69.残響する断言
「……僕が創った構造物を、あまり壊さないでくれよ」
ウェイトは珍しく、はっきり不満の滲む声でそう言った。
さっきまでと同じように笑ってはいる。紫水晶みたいな目も柔らかく細められている。けれど、その笑みの縁だけがわずかに硬い。愉悦に浸ったままの顔ではなく、自分の整えた舞台装置へ土足で上がられた人間の顔だった。
そのまま彼は妾の右胸へ手を伸ばす。
裂けた衣の奥、露出した印の縁へ白い指先が迷いなく触れた。派手な術式の兆しも一切ない。ただ、触れられた場所から傷だけが静かに閉じていく。裂けた皮膚が寄り、流れていた血が止まり、覗いていた紋様がまた深紅と黒の下へ隠されていく。その修復はあまりに自然であり、治癒というより元あるべき位置へ壊れた部品を戻しているだけみたいだった。
壊れた器を惜しむ人間の手つきに近い。優しいというには温度がなく、冷たいというには丁寧すぎる。大切なのが相手ではなく、壊れたものそのものである時だけ見せる種類の静けさだった。
「……まぁ、大切なものを壊そうとするのは、相変わらずか」
独り言みたいに、ウェイトはそう言った。
妾へ触れたままの声音だったので、誰へ向けた言葉なのかが却って曖昧になる。目の前のレイへ投げたようでもあり、もっと古い誰かを見ているようでもあり、その両方かもしれなかった。相変わらずという一語だけが夜気に残り、砕けたガラスの上で妙に長く反響した。
レイの眉がぴくりと動く。
「……は?」
短い声だった。
棘のある返しではある。だが、怒鳴ったわけではない。喧嘩の流れで反射的に返した声というより、意味が引っかかった時にだけ出る低い音だった。何を言われたのか分からないのではない。分からないまま流していい類の言葉ではないと、身体の方が先に判断した声だ。
ウェイトは答えない。
ただ修復の終わった右胸から指を離し、その指先に残った血を見もせず面白がるように小さく笑う。治った傷はもう印ごと衣の下へ隠れている。さっきまで露出していた魔術師の紋章は、なかったことにされたみたいに消えていた。
ハディートは横目すら向けなかった。
「聞く必要はない」
言葉の意味を否定したのではない。意味に触れること自体を許さない声音だった。拾えば腐る。聞けば残る。そう分かっている人間の非常に実務的な拒絶である。感情で睨むのではなく、処理として捨てる響きだった。
レイはその一蹴にすぐ従わない。
いや、従えなかったという方が近い。さっきまでなら、そのまま次の一撃へ行けたはずだ。殴るべき相手が目の前にいて、余計な言葉が混じっても苛立ちごと拳へ乗せれば済むだけだった。けれど、今の一言は妙に内側へ引っかかったまま残っている。身体は先へ行きたがっているのに、思考の方だけが半拍遅れて足元へ残る。
その遅れをウェイトは見逃さない。
紫水晶みたいな目が今度は心底楽しそうに細められる。さっきまで滲んでいた不満はもう消えていた。今度は別の場所を裂こうとする顔だった。壊れた構造物への不満など、結局はついでに過ぎない。彼が本当に楽しんでいるのは、壊れた人間の中身に触れる方なのだとその笑みだけで十分だった。
「その感じだと、自分の生い立ちをよく分かってなさそうだね」
軽い。
軽いのに妙に正確だった。曖昧に濁すための言い方ではない。相手の輪郭へわざと爪を立て、どこで嫌な音が鳴るかを確かめるためだけの声音である。
レイの表情が止まる。
本当に一瞬だけだった。だが、その一瞬で十分だった。視線が切れるほどではない。肩が下がるほどでもない。けれど、呼吸がほんのわずかに浅くなり、目の奥だけが違う場所を見た。聞き慣れない言葉に驚いたのではない。聞きたくなかった類の違和感だけが、遅れて皮膚の下へ入り込んだ顔だった。
ハディートの気配が変わる。
サリエルの白が鳴るより早くそれが分かる。さっきまで静かに置かれていた冷気が、一段だけ薄く研がれる。本当にまずいと判断した時だけ出る、極端に無駄のない速さだった。表情は変わらない。声も荒れない。ただ、次の行動へ移るまでの拍だけが削られる。
「黙れ」
低く落ちた声と同時に白い刃が走る。
斬るというより、言葉の通り道そのものを断ち切るみたいな一撃だった。煙の層がそこだけ薄く裂け、砕けた看板の影が遅れて揺れる。街灯の白さまで一瞬だけ細く痩せたように見えた。狙いは喉でも心臓でもない。あの声が次の言葉へ続く、その前提だけを切り落とすための刃だった。
ウェイトは半歩も退かない。
妾の前に立つ位置を変えぬままただ肩を傾けるだけで白の軌道を外し、その余波が長衣の裾だけをかすめて夜へ散る。受けたというより、そこへ来ると知っていた動きだ。
「怖いなぁ。そこまで隠したいんだね」
煽るために作った軽さではない。本当に待っていた反応が来た時の、あの柔らかい声音だった。
レイの視線が、今度はウェイトではなくほんの一瞬だけハディートへ向く。
ハディートは視線を返さない。
ただ前だけを見ている。その横顔は静かだが、静かすぎる。何もない人間の静けさではなく、何かを押し込めた上で平らにしている時の顔だった。否定もしない。肯定もしない。余計な一音すら返さない。その無音がかえって不自然で、レイの中の違和感だけを増やしていく。
ウェイトは、その沈黙ごと拾って弄ぶみたいに笑う。
「知りたい?」
尋ねる声音が妙に優しい。
人を誘う時の優しさではない。傷口へ指を入れる前にだけ与える種類の、薄く整った優しさだった。
レイは鼻で笑った。
笑い方はいつも通り荒い。口元だけで雑に笑い、挑発で返す。それなのに、奥で噛み合っていない熱がある。怒っているのか、苛立っているのか、それとも別の何かに触れられたのか。自分でもまだ決めきれていない顔だった。違和感は残っている。残っているのに、そこで退くのはもっと気に食わない。そういう若い意地だけが、彼の声をいつも通りの形へ押し戻している。
「ハッ、そこまで言うなら面白いこと言ってみろよ」
乱暴な返しだった。
しかし、雑に見えて雑ではない。完全な余裕から出た挑発ではなく、触れられたくないところへ触れられた人間がとりあえず噛みつき返す時の声である。弱みを見せたくない、見透かされたくない、けれど無視もできない。その全部が混ざった、まだ若い怒りの形だった。
ハディートの指先が杖の柄へわずかに食い込む。
止めるべきだと分かっているのだろう。だが、レイの口をここで塞げば、それ自体が答えになる。無理に遮れば遮るほど、ウェイトの言葉だけが輪郭を持ってしまう。その計算ができるからこそ、彼は動けない。動けないまま、ただサリエルの白だけが薄く震えている。
ウェイトは、まるで待っていたみたいに目を細めた。
壊れた街も、煙も、血の匂いも、その瞬間だけ彼の背後へ遠のく。自分が中心に立てる場面を、ようやく与えられた人間の顔だった。
「いいよ」
短い返事だった。
その一言だけで空気が少し変わる。さっきまで通りを流れていた遠い悲鳴まで一段だけ薄くなる。和光の時計台の針の音が、やけに近く聞こえそうな静けさが降りる。
ウェイトはレイを見る。
どこを刺せば深く入るか、もう知っている目で見る。紫の底が鈍く光り、その色だけが煙の中でも妙に冷たい。
「レイ」
名を呼ぶ声だけがやけに優しい。
親しみのある呼び方ではない。名という形を借りて、相手の輪郭そのものへ触れにいく時の異様に丁寧な優しさだった。
ハディートが一歩だけ前へ出る。
遅い。間に合わないと分かった上で、それでも身体だけが動いたみたいな一歩だった。サリエルの白がわずかに持ち上がる。切るためではなく、せめてその先を薄めるために。
ウェイトは笑う。
その一歩も、その白も、全部知っていたみたいに。
「君が死んだ理由は――」
そこで一拍、わざと間を置く。
夜が妙に静かになる。煙はなお低く、焦げた匂いも鉄の匂いも消えていないのに、その一文の続きを待つためだけに周囲の現実が薄く後ろへ退く。
「――ハディートが殺したからだ」
言葉は驚くほど平坦に落ちた。
告発の熱もない。怒りもない。糾弾したいわけですらない。事実を卓上へ置くみたいな声だった。その平坦さだけが逆に悪質で、否定の余地も感情で弾く余地も奪っていく。
レイの顔から笑いが落ちる。
一瞬で消えたというより、支えを失って剥がれた感じだった。呼吸が止まるほどではない。目を見開くほどでもない。しかし、何かが確かに噛み合わなくなる。さっきまで戦いの熱へ綺麗に接続されていた身体と感情が、その一言だけでずれる。
ハディートは何も言わない。
何も言わないまま立っている。その沈黙が肯定に見えるのか、否定に見えるのか、それは見る側によって変わる。だが少なくとも、必要な速さで打ち消すことはしなかった。できなかったのかしなかったのか、その区別だけが残酷に曖昧だった。
ウェイトはその曖昧ささえ見逃さない。
壊れたものへ触れる時と同じ丁寧さで、人の顔に浮いたヒビを見ている。さっきまで妾の傷を塞いでいた指先で今度は別の場所を静かに裂いたのだと、自分でよく分かっている顔だった。
――ハディートが殺したからだ。
レイの中でその語順のまま、まだ頭の中から消えずにいた。
噛み砕く前の破片みたいに喉にも胃にも落ちず、内側のどこかに硬く引っかかったままだった。
ウェイトは、その顔を見てやっと満足そうに笑った。
まるで最初から壊したかったのは構造物ではなく、その表情の方だったみたいに。
遠くでまた一つ時計の針が鳴った。




