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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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67.届かない一撃

 最初に動いたのはレイだった。

 問答も間合いも確認も要らぬとでも言うように、喉の奥で低く唸る。

 それは人の声ではなく、まだ完全には姿を明かしていない龍の気配だけを先に押し出した音であった。

 空気が震える。次の瞬間、青白い雷が煙の層を裂いて走った。夜を直線に切り分けるような、短く、速く、研がれた雷撃である。


 狙いはウェイトの胸元。

 ためらいも遊びもない、殺すためだけに撃たれた稲妻だった。路面の血が一瞬だけ白く照り、割れた硝子の破片まで遅れて青を返す。レイはもう次の動きへ入っている。あれが当たろうが外れようが、その後を継ぐための身体になっていた。


 けれどウェイトは避けなかった。

 紫水晶みたいな目を細めただけで、まるで飛んでくる雷そのものへ話しかけるような軽さで妾へ向けて言う。


「そのままはじき返して」


 願いというにはあまりに短い。

 命令というには甘い。けれど、その一言で充分だった。

 ルビーが一度脈を打つ。刹那、雷はウェイトへ届く直前で折れた。折れた、というより進行の向きだけを静かに奪われた。青白い線が空中で弧を描き、来た道をなぞるより速く、今度はハディートとレイの方へ返る。


 ハディートが横へ退く。

 サリエルの白い輪郭が彼の動きへ半拍遅れて重なった。レイもまた、ほとんど反射で低く身を沈める。返ってきた雷は二人の間の空気を焼き、背後の瓦礫へ突き刺さった。石片が弾け、焦げた粉塵が煙へ混じる。間一髪というほどでもない。避けられると知っている者の動きであった。


 しかし、レイはむしろ口元を緩めた。

 怒りはある。殺意もある。けれどそれだけではない。血の匂いと正面から返ってきた威圧とこちらの想定を少しだけ上回る返しを前にして、獣めいた昂りがそのまま愉快さへ繋がっている。


「意外とやるじゃん」


 軽い言い方だった。

 その目は全く笑っていないのに、声だけがわずかに弾んでいる。殺意と高揚が同じ温度で混ざる顔をしていた。肩から首筋へかけて浮いていた半龍の輪郭が、そこでさらに濃くなる。


 ウェイトはそれを見て嬉しそうに笑う。


「いいね。そういう顔をしてくれると助かる」


 助かる、とは何に対してなのか。

 戦いの見栄えか、構造の完成度か、あるいはただ自らの愉悦か。いずれにせよ、彼はまるで舞台の中央へ役者が揃ったことを確認する演出家みたいな顔で立っている。


 ハディートは一言も返さなかった。

 ただ杖を持つ手の角度だけを微かに変え、半歩レイの前へ出る。サリエルはなお背後で白く冷たく、命令を待つ刃として静止している。沈黙のまま場を読む、その読みの速さだけで彼がレイより先にこちらの厄介さを測っていることが分かった。


 そこで妾は、初めて杖を取った。


 取る、というより宙へ手を入れた。

 何もないはずの空間が、指の先に触れた瞬間だけ薄く裂ける。夜の層を一枚剝がしたその奥から、長い杖を引き抜く。黒檀めいた軸。先端へ絡みつく暗い金属。その中心には、妾のルビーと同じく、血ではない赤を抱いた核が沈んでいた。ウェイトの杖とよく似ている。似ているが、同じではない。こちらの方が静かで、冷たく、願いを通すためだけに磨かれている。


 レイの目が一瞬だけそこへ止まる。

 警戒より先に直感が反応した顔である。似ていると感じたのだろう。誰にとは問うまでもない。


 妾は杖を持ち上げる。

 呪文はいらぬ。願いの器には、願いの形を取るための最低限だけがあればよい。レイとハディートを見て、その間にある守りの薄さを測る。雷のような直線ではなく、もっと遅くもっと避けづらいものが相応しい。


 影が路面から立ち上がった。

 血の溜まった舗道、瓦礫の隙間、煙の下へ伸びた街灯の黒、その全てが一斉に細く持ち上がる。針のように、槍のように。白い光はなく、ただ深い闇だけがレイの脚元と脇腹と肩の線を狙って噴き上がる。


 ハディートが前へ出た。

 庇うのは速い。サリエルも同時に動き、闇の針の半分を横から裂く。

 だが、裂いたのは全部ではない。影の杭の一本がハディートの外套を貫き、さらにその向こうでレイの脇腹を浅く掠めた。もう一本が肩口を裂き、布と肉のあいだへ黒い筋を残す。血が遅れて滲み、その赤が龍の硬さを帯びた皮膚の上で鈍く広がる。


「っ……!」


 レイは短く息を詰めた。

 後退の勢いを殺しきれず、靴底が瓦礫を滑る。けれど倒れはしなかった。痛みより先に身体が次の位置を選ぶ。肩を低くし片手で傷を押さえもせず、ただ目だけをさらに細くしてこちらを見る。そこには怒りがあり、興奮があり、そして傷を受けたことで逆に火がついた種類の集中があった。


「……面倒だな」


 言葉ほど嫌そうではない。むしろ愉しみが深くなった時の顔だった。喉の奥で再び、龍の低い唸りが鳴る。


 ハディートはレイの前に立ったまま、横目だけでその傷を確認する。

 完全には守りきれなかった、と理解している顔だった。悔いはある。だが、次の手へ移る速さの方が先にある。サリエルは白く揺れ、その刃先を再びウェイトへ向けている。


「下がるなよ」


 短くハディートが言う。命令というより確認である。


「下がるかよ」


 レイは即座に返す。

 口の端に血が滲んでいるのに、その声音だけは妙に軽い。


「やるなら最期までやる」


 ウェイトはその一部始終を満足そうに眺めていた。

 返された雷。庇いきれなかった守り。初撃で崩れぬ対の構造。どれもが彼にとっては望ましい誤差なのであろう。紫水晶みたいな目の奥で愉悦が深く沈み、口元だけが柔らかく笑う。


「そう、それでいい」


 誰へ向けたとも知れぬ言葉が煙の中へ落ちる。

 戦いはようやく始まったばかりであった。

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