始まり、錆と囁きの工房にて
古びた長屋の路地裏、錆びたブリキ看板が風に揺れる一角に、絡繰 螺子の工房はひっそりと佇んでいた。
煤けた窓からは、時折、微かな金属音が漏れ、道行く人々が訝しげに目を向ける。
螺子自身も、その工房の空気のようにどこか陰鬱で、口数も少なかった。
その日も螺子は、手元に届いたばかりの古い柱時計と向き合っていた。
文字盤は剥げ落ち、ゼンマイは絡み、最早ただのガラクタにしか見えない。
だが、螺子がその錆びた金属に指を触れた途端、彼の耳には、けたたましいほどに大きな「声」が響いた。
「ああ、まただ……! 針が……! 針が動かない……!」
それは、時を刻むことを諦め、止まりかけの歯車が軋ませる、焦燥と絶望の囁きだった。
螺子はその声に眉をひそめながらも、慣れた手つきで時計の蓋を開け、内部の絡み合った機構を静かに解きほぐしていく。
彼の指先は、まるで時計の内部を熟知しているかのように淀みなく動き、やがて絡まっていたゼンマイが解放されると、時計の「声」は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「焦ることはない。時間は、君を置き去りにはしない」
螺子は時計にそう語りかけ、埃を払う。
この工房で彼が修理するものは、どれもが長年人々の傍らで時を過ごし、忘れ去られ、あるいは壊れたことで「魂」のようなものを宿した、いわば付喪神の前段階にあるからくりたちだった。
彼は、その「声」を聞き、その「心」を理解することで、本来の機能を呼び覚ますことができる、唯一無二のからくり師だった。
修理を終えた柱時計を丁寧に磨き上げていると、工房の引き戸がからりと開いた。顔を覗かせたのは、馴染みの骨董店の女将、小春だ。
彼女は螺子にとって数少ない、世間と繋がる窓口だった。
「らしさん、また奇妙な依頼が来ているよ。今度は、あんたにしかできない仕事だってさ」
小春はそう言って、奥に控える人物を招き入れた。
そこに立っていたのは、螺子とは対照的に、まるで太陽の光を閉じ込めたかのような金髪碧眼の男だった。
その容姿は美しく、纏う洋装は上質で、この埃っぽい工房とは似つかわしくないほどに洗練されている。
男は優雅な笑みを浮かべ、しかしその瞳の奥には、どこか冷たい光を宿していた。
「初めまして、絡繰 螺子殿。私がルシアン・ヴァンスです。貴方の類稀なる才能についてはかねがね伺っております」
ルシアンはそう言って、螺子に恭しく頭を下げた。
彼の声は、耳に心地よく響くが、螺子の警戒心を煽る何かがあった。
「私が貴方に依頼したいのは、単なる修理ではありません。ある屋敷の『真実』を解き明かしていただきたいのです」
ルシアンは言葉を続ける。
彼が最近手に入れたというその屋敷は、この国でも指折りの旧家が代々所有してきたものだという。
だが、その一族は最近、謎の没落を遂げ、屋敷は競売にかけられたのだと。
そして、何よりも螺子の胸に強く響いたのは、ルシアンが口にしたその屋敷の様子だった。
「その屋敷は、まるで生きているかのように、それ自体が強大なからくり仕掛けになっていると聞きました。しかし、今はその機能が停止し、不可解な現象が起こっているのです」
その言葉を聞いた瞬間、螺子の脳裏に、かつて家族を襲った忌まわしい記憶がフラッシュバックした。
彼の身体が硬直し、全身の感覚が研ぎ澄まされる。
そして、ルシアンが屋敷の名を告げた時、螺子の耳には、これまでに聞いたことのない、おぞましい「声」が響き渡った。
「キィ……ギィ……殺せ……殺せ……!」
それは、家族を奪った「漆黒のネジ」が発する「真っ黒な意思」に酷似していた。螺子の心臓が激しく脈打つ。
この屋敷が、家族の死に関わる何かを秘めている。
そう直感した螺子は、無言のまま、ルシアン・ヴァンスの依頼を受けることを決めた。