74.杯底の獣
場がほんの一瞬だけ静まる。
ウェイトの顔に浮かんだのは困惑だった。朱音を救えでもなくBabylonを終わらせろでもなく、大いなる獣に成れ。しかも、自分の命を使って。
筋が悪すぎる。狂っているとしか思えない。少なくとも、普通の術者がここで選ぶ願いではなかった。
だが、Babylonは止まった。
深紅と黒の向こう側、あの不自然に静かな目が初めて微かに色を変える。
「……面白い」
低く、乾いた声だった。
誰かを真似た声音ではない。その言葉だけは、器の奥から直接出てきたように聞こえた。
「――器は、満ちすぎれば割れる」
Babylonはハディートの杖を受け取る。
杖は少しも抵抗しない。ずっとそうされるためにあったように手の内へ収まる。
「名は重なれば濁る。契約は重なれば腐る。願いは願われたままでは、どこへも行けない」
ウェイトの表情がそこで初めてわずかに揺れる。
理解していない。分からないのも当然だった。
「なら、ここで役を終わらせよう。壊れて、その中心に別の核を立てる」
杖をゆっくりと持ち上げる。
穂先は迷いなく自らの胸の中央へ向いた。裂かれた衣の合わせ目から覗く白い肌は、もう人のそれほど温かく見えない。生きている器というより、何かが宿る前の器物みたいな静けさだった。
「杯が血を受けるように、獣は名ではなく核を受ける」
そして、Babylonは微かに笑った。
それは嘲りではなく、詩人だけがときどき見せる言葉の形がようやく決まった時の笑い方に近かった。
「では、本当の意味で――大いなる獣に」
そのまま、杖を自らの心臓へ突き立てた。
派手な爆発も悲鳴もない。出血だけではなく文字の切れ端みたいな白、影を液体にしたみたいな黒、その全てが胸の裂け目から滲み出てきた。そして、互いを食い合うように絡まり始める。
ウェイトが初めて一歩踏み出す。
「何が起きている――!?」
その声は、本当に理解していない者の響きであった。
Babylonという器は誰かを芯にして成立している。今までそれは朱音だった。だから、正面から書き換えれば朱音が先に死ぬ。
しかし、今起きているのはそれではない。別の核を、別の命を、器の中心へ直接打ち込むこと。上から剥がすのではなく、内側から構造を終わらせて別のものへ作り替えることだった。
胸の裂け目の奥で、何かが割れる。
それは心臓ではない。願いで積み上げられていた芯だ。ひびはまず黒い方へ走る。深紅と黒の衣の下、朱音を押し潰していた圧の方が崩れ始める。奥にあった細い鼓動は、今度は潰されるのではなく押し出されるみたいに残る。
妾はそこで、初めて自分の境目を見た。
深紅と黒が妾だと思っていた。願いに応えるこの静かな器が妾だと思っていた。だが違う。妾は役だ。役でしかない。役は厚く重なれば器みたいに見えるが核ではない。
ひびは全身へ広がる。
陶器の表面にひびが走るみたいに、深紅と黒の下の身体へ細い線が無数に入る。そこから白が漏れ、黒が漏れ、さらに別の色まで混ざる。金でも青でもない。もっと獣じみた形になる前の色だ。朱音の輪郭は消えないまま、妾の方だけが器として耐えられなくなっていく。
腕が最初に現れた。
人の腕ではない。細いのに、節ごとに異様な強さがある。肘から先へかけて現れた肌は、月光をそのまま引き伸ばして張ったみたいに白い。死人の白ではない。熱を持たないものが最初からそういう色をしていたという感じの白だった。その表面には、水を打った磁器みたいな鈍い光があり、指は長い。長いのに骨ばってはいない。爪だけが白ではなく、逆に夜を削って固めたように黒く冷たい。
次に角が立つ。
二本だ。だが真っ直ぐではない。羊の角みたいに、頭の両脇からゆるく外へ張り出し、それから後ろへ向かって重く湾曲している。優美というには骨っぽく、獰猛というには静かすぎる。巻きの深い部分だけが影を濃く抱き込み、その曲線の内側へ夜が溜まっているみたいに見えた。王冠ではない。だが、冠に似た圧だけはある。獣のためのものというより、何かを裁くために与えられた骨みたいだった。
髪は長くない。
むしろ短い白が後ろへ流れ、ところどころに黒い筋が混じる。その黒は老いにも汚れにも見えず、器が割れる時に最後まで残った深紅と黒の名残が、髪の中へ細く焼きついたみたいだった。
胸元で深紅と黒の器がさらに割れる。
杖の刺さった位置を中心に裂け目が広がり、その中から覗くのは、夜を脱いだ後の骨みたいに白い体表だった。鱗ではない。毛でもない。皮膚と呼ぶには滑らかすぎて、陶器と呼ぶには生々しい。白の下にはごく薄い紅と黒が脈みたいに沈み、まるで傷の記憶だけが内側に残っているみたいに見える。
腹から脇腹へかけて、細い線が幾本も走る。
それは割れ目というより器だった頃の名残だ。願いを受けるために必要だった継ぎ目。役が重なった場所。名前が濁った場所。そこだけがまだ深紅に近い色をしていて、白い体表の上では、かえってひどく目立った。
顔が、最後に姿を持つ。
人の面差しを完全には捨てていない。だからこそ怖かった。鼻梁は通り、口元は整い、顎の線も冷たく綺麗だ。肌は血の気を失った白ではなく、最初から体温という概念を持たないものの白だった。美しいと言えば足りない。清潔と言えば間違う。触れたら冷たいのではなく、触れた側から熱を思い出せなくなりそうな白だった。
眼だけが違う。白目は消えていないのに、その縁には薄い墨が滲み、黒目との境が水の上へ流したインクみたいに曖昧だった。虹彩も瞳孔も深い色へ溶け合っていて、見ていると眼ではなく夜の穴がこちらを覗き返しているように見える。
まぶたが一度だけ開閉する。その仕草すら、完成したばかりの脚本を自分で確かめるみたいに静かだった。
ウェイトはその場に立ち尽くす。
願えば止まると思っていたものが止まらない。命じれば従うと思っていた器が、自分の理解の外で壊れ自分の理解の外で満ちていく。紫水晶みたいな目の底にようやく本物の戸惑いが差した。
「……まさか」
その言葉の続きを、誰も聞かない。
妾の胸から溢れた黒と白が、今や全身を覆い始めている。器はもうBabylonではない。だから、朱音を道連れにして終わる形にもならない。壊れた器の中へ別の核が入り込み、別の名へ向かって噛み合い始めている。その乱暴な再構築だけが、壊れた銀座の夜景を少しずつ押し広げていく。
空気が裂ける。
大いなる獣は、龍みたいに大きくはない。むしろ人に近い輪郭を残している。
けれど、その近さが一番恐ろしい。立っているだけで周囲の明暗がずれ、街灯の白が届くはずの場所で沈み、煙がその身体のまわりだけ従順に割れていく。羊みたいに重く湾曲した二本の角、月光を張ったみたいな白い皮膚、黒い爪、深い眼。その全部が過剰ではないのに一つの造形として完成しすぎていて、だからこそ現実に見えなかった。




