64.顕現せし魔術師
ウェイトは杖を持ち直すと、周囲を一度だけ見渡した。客の悲鳴はまだ止まず、倒れた椅子の脚が白い床を引っ掻き、割れた皿の上を誰かの靴が滑る音がする。店の奥ではまだ何かが崩れており、厨房の方からは血の匂いが絶えず流れ込んでくる。さっきまで料理を食べていた場所と同じ空間だとは思えなかった。
「行こう」
言うより早く彼は私の手を取った。
逃げる、というより最初から逃げ道が見えていたみたいな足取りだった。返り血で濡れているはずなのに掴み方だけは妙に正確で、強引というほどではなく逃がさないために必要な分だけの力で絡んでくる。その横顔を見て思ったよりずっとかっこいいという感想が一瞬だけ浮かんだが、そこへ浸るには周囲の悲鳴が鋭すぎた。
店を出ると、外気は冷たいはずなのに妙に生温かった。ショーウィンドウの灯りは綺麗なままなのに、通りには人の叫びと靴音が散っていた。倒れたまま立ち上がれない者もいる。遠くで助けを呼ぶ声が重なり、別の方向では高いヒールが石を打つ音がひっきりなしに鳴る。店の中だけではなかったのだと、その時ようやく理解した。
――魍骸が通りのあちこちに現れていた。
スーツ姿の男が歩きながら不自然に肩を吊り上げ、そのまま腕の長さだけが先に増えていく。女の悲鳴が上がり、誰かがその場から逃げる。別の角では、しゃがみこんでいた人影が立ち上がる途中で背骨の位置を失い、ぐにゃりと捩れた。こんなに明るい場所で起きることではないのに、明るさは何も止めてくれなかった。
「こっちだ」
ウェイトが私の手を引く。
通りを横切るというより、魍骸の少ない場所だけを選んで縫っていくような走り方だった。彼は一度も立ち止まらない。不思議なことにどこに何がいるかを目で確かめて避けるのではなく、初めからその配置を知っているみたいに動いていた。私はローブの裾を踏まないことだけで精一杯なのに、彼の背中は少しも迷っていなかった。
銀座和光の中へ飛び込む。
自動ドアの向こうは外よりまだ整っているはずだった。磨かれた床、静かな照明、宝飾や時計の冷たい光。
けれどそこも、既に安全な場所ではなかった。上階へ逃げようとする人波が入口の近くで詰まり、その中央で一人の男が喉元を押さえてうずくまっている。苦しそうに見えたのは最初だけで、次の瞬間には指の関節から形が崩れ、床へ落ちた影の方が先に人ではなくなった。
私は息を呑む。
男の背が持ち上がる。皮膚の下で何かが押し広がるみたいに肩の位置が変わり、首が一度ありえない角度で鳴る。周囲にいた女が悲鳴を上げ、店員が逃げろと叫ぶ。その声さえすぐに人の声ではなくなりそうで、私は足の裏の感覚をなくしかけた。
「上へ」
ウェイトの声だけが静かだった。
彼は私の手を放さないまま、エスカレーターではなく階段の方へ向かう。高級時計のショーケースが並ぶ脇を駆け抜ける。ケースの中で金属が無傷の顔をして光っているのが、今は気味が悪い。階段の途中でも、下から断続的に悲鳴が上がる。人の叫びは階を上がるたび薄くなるのに、完全には消えない。それが却って生々しかった。
屋上へ出ると、夜気が一気に頬へぶつかり肺の中に溜まっていた店内の匂いを押し出していく。時計台のある屋上は思ったより広く、けれど逃げ場としてはあまりに高かった。街の灯りが一面に広がっている。どのビルもいつも通り綺麗でどの窓も普通の夜景みたいに光っているのに、その下ではきっともう普通ではないものが増えている。
ウェイトはようやく足を止めた。
私の手を握ったまま、少しだけ呼吸を整える。その横顔にはさっきの戦闘の静けさがまだ残っていて、返り血が乾ききらないまま頬から首筋へ線を引いていた。私はそこで初めて、自分まで息を切らしていたことに気づく。
「せっかく君にまたこの現実で会えたのに、こんなことになってしまうとは」
風の中で、その言葉だけが妙に近く聞こえた。
また。そこにだけ薄く引っかかる。私は一瞬だけ彼を見る。夢の中で会ったことは何度もある。夜の底みたいな場所で、現実の輪郭を半分失ったまま話したことがある。その記憶と、今こうして同じ風を受けている事実がうまく噛み合わない。けれど違和感はすぐに流れていく。この状況では、夢で会った感触と混ざったのだろうと考えるしかなかった。
「……夢でも散々だったから」
自分で言ってから、その返しがあまりにも弱いことに気づく。
ウェイトは否定も訂正もせず、ただ少しだけ目を細めた。その顔が、知っているようにも知らないふりをしているようにも見えて嫌だった。
その時、彼の視線が私の右手へ落ちる。
私もつられて見る。返り血がついていた。袖口だけではなく指先から手首にかけても赤黒い飛沫が散っていて、いつ付いたのか分からない。逃げる時か、店を出る時か、それとも彼のすぐそばにいたせいかもしれない。白い肌の上に乗ると、血は妙に冷たく見えた。
「ごめんね」
ウェイトが私の右手を取った。
彼の手の方がよほど血だらけだった。魍骸の返り血が乾きかけて指の節へ黒く残り、掌のしわにまで入り込んでいる。それでも彼は、その汚れた手で私の手首を傷つけないように支える。指先が触れた場所だけさっきまでとは違う熱があった。
「僕のせいで朱音を穢してしまった」
謝る声は低く、軽くなかった。
私は何と言っていいか分からず、ただ手を見ている。右手の中指にはルビーの指輪が嵌っていた。屋上の風と街の灯りの中で見ると、その赤は血とは違う硬さで沈んでいて宝石というより何かの印みたいだった。飛沫が石の脇へ細く付いているせいで、なおさらそう見える。ウェイトの親指がそこへ一瞬だけ触れる。確認するみたいに、あるいは忘れないように撫でるみたいに、ほんの短く。
「……それ」
私が言いかけると、ウェイトは指輪から指を離した。
けれど視線だけはまだそこへ残っている。見慣れているものを見る目にも、初めて見つけたものを見る目にも見えた。
「よく似合っているよ」
それが指輪に対してなのか、私に対してなのか分からない。
分からないまま、私は屋上の柵の向こうへ視線を逃がした。時計台の針は夜の上で静かに進んでいる。街のどこかではまだ誰かが叫んでいて、ここまで上がってきてもその音は風に削られながら届いた。
屋上は安全を装っているようで、守られている感じが全くしなかった。逃げ場が上へ尽きたあとに残る最後の平面みたいだった。柵の向こうには灯りの海が広がっているのに、そこへ跳べば助かる気はしない。下で起きていることはもう、この一角だけを外して進んでくれる種類のものではなかった。
ウェイトは私の右手を離し、杖を持ち直した。黒檀の長い軸。先端に絡むねじれた金属と、その中心で静かに脈を打つ水晶。レストランを出てからずっと彼の手の中にあったはずなのに、その異物感だけは少しも薄れていない。屋上の灯りを受けて、水晶の奥に淡い白が沈んでいる。
「ここにいて」
柔らかい声だった。命令の形をしていないのに、従わせる言い方だった。私は頷くでもなく呼吸をひとつ飲み込む。風がローブの裾を持ち上げ、深紅の裏地を覗かせる。背中へ回った冷気が、さっきまでの血の匂いと混ざって酷く気持ち悪い。
屋上へ続く扉の向こうで、何かがぶつかる音がした。一度ではない。鈍く重く湿った音が続く。下の階で聞いたものと同じ種類の音だと分かる。誰かが逃げ遅れているのか、それとももう人ではないものが上を目指しているのか、考えるより先に身体の方が強張った。
ウェイトは振り返らない。ただ扉の方を見ている。その見方が妙に静かで怖かった。驚いている顔ではない。けれど待っていた顔、と言い切るほどの確信も持てない。ただ私だけが遅れていて、彼はもう少し先の輪郭を見ているように思えた。
もう一度、扉が鳴る。今度は一回では済まず、続けざまに何かがぶつかる。湿った音が混じる。私は時計台の壁へ少しだけ寄った。逃げ場が狭くなるだけなのに、硬いものへ背をつけたくなる。
扉の下の隙間から黒いものが滲んだ。影ではない。液体でもない。どちらにも見える粘りがゆっくり床へ伸びてくる。次いで、鉄の匂いがまた濃くなる。喉の奥が勝手に縮んだ。
「……まだ来るの」
「来るよ」
短い返答だった。
扉が内側へ歪む。次の一撃で片側が破れるように開いた。暗い階段室の奥から先に匂いが出てくる。血と、胃液と、濡れた布と、熱を持った鉄の匂い。それから遅れて形が現れた。
一体ではなかった。前に見たものより少し小さいのが二体、その後ろに、背をかがめなければ通れない大きさのものが一体。どれも人の名残を残したまま、その名残の方を踏み潰すみたいに壊れている。一つは肩から先が左右で違いすぎて、片腕だけが長く床へ爪を引きずっていた。もう一つは口元の裂け目が耳近くまで伸び、そこから濡れたものが垂れている。後ろの大きい個体は顔の中央が陥没していて、目の位置だけが不自然に高い。
私は息を浅くした。屋上の風があるのに、空気は急に重くなる。魍骸たちはすぐには飛びかかってこなかった。餌を前にした獣みたいに、間合いを測るように揺れている。視線のようなものだけが真っ直ぐこちらへ向いていて、その先が私なのかウェイトなのか分からないのが余計に嫌だった。
ウェイトが一歩だけ前へ出る。屋上の床へ杖の石突きが触れ、乾いた音が落ちる。三体の魍骸が、その音に反応するみたいに同時に身を引き絞った。
「下がって」
今度は低かった。私は言われた通りに動く。けれど柵も時計台も近すぎて、下がるというより位置を変えるだけにしかならない。ローブの裾が足首へ絡み、深紅の裏地が風に揺れる。右手中指のルビーが、夜景を小さく返した。
魍骸が動いた。左右の二体が先に来る。人の足ではないのに、人の速さだけを正確に真似てくる。ウェイトの杖が上がり、水晶の奥で淡い白が脈を打つ。次の瞬間、白と闇が細く重なり、そのまま一閃になる。左の一体の首から肩にかけて線が走り、遅れて上半身だけがずれた。血はすぐには出ず、断面だけが一拍遅れて黒く沈む。
右の一体が、その隙間へ飛び込む。ウェイトは半身だけずらして避ける。爪がコートの裾を裂き、黒い布片が夜気へ散る。私は息を呑む。助かったと思うより先に、その動きがあまりに綺麗で、まだ余裕があるようにも見えてしまった。
後ろの大きい個体が遅れて踏み込む。遅いのに、間に合ってしまう大きさだった。腕が持ち上がる。長い。街灯の光を掠め、爪の先だけが白く濡れる。ウェイトが応じるように前へ出て杖を返す。その動きは速かった。けれど間を置かず、魍骸の爪が彼の脇腹を裂いたように見えた。
黒いコートが開き、朱が飛ぶ。私は喉の奥で小さく息を殺す。彼の身体がわずかに傾く。初めて、ほんの一瞬だけ、隙ができたように見えた。
「ウェイト――!」
呼んだ時には遅かった。大きい個体のもう一方の腕がこちらへ伸びる。避けようとした。けれどローブの裾が絡み、足場が半拍遅れる。時計台の縁が背中側へ迫るのが見えた。その刹那、横から何か大きなものに薙がれる。衝撃は刃より先に来た。熱いというより重い。脇腹の内側がまとめて持っていかれるような圧力があって、遅れて痛みが追いつく。
柵を掴もうとして、指先が空を切る。
足場はもうなかった。身体は時計台の縁を越え、夜の側へ半ば投げ出されている。風が下から吹き上がり、ローブの裾を大きくはためかせた。右手の中指でルビーだけが冷たく光る。落ちる、と理解した瞬間、銀座の灯りが視界の下で縦に流れた。
その直前まで、ウェイトは数歩向こうにいたはずだった。
魍骸に裂かれ返り血と一緒に自分の血まで滲ませていたはずの身体が、もう目の前にある。どうやって間に合ったのか分からない。走ったのではない。飛び込んだのとも違う。ただ、そこにあったはずの距離だけが、夜の中で黙って抜け落ちたみたいだった。
血のついた手が、落ちながら伸びた私の右手を掴む。
強く、けれど砕かない力で指が絡み、中指のルビーへ人差し指が一瞬だけ触れる。確かめるみたいに、そこへ至るまでの全部が最初から決まっていたとでも言うみたいに。私は宙にぶら下がったまま、呼吸だけを乱して彼を見る。
ウェイトは傷を負ったはずの脇腹を少しも庇わないまま、静かな顔で私を見下ろしていた。
その目には焦りも安堵もない。ただ、遅れかけていた歯車がようやく正しい位置へ噛み合った瞬間を見る者の落ち着きだけがある。助けに来た者の顔ではなかった。祝福とも、判決ともつかない静けさだった。
「この時を待っていたよ。君の名は――Babylon」




