第1話:絶望と断罪、そして滅亡の記憶
王宮の夜会は、まるで星々を玻璃の箱に閉じ込めたかのように、きらびやかな光で満ちていた。
シャンデリアから降り注ぐ光の粒子が、着飾った貴婦人たちの宝石を煌めかせ、楽団の奏でる優雅なワルツが、人々の楽しげな笑い声と溶け合っている。
私、イザベラ・フォン・ヴァレンシュタインは、そんな華やかな輪から遠く離れた、テラスに続く扉の陰で、ただひたすらに息を潜めていた。
壁の花。
出来損ない。
ヴァレンシュタイン公爵家の汚点。
聞こえよがしに囁かれる言葉は、もはや私の心に深く刺さることはない。
痛みはとうに麻痺して、鈍い重りとして腹の底に沈んでいるだけだ。
才気煥発な兄と比べられ、物心ついた時から常に「足りない」と評価されてきた。
社交は苦手で、派手なドレスは似合わない。流行りの刺繍より、図書室の古びた植物図鑑を眺めている方が好きだった。
そんな私が、この国の第二王子アラン殿下の婚約者でいられるのは、ただヴァレンシュタイン公爵家が持つ強大な権力と富のおかげ。
政略結婚の、ただの駒。
それだけが、私の価値だった。
「イザベラ様!」
鈴を転がすような、しかしどこか切羽詰まった声が私の名を呼んだ。
声の主は、聖女リリア。
平民出身でありながら、稀有な治癒の力に目覚め、今や王宮中の寵愛を一身に受ける少女。そして、アラン王子が真に心惹かれている相手。
彼女が、数人の令嬢を引き連れて、私の前に立ちはだかる。
その澄んだ青い瞳は涙で潤み、か弱い肩はか細く震えていた。
「どうして……どうしてあんな酷いことを……!」
リリアが、震える指で私を指さす。
周囲の視線が一斉に突き刺さる。何事かと、音楽さえも止まった。
何のことか、私にはさっぱり分からなかった。
今宵、私は誰とも言葉を交わさず、ただここに立っていただけなのだから。
「ひどい……! 私、イザベラ様に、階段の上で『王子に近づくな』と脅されて……突き落とされそうになったのです……!」
空気が、凍った。
ざわめきが波のように広がり、やがて私への非難の渦となる。
「なんてことを……」
「嫉妬に狂って……」
「公爵令嬢のやることとは思えない」
違う。私は何もしていない。
そう叫びたかったけれど、喉はからからに乾いて、声にならなかった。
その時だった。
人々をかき分けるようにして、アラン王子が姿を現した。
陽光を編み込んだような金色の髪、空と同じ色の瞳。まるでおとぎ話から抜け出してきたような美しい人。
私の、婚約者。
彼は私を一瞥もせず、泣き崩れるリリアの肩を優しく抱き寄せた。
「リリア、もう大丈夫だ。私がいる」
その声は、砂糖菓子のように甘く、そして私に向ける視線は、冬の湖のように冷え切っていた。
「イザベラ。弁明は聞かない。お前の陰湿な嫉妬深さには、前々から反吐が出る思いだった」
ひ、と息を呑む。
集まった人々の前で、王子は私を断罪する。
「違うのです、アラン様。私は、なにも……」
かろうじて絞り出した声は、誰の耳にも届かない。
「黙れ! 聖女であるリリアが嘘を言うはずがない!」
王子の声が、ホールに響き渡る。
もう、誰も私の味方はいなかった。
傍観を決め込む父も、軽蔑の眼差しを向ける兄も、ただこの厄介事が早く終わることだけを望んでいるのが分かった。
アラン王子は、満足げに微笑むリリアを腕に抱いたまま、宣告した。
それは、私の人生の終わりを告げる、無慈悲な鐘の音だった。
「イザベラ・フォン・ヴァレンシュタイン! お前のような陰気で嫉妬深い女は、我が国の妃にふさわしくない! この場を以て、貴様との婚約を破棄する!」
ああ、やっぱり。
心のどこかで、ずっと前から分かっていた。
「そして、聖女リリアへの害意を鑑み、未来永劫、辺境の聖クルス修道院へ幽閉とすることを決定する!」
婚約破棄。
そして、幽閉。
私の世界から、完全に光が消えた。
人々の嘲笑が、耳鳴りのように響く。
視界がぐにゃりと歪み、膝から力が抜けていく。
倒れ込む寸前、冷たい声が、私にとどめを刺した。
私の父、ヴァレンシュタイン公爵の声だった。
「――お前は、我が家の汚点だ」
ぷつり、と。
心の中で、何かが切れる音がした。
シャンデリアの光が遠ざかり、人々の顔が溶けていく。
ああ、これで終わり。
暗く、冷たい闇に沈んでいくだけ。
そう、思った、はずだった。
…………。
………。
…。
暗闇。
しかし、それは安らかな無ではなかった。
―――ザザッ……!
突然、脳内に激しいノイズが走る。
そして、洪水のように、見たこともない映像と、膨大な情報が流れ込んできた。
燃え盛る王城。
枯れた大地に横たわる、無数の骸。
見たこともない異形の魔物の群れが、騎士団を紙切れのように蹂躙していく。
飢餓。疫病。内乱。戦争。
絶望、絶望、絶望――。
『――王都陥落。アルビオン王国、建国347年にして、その歴史に幕を下ろす』
冷静で、感情のないナレーションのような声が、頭の中に響く。
これは、なんだ?
私の記憶じゃない。
この光景は、一体……?
意識が完全に途切れる、その最後の瞬間。
私は、理解した。
ああ、そうか。
――これは、この国の、百年後の滅亡記録だ。