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Bar Ashveil 〜脚本の魔術師が夜を紡ぐ場所〜  作者: 南郷 兼史


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63.晩餐に現れしもの

この先かなりグロテスクな展開が続きます。倫理なんてありません。

 横断歩道を渡りきる頃には昼の色はもう街の表面から剥がれはじめていて、硝子の反射は白ではなく鈍い青に沈み、ビルの谷間には仕事終わりの匂いが溜まり始めていた。急ぎ足の革靴、低い声の通話、タクシーのドアが閉まる音。さっきまで銀座の午後だと思っていたものが、気づけばもう別の時間帯の顔をしている。


「そろそろディナーでも食べようか」


 あまりに自然に言うので、私は反射的に腕時計へ視線を落とした。まだそんな時間ではないはずだと思ったのに、文字盤の針は()()()()を指している。十三時から十七時へ飛んだばかりなのに、今度は十八時半。余計に気味が悪かった。


「……また進んでる」


 問い詰めても、ウェイトは少し笑うだけで、答えになりそうなものは返してくれない。時間のことなど気にしてはいけない、誰かが願ったからだよ、と柔らかく言われる。その声音は冗談にも本気にも寄りきらず、ただそれ以上そこへ突っ込むなとでも言うみたいに静かだった。


 いい店がある、と彼は続けた。黒い袋を提げた手を軽く持ち上げる。私の服が入っているその袋を、彼は最初から自分のものみたいに持っている。返せと言うほどでもないまま、私は彼の横へ歩幅を戻した。表通りへ出ると、ショーウィンドウの照明は強くなり、濡れていないはずのアスファルトが妙に光る。風の匂いも昼より少し冷たく、私はローブの前を無意識に押さえた。深紅の布は歩くたびに足元で重く揺れて、服というより役割を纏っている感じがまだ消えない。


「……絶対その店お高い店だよね?」

「高い方だね」


 やっぱり、と思う。銀座でいい店と言われた時点で覚悟はしていたが、改めて言われると胃のあたりが少し重くなる。私はそういう店に行ったことがない。入る前に何をするのか、椅子はどう座るのか、グラスはどう触るのか、そういう断片だけを急に意識してしまう。分からないことはその場に近づくほど数が増える。


「全然所作知らないけど……」


 そう口をこぼすと、ウェイトは知っていると言った上で、それでも連れていくのだと当然みたいに返した。


 辿り着いた店は、外から見ただけで私には場違いだと分かる種類の場所だった。通りから少し引いた位置に入口があり、硝子の向こうには柔らかい灯りがあって、白や金や濃い木目が余計な音を立てずにそこへ収まっている。派手ではないのに、安いものが混ざっていないと分かる感じがある。店先で立ち止まっただけで、自分の靴音が急に大きく思えた。


 入口の前で軽く髪を直そうとして、私はふと手を止めた。ローブの袖口に指先が引っかかる。鏡もない。直すべきなのは髪なのか顔なのか姿勢なのか、それともそういう不安そのものなのか分からなくなる。全部気にしていると言う私に、ウェイトはそんなに気にしなくていい、僕だけ見ていればいいと簡単に言った。その言い方は雑というより、最初からそれで足りると本気で思っている声音だった。


「笑わないでよ」

「笑わないよ。君が困る顔、わりと好きだけど」


 それが慰めになっていないことを、彼は分かって言っている。それでも背へ手を添え、そのまま店の中へ通していく。押すほどでもなく、ただ入る方向を示すだけの軽い触れ方だった。


*


 外の排気も喧騒も一枚向こうへ押しやられ、代わりに磨かれたグラスの匂いと、バターを熱へ落としたようなかすかな香りがある。灯りは低く、客たちの声はみな小さい。静かすぎるわけではないのに、余分な音だけ綺麗に削られている感じがした。私は一歩ごとに、これで合っているのかを確かめたくなる。けれど確かめる相手は隣にいて、その隣の男は最初からこういう場所に属しているみたいな顔で歩いていく。腹立たしいくらい馴染んでいた。


 席に案内される。テーブルクロスの白さが目に痛い。カトラリーは余分な光を立てず整列していて、グラスの脚は細すぎるくらい細い。私は一瞬立ち位置を見失いそうになったが、ウェイトが椅子に手をかけるのを見て半拍遅れて同じように動いた。ローブの裾を巻き込まないように気をつけて座る、それだけで少し肩が強張る。メニューが手元へ置かれても、見てもよく分からない。料理名より先にコースという言葉の並び方に緊張して、私はすぐに閉じた。


「何を選べば……」

「そうだろうと思った」


 ウェイトはごく自然に店員へ顔を向ける。その横顔が、こういう場所の灯りに妙に似合うのが腹立たしかった。言葉の端まで滑らかで、選ぶことにも慣れている響きがある。私は聞き取れる範囲で聞いているふりをしながら、実際には半分も頭へ入っていなかった。飲めるかとだけ問われ少しならと答えると、赤が選ばれた。勝手だと思う。けれど、その勝手さをいちいち止めるより先に話が整ってしまう。


 グラスが置かれ、深い赤が静かに注がれる。照明の下で見ると黒に近いのに、縁だけが薄く透けている。飲み物なのに、血でも、夜でも、どちらでもないものがそこへ入っているみたいだった。私はその色を見ているだけで少し緊張する。するとウェイトが、真似して飲めばいいと小声で言う。


「と、とりあえず見てればいい?」

「最初はそれで十分」


 私は黙って彼の手元を見る。グラスの持ち方、手首の角度、顔を近づける速度、そのどれもが静かすぎて、見ているとこっちまで呼吸を整えたくなる。うまくできているのか分からないまま、私はその動きをなぞった。そうするしかないと思った。


 赤ワインの匂いが先に来る。乾いた果実と、木と、少しだけ鉄に似たもの。口に含むと、思ったより冷たくはなく、静かに広がって、それから遅れて舌の奥に重みを残した。飲み込んだ後、胸の内側に細い熱が落ちる。高い店の味が分かるわけではない。ただ、隣を見るとウェイトがこちらを見ていた。満足そうでもあり、面白がっているようでもある。そのどちらも混ざった顔だった。


「……美味しい」


 そう言うと、ウェイトは小さく笑った。私は少しだけ息を吐き、指先で細い脚を持ったまま、白いクロスの上に落ちる深紅の影を見た。昼のはずだった時間はもう完全に過ぎていて、硝子の向こうの銀座は、いつの間にか暗くなっていた。



 赤ワインの熱がまだ喉の奥に薄く残っているうちに、小さな皿が運ばれてきた。

 白い磁器の中央に、あまりに少ない量だけが整えられている。飾りなのか料理なのか、一瞬では判別がつかない。ソースは絵の具みたいに細く引かれ、葉は葉であることをやめたみたいに艶を持ち、一口で終わる量のくせに、そこへ至るまでに何人も手を入れている気配だけが濃かった。


 ウェイトは自然に手を伸ばし、迷いなく口へ運ぶ。私はその動きを見てから同じようにした。味はしたはずだった。塩気も温度も香草の匂いもあった。けれど緊張が先に舌へ座っていて、何を食べたのかはほとんど残らない。胸の内側にあるのは、ちゃんとできているのか分からないまま一回目を通り過ぎたという感覚だけだった。


「そんなに固くならなくていい」


 そう言われても、固くなるなという方が無理だと思う。私は反射でなってないとだけ返し、視線を皿ではなくグラスの脚へ落とした。細い硝子の縁に店の灯りが引っかかって、赤が黒に近い色で沈んでいる。その向こうで、ウェイトの手つきだけがやけに静かだった。


 前菜が運ばれてきても事情は変わらなかった。皿はさっきより大きいのに、やはり余白の方が多い。魚介の淡い匂いと柑橘を削ったみたいな鋭い香りが立って、ナイフを入れると柔らかい音だけがした。食べる。()()()()()()()()()()()。だが、おそらくのまま終わる。こんなに高そうなものを口へ運んでいるのに、緊張で味の形を受け取る余裕がないことが少しだけもったいなかった。


 ウェイトはそんな私を面白がるでもなく、ワインを少しだけ口に含んでから低い声で別の話を始めた。店の空気に合わせて落とした声音なのに、その内容だけが妙に遠かった。


「魔術師に必要なのは力そのものじゃない。名前を持つことだ」


 私はぎこちなく顔を上げる。向かいに座る男は、こんな場所でこんな話をすることに少しも違和感を持っていない顔をしていた。


「名前ってそんなに大事なの?」

「術より先にそっちが要る。自分が何であるかを決めるものだからね。逆だと思っている者ほど壊れる」


 ナプキンの端を膝の上で少しだけ握り直す。グラスを置く位置も、カトラリーの戻し方も、彼は何でもない動作みたいに済ませる。その一つ一つが妙に滑らかで、話の内容まで正しい顔をし始めるのが腹立たしかった。


「魔術師はなろうとしてなるものじゃない。一旦死ぬんだよ。その時に、どうしても手放せなかった誰かの願いが残って、そこに名前が与えられる」

「……救いがないね」

「救いとして呼ばれることもある。呪いとして残ることもあるけど」


 彼はそこで少しだけ笑った。冗談を言う顔ではないのに言葉だけが妙に軽い。私は前菜の残りを口へ運びながら、返事らしい返事もできずに曖昧な相槌を打つしかなかった。こういう話を高級フレンチの席でする人間は普通いないと思う。けれど、普通ではない男が向かいに座っている事実の方が先にある。


「名前を忘れていることはよくあるの?」

「珍しいよ。そこは一番深く刻まれるからね。だから、名を知らないまま立っているものは、まだその手前にいるか、余程歪んでいるかのどちらかだ」


 その言い方が妙に嫌で、私はすぐに視線を皿へ落とした。嫌というより、触れたくないところへ先に触れられた感じに近い。ウェイトはそれ以上追わなかったが、追わないこと自体が余計に気になる。分からないまま食べて、分からないまま頷いて、そうしているうちに魚料理が運ばれてきた。白い身の輪郭の下に濃いソースが敷かれ、湯気の向こうにバターと焦がした骨の匂いがある。ここまで来ると緊張は慣れではなく疲労に近づいていて、私はようやく少しだけちゃんと味が分かるかもしれないと思った。


 ナイフを入れようとした、その瞬間だった。




 ――店の明かりが落ちた。


 まとめて息を止めたみたいに照明が消える。次の瞬間、誰かの短い悲鳴が上がり、グラスの触れ合う音が遅れて弾けた。店内は完全な闇ではなく、通りの灯りが窓から薄く差し込んでいる。それでもさっきまでの輪郭は一気に失われ、白いクロスも人の顔も、急に別の場所のものみたいに見えた。


「……何が起きているの?」

「動かないで」


 ウェイトの声だけが静かだった。静か、というより()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その静けさが、かえって他のざわめきを際立たせる。客の誰かが席を立ち、椅子が倒れる。奥の方で皿が割れた。停電にしては騒ぎが大きい。そう気づいた時にはもう遅かった。


 厨房の方から、何かが引きずられる音がした。


 湿った音だった。靴底ではない。肉か、布か、その両方かもしれないものが床を擦る音。次いで、鉄臭さが一気に店内へ流れ込んでくる。ワインの赤ではごまかせない、生の血の匂いだった。


 ――暗がりの奥から魍骸が現れる。


 人の形をもう半分くらい失っているのに、まだ人だった頃の寸法だけが残っている。肩が不自然に張り、腕は長く裂け、口元は何かを咀嚼したまま広がっていた。身体のあちこちに血がべったりと付着し、それが自分のものなのか、既に喰われた誰かのものなのか判別できない。白衣の切れ端みたいなものが爪に絡んでいて、厨房から出てきたことを最悪の形で証明していた。


 客席のどこかで悲鳴が重なる。誰かが出口へ走り、別の誰かがその場で腰を抜かす。店員の一人が名前のない声を上げて倒れた。魍骸はそちらへ顔を向ける。顔と呼んでいいのか分からない面の裂け目から、濡れた息が漏れた。


「朱音、下がってて」


 ウェイトが立ち上がる。椅子がほとんど音を立てないまま引かれ、彼だけがさっきまでのディナーの席から切り離される。けれど切り替わったというより、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 私は反射的に息を呑み、身体だけを半歩後ろへ引く。周囲は混乱しているのに、彼の輪郭だけが不自然なほどぶれない。


 その瞬間、彼の横の空間が裂けた。


 布でも紙でもないものが縦に割れ、暗い裂け目の奥から冷たい風が漏れ出す。ウェイトはそこへ右手を差し入れ、そのまま長い杖を引き抜いた。装飾のない黒檀の軸。先端にはねじれた金属が禍々しく絡みつき、中心には澄んだ水晶が浮かぶように埋め込まれている。星の意志を閉じ込めたようなそれは、ただ持っているだけで風景の方が歪みはじめる代物だった。


 さっきまでワインを持っていた手で、彼はその杖を魍骸へ向ける。所作に迷いはなく、むしろこちらが本来の姿だと言わんばかりに姿勢の芯だけが研ぎ澄まされる。店の残った灯りが水晶へ吸われ、淡い光がその奥でゆっくり脈を打った。


「Albus Nox Ruina《明冥断裂》――」


 低く発された名は、祈りというより判決に近かった。

 水晶の奥で白が灯る。だがそれは光というには冷たすぎて、輝きながら同時に周囲の色を殺していく。白は細く伸び、その輪郭に遅れて闇が絡みつく。互いを打ち消すはずの二つが反発することなく重なり、そのまま一本の裂線になって魍骸へ走った。


 斬ったという音はしなかった。

 あるべき境目が、そこだけ静かに失われたように見えた。


 魍骸の身体が中央からずれる。

 胸から腹にかけて、白く細い線が一度だけ走り、その直後に黒い亀裂が遅れて口を開いた。肉は爆ぜずまず沈黙のまま裂け、次いで支えを失った形だけがまとめて崩れる。肩が落ち、腕が捩れ、口元に残っていた咀嚼の動きごと断ち切られ、血が一拍遅れて噴き上がった。白いクロスへ飛んだ赤が、店の闇の中で妙に鮮やかに見える。


 遅れて骨が砕ける。

 硬いものがまとめて圧し折られる鈍い音が響き、魍骸はその場で膝から折れた。裂け目の奥は赤いはずなのに、光を奪われたみたいに一瞬だけ黒く見えた。そして、その黒の縁をなぞるように白が走り、残った肉のつながりまで丁寧に断ち切っていく。生きたまま解体されるというより、存在の噛み合わせそのものを外されたような壊れ方だった。


 悲鳴は一拍遅れで上がった。

 客席のあちこちで誰かが息を呑み、誰かが泣き声を漏らし、誰かはその場にしゃがみこんだ。けれどウェイトだけが動かない。返り血の飛んだ頬のまま杖の切っ先を下ろさず、水晶の奥でまだ脈打つ白とその周囲へ沈殿する闇を静かに見ている。


 床へ崩れた魍骸は、もう人型を保っていなかった。

 裂けた肉片と折れた骨が、さっきまでフレンチの秩序に守られていた床の上であまりにも粗末な形に散っている。血は広がるのにその中心だけが妙に暗い。白いクロスの上に落ちた赤ワインの染みと飛び散った血の色が区別できなくなっており、どこまでが食事の続きでどこからが惨状なのか、目だけでは判別がつかなかった。


 ウェイトはようやく杖をわずかに下げる。

 その横顔は、さっきまで向かいでワインを口にしていた男と同じはずなのに、そこにある静けさだけがまるで別物だった。穏やかな顔のまま壊すための名を迷いなく選び、壊した後にも息を乱さない。光と闇を同じ手で扱うというのはこういうことなのだと、理解ではなく皮膚で分かった。

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