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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史
第1章 ~配役の夜~

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72.龍殺しの槍

「――レイ!」


 ハディートが名を呼ぶ。

 短く鋭い声だった。制止のためか引き戻すためか、その両方かもしれない。サリエルの白が背後で鳴り、冷えた拍を差し込もうとする。だが届かない。青龍の耳はもう言葉を受ける位置にない。怒りが先に内側を塞いでいて、外から入る音を弾いている。


 青龍は地を踏まない。

 その巨体を低く撓らせ、次の瞬間にはもう煙の上を滑っていた。走っているのではない。だが、飛んでいると呼ぶには低い。尾が一度だけ空を打つ。そこで生まれた反動が、そのまま二十メートルの質量を押す。爪が落ちる。牙が走る。尾が横薙ぎになる。どれも大振りに見えるのに、実際には最短だった。龍の身体は怒りのまま振るわれてもなお、壊すための合理を捨てない。


 ウェイトの声が追う。


「……退いて」


 その一言で、妾は動く。

 自分で考えて退くのではない。与えられた結果へ位置だけを滑らせる、薄気味の悪い最短の動きだった。青龍の爪が落ちた場所から半身だけ外れ、代わりにアスファルトが大きく抉れる。欠片が噴き上がる。そこへ間髪入れず尾が来る。


「受け流して」


 ウェイトの声は続く。

 妾の肩が半寸だけ回る。剣身が横へ傾く。尾は胴を砕く代わりに長衣の裾を裂き、深紅と黒の布だけが夜気へ散る。青龍はさらに迫る。雷を纏った喉が膨れ、刹那、咆哮とともに青白い光が束になって前方へ吐かれる。


「それは切って」


 妾は刃を返す。

 切るというより、裂いて道だけを変えるための一線だった。雷は完全には消えず、斜めへ逸れてビル壁面を抉り、窓ガラスを内側から白く破裂させる。砕けたガラスが雨みたいに降り、その中を青龍がさらに潜る。噛みつき。前肢。尾。雷。怒りの塊みたいな連撃が途切れず来るたび、ウェイトの短い願いだけがその全部へ追いついていく。


 青龍にとってそれは理不尽以外の何ものでもないだろう。

 壊せる。もう少しで届く。今の一撃は確実に潰せた。そういう手応えだけが何度も消える。しかも、こちらが自分で戦っている感触がない。殴り合っているのではない。願いの方と戦わされている。その不快さが、怒りへさらに別の熱を足していく。


 妾には分かる。

 あれはもう、怒りのためだけに動いているのではない。怒りが骨格を食い理性を追い出したあとに、それでも戦うための合理だけが残った動きだ。二十メートルの青が煙の上を滑るたび、銀座の夜景そのものが遅れて見える。

 青龍というものは本来もっと巨大で、もっと鈍重に見えるはずだった。けれど今のそれは違う。怒りで輪郭を膨らませたまま、理だけは刃物みたいに鋭い。


 ウェイトは、その顔を見てふと笑った。


「あぁ」


 愉快そうに、心底愉快そうに。


「やっぱり、()()()()()()()()()()


 その一言は、怒りへ油を注ぐためだけに磨かれていた。

 水道橋の焼け跡で見た光景を、()()()()()()()()()。理性を失って壊しながら近づいてくる巨体。守るためではなく、奪われたものの空白だけで暴れる力。青龍にその意味はもう届かない。届かないと知っていてなお言うのは、言葉が相手ではなく周囲を傷つけるために使われているからだ。


 青龍は返事の代わりにさらに低く身を沈める。

 その巨体が信じ難い軽さで横へ流れた。突進ではない。滑空に近い。尾が一度空を打つたび、そこから雷が跳ね、長い胴をさらに押す。二十メートルの質量が空中を走るというより、空気の方を蹴り飛ばしながら前へ出ている。正面を見て躱せる速さではなかった。


「それは――」


 ウェイトの声が一拍だけ遅れる。


 その遅れを()()は確かに掴んだ。

 妾の目にも分かる。青龍はもう速い遅いの問題ではない。獲物が命じられる前にどこへいるかだけを嗅いでいる。前肢が上からではなく横から入る。前脚の横薙ぎを杖剣で受けたその直後だった。全く同じ位置へ尾が叩き込まれ、二重の衝撃に耐えきれずついに妾の手から杖剣が弾かれた。


 杖剣は夜気を切って高く弧を描き、街灯の白を一瞬だけ鋭く返してから数メートル先の路面へ突き立った。乾いた金属音が夜に響く。


 妾の手から武器が離れた、その事実だけで空気の色が変わる。

 青龍の唸りはさらに低くなり、裂けた喉から漏れる雷の残光が牙の奥で脈打つ。今度こそ殺せると、獣の本能だけが確信している顔だった。



 青龍は飛ぶ。

 地面を蹴ったのではない。尾で空を打ち、巨体のまま高く持ち上がる。二十メートルの胴が銀座の夜景を横切り、街灯の列をまとめて影に沈める。上から潰す気だ。噛み砕くのでも、爪で裂くのでもない。あの巨体の質量そのもので、ウェイトごと妾を地面へ縫いつけるつもりなのだと分かる跳躍だった。


 その落下の直前、ウェイトが言う。


「ははっ、やっぱりこうでなきゃ。龍を殺すのは()()()()()()()()()()()()。そうだろう? ――ガエ・アッサル」


 あまりにも軽い言葉だった。

 なのに、その一言だけで夜の奥に縫い目が走る。空間が裂けたのではない。そこに最初からあったものを思い出したみたいに、何もない頭上から一本の槍が滑り出る。長い。細い。飾りは少ない。余計な神話性を誇る形ではなく、殺すための伝承だけを磨いて残したような異様に端正な槍だった。


 古い話では、龍を殺すのはいつだって刃の多い剣ではない。

 長く伸び、遠くから届き、一つの核だけを穿つための槍だ。大地を這うものも、空を行くものも、最後に心臓を割られる時は大抵一本の直線に貫かれる。鱗を剥ぐためではなく、鱗の下で世界と繋がっている何かだけを絶つために。ガエ・アッサルという名は、その手の古い殺意だけを冷たく磨いて残した響きだった。必中だとか戻ってくるだとか、そういう伝承の尾ひれはどうでもいい。重要なのは、狙ったものを外したことがないという長い確信の方だ。


 同時に、妾の片手へ黒い手袋が落ちる。

 迷わずそれをはめる。布というより薄い皮膜みたいに手へ吸いつき、指の関節まで無音で馴染む。それは酷く冷たく、その冷たさだけでこの槍が素手で触れる類のものではないと分かる。


 そこまで見てから、ウェイトは最後の一押しみたいに低く願った。



「――貫いて」



 妾は槍を取る。

 その動作にも自分の意思らしい揺れはない。差し出された意味をそのまま受け取る器みたいに静かだった。


 青龍はもう落ちてきている。

 咆哮を纏ったまま爪を前へ突き出し、尾を大きく撓らせ一直線に。怒りで我を忘れた突撃だった。避ける余地も捻る余地も自分で捨てている。壊すことだけを真ん中へ置いた獣の落下だった。



 妾は槍を投げる。

 大きな投擲ではない。引き絞るでもなく、半歩踏み込み肩と肘と手首だけで前へ送る。にもかかわらず槍はぶれない。一本の冷えた線になって、落下してくる青龍の中心へ真っ直ぐ伸びる。狙いは喉ではない。心臓でもない。胸から腹へ抜ける胴のど真ん中だった。


 その飛び方まで槍は槍らしかった。

 矢みたいに鳴らず、剣みたいに光らない。ただ、そこに一本の結論だけが先にあり、その結論へ向かって夜の方が裂けていく。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。龍を殺すための道具とは、そういう不躾さをしている。


 刺さる瞬間だけ時間が遅くなる。

 厚い鱗がまず鳴る。硬質で乾いたひび割れの音に似た響きだ。次に、その下の肉が割れる。槍の穂先は青龍の胸部から腹部へ斜めに深く潜り込み、骨に当たる鈍い感触を一瞬だけ返しそれさえ押し切って腹側へ抜ける。そこまで一拍もない。なのに、その短さの中で貫かれたという事実だけが異様な密度で残る。


 青い雷光が、そこで不自然に途切れた。

 さっきまで鱗の隙間を走っていた青白い筋が、胸の中心を境に一斉に弱る。巨体が空中でわずかに止まり、止まったまま信じられないものを見るように痙攣する。咆哮は途中で切れた。音が失われるというより、出るはずだった力そのものが喉の中で崩れた感じだった。青龍の眼から怒りの色が消えたわけではない。だが、その怒りを龍として保つための何かが槍の刺さった一点から急速に抜けていく。雷は鳴らない。尾の動きが鈍り、爪から力が落ちる。二十メートルの胴が、怒りだけを残したまま形を維持できなくなる。


 そのまま力なく落ちた。

 巨体が路面へ叩きつけられる寸前、輪郭が崩れる。鱗がほどけるみたいに消え、長い首が縮み、青い稲妻の筋が肉の奥へ引きずり込まれる。人の形へ戻るというより、無理に引き伸ばされていたものが一斉に元へ戻る感じだった。着地の衝撃はそれでも重く、砕けた舗装が跳ね煙が低く爆ぜる。だがそこに横たわっているのはもう二十メートルの龍ではない。



 槍に貫かれたレイだった。

 胸から腹へ斜めに通された一線のまま、四肢を投げ出し、呼吸さえ掠れた音しか出ない。左手の薬指はなく、砕けた指輪の片割れは少し離れたところでまだ光っている。龍の気配はもうほとんど残っていない。残り火みたいな青い火花が皮膚の上で二、三度だけ弾け、それきり消えた。



「――レイっ!」


 ハディートは今度こそ迷わず踏み出した。

 砕けた舗装を越え、槍に貫かれたレイのもとへ駆け寄る。長い外套の裾が血に濡れた路面を掠め、サリエルの白だけが背後で不穏に揺れていた。倒れた身体の脇で膝をつく。呼吸はある。浅い。掠れている。だが生きてはいる。それだけをまず確認し、それからもう一度少し低く名を呼んだ。


「レイっ……」


 返事はない。

 閉じた瞼も血に濡れた睫毛もぴくりとも動かない。胸から腹へ斜めに通された一線のまま、四肢は重く投げ出されている。


 ハディートがその傷へ触れた瞬間、眉がわずかに寄る。

 ()()。手に返ってくるはずの感触が違う。傷の深さではない。もっと根本のところで、レイの内側を巡るものが狂っている。脈に沿って流れるはずの魔力が、槍の通った一線を境に不自然に痩せていた。傷口そのものは確かにここにあるのに、そこへ集まるべき力が集まっていないのだ。


 レイの回復はかなり速い。

 本来ならもう裂けた肉の縁は熱を持ち、乱暴にでも寄り始めていていい。少なくとも血の勢いだけでも鈍っていなければおかしい。

 しかし、目の前の傷は違った。裂けたまま沈黙し、治る気配そのものがない。


 ハディートの指先が傷の縁で止まる。

 治せないとまではまだ言わない。けれど、ここでは無理だと身体の方が先に理解していた。術で塞ぐには流れが足りない。無理に触れば残っている回路ごと崩す。治療に長けた魔術師でなければ、これはどうにもならない種類の傷だった。



「……君もそういう顔をするんだ」



 ウェイトが柔らかく笑う。

 ハディートは返さない。視線すら向けない。ただレイの身体を抱き起こす。龍の熱を引きずったまま人へ戻った身体は鉛のように重かった。だが、その重さが生の側にあることだけは確かだった。


 レイの頭がわずかに揺れる。

 意識は戻らない。唇の端から細く血がこぼれ、それが喉元を伝って黒い衣へ吸われていく。ハディートはその血を手の甲で拭いもしない。片腕で背を支え、もう片方の手で胸の前へ短い印を切る。サリエルの白が鋭く鳴った。


 空気が変わる。

 壊れた銀座の夜景の上へ別の規則が薄く重なる。監察局の転送式だ。街の上で乱用すべき術ではない。とはいえ今更それを気にする段階ではない。砕けた路面の亀裂に沿って細い光が走り、血に濡れた地面へ淡い線が幾何学みたいに浮かぶ。円ではない。もっと無骨で、機能だけを残した記号だった。


 ウェイトがその光を見て小さく首を傾げる。



「逃がすんだ?」

「逃がすんじゃない」


 ハディートはそこで初めて答えた。

 低く平坦に、感情だけを削いだ声だった。


()()()()()()()


 その言い方には、わざと冷たさがあった。

 助けるとも、生かすとも言わない。敵の前でそんな言葉を置く気は最初からない。回収という語だけを選ぶ。死体でも、監察局が後で引き取る何かでもあるみたいに。そう聞こえるなら、それでいいという顔だった。


 ウェイトはそれを聞いても、ただ薄く笑っている。

 見抜いているのか、見抜いた上で泳がせているのか、そのどちらとも取れる笑みだった。けれど少なくとも、ハディートがこの場で感情を表に出していないことだけは伝わっている。


「――レイ」


 もう一度だけ名を呼ぶ。

 返事はない。けれど、呼ぶ必要はあった。意識の有無ではなく、この身体がまだ「レイ」であることを自分の意識の中で固定するために。


 血が路面へ落ちる。

 砕けた指輪がすぐ側で光るのが見え、ハディートは一瞬だけ視線を落とした。迷う余地もなく拾い上げ、血のついた手の中へ握り込む。サファイアは血で染まり、輝きは失われていた。

 そのまま彼はローブの内側へ手を差し入れ、胸元の深いところへそれを滑り込ませる。落とさないためというより、今は誰の目にも触れさせたくないみたいな手つきだった。


 サリエルの白が鋭く鳴る。

 次の瞬間、転送式が閉じた。砕けた舗装も、焦げた匂いも、遠い悲鳴も、白い街灯も、全部が一拍だけ遠のく。銀座の夜景が薄い膜の向こうへ退き、レイの身体だけがその白の中へ沈んでいく。


 路面に残ったのは血の跡と、薄く焼けた術式の痕だけだった。

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