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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史
第1章 ~配役の夜~

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71.断たれた円環

「仕方ない。最終手段しかなさそうだね」


 ウェイトの声は少しも笑っていなかった。軽さだけはいつも通りに残っているのに、その奥から余計な遊びが抜けている。冗談でも挑発でもなく本当に盤面をひっくり返す時の声音だと分かる。煙の底に沈んでいた空気がわずかに張り、妾はその軽さのまま深く落ちてくる響きを命令として最も正確な形で受け取った。



「――レイの大切なものを、この場で壊して」


 主語はないがそれで足りた。壊すべきものが肉ではないと理解するのに時間は要らず、妾は一度だけあの男の()()へ視線を滑らせる。血よりも先に残るもの、形として長く留まり続けるもの、その中心にあるものが指し示す対象だと、言葉にせずとも明瞭に分かる。


 レイは既に踏み込んでいる。雷鳴の残滓をまとったまま路面を蹴り、真っ直ぐではなく右肩を落として腰を半拍遅らせ、その遅れを尾の撓りで補う。人の骨格では成立しない反動が全身へ通り、踏み込みの途中で拍そのものを自分でずらしているため、見えている速度と実際に肉が届く時点が微妙に噛み合わない。ハディートが外から切っていた拍の狂いを今度は自分の身体だけで再現しているのだと、妾の視界の中でその到達点の揺れ方だけがはっきりと浮かび上がる。


 拳は既に低く沈んでおり、その軌道は迷いのない破壊だけを前提にしている。怒りを押し込めているせいか妙な静かさを覚えた。


「それは届かないように」


 ウェイトの声が落ちた瞬間、妾の身体は自分の意思とは無関係に最小限だけ外へ滑る。危険を察した回避ではなく、結果に従って位置だけが書き換わる移動であり、レイの拳は空を裂き雷が路面を浅く抉る。砕けた舗装の欠片の上を青白い火花が走り、近さと非到達の差だけが妙に鮮明に残る。


 妾は動かないままその差を受け入れる。届かぬと決められたものは、どれほど近くとも届かぬ形でしか現れない。


 レイは止まらず外した腕を引かずにそのまま肘へ変え、低く沈んだ姿勢のまま肩を入れて喉を砕く軌道で突っ込む。尾が背後で撓って路面にひびを走らせその反動でさらに半歩深く入り込むため、人の間合いではない距離が無理やり成立している。近い。だがそれでもまだ来ていないと扱われる距離に留められている。


「逸らして」


 ウェイトの声に従い、妾は杖を地へ突き石を打つ乾いた音を鳴らしながら握りの下へ指を滑らせる。持ち手の一部が鞘のように外れた。内側から露出した細い刃を肘の内側へ一線だけ差し込むと、深く斬る必要もなく角度だけが削がれ肘は半寸ずれて首ではなく肩口の布だけを裂く結果へ変わる。深紅と黒の裂け目から覗く白い肌を見た瞬間、あの男の怒りがさらに濃くなるのが分かる。


 しかしもう遅い。ウェイトはどこを狙ったかではなく、何を残すかだけを見ている。



「――壊せ」



 短い指示に迷いはなく、妾の中で狙いは既に固定されている。肉ではなく残るもの、あの男の中で最も長く形を保っていた()()、その一点へ刃を走らせる。


 拳と拳のあいだ、視線が前だけを見ているその一拍へ差し込めばそれで足りる。刃が指輪へ触れた瞬間に硬い音が一つ鳴り、円が途切れる。抵抗はほとんどなく、長くそこにあったものほど断たれる時は軽いのだと妙に冷静な理解だけが残る。


 遅れて肉が開き骨の繋がりが切れ指が落ちる。先に形だけが壊れ輪であったものが輪でなくなる瞬間を、妾は視線を外さずに見てしまう。持ち主から離れたそれがただの物へ戻る顔をしている。


 レイは一拍遅れて振り抜いた。

 拳は空を殴り、雷が路面を浅く裂く。狙うにしては左手の軌道があまりに軽く、何が起きたのか本人にも分からなかったのだろう。防がれた、外した、その程度の違和感しかまだ表情に出ていない。だが次の瞬間、左手に遅れて痛みが来る。


「……は?」


 理解が追いつかず、声だけが素に戻る。

 レイは左手を見る。()()()()()()。切断面から遅れて血が噴き、火花の残光へ赤を混ぜる。視線がさらに下へ落ち、砕けた指輪を見つける。二つに割れた輪の片方が、血に濡れた路面の上で小さく転がっていた。そこでようやく、何を切られたのかを理解する。


 妾はその視線の動きを見る。

 指より先に輪を見た。欠けた肉より先に断たれた円の方を認識した。その順番だけで充分だった。




「――お前」



 全てを理解したときに出た声は、地を這うように低かった。低いまま途中で形を失い罵倒へなりきる前に、もっと深い場所からせり上がってきた怒りがそのまま喉を押し潰す。言葉にして吐けば少しは軽くなる類の怒りではない。もっと古く、もっと獣じみたものが、理性の薄い部分から先に身を起こしている。そのせいで声は一度きりの言葉として閉じず喉の奥で濁ったまま膨れ、次の音になる前に別の何かへ変わり始めていた。


 妾は瞬時に後退した。追撃のためではない。結果だけを置いてそこから離れるための退き方だった。剣身を血の線とともに引き戻し、長い衣の裾だけを翻して距離を取る。その動きにも自分の意思らしいものはない。命じられた通りに壊し命じられた通りに離れただけの空虚な後退であるはずなのに、胸の奥へわずかな違和が残る。切り落としたのは左薬指と指輪、それだけのはずだった。だが目の前の男の中では、それより大きくそれより根の深い何かが、既に別の壊れ方を始めている。


 レイはその場に立ち尽くす。ほんの一瞬だけ、本当に短い停止だったが、その一瞬の中で起きたことは多い。左手の痛み、切断面の熱、指輪が割れた音の遅い反響、母の形見だという理解、切られたのが指ではなく、そこへ繋がる記憶ごとだったという事実、その全部が殴るより先に内側へ入っていく。視線が落ちる。断たれた輪がまだ転がっていた。形見だった。残り方の証明みたいに、ずっとそこにあったはずのものだった。その円がもう円ではなくなっている。それだけのことで、怒りは急に質を変える。殴り返せば済む種類のものではなく、もっと深い場所で長く沈んでいたものを一気に表層へ引きずり上げる怒りへ変わる。


 妾は骨の音を聞く。まだ変わってはいない。だが、人の肉の奥で何か巨大なものが身を返す時の、湿った軋みだけが先に伝わってくる。壊したのは封じていた側かもしれないと、その時ようやく遅れて理解する。指と輪を断っただけで済むはずの傷が、そうではない位置にまで届いてしまったのだと、そこで初めて分かる。


 レイは割れた指輪を見たまま、もう一度だけ息を吸う。吸ったというより、肺の奥へ無理やり夜気を押し込むみたいな荒い呼吸だった。肩が上がり、首筋が軋み、背の線が不自然に反る。脊椎に沿って青白い光が走り、骨が鳴る。人の関節が人のままではない配置へ押し広げられていく鈍い音が、雷の残光の下で連続する。それでもまだ、彼は声を出さない。出せないのではない。ただ、言葉として吐き出すには胸の奥で膨れたものがもう大きすぎた。


 妾はその輪郭を見る。怒りに押されて変わるのではない。怒りへ肉の方が耐えきれなくなり、人の形から零れ始めている。理性が選んだ変化ではないからこそ厄介だった。制御された龍化ではなく、喪失そのものが引き金になっている。形見の破壊が、そのまま外殻の破断へ繋がっているのだと分かる。



 そして、レイの喉奥で押し殺されていた音が、ついに言葉の形を捨てた。


 それは怒鳴り声ではなかった。罵倒でも悲鳴でもなく、もっと原始的で、もっと大きく、意味へ届く前の怒りそのものが音になったものだった。喉の深い場所から絞り出されるのではなく、胸郭ごと押し開いて外へ叩きつけるような咆哮が銀座の夜を真横から引き裂く。砕けたガラスがびりびりと鳴り、煙の層が揺れ、街灯の白が一瞬だけ震えた。遠くの悲鳴もサイレンも、その一声の中で掻き消える。言葉にできなかった怒りが、最初から言葉など要らなかったと言わんばかりに巨大な音圧だけを伴って夜へ溢れ出した。


 妾はその咆哮を正面から受ける。獣の声に似ているが、獣より古い。生き物が怒った時の音というには重すぎ、何か別の秩序そのものが裂けた時のような響きだった。



 ――レイの輪郭が壊れた。



 咆哮の余韻がまだ空気を震わせている最中に、肩から背へ鱗の気配が一気にせり上がる。首が伸び、顎の線が裂けるみたいに変わり、歯列の奥で火花が弾ける。尾は一撓りごとに太く長くなり、砕けたアスファルトを薙ぎながら膨れ上がっていく。腕も脚も、人の比率を捨てて別の生き物の力学へ塗り替わる。理性で選んで踏み込む変化ではなく、咆哮と同じ勢いで怒りに身体の方が耐えきれなくなり、内側から裂けるようにして別の形へ移っていく変貌だった。



 ――怒りに満ちた青龍が現れる。



 全長は二十メートルほど。銀座の通りへ収まりきるには大きすぎる。持ち上がった胴が街灯の白を遮り、長くしなる尾が砕けた信号機と瓦礫をまとめて跳ね飛ばす。青の鱗は濡れたような光沢を持ち、その隙間を青白い雷光が細い血管みたいに走っていた。目はもう人のものではない。怒りそのものが色を持ったみたいな深い青が、煙の奥で鈍く燃えている。


 妾は見上げる。大きいというより、収まりの悪い怒りだと思った。街へ対しても夜へ対してもこの場へ対しても過剰で、だからこそ美しさより先に不吉さが立つ。壊したのは確かに小さなものだった。だが、それに繋がっていた感情の総量だけは最初から人の器へ収まっていなかったのかもしれない。


 左前肢の先からはまだ血が落ちていた。薬指のあった位置だけが不自然に欠け、その喪失が変貌の後ですら消えていない。切断面は再生へ向かう熱を持ちながら、それでも今はまだ完全には繋がらない。怒りに呑まれた巨体の中で、その欠損だけが異様に生々しく残っている。壊されたものは、龍になっても壊れたままだった。そこだけが妙に人間じみて見える。鱗も、雷も、あの巨大さも、全部どうでもいいと言わんばかりに、失った一点だけが執拗に残っている。妾にはその欠け方が少し不快だった。


 青龍の喉奥で咆哮の残り火みたいな唸りがまだ鳴っている。雷鳴に似ている。しかし、雷よりもっと生々しい。言葉ではない。意味へ届く前の憎悪だけが、そのまま空気を震わせている。理性が消えたわけではない。理性より先に怒りが全身へ指示を出しているのだ。壊す。裂く。奪い返す。そういう単純な命令だけが、今のレイを立たせていた。

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