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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史
第1章 ~配役の夜~

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75.終幕の残り火――Final Ember

「……これが、本来の大いなる獣か」



 問いというより確認だった。

 大いなる獣はすぐには答えない。

 黒曜石みたいな盃の縁を白い指先でゆっくりとなぞる。その中に沈む赤だけを一度見つめる。朱音の詩性が底に残っているのが分かる沈黙だった。説明するためではなく、言葉の形が決まるのを待つ時の沈黙である。壊れた銀座の夜景まで、その沈黙に合わせて呼吸を止めたみたいに見えた。


「願いを受けるだけの器ではない」


 やがて落ちた声は低く、静かだった。

 誰かを威圧するための響きではない。定義を与える時の冷たさだけがあった。白い喉がわずかに動き、曖昧な眼の底で夜だけが深く沈む。


「役が壊れたあとに残る核だ。名を押し潰すためではなく、押し潰されていたものを終わりの側から剥がすための」


 ハディートの喉がほんのわずかに動く。

 それ以上の説明は要らない。……要るのかもしれないが、この場ではもう充分だった。少なくとも、目の前のそれが朱音を消して成立しているわけではないと、その一言だけで分かる。


「……なら、君は朱音ではない」


 低い問いだった。

 否定でも断定でもない。答えを強要する声でもない。自分がどこまで信じていいのかを確かめるための音だった。


 大いなる獣は少しだけ顔を傾ける。

 その仕草は人間に近いのに、人間がやるより静かすぎて逆に生き物らしくなかった。


「朱音ではない。だが、朱音を失ったものでもない」

「……朱音は」


 そこまで言って、ハディートは切る。

 問いにしてしまえば、答えによって壊れる気がしたのだろう。名前だけが空中で短く止まる。朱音、と呼んだ瞬間だけその白い顔のどこかが遠く見えた。


 大いなる獣は微かに目を細める。

 嘲りではない。あまりにも人間的な問いを向けられた時にだけ獣性の奥から一瞬だけ覗く、静かな理解に近い色だった。



()()()()()()()


 それだけ言った。

 断定は短く、余計な慰めを一切含まない。


「灰の底にまだ火がある。だから、ここまでで止まった」

「……火、か」


 ハディートは繰り返す。

 確認するためではない。自分の中でその比喩では済まされない何かを、もう一度だけ噛みしめるために。


 大いなる獣は答えない。

 答えないまま盃の縁を持つ手をわずかに傾ける。その黒曜石の底に沈む赤は血とも焔ともつかない。消えかけているのに、少しも消える気配を見せない赤だった。


 ハディートは目を伏せない。

 伏せればその一瞬で張っていたものが崩れる。だから崩さない。片膝をついたまま、血の滲む手を空いた方の掌へ重ね一度だけ浅く息を吐く。


 ウェイトがそこで小さく息を吐いた。

 負けを認めた顔ではない。怖がってもいない。ただただ呆れていた。唇の端にかろうじて残っていた笑みはもう薄くなっていた。



「……そこまでやるのか」


 心底興が削がれた声だった。

 彼は立ったまま白い獣を眺める。紫水晶みたいな目にいつもの遊びは残っている。けれど、それを続ける理由だけが綺麗に抜け落ちていた。


「いや、訂正しよう。そこまで持っていくとは思わなかったよ、ハディート」


 その目がようやく真っ直ぐハディートへ向く。

 面白がっているのではない。ちゃんと感心している時の声音だった。


「君、やっぱり脚本家としては一級品だ。舞台を壊すんじゃなくて終わらせにくるんだから」


 ハディートは返さない。

 脇腹を押さえたまま、片膝をついた姿勢で大いなる獣だけを見ている。サリエルの白が背後で細く鳴り、その音だけがこの場にまだ戦いの残滓があることを知らせていた。白はハディートの背後で揺れているのに、目の前の白い獣の方とは少しも馴染まない。その不一致が却って現実感を失わせていた。


 大いなる獣は盃を少しだけ傾ける。

 中の赤い火は零れない。その代わりに、盃の内側で灰がゆっくりと巡り始める。灰の底へ、周囲に残っていた深紅と黒が吸い込まれていく。

 ――Babylon(バビロン)の残響。願いに従って積み上がった役。朱音を押し潰していた契約の圧。その全部が、燃えるのではなく灰の方へ静かに解かれていく。


 妾にはそれが分かる。

 奪う感覚ではない。剥がす感覚だ。深紅と黒はまだ温い。まだ役でありたがっている。まだ器の形を保とうとする。だが盃の底の火はそれを許さない。布でも血でも影でもなく、もっと古くて簡単なもの――終わった役が最後に落ちていく灰へ戻していく。



「燃えろ」



 その一言だけで、街灯の白が少し鈍る。

 ショーウィンドウの奥でまだ揺れていた反射が痩せる。倒れたマネキンの腕を照らしていた光まで薄くなり、代わりに煙の輪郭だけがはっきりしてくる。銀座の夜景は高価な舞台装置みたいな顔をしていたのに、今その顔だけが静かに色を失っていく。


「全部ではなく、残すべきものだけを残して」


 盃の底の火が、そこでようやく立ち上がる。

 大きくはないがとても澄んだ赤だった。舞台照明みたいだった銀座の夜景から色だけを奪っていく。深紅と黒の残滓はその火に触れるたび、ただの灰になってほどけた。



「――Final Ember」



 名が落ちた瞬間、音が一つ消えた。

 何の音だったか誰にも分からない。けれど確かに、それまでこの場を支えていた何かの音だけが消えた。ウェイトの願いが通る前にいつもあった、あの見えない軋みかもしれない。Babylonが存在するために必要だった圧の音かもしれない。あるいは、誰かを押し潰し続ける劇場の呼吸そのものだったのかもしれなかった。


 深紅と黒が輪郭から灰になる。

 役だけが終わる。積み上がっていた契約の文言が、読めないまま崩れていく。飲み込み続けるためだけにあった器の構造がその意味を失って、盃の中へ順番に沈んでいく。



 ウェイトは肩をすくめる。



「酷いな。続ける気も失せる」


 舞台が整っているから面白かったのだ。台本ごと燃やされてなお自分だけ演じ続ける趣味は彼にはなかった。


「君を甘く見ていたよハディート。朱音を殺さずBabylonだけを終わらせるために、構造を捻じるとは思わなかった。正直に言えばそういうのは好きじゃない。でも、見事だ」


 ハディートはなお黙っている。

 その言葉を受け取る気も拒む気もない顔で、大いなる獣だけを見ている。褒め言葉なのか嫌味なのか、そのどちらであっても今さら価値はなかった。


 大いなる獣の手の中で、盃の火が最後に一度だけ揺れた。

 赤はまだ小さい。けれど、消えてはいない。その静かな火だけが、壊れた銀座の夜景の中で妙に正確だった。


 やがて、火が沈む。燃え尽きたわけではない。役目を終えた火がもう燃える必要のない場所へ戻っていくように、火は灰の底へ静かに沈んだ。黒曜石みたいな盃の縁を走っていた熱も薄れ、その器自体が輪郭からほどける。



 同時に大いなる獣の輪郭が揺らぐ。

 羊みたいに重く湾曲していた角の輪郭が先に薄くなる。白い指はゆっくりと短くなり、黒い爪は夜へ戻るみたいに消える。眼の底に沈んでいた夜も、少しずつ人の目の深さへ近づいていく。白い肌はまだ白いままなのに、その白に張りついていた異様な静けさだけが剥がれていく。


 消えたのではない。退いたのだ。

 今はもう前へ出る必要がないと判断した獣の相が、融合した核の奥へ沈んでいく。


 残ったのは()()の身体だった。

 けれど、以前と同じ意味での朱音ではない。そこに横たわっている器の奥には既に別の核が噛み合っている。その全貌はまだ本人にも分からないまま、それでも外に見える輪郭だけはようやく人のものへ戻っていた。


 膝から崩れる。

 力尽きた人間の倒れ方だった。頬にかかった髪は煤と血で少しだけ固まり、呼吸は浅い。意識は失っているようだった。肩の線も閉じた瞼も、そこにあるのはちゃんと朱音の静けさだった。


 ハディートはそこで初めて立ち上がる。

 脇腹の傷が鈍く熱を返す。けれど足を止める理由には足りない。砕けた路面を越え、倒れた朱音の元へ歩く。

 ウェイトの気配はもう遠くにいっていた。追ってこないのではない。追うだけの意味を失ったのだ。



 街灯の白がようやくただの明かりに戻る。

 遠くで鳴るサイレンだけが、まだ現実に追いつけずにいた――

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