9.沈黙の一週間
あれから一週間経ったが、マスターから連絡はない。
今頃何をしているんだろう。死んでなきゃいいんだけども。
「給料渡せなくなったらまずいから」と事前に50万円もらったから生きてはいけるけど、働けなくなるのではないのかと心配ではある。
例の事件は、あの一報の後に表で取り上げられることはなかった。
つまりは、マスターの言う通りそういうことだったのだろう。我々が触れちゃいけない事件ってことだ。
しかし、マスターはあくまでも『脚本の魔術師』なのではないのか?
脚本がうまいから魔術師を名乗って……いや、世界を書き換えているから『脚本も上手い魔術師』なのか。
でも、本当に世界を書き換えられるのであれば、変なところに呼び出されることも書き換えてしまえばよかったのではないのか? それであれば面倒事に巻き込まれることもないのに。
何か制約でもあるのだろうか。
気づけば二月も半ばに差し掛かっていた。
早くも春一番の話題がテレビで流れ始めている。
街は少しずつ浮ついてきていて、チョコレートと告白と希望と嘘があちこちに転がっている。
だけど、私の時間はまだあの夜の店の中で止まったままだった。
「Final Ember」を口にしたとき、「死ぬしかない」と思いながら笑ったとき、あのバーの空気は、私の何かを確かに変えてしまったのだ。
カーテンの隙間から入る日差しが、久々に掃除した部屋を照らす。
積んである小説と、ノートパソコンと、安酒のボトル。
詩も小説も、ここ最近は毎日書いていた。
マスターが戻ってきたときのために私は腕を落とさずにいようと決めていたからだ。
なにかを教えてくれたわけじゃない。
でも、あの人がいない夜に、自分が詩を書く理由を思い出すくらいには魔術の影響を受けてしまった。
――コロン、と、何かが落ちる音がした。
振り向くと、棚に置いてあったコースターが一枚床に落ちていた。
店で使っていたのと同じデザインのやつだ。
マスターが「在庫だから持って帰っていいよ」と言ってくれた、あれ。
誰も触っていないはずなのに、どうして今……?
嫌な予感が喉の奥に引っかかる。
ふとスマホを見ると、そこにひとつ通知が届いていた。
――《マスター》からのメッセージ。
ただ一言だけ。
『明日、開ける』
*
翌日の夕方、私は少し早めに店へ向かった。
開けると言われたからにはその準備くらいは手伝おうと思ったのだ。
何より、あの空間にもう一度足を踏み入れるのが怖くもあり待ち遠しくもあったからだ。
吉祥寺の街はまだ夕暮れには早く、学生や観光客がのんびりと歩いている。
空の色は淡いグレー、冷たい空気に湿り気が混じっている。
天気は悪くないはずなのにやけに風が強い。
井の頭通りを歩き見慣れた曇りガラスの扉が視界に入った瞬間、私は自然と足を止めてしまった。
……明かりが、ついている。
誰もいなかった一週間。暗いままだった店内に、今は確かに灯が灯っている。
中の様子までは見えない。だが、間違いなく誰かがいる。
私はコートの裾を握り、意を決してドアを開けた。
――カラン、と、小さく鈴の音が鳴る。
空気の密度が違った。
空いていた空間が、誰かの気配で満たされている。
あの、静かな重さを含んだ空間――Ashveilが、戻っていた。
「……おかえり」
カウンターの奥で、マスターが煙草をくゆらせながら言った。
髪は相変わらず白い。どこか少しだけ痩せた気がした。
だが、彼の眼差しは以前と変わらない鋭さを残している。
いや、むしろそれ以上に整っているように見えた。まるで余計なものを削ぎ落とされたように。
「……帰ってきてくれたんですね」
声が震えそうになるのを無理やり抑える。
そうしないと、涙まで一緒に出てきそうだった。
「あっちでちょっと面倒な話をしてきた。監察局のやつらと」
「……疑いは晴れましたか?」
「あぁ。アイツらは最初から僕じゃないと分かっていたから話が早かったが、やった犯人がなぁ……」
マスターは笑ったが、その言葉の重みは冗談ではなかった。
彼がこの一週間、ただ休んでいたわけではないのだと一瞬で悟った。
「何か変わったことはあったか?」
「……特には。あ、前に貰った店のコースターが勝手に落ちましたけど」
「ふーん、やっぱり反応したか」
なにかを確かめるようにマスターは呟くと、煙草の火をゆっくりと消した。
「……君の中の境界が少しずつ動いてるんだよ。こっちの世界に近づいてる」
「それ、あんまり嬉しくないんですけど」
「そうはいっても避けられないよ。君は、もう選ばれてしまったんだから」
あの一週間が無意味じゃなかったとしたら――
それは私にとって、どういう意味を持つのだろう。
「で、また働いてくれるかい?」
「当たり前じゃないですか。……そのために、毎日詩書いてましたから」
「詩だけじゃなくて、掃除とか、酒の補充とかも頼むよ」
「はいはい、詩人兼バイトですからね」
そんな軽口を交わすうちに、少しだけあの夜に戻った気がした。
魔術と詩と酒が混ざる不思議な夜の空気。
けれど、今回は何かが始まる気配があった。
「……今日は営業するんですか?」
「いや、今日は君と僕だけでいい。ちょっと話したいこともあるから」
「話?」
「うん。君がなぜ選ばれたかについて、そろそろ話しておこうと思ってね」
それは、いま聞くべき話なのか。
それとも、聞いてはいけない話なのか。
でも、私は頷いた。
聞くべきときに聞かないと何も守れない気がしたからだ。
「じゃあ、まずは一杯やろうか」
マスターはそう言って、グラスに手を伸ばした。
魔術ではなく、手で。
まるで始まりを祝うような丁寧な手つきで。
「何がいい?」
「……煙いやつがいいかな」
私がそう言うと、マスターは軽く笑ってカリラ18年を注ぎ始めた。
その琥珀色の液体は、静かにグラスの底に沈んでいく。
あの夜から、世界は少しずつ動き出していた。
それがどこへ向かうのかまだ私には分からない。
けれど、きっと――この店と、この男とともに、避けられない物語が始まっているのだ。
そう確信できる夜だった。




