九、記憶の檻、ルシアンの渇望
絡繰屋敷の地下深く、冷たく湿った空気が漂う隠された研究室は、異様な熱を帯びていた。
壁に歪んだ数式や呪術的な紋様が描かれた薄暗い空間の中央には、禍々しい存在感を放つ巨大な絡繰りの装置が鎮座し、その心臓部には、螺子がこれまで見てきたどの漆黒のネジよりも大きく、脈動する螺旋が埋め込まれていた。
先代当主の日記から、このネジが「人の意思を破壊し、特定の命令を植え付け、精神を再構築する」という禁断の技術の核であることを知ったばかりの螺子の心臓は、激しい怒りと、得体の知れない恐怖で脈打つ。
その時、背後から響いたのは、ルシアン・ヴァンスの、これまでの優雅な微笑みとは異なる、獲物を見定めたかのような、狂気に近い声だった。
「見つけましたね、絡繰殿。これこそが、私が求めていた『真実』です」
螺子が振り返ると、ルシアンはすでに装置の前に立っていた。
彼の碧い瞳は、巨大な漆黒のネジに吸い寄せられるかのように固定されている。
螺子には聞こえない、過去の膨大な記憶の奔流が、ルシアンの脳内を駆け巡っているのが見て取れた。
彼の全身が激しく震え、その興奮は隠しきれない。
「この漆黒のネジは、人間の『記憶』を吸い上げ、保存する。
そして、それを再構築する力を持つ……!」
ルシアンの声は震え、螺子の家族を殺した「真っ黒な意思」が、ルシアンの触れるたびに増幅され、屋敷全体に禍々しい波動となって広がるのが感じられた。
それは、螺子の心臓を直接掴み潰されるかのような、耐え難い苦痛を伴う。
「私の真の目的は、この漆黒のネジを用いて、私自身の失われた記憶を『奪還』することです」
ルシアンの口から語られた言葉に、螺子は息を呑んだ。
ルシアンは、自らの血筋ゆえか、あるいは幼い頃に経験したある出来事により、大切な記憶の一部を失っているのだという。
それが、彼の常に完璧な振る舞いや、底知れぬ知識への渇望の根源だった。
彼は世界中の失われた知識や技術を蒐集し、ついにこの絡繰屋敷と漆黒のネジに辿り着いた。
「私の記憶は、まるで抜け落ちた歯のように、ある時期から空白になっている。
どれほど努力しても、その部分だけは決して思い出せない。
しかし、このネジがあれば……失われたものを、取り戻せる。
そして、私は……真の私になる」
ルシアンの言葉には、記憶への狂おしいほどの渇望と、それを得るためならどんな犠牲も厭わないという、強い執念が込められていた。
彼の言う「真の私」とは何なのか。
完全な記憶を取り戻した彼が、一体どのような存在になるというのか。
ルシアンの記憶を読み取る能力と、漆黒のネジの「意思」を操作する力が結びつけば、それは人類にとって計り知れない脅威となるだろう。
螺子の想像をはるかに超える、底知れぬ野望が、ルシアンの瞳の奥で燃え上がっていた。
ルシアンの隣では、ドクター・ワイズマンが興奮を隠しきれずにいた。
彼の丸眼鏡の奥の瞳は、研究室の装置と漆黒のネジの間を忙しなく動き、その脳内では、狂気じみた計算が高速で繰り返されているのが手に取るように分かった。
「ルシアン様! このネジの構造は、まさしく人類が到達しえなかった領域です!
これを解析し、応用できれば、人の精神を自由に操作し、感情すらも書き換えることが可能となる! 我々は、歴史を、未来を創造できるのです!」
ワイズマンは、ネジから漏れ出る「真っ黒な意思」の波動を受けながら、狂ったように高笑いした。
彼の歪んだ好奇心は、この禁断の技術を、人類の新たな可能性として利用しようと画策しており、倫理観など彼の中には存在しない。
ワイズマンにとって、ルシアンの記憶の奪還は、その禁断の技術の有効性を証明するための、格好の実験台でしかなかったのだ。
彼は、ルシアンの目的を達成させつつ、その過程で得られる「意思操作」の技術を、自身の研究のために利用し、やがてはルシアンすらも凌駕しようと目論んでいる。
螺子の中で、すべての点が線で繋がった。
八重が語った「先代様が秘められた研究のために使われていた場所」である茶室の「奇妙な細工」は、この地下研究室の装置の試作品。
馨が幼い頃に見た「光るネジ」は、漆黒のネジが精製される過程で発光する現象だったのだろう。
そして、馨の「父上が苦しそうだった」という言葉は、漆黒のネジが持つ「意思」を歪める力が、使用者自身にも及んでいたことを示唆していた。
そして何よりも、螺子の家族の悲劇もまた、この漆黒のネジの起源と深く結びついていたのだ。
かつての当主がこの禁断の技術を実験する過程で、螺子の工房のからくりが標的となり、「殺せ」という命令が植え付けられ、暴走させられた。
家族は、単なる事故の犠牲者ではなく、この歪んだ研究の、そして漆黒のネジの最初の犠牲者だったのだ。
螺子の心臓が激しく脈打つ。憎しみと悲しみが混ざり合い、彼の全身を支配しようとする。
ルシアンは、螺子の動揺を冷徹な視線で見つめていた。
彼の表情からは、もはや一切の隠し事が消え失せていた。
そこにあったのは、目的のためには手段を選ばない、絶対的な支配者の顔だった。
彼の美しい仮面の下に隠されていた、非情な思惑が今、完全に剥がれ落ちたのだ。
「絡繰殿。貴方の能力は、私の計画に不可欠だ。
貴方がからくりの『声』を聞き、その『意思』を理解することで、漆黒のネジの力をさらに高めることができる。
協力すれば、貴方の家族の死の真実も、全て明らかになるだろう」
ルシアンの言葉は、螺子の心の最も深い部分に触れるものだった。
家族の真実。それは、螺子が何よりも求めていたものだ。
しかし、その代償として、彼が差し出さなければならないものが、あまりにも大きすぎた。
それは、からくりの「意思」を尊重するという自身の信念と、この世界における倫理そのものだった。
螺子は、漆黒のネジから聞こえる「殺せ」という忌まわしい命令と、屋敷のからくりたちの悲鳴にも似た「壊されるな」という切なる願いの間で、激しく葛藤した。
彼の独創的な修理法と、からくりの「声」を聞く能力は、この禁断のネジの力を打ち破り、ルシアンの野望を阻止するための最後の希望となるだろう。




