第2話:滅亡の記憶
ひんやりとした大理石の感触が、頬に意識を呼び戻す。
ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に映ったのは見慣れた夜会の控え室の天井だった。どうやら倒れた後、誰かがここまで運んでくれたらしい。
身体を起こすと、ズキリ、と頭の奥が痛んだ。
けれど、それは肉体的な痛みだけではなかった。私の頭の中は、明らかに異常だった。
(夢、ではなかった……)
まるで、一夜にして巨大な図書館を丸ごと脳に詰め込まれたようだ。
百年分。
このアルビオン王国が、坂道を転がり落ちるように凋落し、やがて跡形もなく滅び去るまでの、詳細な歴史。
アラン王子の治世がいかに国を傾かせたか。
聖女リリアの無知と傲慢が、どれほどの災厄を招いたか。
近隣諸国との外交がいかにして破綻したか。
我がヴァレンシュタイン公爵家が、時代の変化を読めずにいかに没落していったか。
そして、それら全ての膿が溜まりきった百年後、防御力を失った国土を、異形の魔物の大群が蹂躙する――。
一つ一つの出来事が、年号と場所、関わった人物の名前まで、驚くほど鮮明に、体系的に整理されている。
それは絶望的な記憶の奔流であり、同時に、この国が抱える病巣を全て記した、完璧なカルテでもあった。
ふと、自分の感情が奇妙なほど凪いでいることに気づく。
あれほど胸を焦がしたアラン王子への恋心は?
父や兄から向けられる視線への恐怖は?
聖女リリアへの、惨めな嫉妬は?
それらの感情が、まるで遠い昔に読んだ物語の感想のように、色褪せて感じられた。
(私……なぜあんな男のために、泣いていたのかしら)
アラン王子。
滅亡史によれば、彼は即位後、リリアの言いなりになって身の丈に合わない聖堂を乱立させ、国庫を圧迫。民衆が飢える中、祝宴に明け暮れ、十年後には内乱のきっかけを作る。
聖女リリア。
彼女の力は本物だったが、その知識はあまりに偏狭だった。伝統的な農業を「古い」と否定し、自らの「聖なる力」に頼った農法を推し進めた結果、数年後には大規模な飢饉を引き起こす。
ヴァレンシュタイン公爵家。
父も兄も、旧態依然とした貴族のプライドに固執し、新たな時代の交易や技術革新の流れから完全に取り残され、三十年後にはその財も権威も失い果てる。
今の私にとって、彼らはもはや恐怖の対象ではない。
ただ、滅亡という結末に向かって進んでいく、哀れで愚かな登場人物たち。
そして、私がこれから対処しなくてはならない、厄介な「変数」でしかなかった。
涙は、一滴も出なかった。
代わりに、心の奥底から、氷のように冷たい、静かな怒りが湧き上がってくる。
このまま、歴史の通りに終わらせてなるものか。
私を「汚点」と呼び、絶望の淵に突き落としたこの世界ごと、滅びさせてやるものか。
まずは、目の前の破滅を回避しなくてはならない。
「聖クルス修道院への幽閉」
記憶によれば、そこは極寒の辺境にあり、ろくな食料も与えられず、多くの者が数年以内に病で命を落とすという。
事実上の、緩やかな処刑場だ。
(冗談じゃないわ)
生き延びなければ。
そして、この最悪の未来を、根底から覆してみせる。
幸い、私の頭の中には、百年分の「解答用紙」があるのだから。
その時だった。
ガチャリ、と控え室の扉が開く音がした。
入ってきたのは、私の兄、アレクシスだった。
彼は、まるで床に転がった汚物でも見るかのような目で、私を見下ろした。
「いつまで寝ている、イザベラ。父上がお呼びだ。お前を修道院へ送る馬車の準備ができたそうだ。さっさと支度しろ、我が家の汚点が」
いつもの、私を無価値な存在だと決めつける言葉。
以前の私なら、きっと身体を縮こまらせ、怯えた目で兄を見上げることしかできなかっただろう。
けれど。
私はゆっくりと立ち上がり、乱れたドレスの裾を払った。
そして、顔を上げ、生まれて初めて、兄の目をまっすぐに見据えた。
兄の瞳に、戸惑いの色が浮かぶ。
無理もない。
今の私の瞳には、もう昨日までの怯えも、悲しみも、諦めも宿ってはいなかったのだから。
「ごきげんよう、お兄様」
私は、静かに微笑んだ。
それは、ヴァレンシュタイン家の誰もが見たことのない、氷のように冷たく、そして全てを見透かすような笑みだった。
「ちょうど、今後のことを考えていたところですわ」