第3話:静かなる変貌
「……なんだ、その目は」
兄、アレクシスの声が、苛立ちに震えていた。
無理もない。彼にとって私は、常に怯え、俯き、彼の言葉に黙って従うだけの存在だったのだから。
その妹が今、彼を虫けらのように見返すこともなく、ただ静かに、まるでそこに壁でもあるかのように見つめているのだ。
「生意気な……! 落ちぶれたお前に、まだ公爵令嬢のつもりでいられるプライドが残っていたとはな!」
吐き捨てるような言葉にも、私の心は凪いだままだった。
プライド? そんなものはとうにすり減って、欠片も残ってはいない。
今の私を支えているのは、もっと別のもの。
――絶対に、こんな理不尽な筋書き通りに終わってたまるか、という、氷の意志だ。
「お兄様。ヴァレンシュタイン家の次期当主として、その程度の洞察力でよろしいのですか?」
「なっ……!?」
「私が今、何を考えているのか。なぜ、昨日までのように震えていないのか。それを読み解けずして、どうしてこの先の激動の時代を乗り越えられますの?」
史実によれば、兄はこの後、父の跡を継ぐも、甘い言葉で近づいてくる者たちに何度も騙され、家の財産を食い潰していく。彼には、人の本質を見抜く才能が決定的に欠けていた。
兄は顔を真っ赤にして何かを言い返そうとしたが、言葉に詰まっている。
私はそんな彼に背を向け、控え室の扉へと向かった。
「父上が、お待ちなのでしょう? 参りましょう」
もはや、兄の反応を待つ必要はなかった。
父、ヴァレンシュタイン公爵が待つ書斎は、重厚な革張りの書物と、威圧的なまでの静寂に満ちていた。
父は巨大な執務机の向こうに座り、私を一瞥すると、手元の書類に視線を落としたまま言った。
「馬車の準備はできている。夜が明け次第、発て。聖クルス修道院では、生涯を神に捧げ、我が家の名を汚した罪を悔い改めよ。よいな」
それは、有無を言わせぬ決定事項の通達。
昨日までの私なら、ただ「はい」と答えるしか術はなかっただろう。
私は、ゆっくりとカーテシー(貴婦人の礼)をとった。
「――謹んで、お受けいたしますわ、お父様」
その言葉に、父が初めて、意外そうな顔で私を見た。
兄も、私のあまりに素直な返答に肩透かしを食らったような顔をしている。
彼らは、私が泣きわめき、許しを乞うとでも思っていたのだろう。
そんな無駄なことはしない。無駄だと、知っているから。
私は、恭順な態度を崩さぬまま、言葉を続けた。
「ですがその前に、一つだけ。ヴァレンシュタイン家の娘として、最後に確認させていただきたい儀がございます」
「……なんだ」
父の眉間に、深い皺が刻まれる。
ここからが、私の戦いだ。
未来知識という武器を使った、最初の交渉。
私は、部屋の空気を震わせるように、はっきりと、そして静かに問いかけた。
「お父様。我が公爵家が王家に対して、長年にわたり行ってきた『融資』についてですが……その帳簿は、今どこにございますか?」
しん、と。
書斎の空気が凍り付いた。
時を刻む振り子時計の音だけが、やけに大きく響く。
父の目が、鋭く私を射抜いた。
それは驚きであり、疑念であり、そして何よりも、強い警戒の色を宿していた。
兄に至っては、口を半開きにしたまま、完全に思考が停止している。
無理もない。
家の財政、それも王家との裏の繋がりに関わるような機密事項に、箱入り娘で世間知らずの私が言及するなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだったのだから。
「……なぜ、お前がそのことを知っている」
絞り出すような父の声に、私は微笑んだ。
もちろん、本当のことは言えない。
「書庫の片隅で、古い書類を偶然目にいたしましたの。家の娘として、気になりまして」
嘘だ。そんな書類は存在しない。
私が知っているのは、未来の歴史だ。
――この貸付こそが、十年後に王子アランが起こす大規模な失政の穴埋めに使われ、結果的にヴァレンシュタイン家の財政を傾かせる大きな要因の一つになる、という事実を。
父は、私の真意を探るように、黙り込んでいる。
この沈黙が、彼の動揺の証だった。
私は、最後の一押しをする。
それは要求であり、この交渉における、私の勝利宣言だった。
「明日、修道院へ発つ前に、その帳簿を、この目で見せていただきたく存じます。我が家が、どれほど国に貢献してきたのか……娘として、しっかりと目に焼き付けておきたいのです」
動揺する父と兄を一瞥し、私はもう一度、深く淑やかに頭を下げた。
しかし、その心の中は、これから始まる逆転劇への、静かな高揚に満ちていた。
主導権は、もう私にある。