表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/4

第2話:滅亡の記憶

ひんやりとした大理石の感触が、頬に意識を呼び戻す。


ゆっくりとまぶたを押し上げると、視界に映ったのは見慣れた夜会の控え室の天井だった。どうやら倒れた後、誰かがここまで運んでくれたらしい。


身体を起こすと、ズキリ、と頭の奥が痛んだ。

けれど、それは肉体的な痛みだけではなかった。私の頭の中は、明らかに異常だった。


(夢、ではなかった……)


まるで、一夜にして巨大な図書館を丸ごと脳に詰め込まれたようだ。

百年分。

このアルビオン王国が、坂道を転がり落ちるように凋落し、やがて跡形もなく滅び去るまでの、詳細な歴史。


アラン王子の治世がいかに国を傾かせたか。

聖女リリアの無知と傲慢が、どれほどの災厄を招いたか。

近隣諸国との外交がいかにして破綻したか。

我がヴァレンシュタイン公爵家が、時代の変化を読めずにいかに没落していったか。


そして、それら全ての膿が溜まりきった百年後、防御力を失った国土を、異形の魔物の大群が蹂躙じゅうりんする――。


一つ一つの出来事が、年号と場所、関わった人物の名前まで、驚くほど鮮明に、体系的に整理されている。

それは絶望的な記憶の奔流であり、同時に、この国が抱える病巣を全て記した、完璧なカルテでもあった。


ふと、自分の感情が奇妙なほど凪いでいることに気づく。


あれほど胸を焦がしたアラン王子への恋心は?

父や兄から向けられる視線への恐怖は?

聖女リリアへの、惨めな嫉妬は?


それらの感情が、まるで遠い昔に読んだ物語の感想のように、色褪せて感じられた。


(私……なぜあんな男のために、泣いていたのかしら)


アラン王子。

滅亡史によれば、彼は即位後、リリアの言いなりになって身の丈に合わない聖堂を乱立させ、国庫を圧迫。民衆が飢える中、祝宴に明け暮れ、十年後には内乱のきっかけを作る。


聖女リリア。

彼女の力は本物だったが、その知識はあまりに偏狭だった。伝統的な農業を「古い」と否定し、自らの「聖なる力」に頼った農法を推し進めた結果、数年後には大規模な飢饉を引き起こす。


ヴァレンシュタイン公爵家。

父も兄も、旧態依然とした貴族のプライドに固執し、新たな時代の交易や技術革新の流れから完全に取り残され、三十年後にはその財も権威も失い果てる。


今の私にとって、彼らはもはや恐怖の対象ではない。

ただ、滅亡という結末に向かって進んでいく、哀れで愚かな登場人物たち。

そして、私がこれから対処しなくてはならない、厄介な「変数」でしかなかった。


涙は、一滴も出なかった。

代わりに、心の奥底から、氷のように冷たい、静かな怒りが湧き上がってくる。


このまま、歴史の通りに終わらせてなるものか。

私を「汚点」と呼び、絶望の淵に突き落としたこの世界ごと、滅びさせてやるものか。


まずは、目の前の破滅を回避しなくてはならない。

「聖クルス修道院への幽閉」

記憶によれば、そこは極寒の辺境にあり、ろくな食料も与えられず、多くの者が数年以内に病で命を落とすという。

事実上の、緩やかな処刑場だ。


(冗談じゃないわ)


生き延びなければ。

そして、この最悪の未来を、根底から覆してみせる。

幸い、私の頭の中には、百年分の「解答用紙」があるのだから。


その時だった。


ガチャリ、と控え室の扉が開く音がした。

入ってきたのは、私の兄、アレクシスだった。

彼は、まるで床に転がった汚物でも見るかのような目で、私を見下ろした。


「いつまで寝ている、イザベラ。父上がお呼びだ。お前を修道院へ送る馬車の準備ができたそうだ。さっさと支度しろ、我が家の汚点が」


いつもの、私を無価値な存在だと決めつける言葉。

以前の私なら、きっと身体を縮こまらせ、怯えた目で兄を見上げることしかできなかっただろう。


けれど。


私はゆっくりと立ち上がり、乱れたドレスの裾を払った。

そして、顔を上げ、生まれて初めて、兄の目をまっすぐに見据えた。


兄の瞳に、戸惑いの色が浮かぶ。

無理もない。

今の私の瞳には、もう昨日までの怯えも、悲しみも、諦めも宿ってはいなかったのだから。


「ごきげんよう、お兄様」


私は、静かに微笑んだ。

それは、ヴァレンシュタイン家の誰もが見たことのない、氷のように冷たく、そして全てを見透かすような笑みだった。


「ちょうど、今後のことを考えていたところですわ」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ