70.矛盾を抱えた拳
レイはウェイトではなくハディートの方を見た。
視線を叩きつけるというほど露骨ではない。確かめるために向けた目だった。挑発を受けて振り返る時の速さではなく、もっと鈍く嫌な予感へ手を伸ばす時の遅さがそこにあった。壊れた街も煙も焦げた匂いもその一瞬だけ遠のいて、残ったのは目の前の男の横顔だけだった。
ハディートは、その視線を受けて目をそらした。
ほんのわずかだった。顔ごと背けたわけではない。けれど、正面から返さなかった。それだけで十分だった。否定する時の即答も怒る時の鋭さもなく、ただ視線だけが外れる。レイの中で何かが、妙に静かな音で噛み合ってしまう。
あぁ、本当なんだな、と。
言葉になるより先に身体が理解していた。
レイの表情は変わらない。
変えないようにしているというより、変える拍を失った感じだった。怒るにはまだ早い。笑い飛ばすには遅い。どの感情へ寄せるべきか分からないまま、顔だけがいつもの形に置き去りになる。
「……なんで」
最初の声は低かった。
聞き返すというより喉の奥で勝手に擦れた音に近い。彼は一度だけ息を飲み、それから改めて言葉を拾い直す。
「なんで俺を殺した?」
問いは短い。
余計な飾りが何もない。責めるための理屈も怒鳴る勢いも、まだそこには乗っていなかった。ただ、答えが一つあるはずだと思っている人間の声だった。
ハディートは答えない。
否定もしない。誤解だとも言わない。杖を持つ手はわずかに強く締まっているが、口は閉じたままだ。サリエルの白だけが背後で薄く鳴り、夜気の温度を一段だけ削っている。
その沈黙へ、ウェイトが楽しそうに割り込んだ。
「――大いなる獣になってしまったら、壊さずにはいられなくなるんだ」
まるで注釈を読むみたいな丁寧さだった。
誰かを断罪する調子ではない。知っていることを親切に補足してやっているつもりの声音である。悲劇に対して与えられた説明ではなく、標本のラベルみたいに平たかった。
「水道橋事件で死んだ時、君だと判別がついたのは左腕だけだった」
その一言で、煙の匂いが少し変わった気がした。
焦げた金属と血の匂いに、もっと古い焼け跡の気配が混じる。レイは瞬きすらしない。目の奥だけがわずかに硬くなる。想像したくないものが先に像を結び、それを打ち消す言葉がどこにも出てこない時、人の表情はむしろ薄くなる。
ウェイトはその薄さを見て、さらに笑みを深くする。
「正確には、左腕と――お母さんの形見の指輪だね」
優しい言い方だった。
優しいからこそ酷く不快だった。慰めるためではない。傷の形を正確に撫でるためだけの声音である。
「左腕にあの指輪が残っていなければ、あとはもう名前のつかない肉の塊だった」
レイの喉が、そこで一度だけ小さく動く。
言葉にはならない。呼吸の位置だけがわずかにずれる。殴られた方がまだ簡単だった。血や骨の話なら怒りへ変えられる。けれど、母の形見という具体物が混ざった瞬間、それはもうただの死に方ではなくなる。名前の残り方そのものを握られる。
「自分を殺した魔術師のことなんて、信じられるのかい?」
綺麗に刺しにきていた。過去だけではなく、今この場に立つ足場ごと崩しにくる問いだった。殺されたという事実より、その相手と今まで並んで立っていたことの方を問題にしている。目の前の戦いとは別の場所にあるはずの亀裂を、今この瞬間の足元へ直結させてくる。
レイは答えない。
いや、答えられないのではない。ハディートの一言を待っているのだ。否定でもいい。もっとマシな言い訳でもいい。とにかく、この場に立つための何か一つを寄越せと、その沈黙のまま待っている。
壊れた路面の上で、時間だけが妙に遅くなる。
遠くの悲鳴も燃え残った火の音も、今は関係ない。レイの中で動きを決める拍が、ハディートの口が開くかどうかにだけかかっている。その一言で、次に誰へ殴りかかるかが変わる。そういう危うい静けさだった。
ハディートは、ようやく口を開いた。
「……確かに殺した」
短すぎて言い逃れの気配すらない、全てを認める時の声だった。感傷も自責もそこには乗せていない。否定できない事実を否定しないまま置いた声音だった。
レイの目が、ほんのわずかに細まる。
その先を聞くためというより、殴るべきかどうかを本気で測る目だった。
ハディートは続ける。
「……だが、魔術師として創り上げたのも僕だ」
その言い方は妙だった。
恩着せがましいわけではない。誇っているわけでもない。殺したという一点だけを切り出されるのが不正確だと分かっている人間の声だった。前後がある。経緯がある。そこを飛ばしたまま断罪だけ受け取る気はない、という乾いた固さがある。
「殺した時のことは……正直よく覚えていない」
そこでようやく、彼の声にごく薄い濁りが混じる。
誤魔化しているようにも聞こえるし、本当に記憶が曖昧なようにも聞こえる。だが少なくとも、ここで滑らかに嘘をつける男ではないとレイも知っている。だから余計に始末が悪い。覚えていない、の一言で済ませられた方がまだ怒りやすかったのに、その曖昧さがかえって現実味を持ってしまう。
「記憶にあるのは――」
ハディートは一度だけ視線を落とした。夜の底を見るような短い沈黙だった。
「――お前の親父さんに殴られて首を絞められたこと、か」
レイは反応に困った。顔には出さなかったが、内側では完全に拍子を外されていた感じだった。もっと酷い理由を覚悟していたのかもしれない。もっと綺麗な正義を聞かされると思っていたのかもしれない。
なのに返ってきたのは、殺した、蘇らせた、覚えていない、親父に殴られて首を絞められた、という断片ばかりで一本の筋にならない。怒るにも整っていないし、納得するには雑すぎる。最悪の告白のはずなのにどこか乱暴さが混じっていて、感情の置き場が消える。
ウェイトはその空白を楽しそうに眺めている。困惑ほど面白いものはないとでも思っているみたいに。壊すだけなら簡単だ。壊れた後にどういう顔をするかを見るのが彼は好きなのだろう。
レイはしばらく何も言わなかった。
本当は殴るべきだと思う。今すぐにでも一発入れたい。けれど、それを今やったら駄目だということも分かっている。目の前にはウェイトがいる。Babylonもいる。この場でその話の決着をつけようとした瞬間、自分たちは確実に負ける。腹の底に沈んだ怒りより先に、その判断だけは冷えて残っていた。
だからレイは、妙に素直な声で言った。
「……分かった」
本当は全然分かっていない。理解も納得もできていない。ただ、一旦保留にするという意味でだけ正しい言葉だった。状況飲み込めないまま喉の奥へ押し込んだだけだ。
レイは足を開き、重心を落とす。
さっきまで止まっていた身体が、ようやく戦闘の位置へ戻る。空手の構えだった。しかし、その置き方にはさっきまでと違う硬さがある。迷いが消えたのではない。迷いを抱えたまま、それでも動くと決めた時だけ出る硬さだった。拳を握る指先に微かな火花が這い、足元の瓦礫が小さく鳴る。
「これが終わったら――」
そこで一度、ハディートを見た。
さっきみたいな確認の目ではない。文句を先送りする相手を決めた者の目だった。
「……一発殴らせろ」
軽口みたいな言い方だった。
けれど、冗談ではない。その一発に込める意味が多すぎて、むしろ簡単な言葉にしかならなかった。
今ここでぶちまけたら負けるから、終わるまで取っておくという意味。殺したくせに蘇らせた、その矛盾について後でちゃんと顔を見て聞くという意味。少なくとも、魔術師として自分を蘇らせたということはわずかでも責任を感じているのだろうと、その一点だけを暫定で認める意味。全部ひっくるめての一発だった。
ハディートは何も言わず、否定もしなかった。その沈黙だけで十分だった。受けるつもりなのか、今は口を挟まないだけなのか、それはまだ分からない。分からないまま、サリエルの白だけが薄く揺れている。
ウェイトが小さく笑う。
「思ったより冷静だ」
感心しているのではない。
もっと壊れると思っていたものが、壊れきらずに踏みとどまったことを面白がっているだけの声だった。
レイはもう答えない。
答える代わりに踏み込む。空が低く鳴った。詠唱はない。合図もない。彼の肩が落ち、腰が沈んだ。その次の瞬間には、雷鳴が銀座の夜景を斜めに裂いていた。青白い閃光が煙の層を貫き、砕けた路面の水たまりを一斉に光らせる。人の悲鳴も、遠いサイレンも、その一撃の中で一瞬だけ掻き消える。
落ちた雷の音より先に、レイは動いている。
雷を撃ったのではない。雷を連れて間合いへ入る。拳へ、肘へ、膝へ、踏み込みへ、青白い火花が沿い、身体そのものが雷撃の続きみたいに鋭くなる。さっきまでの迷いは消えていない。消えていないまま、そのまま速度へ変わっている。
今この場で決着をつけるべき話ではない。
だからこそ、今は奴等を殴る。終わったらあっちも殴る。順番を間違えないためだけに、人はまだ立っていられることがある。レイの身体は、その乱暴な理性に従っていた。




