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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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7.静寂の夜

 いつも通り22時に店に行くと、マスターがカクテルのメニュー表を書き換えていた。

 

【Aquarius / 水瓶座 “Ether Circuit”:知性と逸脱の予言者】

【Frostbite Lament:凍れる祈り、誰にも届かぬ夜に】

【Ash in Bloom:灰から咲くものもある。2月の終わりに――】

【Milk & Misery:甘さと惨めさを、ひとくちずつ】


「あぁ、来たか。丁度いいから新しいカクテルの試飲をしてほしい。一応バレンタインデー用なんだが……」


 カウンターの上には、数枚の試作メモが散らばっていた。

 その中には、きれいに線で消された名前もいくつかあった。

【Crimson Silence】

【St. Valentine Was a Liar……】

 きっと、どれも没になったカクテルの名だ。


 マスターは無言でシェイカーを取り出した。

 中身はホワイトチョコレートリキュールにブランデー、そしてフレッシュな生クリーム。

 どれも主張が強いはずなのに、混ざると静かな顔をする――そんな組み合わせだった。


 氷を入れ、シェイカーを閉じる。

 左手を上、右手を下。構えは一段。

 斜め45度の角度から、肘を中心に弧を描くように――

 力まずでも弱くもない。

 フォームは正確で音は軽やか。

 それが余計にこのカクテルの名前と似合わなかった。

 

 Milk & Misery――

 振られているのは甘さだけじゃない。

 苦みを包んで隠す。その優しさこそが、いちばん惨めなのだ。


 十数回のシェイクののち、彼はグラスに液体を注ぐ。

 白濁した酒が淡くきめ細かい泡とともに静かに沈んでいく。

 その音すら消え入りそうなほどに小さかった。


 泡の輪がカクテルグラスの縁に残り、それがやがて消えていった。


「できたよ。……誰にも必要とされなかった甘さの味だ」


 一口飲んでみる。

 最初は酒っぽさより濃厚な甘さの方が勝っていたが、次第にアルコールの冷たさと虚しさが現れてきた。


「良くも悪くも名前の通りですね。なんか飲んでいると悲しくなる……」

「ここに甘々なカップルは来ないからね。常連は全員バツついているし」


 マスターは黙ってバースプーンを拭いていた。

 ……客が来る気配はない。

 店の奥では、低く抑えたジャズが流れている。

 曲名は分からないが、この店には最初からこれが流れる運命だったのだろう。


 カウンター越しの空間が、時間の外にいるように感じられる。

 外の世界では誰かが恋に舞い上がり、誰かが失恋して泣いている。

 でも、この店にはそれが届かない。

 甘さが過ぎた者たちが、静かに味の余韻だけで夜を越える場所――


 私はグラスを手に取り、もう一口だけ飲んだ。


「……本当に、こんな夜に誰も来ないんですね」


 そう言いながらも、安心している自分がいた。

 誰にも見られず、誰にも咎められず、ただこうして味わうためだけに存在している夜。


 マスターは煙草に火を点け、ひとつ息を吐いた。

 その煙が天井に昇っていくのを、私はぼんやりと目で追った。


「――客なんて、来ない方が良い夜もあるよ」


 その言葉は慰めではなかった。

 ただの事実として静かに降りてきた。



*



 案の定誰も来なかったので早上がりで帰った。

 歩いて25分くらいかかるが、わざわざタクシーを使って帰るほどの距離でもない。

 冷たい夜気が、舌に残った《Milk & Misery》の甘さを中和してくれる気がした。


 店のドアを閉めた瞬間、あの空間に満ちていた静けさがすっと後ろへ引いていく。

 コートの襟を立てて歩き出すと、靴の音だけが現実に戻ってくる。

 夜の吉祥寺は平日のくせにまだ少し騒がしい。

 終電前のカップル、酔っ払ったサラリーマン、静かに開いている深夜営業のカフェ――

 どれも別の世界に属しているようで、どれにも私は属していない。

 遠くで笑い声がした。

 でも、その音はすぐに止んでまたいつもの夜に戻る。


 ポケットの中に手を入れると、カクテルの試飲メモが一枚くしゃくしゃになって入っていた。

 マスターが書いたものだ。

 そこには、線で消された名前たち――

【Crimson Silence】

【St. Valentine Was a Liar……】

 その下に小さく書かれていた一言が、なぜか心に残った。


「愛の甘さは、誰にも渡されなかったときに一番濃くなる」


 風が頬を撫でた。冷たいが妙に心地よい。

 家までの道は分かりきっているはずなのに、どこか見知らぬ街を歩いているような錯覚に陥る。

 バーで過ごした夜は、現実を少しだけ曲げる。


 玄関の前で深呼吸をひとつ、カギを回しドアを開けた。

 質素で静かな部屋が迎えてくれる。

 何もない夜。でも、今夜だけはそれでいいと思った。



 この後、恐怖が街を陥れることも知らずに――

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