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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史
第1章 ~配役の夜~

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73.役を終わらせる願い

 白く焦げた線は砕けた舗装の上で途中から千切れ、血と煤の匂いだけを妙に綺麗に際立たせている。煙は低く垂れたまま動かず、割れたショーウィンドウの奥では、倒れたマネキンの腕にだけ街灯の白が乗っていた。遠くのサイレンは近づいているはずなのに、ここだけが別の時間へ沈んでいるみたいに遅い。


 ハディートは杖を持ち直した。

 脇腹の傷は浅くない。肩も切れている。血はもう服の内側で冷え始めているのに止まる気配がない。

 普通に戦えば勝てない。その判断だけは、最初の一合より前に終わっている。片方は願いで結果を捻じ曲げ、もう片方は願われた分だけ最適な刃になる。そこを一人で割って入る余地は、理屈の上では最初から薄かった。


「右を塞いで」


 ウェイトが軽く言う。

 その声が落ちた瞬間、Babylon(バビロン)の身体が滑る。走るのではない。位置だけが静かに書き換わったみたいに夜気の中を無音で詰める。同時に、足元の影が細く伸びた。刃の形ではない。逃げる角度を一つずつ消すための黒い線だった。右へ退けば手首、低く潜れば喉、後ろへ下がれば膝、その全部へ最短の影だけが置かれていた。


 ハディートは二度受けて、一度流し、四度目で壁へ追い込まれた。

 背中のすぐ後ろで、ひび割れた外壁のタイルが冷たく触れる。剥がれた広告の端が夜風もないのに揺れ、その下に貼られたままの小さな注意書き――返品不可、現金のみ、営業時間変更――みたいな文字だけが、こんな時でも読めてしまうのが妙に不快だった。


「――裂いて」


 ウェイトの声が続く。

 Babylonの指先がわずかに動く。その瞬間、路面に伏していた影が肩口へ跳ね上がった。布が裂け、遅れて熱が走る。浅い。だが浅いままでは済まない位置だった。さらに次の一線が腿の外側を掠め、そこへ転がっていたガラス片が靴底を取る。体勢が半拍だけ崩れる。その半拍がこの場では致命に近い。


 サリエルの白が鳴る。

 ハディートは杖を横へ払って影の角度だけを殺し、そのまま低く身を落として壁沿いに抜ける。抜けた先へ、今度はウェイトの声の方が先回りした。


「そこも塞いで」


 Babylonはもういた。

 自分で戦っている気配がない。危険を読んでもいない。欲も焦りもない。落ちた命令の形そのままで、最小限の影だけを差し込んでくる。相手が強いのではない。()()()()()。その気味の悪さだけが、戦うほど濃くなっていく。


 ハディートはそこでようやく一歩だけ距離を開けた。

 だが、その一歩分だけ消耗も増える。呼吸が浅い。肺の内側で鉄の匂いがする。背後に浮いていたサリエルの白も、さっきより少しだけ細く見えた。


 ウェイトはそれを見て、とても楽しそうに笑う。


「薙ぎ払って」


 Babylonの影が横へ走る。

 足元から伸びた黒が鞭みたいに撓り、ハディートの胴を薙ぎにかかる。ハディートは杖を立てて受け流したが、衝撃を殺しきれず数歩分押し返される。つま先が砕けた縁石に当たり石が鈍く転がる。その上から、ウェイトの声だけがやさしく続いた。


()()()の君はもっと雑に強かったのに」


 ハディートの口元がわずかに歪む。


「あれは――」


 言いかけて言葉を切った。

 水道橋事件以来、()()()()は使っていない。使わないと決めたのではなく、使えないまま放置している傷に近い。何かを憑けて戦うということは、誰かの中へ入り込んで誰かの輪郭を押しのけるということだ。押しのけた結果どこまで壊れるかを、彼はもう知っていた。知ったまま平気な顔で使えるほど、綺麗に壊れてはいなかった。


 ウェイトは愉快そうに笑う。


「怖いんだろう? また中身ごと壊すのが」


 その間もBabylonは止まらない。

 願われるたび、最短だけを選んでくる。首、脇腹、杖を握る指、腱、視界を奪う角度。その全部へ、刃ではなく影が届く。街灯の下で伸びた影、砕けた看板の影、倒れた車の下へ溜まった影、そのどれもがBabylonの一部みたいに立ち上がり、相手の嫌なところへ向かう。派手ではないのに削ることができる。二対一というより、結果と戦わされている感じだった。


 ウェイト自身も、もう見ているだけではない。

 彼は軽く笑ったまま、砕けた路面を一歩だけ踏み換える。その一歩が静かすぎて、逆に不気味だった。杖で地を打つ。乾いた音が短く鳴り、それだけでハディートの足元の定義がわずかにずれる。踏み込んだはずの場所が半寸だけ遠くなる。避けたつもりの角度が、避けきれない角度へ変わる。大仰な術ではない。戦うために必要な前提だけを呼吸一つ分ずつ狂わせてくる。


「左を殺して」


 Babylonが動く。

 ハディートは杖を返してこちらの一線を外す。しかし、その外した先へ今度はウェイトの黒い影が滑り込んでいる。彼は刃を振るわない。自分の杖の先端だけをハディートの肘へ軽く打ち込む。打撃というほど重くはない。なのに、そこで通るはずだった魔力の流れだけが小さく乱れる。サリエルの白が一瞬だけ痩せ、その隙へ影が肩口を掠めた。


 布が裂ける。

 遅れて熱が走る。浅い傷ままでは済まない位置だった。


 ハディートはそのまま後ろへ引かず、逆に踏み込んで距離を潰そうとする。

 ウェイトはそれを待っていたように指示する。


「塞いで」


 Babylonは半身だけ滑り、ハディートの退路へ立つ。

 同時にウェイトが横から杖を払う。狙いは顔でも胸でもない。視界の端だ。見ているものの優先順位だけを狂わせるための小さな妨害だった。ハディートがそちらへ一瞬だけ意識を割いた、その半拍の遅れへ、影が腿の外側を掠める。


 ウェイトは非常に楽しそうだった。

 戦っているというより、戦いをさらに面白く整えている顔だった。Babylonへ指示を出しながら、自分でも盤面へ直接触れてくる。相手の身体に傷を入れるのはBabylonで、相手の戦い方に傷を入れるのはウェイトだ。役割が綺麗に分かれている分、却って逃げ場がない。


「昔みたいに召喚魔術で憑依させて戦っていたら、まだ勝ち目があったかもしれないのに」


 その言葉と同時に、彼は片手を軽く持ち上げ指先で宙を撫でる。

 撫でただけのはずなのに、そこへ細い光の線が残る。魔法陣というには粗雑で、儀式というには早すぎる。けれど、ハディートは一目で分かった。


 ――喚起魔術だ。


 しかも、ハディートのやり方そのままだった。

 角を立てる順番も、真名ではなく位階から固定する組み方も、最後の一画だけをわざと崩して憑依先へ馴染ませる癖も、何もかも見覚えがある。見覚えがありすぎて、却って吐き気がする種類の正確さだった。


「見せてやろうか」


 ウェイトの声は軽い。

 遊び半分のまま、けれど一音ごとに正確に術式へ重みを落としていく。


「君が昔、よく使っていたやり方を」


 宙へ残った線の中心が黒く沈む。

 穴ではない。影でもない。もっと粘ついた何かだった。煙に似ているのに煙ほど軽くない。液体に似ているのに滴らない。角のある頭部の輪郭だけが一瞬だけ浮かび、その奥でいくつもの目に似た光が瞬く。黒い狼の気配と夜鳥の首筋だけを無理に継ぎ合わせたみたいな、不機嫌で飢えた輪郭だった。


 ウェイトは囁く。


「――()()()()()


 その名が落ちた瞬間、空気が一瞬で薄くなる。

 ただの悪魔ではない。不和と殺意を連れて歩く、呼ばれた側ですら主をろくな目に遭わせないものの名だ。人を裂くより先に並んでいるものを仲違いさせ、噛み合っていたものを静かに外していく。戦場の中心へ置かれたら、それだけで盤面が腐り始める種類の飢えだった。


 黒い塊は地面へ立たない。

 宙へ垂れたままBabylonの背後へ回り、音もなく肩へ触れる。深紅と黒の衣が一瞬だけ水面みたいに波打ち、その下へ影が沈む。憑依というには乱暴で、寄生というには丁寧すぎる入り方だった。肩の重心がわずかに変わる。目線の高さも、呼吸をしないはずの胸の止まり方も、ほんの少しだけ深くなる。


 妾には分かる。

 これは力の増幅ではない。飢えの追加だ。裂くための線だった影が、切ったあとにも何かを持ち帰りたがる。開いた傷をそのまま出口に変えたがる。そういう質の悪い欲だけが、妾の中へ静かに足されていた。


 ウェイトはそれを見て満足そうに笑う。


「君の魔術はちゃんと履修しているからね」


 ハディートは返さない。

 返さないまま、サリエルの白だけが背後で鋭く鳴る。胸の奥で嫌な記憶が静かに軋んだのだろう。水道橋事件の日。押し込めたはずの熱。自分の手で、自分のやり方で、誰かの輪郭を歪めた感触。喚起魔術はまだ使える。術式を忘れたわけではない。むしろ身体の方は今でも正確に覚えている。今は使わないだけだ。封じたというより、そこへ手を伸ばせば自分の中の何かまで戻ってきてしまうから、触れないままにしている。


 ウェイトは、その沈黙ごと楽しむみたいに目を細める。


「見せつけられるのは嫌だろう?」


 そう言いながら、ウェイトはまた前へ出る。

 今度は術だけではない。杖の下端でハディートの手元を払う。払うというほど大きな動きではない。けれど、その一打で法の書へ手を伸ばしかけた指だけが半拍ずれる。そこへ影が入る。喉。脇腹。杖を握る指。選び取るのではなく、落とされた命令の形をそのまま実行する。


 妾には分かる。

 影は便利だ。切っ先の位置を誤魔化せるし、意志より先に「そこへ届く形」だけを置ける。けれど、それだけではない。今妾の中には、もう一つ別の飢えが混じっている。裂いた先をそのまま覗き込みたがる、浅ましくて下品な欲だ。アンドラスの残滓が、まだ影の底で歯を鳴らしている。


 ハディートは一歩踏み込み、左手を衣の内側へ差し入れた。

 引き抜かれたのは、小ぶりの書だった。革でも紙でもない、乾いた骨片を幾層にも削って綴じたみたいな白い表紙で、綴じ目の奥だけが墨を流したように黒い。()()()だ。表紙を開いた瞬間、頁の間から冷えた光が漏れ、まだ何も書かれていないはずの余白へ細い文字列が蟲みたいに這い出してくる。


 妾はそれを見た瞬間に理解する。

 読むための書ではない。書かれたことへ現実の方を寄せるための器だ。頁が一枚めくれるごとに、夜気の密度がわずかに変わる。意味はまだ発音されていない。されていないのに、世界の方が先に読んでいる。あれは刃より厄介だった。切るのではなく、別の名を押しつけようとしてくる。


 影が走る。

 ハディートは杖でその一線だけを外へ払いながら、開いた法の書を胸の前へ立てた。頁がひとりでにめくれる。風はない。なのに必要な場所だけが選ばれて開いていく。()()()()()だ。線ではなく文章で構造へ触り、配役そのものへ改稿を入れるための書である。


 彼は低く、ほとんど独り言みたいに術名を落とした。


「――脚本改稿・役名返還キャスト・ロールバック


 開いた頁の上へ白い文字が走る。

 インクではない。発光する傷みたいな文字列だった。法の書を起点にした文が宙へ浮き、そのまま妾の輪郭へ絡みつく。深紅と黒の外側へ、別の名前を重ねるように何行もの文が薄く走る。Babylonではなく、朱音へ役名を返す。奪われた配役を本来の場所へ戻す。理屈の上ではできなくはない。器がまだ器であるうちなら。


 胸の奥が一度だけ鳴った。

 鼓動ではない。鼓動に似たもっと細い音だ。押し込めていたものが内側から爪を立てたみたいな微かな反響。妾の肩が小さく震え、伸びていた影の角度が半寸だけずれる。黒い衣の下で、もう一つの呼吸に似たものが跳ねる。気分が悪いのに完全には拒めない。


 ハディートの指先が頁へ触れるたび、文字がさらに深く潜る。

 あと少しだった。あと一行だけ書き換えれば、名は戻るはずだった。外側から貼りついていた配役が音もなく剥がれ、押し潰されていた輪郭が呼吸を取り戻す。その流れまでは、彼にも見えていたのだろう。だからこそ指の運びが速くなり、呼吸がわずかに浅くなる。普段のハディートなら、その程度の乱れは見せない。見せない男が乱れる時は、大抵その先に個人的な傷がある。


 しかし、その一行の手前で彼の手は止まった。


 止めたのではない。

 止まってしまったのだ。

 分かってしまったからである。


 今書き換えようとしているのは、外側だけではない。Babylonはもう単なる上着ではなく、朱音を内側から圧して成立している構造そのものだ。これを上から剥がせば、中身まで裂ける。戻すのではない。切り分けるになる。そして、その切り分けは朱音の方が耐えられない。


 法の書の頁の上で、白い文字が一行分だけ宙吊りになる。

 書けば終わる。書かなければ間に合わない。どちらを選んでも何かは壊れる。そういう択一を前にした時、人は一瞬だけ昔へ戻る。

 ――水道橋事件。自分のやり方で、自分の都合で、誰かの中身まで滅茶苦茶にした感触。


 ウェイトの笑みが少しだけ深くなる。


「いいの?」


 声だけが妙に優しい。

 慰めるためではない。刃の角度を確かめるためだけの優しさだった。


「その願い方だと彼女は死ぬよ」


 法の書の上で、文字が一行だけぶれる。

 ハディートは舌打ちもしない。ただ、術式を乱暴に閉じた。法の書が閉じる。乾いた音が鳴り、夜気へ浮いていた文が一斉に千切れる。閉じた瞬間、妾の胸が一度だけ大きく上下し、その奥にあった細い鼓動はかろうじて潰れずに残る。間違っていない。あと半歩押し込んでいたら、朱音ごと壊していた。


 その半拍の停止を、妾は逃さない。

 いや、逃させないと願われたのだろう。影が真っ直ぐ脇腹へ走る。ハディートは身を捻ったが避けきれない。裂ける音。熱。血。今度の傷は浅くない。膝が折れかけ、かろうじて踏みとどまる。白い頁の残光が消えたあと、路面の黒だけがやけに濃く見えた。


 普通にやれば勝てない。

 取り戻そうとすれば朱音が死ぬ。

 ――なら、器そのものを終わらせるしかない。


 そこまで辿り着いてしまうと、却って思考は静かだった。

 追い詰められたからではない。捨てたくなかった手を、もう捨てるしかない順番まで持って来られた。その確認だけが済んだ静けさである。ハディートは閉じた法の書を衣の内側へ戻し、その代わりに自分の杖へ視線を落とす。長く手の内で温度を吸った、木でも金属でもないその杖を。脚本家にとってそれはただの媒介ではない。書いたもの、消したもの、消せなかったもの、その全部の滓が染み込んだ筆の延長だ。


 そして同時に()()()()()()()()()()。万一の事故に備えて、かつて自分でそこへ封じた核だ。保険のつもりだった。まさか本当に事故が起きて、その最悪の使い方をする日が来るとは思っていなかった。


 自分がBabylonへ向かって普通に願えば、朱音は死ぬ。

 そのことはもう分かっている。今更見誤る段階ではない。Babylonという器に対して直接外から別の役を押しつければ、押し潰されている中身ごと裂ける。だから、その願い方も選べない。



 ――だが、もし器そのものが別の位相へ押し出されるなら。

 もしBabylonという成立がその瞬間に壊れるなら。

 願いに紐づいた死の条件ごとそこで一度外れるかもしれない。



 あまりにも無茶だった。

 それでも、何の理屈もない自棄ではない。その可能性だけはまだ残っていた。


 ハディートは杖を差し出した。

 穂先を相手へ向けるのではなく、握りの方を渡すための角度だった。武器を捨てる手ではない。自分の中心を、今必要な位置へ移す手つきだった。


 ウェイトの眉が、そこで初めてほんの少しだけ動く。


「……何をする気?」


 ハディートは答えない。

 答えれば軽くなる。軽くしたくなかった。自分が何を差し出すのか、どういう理屈でこの形を選ぶのか、それを説明した瞬間に、これはただのつまらない賭けへ落ちる。嫌悪も、恐れも、計算も、全て込みでここへ置くしかない札だった。


 喉の奥が少しだけ熱い。

 痛みのせいだけではない。言葉にするものを選んでいる熱だ。朱音を戻せとではない。Babylonを消せとでもない。もっと外側へ、もっと乱暴な場所へ向けて、構造そのものを捻じ切るための願い。人一人を助けるための言葉ではなく、役と器を終わらせるための言葉。


 だから、低くはっきりと願った。




「僕の命を使い、大いなる獣に成れ――!」

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