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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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66.構造の対立

 人の願いはなお尽きない。

 銀座の夜は壊れたまま整っている。瓦礫は路肩へ積もり、炎は低くくすぶり、煙は街灯の輪郭だけを曇らせて舗道に落ちた血ばかりを妙に正確に照らしていた。悲鳴は絶えず上がる。けれど広い通りへ散ってしまうせいで、他人の夢の中で鳴っているようにも聞こえる。


 妾は願いを受け、願いを返し、代償を取る。

 ある男は会社を守れと縋り、その代わり帰るべき家の記憶を失った。ある女は傷ついた貌を戻せと泣き、その代わり二度と声を持たぬ喉となった。ある老人は孫だけは助けてくれと膝を折り、その代わりその孫の顔を永遠に視ることのできぬ眼となった。いずれも正しく、いずれもつまらぬ。欲するものと失うべきものとが、あまりに素直に釣り合いすぎている。


 妾にとっては退屈であった。

 けれど、ウェイトは違う。彼はその一つ一つを実に満足そうに見ていた。願いが言葉となり、秤へ落ち、代償が過不足なく噛み合って現実へ出力される、その機構の成立そのものを愛している。故に妾はつまらぬと思いながらも、それを口にはしない。彼が満たされているならそれで良いという割り切りが、もう妾の内に組み込まれている。


 和光を離れた通りで、煙の層が奇妙に揺れた。

 次の瞬間には、そこへ別の気配が在った。歩み寄ったのではない。既にそこにいたものが、ようやく輪郭を許されたとでも言うべき現れ方であった。白い外套は血と煤の夜景の中でかえって冷たく浮き、片眼には銀の鎖を垂らしたモノクルが鈍く光っている。手には長い杖があった。黒でも白でも言い切れぬ色をした軸の先端に金属の意匠が静かに絡みつき、そのまま地へ触れれば街の均衡ごと測り直しそうな、硬質で細い威圧だけを湛えている。沈んだ殺意。妾の背後で、ウェイトがわずかに目を細める。



 ――ハディート。



 彼は一人ではなかった。

 背後、左肩のやや高い位置に、白く冷たい気配が一体だけ従っている。人に似ている。されど人であるには静かすぎ、光であるには冷たすぎる。翼は在るようにも、ただ空気の層が幾重にもめくれているだけのようにも見え、その貌は慈悲より先に観測と処断の相を帯びていた。煙の中へ立つその名は、呼ばれる前から夜気に沈んでいる。



 ――サリエル。



 救済のための天使ではない。

 知るべきでないものを知り、それゆえになお天へ属しながら落下の気配を持ち続ける者。月光を刃へ削ったみたいな白で、ハディートの後ろに在る。それは斬るためだけのものではなく、見える順序そのものへ触れるための白だった。召喚されたまま命令を待つ形で少しも揺らがない。


 ウェイトは笑った。



「やぁ。はじめまして、かな?」



 言い終えるより早く、サリエルが動いた。

 祈りの所作すら取らず、ただ一条の白い線になって距離を潰す。狙いは首元。聖性を削って作った刃のような軌道で、真っ直ぐにウェイトの喉笛だけを裂きに来る。


 ウェイトは避けた。

 避けたが、完全ではない。サリエルの一閃が長い黒髪を裂き、切られた房が夜気へ舞う。血へ落ちる前に、煙の間で黒がひとたびほどける。その刹那、振り向いた横顔とともに彼の目の色が鈍く光った。紫水晶を削ってそのまま嵌めたような、硬質で冷たく底だけがどこまでも深い紫。笑っている口元とは別の場所で、別の知性が光っていた。


「酷いなぁ」


 軽口である。声は少しも乱れていない。切られた髪を惜しむでもなく、殺意を向けられたことに驚くでもなく、予定された余興がようやく始まったとでもいうような調子であった。


 ハディートは動かない。

 サリエルをなお従えたまま、視線だけをウェイトへ固定している。その瞳には感情がある。怒りと警戒とほんのわずかな焦りが、互いに混ざりきらぬまま鋭く研がれていた。


「お前がセラフか」


 低い問いだった。

 確認というより、答えがどうであれ殺すための入口に近い。


 ウェイトは相変わらず笑っている。


「あぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これからはウェイトって呼んでほしいな」


 その言い方には余裕があった。まるで、どの名で呼ばれようと本質には少しも触れられていないと知っている者の返しである。


 サリエルの光が、ハディートの肩越しでわずかに揺れる。

 次の命令で再び喉を裂ける距離を保ったまま、微動だにしない。その静けさが却って殺意を濃くしていた。


 ウェイトはその光景を見て、むしろ愉快そうに目を細めた。


「君はハディート……いや、かの天賦の魔術師――()()()()()()()()()()()()。逢えて光栄だよ」


 空気の流れがそこで変わる。

 真名を破られたのだと知れるからである。ハディートの肩がほんの一瞬だけ止まる。顔色は変わらない。構えも崩さない。だが、その一拍の静止だけで焦りは充分に露わであった。サリエルの輪郭がほんのわずかに鋭く鳴ったのも、その動揺の伝播であろう。


 ウェイトはそれすら楽しんでいた。


「おや、そんな顔をするんだね。もっと平然としていると思っていた」


 その声音には、相手を侮る浅さはない。

 ただ、自分が先に一枚奥を見ていることを隠す必要がない者の余裕だけがあった。


 ハディートは黙したまま、わずかに顎を引く。

 真名を破られてなお態勢を崩さない。その一点で彼がただの術者でないことは分かる。されど、ウェイトはその強ささえもまた観測対象として愉しんでいた。



「あぁ、まだ足りないね……。構造物には、同じく()()()をぶつけないと面白みがない」



 何でもないようにそう言った。

 しかし、すぐにハディートの目が変わる。理解が速い。誰のことを言っているのか、説明されるより先に察したらしい。殺意の密度が一段深くなり、サリエルの光までわずかに冷える。


「やめろ」


 初めて声が荒れた。

 それは警告であり、ほとんど祈りに近い拒絶でもあった。


 ウェイトは、その拒絶さえ嬉しそうに受け取る。


「そんな顔をしないでよ。せっかくなんだから、綺麗に対になるものを並べて見たいじゃないか」


 そして、妾へ視線を向けた。

 頼みというには疑いなく、命令というには甘い声音で。


Babylon(バビロン)、呼んでもらえる?」


 妾は右手を上げる。

 中指のルビーが、煙の中で赤を沈める。指先を鳴らす。乾いた音が、瓦礫と悲鳴のあいだへ妙に鮮明に立った。

 刹那、空間の一角がずれた。裂けるのではない。ただ、そこにあるはずの距離だけが抜け落ち、別の場所の夜が薄く覗く。




 ――そこには、レイが立っていた。



「はいおまち! 酸辣湯麺(サンラータンメン)ねー!」



 元気な声が場違いなほど明るく落ちる。

 それはつい先ほどまで別の場所に、別の時間が流れていたことを証明する声であった。


 手には酸辣湯麺の器。

 蓋の隙間から湯気がまだ上がっている。店の灯りの残滓をまとったまま、銀座の血と煙の中へいきなり立たされたのだと、その数拍の硬直だけで知れる。目の前の惨状、瓦礫、魍骸の残骸、妾の黒翼、ウェイト、ハディート――その全部を、彼は一瞬で見た。


 表情が変わる。明るさは消え、肩が一段落ちる。器が彼の手の中で傾いた。

 熱い酸辣湯麺が路面へこぼれた。

 赤い油と湯気が血と煙の上へ広がる。レイは一瞬だけそれを見て、食材に悪いことをしたという顔をほんのわずかにした。


 彼は反射的に後退し、そのまま滑るようにハディートの横へ入る。

 血の匂いを嗅ぎ取った途端、その輪郭がわずかに揺れた。肩口から首筋にかけて人の線ではない硬さが差し込み、瞳の光が獣じみて沈む。半人半龍の状態に一瞬で成った。


 守る位置へ入った時には、もう臨戦の角度で肩が落ちている。

 視線は鋭く細まり、指先までが今すぐ何かを壊すための形へ変わっていた。


「どういう状況?」


 問う声は短い。

 混乱はある。されど怯えはない。把握しきれぬままでも、立つべき位置だけは先に決める者の声である。

 ハディートは視線を前から外さぬまま、低く答えた。


「――生きるか死ぬかだ」


 それだけで充分であった。

 レイはそれ以上問わない。湯気の立つ酸辣湯麺は路面で血と混ざり、食べ物としての形を失いつつある。けれど彼はもう振り返らない。ハディートの横に立ち、煙の向こうのウェイトと妾を見据える。その眼には、理解より先に選択だけがあった。


 ウェイトは全てが正しい位置へ揃ったことを深く喜んでいた。構造と構造が、ようやく向かい合ったのである。

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