺子への最後の審判は、螺子の勝利で幕を閉じたのだ。
■◆■◆ ルシアンの選択、記憶の彼方へ ■◆■◆
ルシアンは、螺子に顔を向けることなく、ただ地面に座り込んでいた。
彼の瞳には、かつての冷たい輝きはなく、深い絶望と、そして僅かな安堵が混じり合っていた。
螺子が、漆黒のネジの呪縛を解いたことで、ルシアンは「真の自分」を取り戻したが、それは彼が望んだ「完全な存在」ではなかったのだ。
螺子は、疲弊した体を引きずるようにして、ルシアンのそばに歩み寄った。
ルシアンの記憶の中には、彼自身の悲しい過去と、それが故に記憶に執着したルシアンの「人間らしさ」が確かに存在していた。
憎むべき相手だったはずのルシアンに、螺子は複雑な感情を抱く。
彼の家族を襲ったからくりを操ったのは、漆黒のネジであり、そしてそのネジを利用した過去の当主の狂気だった。
ルシアンもまた、その呪いに囚われ、利用されようとしていた被害者の一人だったのだ。
「……何故、私を……」
ルシアンが、掠れた声で呟いた。
彼は螺子の顔を見上げ、その碧い瞳には、深い困惑と、そして微かな戸惑いが浮かんでいた。
螺子は、ただ静かにルシアンの瞳を見つめ返した。
彼の瞳の中には、かつて見た冷徹な光はなく、ただ人間的な弱さと、痛みが宿っていた。
螺子は、何も言わなかった。
言葉は必要なかった。彼の行動が、全てを物語っていた。
螺子は、ルシアンを漆黒のネジの呪縛から解放した。
それは、彼の家族を殺した憎しみからではなく、からくりの「意思」を尊重し、人々を悲劇から救うという、螺子の絡繰師としての信念に基づいた選択だった。
ルシアンは、螺子の沈黙の意味を理解したのだろう。
彼はゆっくりと立ち上がると、螺子に深々と頭を下げた。
「……貴方に、感謝します」
その声には、かつての傲慢さは微塵もなかった。
ルシアンは、失われた記憶を取り戻したことで、自己の存在と向き合う旅を始めるだろう。
彼が今後、過去の過ちをどう償い、どのような道を歩むのか、
その結末は螺子には分からない。
しかし、螺子との出会いは、彼の冷徹な心に、人間らしい感情の揺らぎと、自身の弱さを受け入れるきっかけを残したはずだ。
ルシアンは、クレアに支えられ、地下研究室の出口へと向かっていった。
その背中は、かつての支配的な実業家ではなく、ただ一人の、傷つき、立ち尽くす人間のそれだった。
漆黒のネジの脅威は去った。
屋敷のからくりたちは、もはや「真っ黒な意思」に囚われることなく、本来の「声」を取り戻し、安堵したように静かに脈動している。
螺子の心には、家族への深い愛情と、二度と悲劇を繰り返させないという、強い使命感が残った。
彼の旅は、まだ終わってはいない。
だが、彼は新たな覚悟を胸に、未来へと歩み出すのだった。




